幕間 - 解放 -
気が付くと、私は豪奢なシルクのドレスを身にまとい、夜の舞踏会を舞い踊っていた。
なにか、大事なことを忘れている。それがなんだったか、思い出せない。両手で頭を抱える。割れそうな痛みが走り、視界がぐるぐると回る。とてもじゃないけれど踊る心地になれない。なのに身体が勝手に動いてしまう。
矛盾螺旋のただなかに放り出されたような酩酊感に酔いしれる。
踊ってはならないと理性が叫ぶ。
踊らなければならないと本能が謳う。
音律を刻んではならないと理性が諭す。
ステップを刻まなければならないと本能が囁く。
夢に浸ってはならないと理性が警鐘を鳴らす。
覚めぬ永劫に浸れと本能が笑う。
どうすればいい。
どちらを選べばいい。
懊悩する私は頭を掻きむしる。
「…………っ」
舞い込む夜風に髪がふわりと巻き上がった。
ぎんいろ。夢だから許される嗜み。
いまひとときの自由の象徴。
規律を尊ぶべきだと理性が主張する。
自由を謳歌すべきだと本能が叫く。
どうすればよいのか。
どちらを選べばよいのか。
「……ああ、なにを、悩んでいたのかしら」
そんなもの、端から決まっている。
ここは夢なのだ。なにを迷う必要がある。
どうして規律に縛られる必要がある。
どうして本能の赴くままに振る舞うことを禁じられなければならない。
心のなかで、天秤の傾く微かな音がした。
数度瞬く間に、視界が極彩色に弾ける。
いつのまにか眩暈は消えていた。頭痛も治まっていた。
瞳に映るは見慣れた豪奢な舞踏場。
今宵の踊り手がこちらへ手を差し伸べている。
そう。
私はあの手を取り、今宵も華麗に、優雅に、踊り明かさなければ――、
「ちょいと待つんだ、お嬢ちゃん」
振り向くと、おぼろげに見覚えのあるジャージ姿の女性が仁王立ちをしていた。
人型に象られた紙を握り、足元にもまた、それらが意志をもっているかのようにゆらゆらと揺れ動いている。
「まったく……。神座くん、音々ちゃんと続いて今度はいたいけな女子高生の相手をしないといけないだなんて……どうにも退屈しないねぇ、この街は」
草履を履き、からからと笑う女性。
だが、その双眸は獲物を捕らえたとばかりに好戦的な意志を含んでいる。
「あなた、神座くんと知り合いなのね。それに、どうやら私のことも知っているようだし……ええと、どこかで会ったかしら……」
「あたいは賀茂芽依だ。覚えがあるかい?」
「……ごめんなさい。はっきりと記憶にないわ。あまり名前には拘らないものだから」
「なるほど。あの駄目神のいうとおり、現実の記憶とリンクしていないのか。一度顔を合わせたくらいじゃ深層心理にまで記憶が残らないということの証左だね。そういや、夢のなかの出来事もさして記憶できてないんだったっけ……ということは、いまの嬢ちゃんとなら、派手にやりあっても問題はないということだ」
「あら、あなたも私と踊りたいのかしら?」
「どんな幻覚に囚われているのか興味があるねぇ。そこは陽気な祭太鼓が鳴りひびく東洋の儀式場かい? それとも目の眩む豪華絢爛な中華の舞踏場かい?」
「興味をもってくれて嬉しいわ。けれど、残念ながらどちらも不正解」
私はすっと賀茂さんに近づき、その手を取ろうとした。
彼女もまた華麗な足捌きで私の誘いを躱してみせる。
「申し訳ないね、あたいは生憎と踊りの嗜みがないんだ」
「あら、それは残念……身体の動きはいいセンスしていると思うのだけれど」
「ははっ!! お褒めにあずかり光栄だ。あたいが踊れないその代わりといっちゃなんだが、可愛い式神たちが相手をしてあげるよ!!」
賀茂さんの一声で、十を超える式神とやらが一斉に飛び掛かってきた。
「たかが紙っぺらでこの私をリードできるとでも思って――っ!?」
突然、ただの紙切れであるはずの式神が姿形を変える。
鼠や牛、鳥や猪、果てには空想上の生物であるはずの巨大な龍に。
「干支の十二体もいればそれなりに満足できるだろう?」
「……っ」
それらが一斉に鋭利な牙を、爪を、蹄を、角を剥き出しに突進してくる。
飛び退いて躱し、いなし、あるいは相殺することで手一杯になる。
踊りなど、まるでできっこない。
無性に腹立たしい。
「くっ……」
「存分に楽しめてもらえているようでなにより。なにせそいつらは夜叉を眷属とする十二神将に相当する神獣のようなものだから、夜叉であるきみにとっては満足に踊らせるのも一苦労だろう?」
「っ……、それはそれは随分な大盤振る舞いをしてくれるのね」
「きみのような夜叉には、これがてきめんだろうと思ってね。たかが
「……それはどうかしらね?」
私は軽やかに舞い、華麗に優雅に敵意を捌く。
どれだけの殺意を向けられようが、式神の攻撃のすべては届かない。
ああ、なんて残念なこと。
「張り切って躱すじゃあないか、お嬢ちゃん」
「…………ふふっ」
「なにがおかしいんだい?」
「いえ……こうも張り切っているというのに、ドレスコードを間違っていることに気付かないまま共演のお誘いを受けても、乾いた笑いしか出てこなくって」
「そもそもあたい、お嬢ちゃんがどに縁があるのかすら教えてもらってないんだけどねっ!!」
賀茂さんが、天から地へと手を振るった。
天に咆哮を轟かせた龍が、その大顎をぱっくりとひらき、天空から地上へ向けて彗星のように堕ちてくる。
まさしく捨て身の吶喊。
夜闇を引き裂いて猛然と迫る死の気配に、
「では、教えて差し上げましょう――」
私は華奢な両腕を振り払った。
刹那、霧散する。
敵意も、殺意も、巨躯の龍の姿をした式神も。
「な、に……っ!?」
見るも無惨な有様だ。
賀茂さんが愕然とした面持ちでこちらを見つめている。
なにがおかしいのだろう。
こんなもので私の相手が務まるとでも思っていたのなら、失礼にもほどがある。
散り散りになっては風に吹かれていく紙屑の一欠片を摘まみ、ぐしゃぐしゃに握りつぶして、私は微笑んだ。
「アーグラ城塞……というのは知っているかしら?」
消滅した龍の敵討ちとばかりに突撃してくる獣を模した式神たちを、片腕一つで屠ってみせる。
いよいよ賀茂さんの表情が強張ってきた。その双眸が驚愕に染まっている。
いい気味だ。
「……こいつは、ぬかったか。まさか、インドが誇る朱城が舞台とはね……」
「ふふっ。気付いたところで、もう取り返しはつかなくってよ?」
気付かぬうちに、私の華奢な四肢は、まるで鬼のようなおどろおどろしくも美しい紅のそれへと変化していた。
ああ、なんて素晴らしい。
禍々しくも美しい力。
この世をあるがままにできる、鬼神の膂力。
「神性が強すぎるっ……ああくそ、夜叉は夜叉でも、まさかそっちだったとは……こいつは大誤算だ。まいったね、仕込んできたもんがことごとく使いものにならない……っ」
言って賀茂さんはぼりぼりと頬を掻いた。
かと思えば次の瞬間、身を翻し、私の前から姿を消そうと逃げていく。
「そういうわけで……ここは一時撤退に限るっ!!」
「ここまで無礼を働いたのだから、もっと楽しませてくれないと気が済まないわっ!!」
所詮は人間だ。人の足で鬼神の力を得た私から逃げられると思うな。
身体の奥底から漲ってくる力のまま、私は両腕を振るった。
その軌跡は真空の刃となり、逃げる獲物の四肢を斬りつけ、鮮血の華を咲かせる。
「がっ……!? まさかそこまで侵食されちまってんのか……っ」
「さあ、逃げないで? 私と一緒に踊りましょ?」
朱い月の笑う夜。
永遠の宴に恍惚と酔いしれる。
もう、私を縛るものはなにもない。
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