このくれ山 上

 春先は日が落ちると、ぐっと冷え込む。星の瞬き始めた空の下、一行は都の郊外に広がる『かたさり山』に分け入った。柔らかな土の道を踏みしめる。この上りの道は重い牛車には辛いが、馬や徒歩かちではするすると進む。

 丸い月が薄い雲の裏に隠れ、ほのかに照り輝く。地上の山道にも優しい光が届く。松明ひとつあれば十分に明るい。

 前を歩いていたひき丸が地面を指さした。


「まだ新しいわだちの跡だ。五井の姫君たちのものかもしれない」

「月が天頂にかかるまでに追いつけばよいのだが」


 馬上の橘宮は木々に隠れたほの暗い道の先を睨んでいる。

 一行は歩きながら握り飯を食い、残りの道のりは黙々と歩く。

 途中、ぐごおおおおっ、と腹の怪音が鳴り、橘宮がまたも大笑いした。


「食ったばかりであろうに。緊張も解けてしまうではないか」


 木々が囲む道がなだらかな下り坂となる。そのうち、道の奥から松明たいまつの火が二つ、三つとやってきた。

 うつむきがちの男たちが牛を牽きながら徒歩かちで近づいてくる。無地の白張はくちょう姿で、どこぞの貴族の下仕しもづかえらしい。さして広い道でもないので、一行は道の片側に寄ってやり過ごす。

 相手の一行に、市女笠いちめがさを被った女がいた。笠から薄い絹を垂らして、頭と身体をすっぽりと隠し、わらびたちの脇をよぎる。

 わらびの鼻先を甘ったるいかおりがくすぐる。


「――ん」


ふと気になって、女の面を確かめたくなった。


「無礼をするでない!」


 絹をめくりあげようと手をかけたわらびと件の女の間に、白張姿の男のひとりが怒鳴りながら割り込んだ。女は乱された絹をさっと直すと、足早に去ろうとする。


「待って」


 女はわらびの呼びかけに応えなかった。鼻にまとわりつく匂いがまだ濃く残っている。厭な感じがした。


「どうした、わらび」

「匂いが、ちょっと変なの」

「変というのは?」

「昼間に話した女房と、同じ匂いがした」


 わらびは女が去った後方を指さした。

 どういうことだ、と二人の会話に橘宮が入ってくる。


「香の調合は人により千差万別、家によっては秘伝の香があるぐらいに個性があるものだ。一日に二度も三度も、同じ匂いが嗅ぐこともそうあるまい」


 それに、と橘宮は珍しく顔を顰めた。


「あの香は好ましくない。調合の均整が取れておらぬ。悪酔いしそうなほどにくどい。安物の甘松かんしょうをめいっぱい入れたのではないか」


 わしならあんなものは付けぬと言い切った橘宮は、いつも品の良い香りを漂わせていた。


「宮様、いかがいたしますか」


 むう、と橘宮は考え込んだのちに言う。


「あの集団はまだ近くにおるだろう。厭な予感がするので、問いただしてみるのだ。わしも行く。よいな?」

「はっ」


 一行は、元来た道を戻っていく。木々の奥から松明たいまつの火が見えたから、あれだと思い、足を早める。

 馬上の橘宮が声を漏らした。


「これは……」


 はたして、松明たいまつは燃え尽きようとしていた。少しぐずぐずになった地の上で、いくつも。

 土にまみれた白張の衣が落ちていた。血に染まっている。

 白張の衣をまとった、大きな魚や虫や鳥。生きていない化人ひとだ。死んで、元の畜生に返ったのだ。


「わずかな間に何があったのだ」


 橘宮は馬を下りた。ひき丸とわらびに加わって、死体を検分する。死体など見慣れていないだろうに、気丈に振る舞っていた。


「辛いだろうから、下がっていなさい」

「わらびは平気」


 言葉通り、すたすたと死体の間を歩いていくわらび。ひき丸は言った。


「わらびははじめ、忌辺野にいたようです」


 それを聞いた橘宮はぶるりと震えたようだった。

 忌辺野いみべのは葬送の地である。洪水が起これば、流れ着いた死体が山となり、都の人びとはここへ死体を捨てにくる。生きている者はめったに寄り付かない死の土地だ。

 

「殺されちゃっているね」


 一時は忌辺野にいたわらびがぽつんと呟く。鼻の頭を擦った。


「変な匂いがする」


 白張の死体から離れて、ひとつだけ。女の衣をまとった山女やまめが腹のあたりをざっくり割られて死んでいた。他の死体と比べれば一番ひどい傷口だった。


「さっきすれ違った人たちだね。なんで死んじゃったんだろう?」


 しかし、厭な匂いがする。山女の女房の匂いだけなくて、何か、別の、全身で叫びたくなるぐらいにまとわりついてくるものがある。目を凝らした。うっすらと黒いもやがかかっている。細かな蝿のようなものが蠢いて、こちらへじりじりと伸びてこようとしている。


「わらび、あまり近寄るなよ」

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