心がへ

 邸の主人の元から下がった途端、ぐごおおおおおぅ、と空高く怪音が響いた。わらびの腹の音である。


「お腹すいた」


 腹をぽんと叩いたら、隣のひき丸が首から下げた小さな袋からあるものを取り出した。水精である。


「ほら、食え」


 わらびは喜んで水精を口に放り込む。甘くて、瑞々しくて。八功徳水のよう。わらびのごちそうだ。


「ひき丸、いつの間に見つけていたの」

「あればあるだけ食っちまうだろうから、多少の蓄えを隠し持っているんだよ。……だめだ、今はこれだけだからな」


 もっと欲しいとひき丸へ伸ばされた手がぺしんと振り払われる。


「ひどい」

「何を言う。お腹が空きすぎて倒れないように気を遣っているんだよ」


 それでもやや不満顔のわらびに、ひき丸は呟く。


「『心がへ するものにもが 片恋は くるしきものと 人に知らせむ』」……なんてな。本当に心をとり換えてやりたい」

「どういう意味?」

「自分で考えろ」


 ひき丸はつっけんどんに言う。顔が少し赤いから熱があるのかもしれない。

 邸の濡れ縁を大股で歩きだした少年の背中を追いかけながら、わらびはふと言った。


「ねえ、宮様の『失せ物』は見つかったのかな」


 十分すぎるだろ、とひき丸が間髪入れずに答える。


「橘宮は桃の花を所望したが、その本心は桃の花を渡す五井の姫君を取り戻したいという願いがあった。今、宮様の隣にはあの方がいる」


 ふたりはいずれ夫婦となるのだろうとひき丸は言った。


「そっか」


 ふと振り返れば、ふたりが日差しの下に出てきていた。橘宮は姫君の後ろに立ち、何かを話しかけている。

 姫君は愛する人の面を見ないまま、丁寧に整えられた邸宅の庭を眺めている。

 橘宮の顔を見ると、狂ヒの顔を思い出すのだろう。負った心の傷はなかなか癒えないかもしれない。

 しかし、それでも姫君が微笑んでいるのなら。――いつかは。




 ◇

 夢を見た。

 おぼろの桃園にいる。眼前を小川がうねって流れ、その向こうに人がいる。

 男だ。ひき丸と上ったあの老木の根元に男が立ち、あかつき空の月へ右手に掴んだものを透かし見る。


『――蛾眉がびの月、か。ここまで集めてもなお、大きく欠けている』


 男の呟きが風に流れて、わらびの耳にも響く。


『蛾眉の月?』

『蛾眉とは、細く美しい眉をいう。その形にも似た、細い月をそう呼ぶ』


 男はわらびを見ずに告げた。感情が乗らない声だった。


『月はまるいよ』


 天上には、満ちた月が浮かんでいる。それを指さして言うが、男はほのかに白く浮かび上がった横顔を見せたまま答えない。

 男の右掌の上にも、月がある。銀色の、欠けた月が。

 もしかして、あれを『蛾眉の月』と言ったのかな、とわらびは思う。

 男はやがて桃林を眺めながら告げた。


『かつて桃園で交わした誓いが、あの姫君を救った。心無き女房にむしられようと、花びらを隠し持っていた姫君の心が。代わりに、橘宮は父殺しの罪を負った。かつての父でないとしても、橘宮あれは優しい男だから気にするだろう。どちらにしろ、姫君か父か、選び取った結果なのだ』

『生きているなら、何の罪も犯さないことはないよ。その後をどうやって生きていくかが大事だよ』

『よく知った口を利く子どもだ』

『子どもじゃないよ。わらびだよ』


 男は呆れた顔になる。

 月と同じ色の狩衣かりぎぬを纏った男。不思議なことに身体から神々しくも眩しいばかりの光を放つが、薄情な冬の月のように近寄りがたい。


『……橘宮あれよりも罪が重い者がいる。狂ヒをけしかけた者だ』

『けしかけた?』

『女房がつけていた甘ったるい香りだ。橘宮は甘松かんしょうと思っていたようだが、違う。鬼毒草きどくそうという草の根を粉末にしたものだ。この香りを身に纏うと、狂ヒに化人ひとのありかを知らせる』


 夜の山中で死んだ女房の傷が一番ひどかったのを思い出した。


久世ぐぜでは滅多に生えず、一晩で花を咲かせた後はすぐ枯れて根も使えなくなる。知る者も少ない珍しい草を正しく使える者は都でもそういないだろう』

『だれなのかな』


 五井の姫君を殺そうとした夫が用意できるものではあるまい。なら、その夫をそそのかした女が。


『……鬼』


 ぽつりと男が言う。


『鬼毒草は、鬼が流した血を浴びて育つ。おおかた、鬼たちがばらまいたのだろう。あれらは喉から手が出るほど久世ぐぜを欲しがっている。今が好機とみているのだ』


 急げ。

 男はかたくなにわらびを見ない。


『欠けた月を戻すまで、貴様の失せ物は見つからない。ぐずぐずしていたら手遅れになる。貴様を待っているほど、久世ぐぜは甘くない』

『わらびにはよくわからないよ』

『わかれ』


 男はにべもない。そもそも、わらびに対して意地悪な感じがする。そこまで怒らなくてもいいのに。


『わらびもやっているよ。大事なものだということぐらい、わかるもの』

『「やっている」と吠える者ほど信用ならぬ。実際、貴様自身で見つけることすら叶わない』


 たしかに、いつもひき丸に手伝ってもらっているけれど。

 男の右掌みぎてのひらには、今にも壊れてしまいそうな玻璃はり細工の「蛾眉の月」がある。欠けていても、美しい輝きを放っていた。

 あれは、わらびが今まで食らってきた水精だと思った。本当に、まだ小さい。本来なら、もっと大きい。

 わらびだって早く思い出したいのだ。失せ物が見つかったら、きっとうれしく思うだろう。


『……橘宮の一件ははじまりにすぎぬ。この先も続くぞ。そのたびに化人ひとが死ぬ。化人ひとが求める極楽が遠のく』

『どういうこと? ねえ』

『――地獄が来たる』


 一段と冷えた声だった。

 ごおおおぅ、と二人の間を風が吹き抜けた。目を開けていられず、ぎゅっと目を瞑る。

 目の裏で、桃の花が揺れて、散っていった。


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