2


「先輩っ!!」


 総合病院の入口で音々が出迎えてくれた。

 そのまま凛の病室まで連れて行ってもらう。


「こいつ、は…………っ」


 凛を直視できなかった。


 全身をひどいひっかき傷でやられたような痕が這いずり回っている。

 完治はするだろうが、運が悪ければ跡になるかもしれない。


 犬神も似たような被害に遭ったのだろうと推察できた。


「昨日は塾で夜が遅くなるというのは知っていたんです。けど、日が変わっても帰ってこなくて……そこへ警察から電話が、あって……」

「もういい。喋るな」


 俺は眠ったままの凛の手をぐっと握りしめる。


 こんなことになったのは、俺の判断が遅れたからだ。

 もっと早く、どうにかすりゃあよかったんだ。


 薬師を救う判断が遅すぎた。

 できたはずなのに、やらなかった。


 その結果がこれだ。


「……食料やらタオルやら、コンビニで買ってきた。適当に使ってくれ。それと、すまん。他にいくところがあってな」

「そう、ですか……」

「また見舞いにくる。じゃあな」


 俺は音々を置いて、その足でもう一つの

病室へと向かった。


 母さんが知らせてくれた病室の番号と、そこに患者の名前が書かれていないことを確認し、ノックをしてから中に入る。




「あー……きたね、神座くん」


「…………なに、やってんすか、あんた」


 ベッドのうえで、いくつものチューブを繋がれた病衣姿の賀茂さんが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「……なに、やってんすか」

「見ての通りさ。やらかした」


「なんなんすか、これ……」

「……返す言葉もないねぇ、ははっ」


 彼女がにへらと力なく笑う。


 ああ。

 もう限界だ。


 俺は溜まりに溜まった鬱憤を爆発させるかのように、その胸ぐらを鷲掴んだ。


「答えろよっ!! あんた、こんなところでいったいなにやってんだ!!」

「……っ」


「なんだよこの惨状はっ!? なに勝手にぶっ倒れてんだよ!? なに一人で勝手なことしてんだよっ!?」

「……すまない」


「謝って済む問題じゃねぇだろうがっ!! どれだけの人が犠牲になったと思ってるっ!? 俺のクラスメイトが巻き込まれたっ!! 俺の幼馴染みが……っ」


「…………っ」

「解決したんじゃなかったのかよっ!? なあっ、おいっ!!」


「――照人」


 背後から人の気配がして、俺は怒りの形相を湛えたまま振り返る。


 白衣を身にまとい、目元に濃い隈を浮かべた母さんが立っていた。


「ここは病院だ。他人様が病人に手を出すんじゃない。出していいのは、医者と看護師だけだ」


「…………っ」


「なにがあったか知らないけど、その人の主治医は母さんだ。手荒な真似をすれば、いくら照人であろうと容赦なくここから叩き出すよ」


 事件のせいで数多の患者を診たのだろう、疲弊してもなおその眼光鋭い母が低く唸るような声で俺を制した。


「……悪い」


「謝るのは、母さんにじゃないでしょ」


「……悪かった、賀茂さん」


 俺はゆっくりと、胸ぐらを掴み上げた両手を離した。


 賀茂さんは軽く咳き込んで、ゆっくりと首を横へ振る。


「いいや……こうされるだけの理由もある。悪いのはこっちだ。随分と勝手な真似をしたことは承知してる。まさかこんな結末になるとは思ってもみなかった。見通しの甘さも含めて、いつかはきちんと謝らないといけないね」


「……なにがあったんすか」


「……そうだね、まずはそこからか……」


 賀茂さんはしばし逡巡して、ドアに背を預けた母さんへ小さな声で告げる。


「神座先生、ちょっと息子さんと二人で話をさせてくれないかな。大事な話でね。あまり他人には聞かれたくない」


「……一応、子どもの監督責任もあるんだけれどね」


「それでも、お願いできないかな。必要なら、あとで先生にも話をするから」


「一緒には聞かせてくれないってこと」


「申し訳ない。」


 すると、母さんは根負けしたとばかりにドアをあけた。


「全身ぼろぼろなんだから無理はしないように。照人、緊急の場合はナースコールして」


 無言で頷くと、母さんはそのまま病室から出て行った。


 長い話になるだろうと思い、俺は手近にあった椅子に腰掛ける。


「事の真相は簡単だ。あたいは昨日、薬師さんに取り憑いている夜叉退治に出向いた」


「……はっ? 待ってくれ。夜叉はあのとき祓ったんじゃなかったのか」


「……夜叉は祓わなかった。いや……祓うことなんてできなかった、というのが正しいんだろうね」


「どういうことだよ……」 


「悪霊は祓える。けどね、夜叉は仏教における護法善神だ。薬師如来に仕える十二神将とも言われる、まごうことなき善の神様なんだよ。そんな大層立派な存在を『祓う』なんて、できっこない」


 賀茂さんはそこまで言って、深呼吸をする。


「だからカグラと作戦を立て直した。わざと夜叉のみを取り憑かせたままにして、夜半に第二ラウンドへと洒落込んだんだ」


「それで、返り討ちに遭ったってことですか……」


「情けないことにね。神と戯れ、満足してもらい、そうして神の座へと戻ってもらうつもりだった。多少の暴力沙汰はやむを得ないとしても、取り憑いているものさえ判明している以上、問題なく終わるはずだった……んだけど、致命的な間違いをしでかした。そのときにはもう手遅れだったというわけだ」


「夜叉じゃなかった……とかですか」


「惜しいねぇ。半分正解で半分はずれだ」


 賀茂さんが自嘲気味に続ける。


「……ったく、これじゃあ霊媒師失格だよ。ヒントは転がってたってのに、気付かなかった。夜叉は夜叉でも、彼女に取り憑いてるのは原典だ」


 夜叉の原典――つまり起源。


「旅行の土産にとんでもねぇもん持ち帰ってきやがったってことか……っ」


「ご名答。正確には、女型の夜叉――つまりヤクシーが取り憑いている。しかも、厄介なことに善性を宿している有様でね」


 思い出した。歴史で習ったことがある。


 インド神話における鬼神だ。

 北方を守護する毘沙門天の眷属。


「まったく、とんだ洒落をきかせてくれたもんだ。名前に引き摺られるなんてことは昔からよくあることだけれど、こいつはまさかだよ。まぁ、あれだけめんこい子だ。美女が好きな鬼神に取り憑かれるのも無理はないんだろうけど……」


 薬師がインドで旅行した北方は、墓廟やら城やら、神や霊にまつわる遺産が多い。

 たしか、タージ・マハルもそうだったか。


「第二ラウンドの最後、それを看破するのがせいぜいあたいにできたことだった。命からがら逃げ出して、ずたぼろで転がっていたところをカグラに助けてもらったってわけさ」


「そういやあの駄目神はどこ行った?」


「まだやり合ってるんじゃないか? あるいは神楽町から遠ざけるためにヤクシーを追いかけ回しているか……」


「つまり、薬師の身体は乗っ取られたままってっことだよな……」


「あの駄目神が戻ってこないということは、そういうことなんだろうね」


 いまごろ、薬師家は大騒ぎになっているはずだ。行方不明ともなれば捜索願だって出されているだろう。


 だが。

 今朝のニュースが本当なら、警官には発砲許可も下りているはず。


 万が一、警察が夜叉に乗っ取られたままの薬師の姿を見つけたら、保護どころか……。


「っ――」


 最悪の事態が脳裏を過ぎった。

 警察よりも先に薬師を探し出して、取り憑いた鬼神をどうにかする他ない。


 だが、どうすればいい……。

 どうすれば助けられる。


 賀茂さんがこんな状態では、誰にもどうすることもできない。


「取り憑いた鬼神をどうにかする方法はある。彼女を救い出す方法は確実に存在する」


「あんた、なに言って――」


「あの時と同じ方法なら、彼女に取り憑いた鬼神を引き剥がせる」


「っ――!?」


 俺は顔をあげる。

 たった一筋、差し込んだ光明。


「…………それって」


「神霊は、祓うことはできなくても、神の座に還すことはできるんだ。仏教における夜叉だろうが神話におけるヤクシーだろうが関係ない。神座くんが習得しているそれは、対象が神性を宿していれば、問答無用で通用する」


 その言葉を信じるしかない。


 賭けるしかない。

 縋るしかない。


 俺にできることがまだあるのなら。


 ここで立ち上がらないわけには、いかない。


「……賀茂さん。薬師の居場所、わかるんだろう?」


「ああ。なんのために昨日、数珠を渡しておいたと思ってるんだい」


 力なく、けれどいつものようにどこか飄々としたふうに賀茂さんが笑う。


「そいつを持っていきな」


 賀茂さんはわずかに動く手で棚の上を指す。

 そこに置かれていたのはなんの変哲もない方位磁針で。


「これか?」


「ああ。そいつは数珠を身につけた対象者の居場所を感知できる。現代でいうところのGPSみたいなもんだ。ただ、あまり探索範囲は大きくない。ある程度は彼女に近づかないと機能しない代物だ」


「なるほど……。ありがたくもらっていく」


「なにがあろうと正午には病院へ戻ってこいとカグラには伝えてある。合流して、準備ができたら近くまでは案内してもらいな。そっから先のことは、申し訳ない、任せるよ」


「……………ああ」


「悪いね……、あたいはもうしばらく、ここで休ませてもらうことにするよ……」


 そんな言葉とともに、賀茂さんの意識が落ちた。

 病室を出る。


「あんた、なんだか妙に据わった目をしてるね」


 母さんが廊下で俺を待ってくれていた。


「……ごめん。もしかしたらまた世話になるかもしれない」

「どうせ止めたところで聞きやしないんだろ? で、どういうつもりだい?」


「そう……、だな…………」


 けじめをつけるため。彼女を救うため。この街を守るため。仇を討つため。

 色々浮かんだ。


 けれどやっぱり、俺が覚悟を決めたなによりの理由は――


「惚れた女の子が困ってるのに、ここで立ち上がらなきゃ男が廃る……だろ?」


 言うと、母さんは呆れたとばかりにため息を溢す。


「……そうかい。まったく、一体誰に似たんだかね」

「文句は地球の裏側にいる父さんに言ってくれ」


 母さんは少しだけ逡巡してから、俺の肩を叩いた。


「行ってらっしゃい。頭と心臓さえ残ってれば、いくらでも治してあげるから。無茶はしていいけど、死ぬんじゃないよ」

「おうっ」


 俺は病院を出るべくエントランスへ向かった。

 そのエントランスに繋がる待合ホールで、もう一人、待ち構えていた。


「……凛のところにいなくていいのか、音々」

「事情はぜーんぶ、盗み聞きさせてもらいました」


 音々がぺろりと舌をだした。

 俺は苦笑してみせる。


「行儀が悪いな。そんな子に育てた覚えはないぞ」


「なにを仰いますか。誰かさんに似たんですよーだ」


「居候の神様に似ちまったんじゃあどうしようもない」


 音々が俺の両手をぎゅっと握った。


 そして、なにかごわごわした肌触りのものを掴まされる。


「あたしのお守りを預けておきます」


「これ……何年も前にくれてやったやつじゃねぇか……」


 とっくに御利益の切れていそうな具合にあちこちが擦れている安全祈願のお守り。


 猫又の件が解決したとき、俺が音々にくれてやったものだ。


 こんなもん、まだ持ち歩いていたとは……。


「だいじょうぶです。さっき、あたしが先輩の無事をお祈りしておきましたから」


「……無事に戻ってくるまで預かっておくよ」


「御利益にも預かってくださいね」


「おう」


「……ねえ、先輩」


「なんだ?」


「あたし、先輩がいなくなるのだけは……絶対に、嫌なんですからね……」


「……安心しとけ。絶対に帰ってくるから」


「これ以上、誰かの心配をするのは、嫌なんですからね……っ」


 俺の胸に、とん、と頭をくっつけながら音々がぼそりと呟いた。


 優しく撫でてやると、鼻を啜る音がして、


「少しは落ち着いたか?」


「……やっぱり、泣いたフリくらいじゃあ思い直してはくれませんか」


「……悪いな」


「あはは……まったく、薬師先輩には敵わないなぁ。羨ましくて、悔し涙がでそう」


「文句はあいつに面と向かって言ってやれ」


「なら、ちゃんと連れ帰ってきてくださいよ」


「任せとけ」


「……行ってらっしゃい、先輩」


 ふっと、柔らかい笑顔を浮かべた音々が病院へと戻っていく。




 ここまで色々とお膳立てをもらったんじゃ、さすがに手ぶらで戻ってはこられない。


「……さて、それじゃあ行きますか――っと」


 敷地の外にある病院の看板のしたで待ち受けていたのは、あちこちが襤褸雑巾のように煤けた姿の居候。


 だが、その装いに反して本人は無事な様子で。


「……賀茂さんに聞いていたよりも随分と早いな」


「獲物は神楽町の北部にあるキャンプ場へ逃げ込んだ。いや……追い込んだ、というべきかの。あそこであれば警察の手も届かんじゃろうし、キャンプ場にも人がおらんのは確認しておる。そういうわけで、早々に引き上げてきた次第じゃ」


「でかした」


「深手を負わせたから当分はあの辺りに身を隠すはず。それはそうと、エセ霊媒師は無事じゃったか?」


「自虐できる程度にはね」


「そうか……ならよい。見舞ってやりたいところではあるが、外見以上に内面はボロボロであろうし、いまはそっとしておいやるかの――そして、じゃ」


 まっすぐに見つめてくる燃えるような双眸。


「――心の準備はできたかの?」


「覚悟なら、とっくに済ませた」

「やることは分かっておるの?」

「……ああ」

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