3

 俺と音々が通う神楽高校は、県内でも有数の金持ちが集まる私立である。


 生徒のほとんどはプライドの高く、親の七光り自慢で互いにマウントを取りまくっては、自分のポジション確保に勤しんでいる。


 さすがに二年生にもなると殺伐としたこの雰囲気にも慣れてきたが、お坊ちゃんという程でもない俺は周囲にあまり馴染めず、友達はさほど多くない。


 そんな俺にとって、旧友というのは大変助かる存在である。


「やぁ、照人。春休みは楽しめたかい?」

「おう。そっちこそ大変だったみたいだな」


 飛行機のトラブルで帰国できない、なんて理由で始業式を欠席していた又吉りんの姿があった。髪が赤茶けた色に変色しているのは長旅のせいだろう。


 性格も外見も似つかないが、音々の姉である。


「今回はどこに行ってきたんだ?」

「ちょっくら万里の長城を見学にね」

「ほぅ……」


「それはそれは素晴らしい旅行だったんだけどさぁ、帰りに空港でデモに巻き込まれて飛行機が急遽キャンセルになったときは焦った焦った。まぁ、人生なんとかなるもんだね。空港泊なんてはじめてやったよ」


 多少のハプニングをものともしない胆力はさすがだ。

 バックパッカーならでは、なんだろう。肝の据わり方が常人の域を超えている。


「そういや音々が早速お邪魔していたみだいだけど、迷惑かけなかったかい?」


「ちょっと自制してほしいおとこともあるが、大助かりだよ」


「ならよかった。あいつ、隙あらば照人の貞操を奪おうとするからねぇ」


「察してるんだったら少しは家庭で教育してくれな? 俺が言ったところで『もしかして、奪って欲しいって意思表示ですかぁ?』なんてからかってくるのがオチなんだからさ」


「あはは、言いそうだなぁ。我が愛しの妹のこと、よく理解してるじゃないの」


「感心してる場合かっ」


 俺の必死な訴えに、凛は諦めろとばかりに首を振った。


「妹なりのスキンシップだと思って、うまいこと付き合ってやってくれないかな」


「……まあ、世話になってる手前、無碍にできるはずもねぇけどよ」


「厄介になっているのは、むしろこちらのほうだよ。例の件で色々と世話になったし迷惑もかけたから、妹なりに張り切って恩返しをしようとしているんだ。世話はされた以上に焼いてやれってのが家訓だからね」


 そのありがたい訓示あってか、音々はほとんど毎日、俺の家にやってくる。

 中々真似できることじゃない。


「それにしたって世話の焼き具合が尋常じゃないんだけど……」


「あれは照人に対してだけだ。誰にでもあんな献身的なわけがないじゃないか。そんな八方美人に育てた覚えはないよ」


「変な責任感やら罪悪感やらを抱いてなきゃいいけど」


「命を救われたんだ。たった数年程度で解消しきれるもんでもないと思うけどね」


 音々がここまで献身的になったのは、俺が死の淵を彷徨い、音々もまた怪異に取り憑かれた、忌々しくも奇々怪々な事件のせいだ。


「まぁ、ようやくいまの生活サイクルに慣れてきたみたいだし、可愛くも健気な妹をこれからもどうぞよろしく頼むよ」


「それはいいけど……、物騒な事件があったみたいだし、しばらく自粛したほうがいいんじゃないか?」


「ああ、女性が襲われたってやつか……。そうだなぁ、音々と相談してみるよ。照人のお母さんからお駄賃をもらっている手前、ちょっと気が引けるけど……」


「気にすんな。金なんて使い道がなくて困ってるくらいなんだ。音々が受け取ってる分は返さなくていいから」


「照人がそう言うなら……遠慮なくいただいておくことにするよ」


 言うなり凛はスマホをいじくりはじめる。

 どうやら音々と連絡を取り始めたらしい。


 あとで会うし、俺からも音々に言っておこう。




「――そういえば、沙夜さんはインドに行ってきたんでしょう? どうだったの?」


 また始まったか、という思いで俺は教室の前方をみた。


 教壇に近い一角を陣取った数名の女子が、華々しく火花を散らしながら談笑をしている。


 もはや見慣れてしまった光景だが、新年度になっても話題に尽きることはないらしい。


「それはそれは充実した観光だったわ。特にタージ・マハルの荘厳さは圧倒的ね。人生で一度は訪れるべき場所よ」


「うらやましいなぁ……あたしは年度末のテストで成績悪かったから塾で勉強漬けでさぁ。どこにも行けなかったんだよねぇ……」


「学業も大事だけれど、人生一度きりなのだし、ああいう文化や歴史的建造物を自分の目で見ることは大切なことだと思うのよね。そういえば秋葉もイエローストーンに行ったのよね? どうだった?」


「公園に四泊しましたけれど、それでも行きたい所を全部回りきれませんでしたわ。地図をみたときは二日もあれば充分だと想像していたのですが、行く先々で現地の観光客と英会話で盛り上がってしまいましてね。ほら、こうして国立公園の写真もたくさん撮ってきたのですが――」


 クラスメイトの耳目を集めるには充分な話題の数々を武器に繰り広げられるは、朝っぱらから胸焼けするようなマウント合戦。


 金持ちの集まる私学だけあって頻繁にあちこちへ旅行するような生徒が多いなか、彼女たちは別格の存在だ。


「インドを数日観光したあと、そのままシンガポールにも行ってきたの。マーライオンパークに立ち寄ったり、ナイトサファリでマレートラやワラビーを見てきたわ。ああ、そういえば、シンガポールのお土産を買ってきたのだけれど――」


「……っ、わたくし、ハリウッドにも立ち寄ってきましたわっ!! それに、グリフィス天文台を散策してきましたのよっ!!  天文台からの夜景はとても幻想的でしたし、あれこそ生きているうちに目に焼き付けておくべき光景だと思いますのっ!!」


「わかる。私も去年登ったし」


「ぐっ……そう、なのですね……」


 アメリカ帰りの犬神いぬがみ秋葉あきはが天使のリングを浮かべた金髪を掻きむしりながら机に突っ伏した。


 どうやら今日のマウント合戦の勝敗は喫したらしい。

 まぁ、この結果は仕方あるまい。


 なにを隠そう、犬神が張り合っていたのは薬師やくし沙夜さやだ。


 江戸時代から続く製薬会社の跡継ぎ娘で、頭のてっぺんから脚のつま先まで純潔生粋のお嬢様。高校二年生ながら最難関国立大は合格確実とも囁かれている才媛で、俺みたいな庶民とはかけ離れた人生を歩んでいる同級生。


 そして、どういうわけか、中学、高校と五年間も同じクラスという腐れ縁。


 成績優秀、容姿端麗、運動神経抜群。


 完全無欠のパーフェクトな優等生で、お高くとまらず気品に溢れ思いやりがあり、学園一の人気を誇るクラスメイトだ。


 こうして思いつく限りの肩書きを並べるだけでも張り合う気すら失せるようなステータス。対抗心剥き出しでばちばちやりあっている犬神のことをいっそ感心すらしてしまうほどには高嶺の花。


 そんな彼女を前にすれば、大抵のお嬢様もその後光が霞んでしまうほど。


「……あら、授業が始まるわね」


 薬師がシンガポール土産とやらを配り終えたところでタイミングよく予鈴の鐘が鳴り、駄弁っていた女子たちが席に戻っていく。


 薬師もまた俺の前の席に腰掛けては小さく溜息を溢した。黒く長い艶のある髪が萎れたように垂れている。朝から相当消耗したらしい。


「……そんなに疲れるんだったら相手しなきゃいいのに」


「それができたら苦労しないわよ…。教室にいる限り、ああして捕まってしまうのだし、断れば『あら、話題の一つもないなんてさみしいわねぇ』なんて挑発してくるんだから」


「だからその挑発に乗る必要がないんじゃあ……」


「拒否できるならどれだけいいことか……はぁ………」


 薬師はもう一度、溜息をつく。


 どうやら俺には想像のつかない苦労があるらしい。


 犬神はことあるごとに薬師に噛みついては張り合おうとするし、周囲の女子も二人に取りつくことで自らのカーストを少しでも格上げしようと躍起になっている。

なんともご苦労なことだ。


 周囲の都合と欲望に付き合わされるのはたまったものではないな、と少しだけ不憫にも思う。


「周囲のみんなとやっていくためには必要なことなの。嫌味にならないように気をつけてはいるけれど……どうにも難しいわね」


「周囲に気を配り続けないといけないだなんて、やんごとなきお方は大変だな」


 俺なんて、傍目から眺めているだけでも,息苦しさのあまり窒息してしまいそうだってのに。


「へぇ……気遣ってくれるわけ」

「当たり前だろうが」


 薬師を気に掛けることは息をするのに等しい行いだ。これをやめたら死んでしまうかもしれない。


「あら……そう言うわりには覇気がないのね。いつにも増して大人しいこと」

「俺にも色々あるんだよ……」

「ふぅん」

「おいやめろ覗き込んでくるな。今日はテンションあがらないんだよ」


 あんな生々しい夢さえ見ていなければうざったいくらいに喜んでやるってのに。


鬱陶うっとうしい口説き文句を聞かなくて済みそうね。まぁ、これはこれで日頃の楽しみがなくなってしまうから残念でもあるけれど。新学期から仕掛けてくるんじゃないかって気構えていたのに、なんだか損した気分だわ」


 構える必要がなくなって気が緩んだのか、ふふっ、と柔らかな笑みを溢す薬師。

そこに宿る清楚な上品さと可憐なえくぼに俺は目が離せない。陶器のように艶やかな頬に、冗談じゃないかと思うくらいに長いまつげ。そして、吸い込まれそうな黒翡翠色の瞳。


 まるで神様が造ったような、見つめているだけで溜息のでる耽美的な姿。


 ちくしょう。可愛いなぁ、おい。


 こんなにも側にいるのに、この五年、心の距離はまるで縮まりやしない。


「はー……あの駄目神、マジでご利益ねぇのなぁ……」

「だめがみ? ご利益って、なんのこと?」

「……な、なんでもない。こっちの話だよ」


 俺は机に突っ伏した。

 もうこれ以上は駄目だ。

 可愛すぎて目を合わせていられない。


「平和に過ごせそうでなによりだわ。願わくばずっと、そのまま静かにしていてもらえるとありがたいのだけれど」


 担任がやってきたところで本鈴が鳴り、薬師が前へ向き直った。


 俺は伏せていた顔をあげる。


 眼前に広がるは、黒漆のように艶やかな黒髪。少しだけ白髪が交じっているのは、日々の気苦労のせいだろう。


 教室に舞い込む春風になびいてふわりと巻き上がり、爽やかで甘い香りが鼻孔をくすぐってくる。


 髪をかきあげる仕草を後ろからじいっと見つめて、深く息を吐く。






 俺は、恋をしていた。



 一歩通行で、届かない恋を。

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