このくれ山 下
なおも死体を覗き込もうとするわらびの身体を引っ張ったのはひき丸だ。
「それは
「狂ヒの? いるの、近くに」
わからない、とひき丸は周囲を警戒しながら言う。
「ちょっと心配だな。これ持っとけ」
ひき丸が小刀を渡した。桃園で枝を削った時に使ったものだ。
わらびは犬のように鼻をうごめかして、うん、とひとつ頷いた。
「少し遠くにいる気がするね」
「わかるのかね、わらび」
橘宮の問いにわらびが頷く。
「この匂いが狂ヒの匂いならわかるよ。宮様、追いかける?」
「行こう」
「わかった」
少女は駆け出した。木々の隙間を縫い、まるで羽が生えたように軽い足取りで。
先行するわらびの後を、ひき丸が追いかける。ごつごつした石の多い斜面も危なげなく登っていく。
最後の橘宮は愛馬にまたがっていた。昔から鍛えていた乗馬の腕前で器用に馬を操り、細い獣道も難なく進む。
幸いにも夏草が生い茂る季節でないので、ふたりはわらびの後を見失わずに済んだ。
やがて視界が開けた。山の中に忽然と、池が現れた。月に照らされた水面が静かな光を放っている。
その池の脇の繁みに、大きなものが見えた。横倒しになった牛車である。
「あれだ」
あれが一番、狂ヒの匂いがひどかった。腐った肉の臭いがする。近寄ろうとしたけれど。気になるものを見つけた。牛車の傍にいるあの青黒いものは何だろう。
すると、わらびと「それ」は目が合った。ぎょろついた黄色い目。真っ赤な口、鋭い犬歯。四つ足で駆けてくる毛のない、
あれが、狂ヒなのだ。
「わらびっ!」
わらびと狂ヒの間に太刀をもったひき丸が滑りこみ、狂ヒの口へ太刀を突き刺した。
ぐぎゃあ、と狂ヒが閉じられない口のまま歯をカチカチと鳴らした。尖った前足の爪で襲おうとしたが、器用に体勢を変えたひき丸がそれを許さない。
「宮様、宝珠を!」
わらびの隣に馬を下りた橘宮が来ていた。右の掌を上にしていた。宙に朝焼けに似た光が浮かんでいる。まるで小さな炎に包まれた玉のよう。
「奇麗」
時を忘れたわらびが呟いた。
橘宮が唱えた。
『我が
ゆっくりと、宝珠の光が一筋、狂ヒへと伸びた。狂ヒに到達したそれは、青黒い体の表面を伝う。ぼろぼろと乾いた土が剥がれるように、狂ヒは姿を崩して消えていく。
風が吹いた。最後の塵さえ消えてなくなった。
橘宮が少し疲れた様子で、「これでよい」とふたりに告げる。
「狂ヒが祓われた。あとは」
橘宮の目が牛車へ向けられる。やや足早で近づき、破れた御簾の奥を覗き込んでいる。
あれ、とわらびは思った。まだ厭な匂いが残っている。――か細い声がした。助けて、と。
「
橘宮が何かに気付いた様子で、暗がりの奥に駆けていく。わらびとひき丸も慌てて、主人を追いかけた。
見えにくい池のほとり。水がそこまで迫った際に生えた木の根元に、女人が座っていたのがわかる。
橘宮は迷いなく女人を助け起こしていた。
「済子! 済子!」
切羽詰まった男の声がこだました。
その時だった。すさまじい匂いが急に辺りに漂った。
「宮様っ!」
橘宮は反応が遅れた。背後から迫る狂ヒ。すぐそばに隠れていたのだ。
橘宮が女人を抱き寄せる。背中に狂ヒの歯が深々と刺さったように見えた。
「ぐうっ!」
橘宮が呻いている。走っていったのでは間に合わない。わらびはすかさず持っていた小刀をびゅん、と投げた。
それは狂ヒの脇腹の辺りに飛んだのだが、跳ね返って落ちた。だがそれで十分だった。狂ヒは醜い面をわらびたちに向けた。
空に少しかかっていた雲が晴れ、もう一匹の狂ヒの面があらわになる。
それは、あまりにも不思議な光景だった。ふたり、いたのだ。
橘宮の秀麗な顔つきが、もうひとつ。怒りの形相を浮かべているが、わらびとひき丸がよく知る顔だった。
「宮様……?」
わらびの素朴な声を聞いた狂ヒは、何かを思ったのか、己の顔を隠そうとした。膨れた腹に、骨ばった背中、がりがりの手足。その上についた頭だけが橘宮のものなのだ。
狂ヒは悲しげに啼いた。啼いて、啼いて……血の涙を流して、身体をよろめかせた。
「ああ、なんという姿をされて……」
苦しむ狂ヒを見上げる橘宮は何事かを語り掛けた。すると狂ヒはくるっと背中を向けて逃げようとする。
橘宮は振り絞る声でまた唱えた。
『……我が
さきほどよりもか細い光が狂ヒに届く。ぼろぼろと狂ヒが崩れ落ちようとした。
だが、その時。……狂ヒが最期の力を振り絞り、吠えた。金物をふたつ激しくこすり合わせたような耳障りな音だ。ただ、身体が途端に、砕け散る。びちゃびちゃと黒い泥のようなものをまき散らす。
少し離れたところにいたわらびたちはかろうじてよけられたが。橘宮は浴びた瞬間に、雷に打たれたように倒れ伏した。
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