いざ、桃園へ


 ◇

 わらびとひき丸は、日の出前に都を出てから休みなく歩き続けた。しばらく経った後、霧の立ち込める山に辿り着いた。名を『このくれ山』。さして高い山でもないが、霧の多い山である。

 山道に入る前では、空に曙の気配があったのだが、今や前後左右がおぼつかない。気づけば霧に包まれて、草木がおぼろげな影となり、時刻さえ曖昧になっている。


「『おぼろの桃園』って本当にあるのかな」


 獣道に散らばる湿った枯れ葉を踏みながら、わらびは隣のひき丸に尋ねた。

 これまでひき丸に言われるがまま「適当に」山の奥へ歩き進めていたのである。普段なら、「あっちだ」、「こっちだ」などと指図してくるのに、今日に限ってそれがない。不気味ではないか。

 ひき丸は「あるさ」としっかりとした口ぶりで答えた。


「『西の「このくれ山」には歩けど歩けど濃い霧がある。行きたいと念じながら霧の中をなおも歩け』。宮様がそうおっしゃっていただろ」


 順序は間違いないはずだぜ、とひき丸は言う。

 ひき丸は橘宮に仕えているからか、宮様の言葉を鵜呑みにしがちなのだ。


「霧の向こうが、元の知った道か、桃園へ繋がる穴か。辿り着けるかは五分五分だ。――招かれさえすれば、穴が見えてくる」

「だれが招くの」

「ここは山だから。山神さまかな」

「山神さま」


 山神さまは何をもって招くか招かないかを決めるのだろう。


「俺たちを迷わせている間に、どこかで見極めているのかもしれないぜ」


 わらびは辺りを見回した。ほとんどが真っ白、汗衫も霧で湿っていた。もちろん、山神さまの姿はこれっぽっちも見えなかった。

 さっきから景色も代わり映えしないし、どこへ進んでいるのかちっともわからない。飽きてきた。


「お願いしたら入れてくれるかな」


 直接お願いするのが手っ取り早い。どうだろうなあ、とひき丸はいまいち頼りにならない返答をする。


 わらびはためしに、おおい、やまがみさまぁ、と霧向こうへ呼びかけた。


「……桃園へ入らせて!」


 わらびの声が霧に吸い込まれていった。

 ひき丸が口をつぐみ、山中はしんと静まり返る。

 山の霧は刻一刻と形を変え、ふたりを包むようにまとわりつき、足元近くの苔は青々とし、霧を吸い込んでいるようだった。


「なにも起こらないじゃないか」


 さあ行こうぜ。少年がわらびを促したその時。何の拍子か、強い風が吹き、分厚い霧を吹き散らした。

 瞬く間に、辺りが晴れていく。

 すると、剥きだしの山肌に大きな洞穴が目の前に現れた。のぞくと、奥から小さな光が漏れていた。何かがありそうだ。

 わらびは穴の方を指さしながらひき丸に言う。


「お願いしたら聞いてくれたみたいだよ」

「……うわぁ」


 ひき丸は曰く言い難い顔つきになる。恐る恐るといった様子で真っ黒な穴を覗き込み、ばちんと己の両頬を張る。


「よし。途中はだいぶ暗そうだな。……おまえ、この中でも迷子にならないよな? はぐれないように手でも繋ぐか?」

「はぐれないよ」

「それでも心配だ」


 まるで小さな妹の手を引こうとする兄の言いぶりだ。


「ここは一本道だよ?」

「一本道だからこそ油断できないんだ」


 ひき丸は大真面目にそう言い、ほら、とわらびへ手を差し伸べた。

 釈然としない心地になる。


「ひき丸、怖いの?」


 少年の肩が一瞬だけ跳ね上がった気がした。んなわけないだろ、とすぐさま返したけれど。

 だからわらびは少年の手をぐいと引っ張った。


「ひき丸がはぐれないように手を繋いであげるよ」

「なんでそうなるんだよ」


 不機嫌そうな顔を作るひき丸だが、繋いだ手を振り解かなかった。

 洞穴は互いの顔を確認できぬほど暗い。遠くの小さな光を目指す。

 慎重に歩を進めていくと、洞穴を抜けた。一瞬、明るさで目が眩んだが、眼下に広がる色鮮やかな景色にすぐさま目を奪われた。

 青い空の下、深い山々の間の一角で、桃の花が咲いていた。何十、何百もの桃の木が七重八重に花を咲かせ、濃淡ある桃色の領巾ひれが長く太くたなびいている。まさに満開、春である。

 奇麗きれい、と自ずと感嘆の声が上がった。


「ここがおぼろの桃園なんだね」

「そうだな。ちょっと驚いたな。本当に、いつ来ても満開なんだろうな、ここは」


 周囲を見渡す少年も声が弾んでいた。

 ところせましと生えた桃の木々の間には、小川が蛇行しながら流れていた。散った花びらが水に混じって下流へ行く。

 示し合わせたわけではないが、小川に沿って歩いていく。

 橘宮の依頼内容を思い出しながらわらびは尋ねた。


「どの枝にする?」

「なるだけ、扱いやすそうなやつでいいだろ。このあたりとかどうだ? ちょうどいい長さだし」


 ひき丸がある木を指さした。それは他と比べてもひときわどっしりと地に根を生やした老木だ。枝ぶりに生命力を感じさせる雄々しさがある。これだと思った。

「わかった」


 わらびは器用に木を上り、八分咲きの桃の枝をぼきりと折り取った。ついでに隣の枝もちょうどよさそうな塩梅あんばいだったので、こちらも折った。これで枝は二本だ。頼まれた分には足りただろうか。

 小刀を渡そうとしていたひき丸は苦笑いだ。


「量としては十分だろうが、素手で折り取るやつがいるかよ。人へ渡すんだからせめて折った枝を整えておけよ」


 わらびが桃の木から下りると、ひき丸は今度こそ小刀を渡してきた。断面が汚いから削れということらしい。しかたなく、根元で胡坐あぐらをかき、折った枝を削る。

 その間に腰に太刀を佩いた少年は近くに生えた別の木の枝にまたがった。

 わらびはにっと笑う少年を見上げる。


「ひき丸もやればいいのに」

「『失せ物探し』を頼まれたのはわらびだろ。俺はただの相棒兼護衛兼お守役だ。肝心の『失せ物』に関わるのは事情が少し違ってくるのさ。役割が違う」

「変な理屈だね」

「得意な方が得意なことをやるってことさ。代わりに、おまえ自身の『失せ物』は手伝っているだろ?」


 たしかに、ひき丸がいなかったら、わらびはひもじさのあまり、野垂れ死んでしまっていたかもしれなかった。

 しばらくして、枝の形がそれなりに整った。


「できたか?」

「たぶん」

「なら、こっちへ来いよ。ものすごい景色がいいぞ!」


 少年が手招きした。せかされるがまま、わらびも高い枝によじのぼった。

 二人が上った桃の木は周囲から目立つ高さがある桃の木だった。

 どこへ首を巡らしても絶景だ。どこもかしこも桃の花。小川を遡った先には小さな滝がある。しかし、人の気配はついぞなく、風や水の音のみが耳に届く。現実うつつから離れた、二人だけのための景色だった。

 わらびは枝から立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。


「不思議なところだね。風の匂いが他とちがう。澄み切ってるよ」

「極楽ってやつもこんなところかもしれないなあ。絵に描きたくなる。急な話だったから画の道具は持ってこられなかったんだよなあ」


 悔しそうなひき丸は、画を嗜む。わらびの目から見ても上手く描く。生き物を題材にしたものが得意で、まるで動き出しそうなほど生き生きとした筆遣いなのだ。


「残念だったね」

「まったくだ。仕方ないから目に焼き付けておく。んで、後で思い出して描くさ。こんな景色、描かない方が間違ってる!」


 元々の細い目をこれでもかと開いて見せるひき丸である。


「そうだ。昔、宮様はここへとっておきの女人と駆け落ちしに来たらしい」

「……ふうん?」

「なんだよ。もっと食いつくところだぞ。まさか、あの宮様が、と驚くところだ」

「だって宮様、女の人好きでしょ」


 わらびに桃の枝を探すように申し付けた時も、女人の心をとろかすような甘い微笑だったではないか。


「それは昔の話だぞ。ここ三年ぐらいは独り身でいらっしゃる。今もその駆け落ちした女人一筋だ。だから、『とっておき』の女人なのさ」


 思い出す。夜中に呼び出した橘宮。脇息にもたれかかり、くつろいだ様子ではあったけれど。


『そこらの桃ではいけないのだよ。あれがいいのだ。あの、『おぼろの桃園』にある桃の枝を、届けておいで』


 艶のある声の奥。そこに橘宮なりに何かを思っていたのではないか。そんな気もしてきた。

 『おぼろの桃園』は人生で一度だけ入るのを許されるという。その唯一の機会を使い果たすだけの相手だったのだろうとひき丸は推測した。


「大事な相手がさ、もう二度と会えないところへ行ってしまうとしたら、せめて別れを告げるなりしてやりたいだろ。それも、この数日のうちに行ってしまうと聞かされたら、さ。落ち着いてなんていられない」


 ――『あかざりし桃の花』、と。そう、それだけ伝えておいで。


 橘宮と関わった女人は、五井いついの姫君と呼ばれていた。

 かの女人は、近日中、夫の赴任地である大墓国おおはかのくにへ旅立つ。

 たまたま参加した宴の席で、橘宮がその話を知ってしまった。


「別れを告げるだけで――宮様は納得できるのかな」


 自分ならできまいと思う。

 枝を抱えるわらびの呟きは、桃園の風に溶けた。

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