千代にかざせよ
目当ての枝を手に入れられたなら、例の姫君に届けなければならない。
美しい桃園を離れるのはもったいないけれど、姫君が都を出立するまで時がない。姫君の邸宅に辿り着くため、再び暗く長い洞穴を抜けた。
やはり、『このくれ山』は茫洋とした霧に包まれていた。
「さて。ここから帰るのも大変そうだなあ」
「そうだね」
わらびがすたすた歩きだす。
「わらび、帰る方向がわかるのか」
「うん。たぶんあっち」
わらびが右を指さした。ひき丸はわかった、と頷いた。
「左だな」
「右だよ?」
「わらびの指す方と逆が正しいんだよ」
「そんなことないのに」
わらびが不平を言う間にも、ひき丸はわらびの腕を引っ張っていく。しばらくはされるがままになっていたけれど。
「あれ?」
ふと気になることがあって立ち止まった。
「わらび? どうした」
「今、そこに人がいた気がして」
「まさか。こんなところに人がいたらおかしいだろ」
ひき丸が顔を引きつらせている。
わらびは霧の向こうへ目を凝らした。さっき、黒いものが目の端を横切ったと思ったのだ。ただ、今は何もなく。足元の土、近くの木々のおぼろげな形以外のものはなかった。
「……いないね」
わらびが言えば、はあぁ、とひき丸は安堵の息を吐いた。
「焦ったぞ。
「さっさとここを抜けよう。霧ばっかりだからまぼろしも
「わかった」
やがて、唐突に霧が晴れた。
「お、この道は行きも通った気がするな」
ひき丸が言った通りの道を進めば、山のふもとまで下りて来た。
辺りは薄暗かったが、東の山の端がほのかに明るくなっている。
「夜明け?」
出発したのは夜明け前で、今も夜明け前。桃園で少なくない時を過ごしたはずだから、今はいつ?
わらびが首を傾げると、何かを察したひき丸が石のように硬直し、急に慌てだした。
「しまった。時知らずの桃園か……!」
「時知らず?」
「あの桃園は時の流れというものがないんだよ! 桃園にいた俺たちの時の感じ方と、実際の外での時の流れがずれている! 行く前と今とで夜明けを見たなら、俺たちが山に入ってから少なくとも丸一日は経っているんだよ!」
ひき丸はほとんど駆け出さんばかりだった。わらびも釣られて駆け足になっていく。山の斜面を駆け下りる。
「すごいところだったんだね」
「のんきなことを言っている場合じゃない! こうしている間にも姫君は都を出立しているかもしれないんだ。ほら、走れ走れ!」
そりゃまずいぞ。
指摘されてから初めて事態を呑み込んだわらび。枝二本を花が零れぬように慎重に抱えながら走る。ひき丸が追い越した。
「おい、わらび。逆だ、逆! これは右の道だ!」
「わかった、右ね!」
「そっちは左だ!」
首根っこを掴んだひき丸に方向修正されながら、下山して、都へ入る。途中ですれ違った者に暦を聞いたが、時が飛んだのは一日で済んだようだ。
五井の姫君は左京にある
その大岩小路にさしかかったところで、今まさに従者とともに門から出発しようとする牛車が見えた。
「よっしゃ、間に合った!」
隣を走るひき丸が力強く拳を握る。
「わらびは牛車の後ろから例の枝を渡せ! 俺は前に行って、
「わかった!」
わらびは、
車輪の音が止み、牛車が動かなくなる。牛車の後ろ口に垂れた御簾の奥で人影が動く気配がした。
「五井の姫君の御車ですか」
「……何用です」
御簾から内からめくれあがり、衣に焚き染めた甘い香が鼻につく。御簾の隙間にいる女が扇で白粉の濃い面の下半分を隠しながらそっけなく答えた。
「奥様へ便りをよこす方がいるとは思えませんが」
「こちらを預かってきました」
花が零れぬように慎重に抱えて来た枝を差し出す。
ただ、わらびはちゃんとここで思い出した。伝えてこいと言われたことがあったんだ、と伏せた眼差しを上向けた。
「『あかざりし桃の花』とお伝えください」
「は?」
「『あかざりし桃の花』。そういう
女房の目元に嘲りの色が見え隠れした。
「ほほほ。おかしなことを言う
「お伝えください」
受け取ろうとしない女房へ、さらに桃の枝を突き出す。
女は舌打ちをした。桃の枝をしぶしぶ受け取ると、御簾の奥へ向く。ひそひそと話し声がし、ぎゃあぎゃあと赤子がぐずつく声もする。
その時、牛飼童へ話をつけたひき丸がわらびの隣に来た。
「どうだ?」
「わからない。……宮様、ふられちゃったかな」
都に名の知れた美男も形無しだ。
「不吉なことを言うな。お返事ぐらいはくださるはずだ。そうじゃないと宮様が気の毒じゃないか」
「そうだね」
やがて御簾の隙間からするっと手だけ伸びた。青白い手から何かを滑り落とす。ばさりと地面に落ちた。
「ご苦労でした。もう結構です。さ、はやく出立なさい。ぐずぐずしないで!」
女房の声がする。
牛車はがたがたと音を立てて去ろうとした。その最中、別の声が叫んだ。
「千代にかざせよ、桃の花!」
女の声が尾を引くようにその場に残る。
わらびは、牛車から落とされたものを拾い上げた。
裸の枝。無残に花と蕾ごとむしりとられた桃の枝が二本ある。
「『千代にかざせよ、桃の花』だって。意味はわからないけれど、やっぱりふられちゃったのかな」
ひき丸は黙って首を振る。おおかた、宮様がかわいそうだと思っているのだろう。
ひとまず
◇
耳目に触れるもの、すべてが鮮やかだったけれど、
どうして、わたしたちはこういう
あの方が髪に飾ってくれた桃の花。ふたりで泣きながら、震える唇でふたりだけで通じる言葉を交わした。作ったところで、もう使う時もないけれど。
ただのままごとに過ぎないと思っていても、その約束にすがりつきたい時はあるだろうから。
あの方を必要としていたのは、わたくしの方だった。
『――あかざらば 千代までかざせ 桃の花 花も変わらじ 春も絶えねば
(桃の花を見飽きないなら、千年先まで飾りにしよう。桃は三千年に一度、実をつけると言われるように、花も変わらないし、春も絶えずやってくるのですから)』
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