落ちた盃 下


「な、なぜ……」


 橘宮の声が震える。


「まさか、姫が申したのか。『千代にかざせよ、桃の花』と」

「うん」


 そうか、と橘宮は噛みしめるように呟く。物憂げに息を吐くが、それで胸中が落ち着いたわけでもないだろう。血の気が引いた面はそのままに、そわそわと身体をゆする。


「姫はどんな様子であったか?」

「知らない。見てないもの。応答も女房がしてた」

「姿も、まったくか?」


 うん、とわらびはまた頷く。


「声だけだよ。叫んでいたみたいだった」


 今から思えば、切実な響きもあった。なにか、伝えたいことがあったのかもしれない。あの短い言葉に込められたものは軽々しいものでなかった気がした。

 わらびが話せば、男の顔色がますます沈んだ。両手で顔を覆って、うんともすんとも言わなくなってしまった。


「わらびは何か悪いことを言ったのかな」

「悪いことなんてないだろ。ただ、俺たちの知らないことを宮様が知っているだけだろうさ」

「何だろうね」


 ひき丸は白けた目でわらびを見やる。


「無遠慮に聞くのは無しだぞ。おまえはそういうところがあるからいけない」

「じゃあ待つ」

「待つなよ。宮様の気持ちをおもんばかってそっとしておくべきだろ」


 ひき丸に腕を引かれたところで、「聞こえておるぞ。待ちなさい」と止められた。今にも死にそうな顔つきの橘宮である。

 そなたらに問おう、と主人は告げる。


「おぼろの桃園で誓いを立てたのだ。互いの立場が変わろうとも、心はともにいようと、二人だけがわかる合言葉を決めた。

 『あかざりし、桃の花』とわしが言えば、『千代にかざせよ、桃の花』とあの姫が言う。そういう誓いだ」


 姫はきっと今もわしを忘れていないのだ、と語る声が震えていた。


「だがわからぬのは、あの桃の花をむしって捨てたわけだ。初めはすっきりと未練を断ち切らせようとして捨てたのだと思っていたのだが、どうも違うように思えてくるのだ。そなたらはこれをどう読み解く?」


 ひき丸はやや悩んでから「わかりません」と素直に答えた。橘宮の目がわらびに向く。わらびは告げた。


「逢いにいけばわかるよ」

「あのな、宮様は逢えないからそうおっしゃっているんだぞ。いくら天人てんにんであらせられても、しがらみがたくさんあるんだぜ」


 ひき丸が呆れたように言うが、わらびは納得しなかった。


「このままだと宮様がうじうじと悩み始めるだけでしょ。答え合わせをしようよ。まだ都の近くにいるなら追いつけるよ」


 あっけらかんという童女。ひき丸が慌てた様子を見せるが、橘宮は意に介さないまま手を顎に当てる。


「そなたはさも簡単なことを言う。そうできればさぞよかろう。とてもよい夢だね」

「夢じゃないよ。今ならできる現実うつつだよ。また、後悔しつづけるの? 伝えたい心があるのに、伝えないままで満足できるの? もう二度と逢えないかもしれないよ」


 それは、と男は言葉を濁す代わりに盃を仰いだ。


「できる……はずだ。これまでと変わらない。簡単なことではないか」

「泣きそうなのに」

「泣いておらぬわ!」


 橘宮は確かめるように袖で目元を拭い、形の良い唇を一文字に引き締めた。そしてまた酒を呑む。


「大事なのは宮様の気持ちだよ。心だけは身分も立場も関係なく自由であれるのに、宮様はまだ嘘をついてるみたい。本当は、宮様の中で答えは決まっているんだよ、でしょ?」


 逢いたくないの、とわらびは問うと、橘宮が重いため息を吐きだすように、ぼそりと言う。


「……逢いたい」

「だったらすっきりふられればいい。忘れられないのなら、逢いにいけ。泣くなら今度こそ完膚かんぷなきまでにふられた時か、相手が死んだ時に泣け」


 前触れはなかった。そうかい、と涙声になったと思ったら、男の目からぽとりと水滴が落ちる。美男子は泣き方まできれいなのだなあ、とわらびは変なところで感心してしまった。

 じっと眺めていると、見世物ではないぞ、と橘宮は袖で面を覆う。


「大の男を泣かせて楽しいかね、わらび。そなたのそのようなところが情に無頓着なのだと前々から申しておろう。言葉巧みに人の心を弄びおって。末恐ろしい女童めのわらわだ!」


 河原院かわらのいんでとんだ拾い物をしてしまった、と愚痴りながら男はまた盃を取る。ささのせいかもしれないが、面に生気が戻ってきた。


「ひき丸。元はと言えば、そなたが行き倒れのこやつを拾ったせいではないか。よいか、しっかり面倒を見よ」

「はっ。申し訳なく……」

「謝るのはちと違うがな。これでも、こやつに目を覚まさせられた身、いや、酔わされた身なのだ」


 顔を青くさせたひき丸が頭を下げるが、橘宮はすくっと立ち上がる。


男子おのこならば、生涯に一度は覚悟を決めねばならぬ時がある。今がその時なのかもしれぬ」


澄んだ黒い眼に迷いはもう見られなかった。


「さ、ひき丸、支度せよ。逢坂の関へ参る。今から行けば、夜半には追いつけるであろう」

「宮様?」


 逢坂の関は西国と都の境にある『かたさり山』の中の関である。行くためには桃園のある『このくれ山』のふもとを通り過ぎ、さらに奥へ行かねばならない。

 ひき丸が意味を取り損ねたように尋ねるが、橘宮は頓着しない。家人たちを呼び出して、馬を牽かせ、握り飯を作らせ、動きやすい狩衣に着替えた。

 夕刻にさしかかるころ。橘宮はお供ふたりを引き連れて出発した。もちろん、お供とは、ひき丸とわらびである。

 馬に乗った男の後ろをふたりがついていくのだが、わらびの足取りは重くなる。


「どうした?」


 ひき丸が聞けば、わらびは腹を押さえた。すると、ぐごごおおおおっ、とすさまじい怪音が鳴り響く。

 

「あっはっは」


 わらびの腹の音に橘宮は大いに笑うが、ひき丸は心配そうに囁いた。


「食ってないのか」

「うん。見つかってないもの。しかたないよ」

「……厄介だな。俺も今、手持ちがない。倒れそうか?」

「まだ、だいじょうぶ」

「俺も道中、気を付けてみているから、我慢してくれ」


 わらびは頷いた。橘宮からは握り飯を持たされているが、それでは何の腹の足しにならなかった。わらびの身体はある物しか受け付けないようになっている。

 運よく落ちてないかな、と地面を舐めるように眺めながら歩く。


「わらび、そっちじゃないぞ」


 時折、ひき丸に正しい道へ引き戻されつつも、おおむね順調に都を出ることができた。

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