エピローグ

1


 クラスメイトや賀茂さんと同じく俺も母さんの世話になり、病院のベッドの上で無為に過ごし。


 そうしている間にも春の大型連休が終わって。

 あくる日。


 音々が久々に奮発して仰山おかずを詰め込んだ重箱みたいな弁当を片手に登校すると、クラスがざわめいていた。


 すっかり普段の調子を取り戻したらしい凛に訊ねてみる。


「こいつはいったいなんの騒ぎだ?」

「ほら、あそこを見てみな」


 くいっ、と凛は面倒くさそうに教室の隅――高貴の花園を指した。

 そこにいるのは、無事に学校へ復帰してきた犬神とその取り巻き。


 そして――


「本当に、一体どうしてしまったんですの?」

「あんなにも美しかった髪を、こんなにばっさり切ってしまうだなんて」

「まさか好きだった方がいて、その人に振られた、とか……」


 話題の中心にいるのは、あれだけ伸ばしていた髪をばっさりと切り捨て、艶やかな黒髪すらも捨て去った、ぎんいろの髪の乙女だった。


「いや、そういうことではなくて……」

「なら、一体どういう心変わりですの!? あれだけ綺麗だった黒髪を、こうもばっさりと!!」

「そうです!! どうしてそんなもったいないことをしてしまったのですかっ!?」

「ええっと、その……」


 細い眉毛を八の字に曲げて困惑している彼女が、一瞬だけ振り返って、俺をみる。


 そして、連休前より少しだけ大人びた顔つきで、ほんの少し笑った。


「……これからは、あまり我慢です、やりたいことをやってみようと思いまして……」

「それが髪を染めること……ですの?」

「ほら……、髪染めは頭皮に悪いというでしょう……、だから、その……これまでは両親にひどく反対されてきたのですが……、こういうことは、恐らく、この瞬間しかできないものでしょうから……」

「なんということ……」

「気持ちはわかりますが……」

「なるほど……そういうことでしたか……」


 わりかしショックを受けている友達が多いなか、犬神だけは一人ほくそ笑んでいて。


「ふふ、ふふふふふふふふっ――ようやくあたくしの天下でしてよっ!! はるか昔から、金が一等、銀は二等と決まっております!!」

「うわぁ、まーたはじまったよ」

「まぁまぁいいじゃない。こういうところで勝ち誇れるのもまた犬神さんのいいところなのですから」

「いいところ、なのかなぁ……」


 犬神派閥の女子たちが苦笑いを浮かべ、その反応を瞬時に見て取った犬神がまた吠える。


「お黙り!! ともかく薬師さん、あなたの銀髪、とても似合っていましてよ!! その髪色が気に入ったようであれば、わたくしが通い詰めているとっておきの美容室を教えて差し上げますわっ!! ショートならショートなりの魅せ方というものが――」

「お気遣い感謝するわ。けれど間に合ってます。元々通っていた美容室さんに新しいスタイリストさんを紹介してもらいましたから」

「なるほど、だからですのね!! 染まり方も綺麗ですし、髪も短いというのに魅力的なままでいられるのはっ!!」

「羨ましいなぁ……私にもできたら紹介してもらえるかな?」

「ええ、全然構いませんよ。ええっと、名前は確か――」

「だーっ!! なんでいつもこう、颯爽と話題をかっさらっていくんですのーっ!!」


 色々と新たな変化はあったみたいだが、このクラスにもようやく、いつもの見慣れた景色が戻ってきたらしい。




※※※




 そうして連休明け初日の授業がつつがなく終わり、放課後。


 俺は賀茂さんの頼みで薬師を例のおんぼろアパートへと連れてきていた。


「無事に退院できたんすね」

「いやはや、入院費用も馬鹿にならないねぇ。おかげさまで、一ヶ月分の食費がまるまる吹っ飛んじゃったよ」


 凛や犬神とは比べものにならないくらい全身がずたぼろだったのに、よくこの短期間で退院できたもんだと感心すらしてしまう。


「これからはより一層倹約していかないとねぇ。あ、心霊現象とか怪奇現象とか見かけたらすぐに連絡くれないかな? 金になる種はできるだけ拾っておきたいからさ」

「みつけたら連絡いれますよ。賀茂さんしか解決できないでしょうし」

「いやぁ、持つべきものはなんとやら、だねぇ。そうしてくれると助かるよ」


 賀茂さんはけらけらと笑う。


 俺や薬師にしてみればもう二度とこんな面倒に巻き込まれたくはないわけだが、摩訶不思議な存在がいることを知ってしまった以上、避けられないんだろう。


「それで、薬師に用があるってことでしたけど、なんなんです? もしかしてまだ悪霊が取り憑いているとか、そんな冗談じゃないっすよね?」


「いや……悪霊ではないから安心してくれていい。実は、神座くんと沙夜ちゃんにはもう一つ嘘をついていた。今日はそのことを白状しないといけないなと思ってね」


 よっこらせ、と賀茂さんはぎこちなく立ち上がった。


「……隣へ行こうか」


 俺と薬師は、これまた例によって壁がぶち抜かれたがらんどうの部屋へ通される。


 賀茂さんはそのまま魔方陣の中心に正座すると、俺たちをちょいちょいと手招いた。


「沙夜ちゃんには二つの霊が憑いていた。けれど、その一つは悪霊じゃなかった。守護霊だったんだよ」


「そ、それって……」


「さくら、という名前らしいね。いまも沙夜ちゃんの側にいる」


 なるほど、そういうことかよ賀茂さん。

 あんたにしちゃあ気が利くじゃないか。


「っ――」


 薬師を盗み見る。

 感極まったとばかりに目元を潤ませ、口元を両手で覆っていた。


「で、こいつはそのさくらって犬から頼まれたことだ。きちんと、沙夜ちゃんに説明をしておきたい、ということらしい」


「説明……?」


「ああ。なんで急に死んでしまったのか、ということをね」


「……で、でも、どうやって? さくらはもう死んで――」


「忘れてもらっちゃあ困るよ。あたいは霊媒師だ。降霊の儀式くらいはお手のものさ」


「……っ!! そ、それじゃあ……」


「普段はお金をもらうところだけど、今回はサービスだよ。迷惑も掛けちまったからね。ただし、話ができるってだけだ。それでも構わないかい?」


「……も、もちろんですっ!!」


「なら、契約成立だ。あたいが次にしゃべり出すときはもう、その言葉の主はさくらって犬だと思ってくれて構わないからね」


 そう言って、賀茂さんは精神統一をはじめた。


 徐々に呼吸が深くなり、ゆっくりと上体が揺れはじめ、それが次第に収まっていく。


 やがて賀茂さんの指先がぴくりと動き出し。


 その唇がほんのわずかに開かれた。


「……沙夜」


「っ……さくら、なの?」


「……ええ。右脚が不自由だっかたら、小さいときに一緒に遊んであげられなくてごめんなさいね」


「――っ」


 薬師が、静かに、床へ頭をついた。

 彼女の呼び方と、右足が不自由だったという言葉こそが証左なのだろう。


「本当は、もう少し、長く生きていたかったけれど……ごめんなさい。あのときの私には、こうするしかなかったの……」


「……もしかして、病気、だったの?」


「……あれは、わざとだったの。そうするしか、方法がないと、思っていたから」


「どういう、こと……?」


 薬師に問いに、賀茂さんに取り憑いたさくらが訥々とつとつと答えだす。


「……とてつもなく悪いものが取り憑いていることは、沙夜が帰国してきた直後から感じ取っていました。それが鬼だということも、なんとなくわかっていました。


 鬼とは、昔話で対峙をした縁がありましたからね。嗅覚が働くのです。


 けれど、沙夜に取り憑いた鬼に好き勝手させないようにするには、同じ存在になるしかなかった。悪霊になろうとも、守護霊になろうとも、鬼に食らいつくことができれば少しは症状を和らげることもできるだろう、あわよくば追い出すこともできるかもしれない、そう踏んだのです。


 ですが、まさかそれが神様でもあったというのは、少々誤算でした。ですから、噛みつくことはできても、それ以上のことはなにもできなかった。次第に時間が経つにつれて、私もまた鬼神の狂気に取り込まれそうになっていたのです。


 そんな窮地に陥っていたところを、この身体を貸してくださっている霊媒師様が救ってくださったのですよ。


 彼女が吐いた嘘の全貌は、こういうことなのですよ」


 俺は唖然とするしかなった。


 なにもできないと塞ぎ込んでいた間に、カグラと賀茂さんがそんなことをしていただなんて。


 だけど、それこそが真実なのだとしたら、この犬は。


 最初から、すべてわかったうえで。


「嘘、だろ……」


 思わず、声が漏れた。


 それだけしか自分がしてやれることがないから、なんて理由で、命を。


 だから賀茂さんはあのとき、喫茶店で俺に向かって、あんな怒りをぶちまけたのか。


 すでに守護霊が見えていたから。


 知ってしまったから。


 薬師のためにすべてを擲ってしまったことを理解してしまったから。


「……っ」


 なんて情けないんだ、俺は。


 好きだの、愛しているだの、命を賭けいてるだのと、そんなことを言いながら、ちっとも敵わないじゃないか。


「まさか……、私が取り憑かれていたから……だから、鬼に、乗っ取られないようにって……そういう、ことなの……?」


 茫然自失といった表情で、薬師が弱々しく問い質す。


 その問いかけに、さくらは答えあぐねるように口を噤み。


 けれど、やがて観念したように、


「……………………ええ」


 ほんの少しだけ、頷いた。


「そん、な……そんな、こと、って…………」


「自分を責めないでください、沙夜」


「で、でもっ――」


「あれは……鬼が取り憑いてしまったのは、不幸な事故なのです。たまたま運が悪かっただけ。こうしていま、沙夜が無事でいられるだけで、私は充分、役目を果たせたと思っています」


「だけど……っ、私……私が、自由なんて、望んでいなかったら……っ、不満なんて感じていなかったら…………っ、私の心が、弱く、なかったら……っ!!」


「……そうしてなんでも自責にしてしまうのも、沙夜の心の弱さです。良いところでもありますが、もっと、強かに、我がままに、ありたいままに生きてよいのですよ?」


「……っ!!」


「……だから、沙夜。あなたはもっと、素直に生きなさい」


「っ――う、うっぅ……」


「……大丈夫。私は幸運にも守護霊になれました。姿も形も見えませんが、心はずっと、沙夜のそばにいますから」


「……う、ああっ、ごめん、ごめん、なさいっ……私、私っ……」


「……強く生きなさい、沙夜」


「あ、ああああああっ――」


「いつまでも、ずっと、見守っていますから」


「ああああああああああああああああああああああああああああっ!!」



 彼女の号哭は、いつまでもやまなかった。

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