五井の姫君 下
いったい、どうしたのだろう。
ひき丸は叫び続ける姫君に驚愕した。
何の前触れもなかった。ただ、橘宮の顔を見た途端に、人が変わったように暴れ出している。
橘宮は哀しそうに顔を歪めた。まるで途方に暮れた子どものようだ。抱きしめようとした手も離し、
「だいじょうぶだよ」
二人の間に小さな影が飛び込んだ。肩で黒髪を切りそろえた少女が、姫君の手を握り、その目をじっと見つめて、言っていた。
「こわいものはもうないよ。……だれもあなたにひどいことなんてしないんだよ」
不思議なことに、わらびの声を聞いた姫君は途端におとなしくなった。
わらびは花のような笑みを浮かべ、うん、とひとつ頷いた。
そして。
――ぐごおおおおおおおおぅ。
少女は腹から天にも昇る怪音を立てながら、地面にひっくり返ったのである。
ひき丸は血相を変えた。わらびは水精しか食べられないのに、今手元にそれがないのだ。あれがなければ、きっと死んでしまう。
どうしようと慌てて周囲を見回すと。
――ここだよ。
そう言いたげに光る水精が、狂ヒのいた地面に落ちていたのだった。
姫君は、橘宮の邸に寝かされた。錯乱した様子だったが人目から隠すように几帳で囲めばようやく落ち着き、寝入ったとのことだ。
橘宮は忙しいらしい。帰邸後はあちらこちらへ使いを送り、いろんな客人と面会しているようだ。
今朝もまた、橘宮と面会したとおぼしき男が朝日を眩しそうにしながら外へ出ていった。
三日ほど邸に留まっていたわらびが呼び出されたのはそのあとだった。主人の御座所でもあったそこには、すでにひき丸の姿もあった。
「
疲れの滲んだ秀麗な顔つきがそう切り出した。
「いろいろと思うところがあるだろうが、礼を言う。そなたたちのおかげで最悪なことにならずに済んだ。特にわらび」
橘宮がわらびを見る。
「そなたがいなければ、わしは今度こそとりかえしのつかぬこととなっていただろう。この恩は返しても返しきれぬであろう」
「わらびはとくに何もいらないよ」
「そなたはいつもわしを困らせる返答ばかりだね」
乾いた笑いを浮かべる橘宮。心配そうに奥に立てた几帳を何度も見ている。
「そこに何かあるの」
「あ、いや」
主人は言葉を濁す。そこへ「お話しいたしましょう」と声が響く。
「わたくしは世間で
低めの声ではきはきと話す姫君。
赤茶けたちぢれ髪に、浅黒くところどころ
「今回は、わたくしから宮様にお願いして呼び出しました。あなたがたを危ない目に遭わせておきながら、何の事情も話さないままでは納得もできないでしょう。ただ、これから話すことは他言無用です。世間へ表沙汰にならないことですから」
聞いていたひき丸の顔がひきしまる。
「表沙汰にならない」という言い方はまるで漏らしたところで潰されてしまうのだと言いたげだった。
「宮様と引き離された後、父の命でわたくしは玄家に仕える
家同士の政略結婚だった。しかも、相手方では当初、美人の評判があった姫君の妹と結婚する心づもりだったから、妹が死んで代わりに姉が差し出された時の落胆がひどかった。
「夫はほどなく恋人を作り、そこに入り浸るようになりました。わたくしとしても気持ちはなかったので、さして不満はありませんでしたが。父が亡くなってから状況が変わりました」
亡き父の財産を受け継いだ彼女につけ込んで、夫は好き勝手に妻の財産をむしりとった。邸宅も荘園も、家人たちもぜんぶ取られた。夫は平気な顔をして、妻の邸宅に女を連れ込んだ。
「黙っておれず、当時の
姫君が袖をまくりあげた。滑らかなはずの肌には小さなやけどの痕や黒痣が点々とついているのだ。
橘宮が痛ましげに目を伏せた。
「わたくしの周囲にいたのは夫の息がかかった者だけでした。頼れる家族もいないわたくしはだれかに助けを求められません。……たとえ宮様でも。別れはわたくしから告げたのですから」
橘宮は静かに「だから心配していたのだよ」と呟く。
「近頃、夫はますますわたくしを邪魔に思うようになっていたようです。国司赴任を機にわたくしを殺すつもりだったようです」
「最近、なにかあったの?」
わらびの問いに、姫君は頷いた。
「夫をそそのかす者がいたようです」
「だれ」
「わかりません。ただ女人のようです。酔った時に言っておりました。『殺してくれなくては一緒になれない、と言われた』と」
眉間に皺を寄せる姫君は続きを話し出す。
あの日はよくわからないまま粗末な牛車に乗せられた。
赴任地へ行くというわりに、夫の同乗もなければ、大荷物を持っていく様子がなかったから、不審に思っていたという。
同乗したのは赤子の世話に必要な乳母ではなく、にたにたと笑う女房ひとり。夫に取り入るためには何でもやると評判の女だ。
「夜になり、疲れて眠っている間に牛車ごと山の中に置き去りにされていたようです。……狂ヒは」
姫君は思い出したのか、自分を抱きしめるようにして、カタカタ震えた。
橘宮は手を伸ばそうとした。なのに、やめてしまう。
「あれには、知恵がありました。わたくしを散々怖がらせ、弱らせてからじっくりと殺そうとしたようです」
「どういうことでしょう」
じっと聞いていたひき丸が声を上げる。
「狂ヒは本能だけで襲い掛かってくるものです。ねぶるような食い方をするとは聞いたことがありません」
「そうとしか言いようがないのだ、ひき丸」
橘宮が口を挟む。
「だがおかしなことではない。あの狂ヒは特別なのだ……」
見た者ならだれもが疑問に感じたであろう、あの狂ヒの顔。まるで人のように反応し、涙を流していた。
わらびが切り込んだ。
「宮様に、そっくりだったね」
そうかい、と橘宮は曖昧に笑う。
「わしの顔は、
この対面において、五井の姫君はずっと面をわらびたちへ向けていた。一度たりとも、橘宮を見なかった。
それでも橘宮は気にするそぶりも見せず、「我々が来るまで時間を稼げたのは、桃の花のおかげでもあったようなのだ」と話す。
橘宮が袂から小さな布袋を出して、中身を出す。そこには黒ずんだ花びらが。
「桃は破邪の力がある。花びらにもその力が宿っていたということだ。少しだけ、隠し持っていたらしい」
「宮様からいただいたものですから。……あの時は傍に女房もいましたから、ああするほかなかったのです」
――頼ってはいけないと思いながらも、宮様の心が嬉しくて。わたくしの意思を伝えたかったのです。
最後に姫君が話を終えた。
「わたくしはとても運がよかった。あの時、宮様が花を送ってくださらなかったら。そして追いかけてきてくださらなかったら。ひとつでもたがえていたら、ここにわたくしとあの子がいることもありませんでした。
わらび。貴方がこの命を拾ってくれたようなものなのです」
あかざりし、桃の花。千代までかざせよ、桃の花。
愛する人との合言葉を口に出し、姫君は優しげな微笑みを浮かべていた。
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