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「せーんぱーい!! あーさでーすよー!!」

「――っ!?」


 気の抜けた声に引き揚げられるようにして、俺は飛び起きる。


 どういうわけか、ベッドの上にいた。


 風穴が空いたはずの下腹部は何事もない。


 リアルだった痛みも、嘘みたいに消え去っている。


 あんな生々しいものが夢? 

 いや、夢だったなら安心すべきだ。あれが現実だなんて思いたくはない。


「まだ寝ぼけてるんですかー? これ以上ぼうっとしていたら遅刻しちゃいますよー? それに、とっくのとうに朝食の準備もできてるんですからねー」


「ん……あ、ぁ? 音々……?」


 寝ぼけ眼を声のするほうへ向けると、幼馴染みの妹である又吉またよし音々ねねが蜂蜜色に仕立てたボブカットの先端をいじくりながら俺を覗き込んでいた。


「ええ、っと…………帰ってきた記憶がない、んだけど……?」

「まったく……なにを寝ぼけているんですかぁ。まだ夢現(ゆめうつつ)なんですかぁ? だったらぁ、あたしの愛の篭もった一発で、現実に引き戻してあげますっ!!」

「は……え……っ!? 待てっ、待つんだっ!! 音々のそれは本気でやったら洒落になら――あうっ!?」


 問答無用とばかりに頬をたれ、視界の端で星が弾けた。


 なんだ、やっぱりまだ夜なんじゃないか……なんて冗談を呟けばもう一発飛んでくる気配がするので喉奥へ飲み込む。


 音々はご満悦の様子で俺を睥睨していた。


「どーですかぁ? 夢から醒めましたかぁ? これでもいい塩梅で加減できるように日々練習してるんですよぉ?」

「……こんなことを練習するな。心臓に悪い。寿命が縮んだ気分だ」

「それは大変ですねぇ。だったらその責任はあたしが取るしか解決策がなさそうなのでぇ、早速さっそく今日からお付き合いを――」

「しないから」

「ちぇー、先輩のいけずぅ」


 音々が口を尖らせた。


「ところ構わず適当でド直球なアプローチしても効果ないんだぞ。いい加減に学んだらどうだ?」

「うわぁ……それ、先輩が言っちゃうんですかぁ。体験談なんか聞きたくないですよぉ」

「ぐっ……」


 たしかに数多の失敗を重ねてきた俺が口にできる台詞じゃないのかもしれないが……。


「時と場所くらいはちゃんと考えてるっての……一応」

「そこまでしてもまるで進展ないんですから、世話ないですねぇ」

「うっせ! 俺のことをおちょくるんじゃねぇ!」

「おー、怖い怖い。ってか、こんなことしてる場合じゃなかったですねー。先にリビングに戻ってますので、支度してきてくださいねー」


 俺にウィンクを投げつけて音々が階段を降りていく。その足音を聞きながら俺は身体を起こして制服に着替えた。


 リビングに向かうと、朝食をテーブルに並べる音々が再びウィンクを投げつけてきた。最近はまっているのだろうか、なんだか毎日のように受け取っている気がする。


 そして台所では、


「ぷぃ~……いやぁ、やはり朝の牛乳は旨いのう!!」


 金髪狐耳の美女が、冷蔵庫を開けっぱなしにしたまま、牛乳パックに直接口をつけて喉を鳴らしていた。


 陽光を溶かしたような豪奢な金髪に、白磁な柔肌と魅惑的な体躯。奇跡の寵愛を受けたかのように、この世とは思えない美貌をいかんなくさらけ出している。


「……なんつう格好してんだ、この駄目神だめがみ


「のう、ようやく起きたか、我があるじよ」


 一時期流行はやった童貞を殺すセーターとやらを着こなす金髪狐耳の駄目神ことカグラは、口元に白い髭を生やしてにかっと微笑んだ。


 この狐、こんななりだが、れっきとした神様である。


 とある事情があってここに棲み着いている居候いそうろうであり、ここ最近は神様のくせに食うか寝るかしかしていないヒモ女でもある。


「牛乳パックを直接がぶ飲みするんじゃねぇ。何度言ったらわかってくれるんだ」

「べつによかろう? 我しか飲まんのだし」

「行儀が悪い」

「はっ!! 人間の行儀など知るかっ!! 神には神の振る舞いというものがあるのだっ!!」

「偉ぶってるけど、まったく褒められないからな、それ」

「こうするとどうしてか二割増しでおいしく感じるじゃろ? 食物は感謝しておいしく頂くのが礼儀じゃ!!」


 ふんすっ!と腰に手を当てて景気よく一気飲みをするカグラ。


 セーターの下やら横やらから圧倒敵な存在感を主張する双丘がたわわに揺れる。

朝っぱらから、思春期の健全な男子には非常に良くない光景だ。


「…………むぅ」


 朝食の準備をしていた音々が恨めしそうに、揺れる大人の果実を睨めつけた。

 案ずるな、いまはまだまな板みたいに平らなその胸元も、いつか立派に成長するはずだ。


 目の前にいる駄目神に、俺は心のなかで献身的な後輩の成長を祈念する。


「にしてもおぬし……朝から剣呑な顔をしてどうしたのじゃ。合戦にでもいく気か?」


「ちょいと嫌な夢をみたもんでな……」


「日頃の行いが悪いからじゃろ。徳を積め、徳を」


「こうして神様を養っているというのに、なに一つ良いことがないんじゃあな」


 無神論者に拍車をかけている当の本人へ俺は白い目を向ける。


「なにを言っているんですかぁ。あたしが通い妻になっているじゃないすかぁ。不満なんですかぁ? これ以上ない幸福だと思いませんかぁ?」

「……結婚どころか付き合ってすらないんだが?」

「事実婚みたいなもんですよー。このご時世、なにごともやったもの勝ちですからねぇ。既成事実というのはとっっっっっっても大事なんですよぉ。すでに先輩の胃袋はあたしががっしり掴んでますからねー」


 えっへんとない胸を張ってみせる音々。


 お互いまだ歳が歳だけに籍を入れられるはずもなく、そもそも付き合っている事実すらないのだが、こうして毎朝食事を作ってもらっているのは事実だ。晩飯の用意や掃除洗濯といった家事全般を任せていて、後輩ながら家政婦的な働きをしてもらっている。


 商社マンゆえに海外にでずっぱりな父さんと、日本でも名高い医者としてバリバリ現役な母さんは、家に帰ってくることがまずない。


 ほとんど一人暮らしのような一軒家で、母さんからの頼みもあって頻繁に出入りする音々と、とある事情から居付いてしまった駄目神との擬似的な三人暮らしをしているのがいまの俺。


「そういうわけで、先輩の胃袋をがっつり掴むために、今日の朝ご飯はBLTサンドですよぉ」


 俺の好物を把握している音々の料理はどれも絶品。

 こればかりは本当にありがたいので頭が上がらない。


 朝食の並んだテーブルにつき、サンドイッチにかぶりつく。うまい。そこらのパン屋やコンビニで売っているものとは比べものにならない美味しさだ。


 カグラはそんな美食を片手に、食い入るようにテレビを凝視していた。


『――次のニュースです。神無河かばがわ神咲かみさき市の神楽町で昨夜、女性が何者かに襲われたとのことで、県警が詳しい事件の原因を調査しています。被害者の証言によると、銀髪の女性に背後から突然羽交い締めにされ、生気を吸われるような感覚に襲われたとのことです。現時点で犯人の足取りはいまだ掴めておらず――』


「なにやら物騒なことが起きてるのぅ……」


 神妙な声でカグラが呟く。


「カグラが解決したらどうだ? 地主神なんだから」


「まだ我の出番だと決まったわけではなかろうよ……」


「とぼけるなよ。これはどうみても心霊現象だろ」


 とある事件に巻き込まれて以来、俺はこの手の話や事件に対して鋭い第六感が働くようになっている。


 いまニュースで流れた事件は、まさしくその手の類いであると勘が囁いていた。

 霊感の強い俺が気付くくらいなのだから、より霊的な存在であるカグラが感づいていないはずもない。


「……そう急かすでない。事象の成り行きに神たる者が気軽に介入していい時代はとうに過ぎ去っておる。それに、この程度のことであれば、放っておいてもあやつ・・・がじきに解決するじゃろ」


「そうかもしれないけどさぁ、たまには運動しておいたほうがいいんじゃないか? 音々の料理に舌鼓を打ちすぎて、あちこちがむっちむちになってるだろ」


「確かに……カグラさん、ちょっと体型がよくなったよねぇ」


「神の御前でなにを言うかっ!? ほんのちょっと食生活がよくなったくらいで肥えるなどあるわけが……むっ」


 ほれみてみろと脇腹を掴んでみせたカグラだったが、案の定、贅肉をそこそこにつまめてしまっている。自らの身体の変化を如実に受け止めたらしく、眉間に皺を寄せた。


「ほうら、言わんこっちゃねぇ。運動といえば、たまーに散歩してるくらいなんだから、そりゃあそうなるわな」


「む、むむむ……」


「働かざるもの食うべからず、ってことわざを知ってるか?」


「神に働けとな? それこそおかしな話じゃろ。貢げ貢げ!! 我に貢いでなんぼじゃぞ? 願いを叶えてやる分だけ我もカロリーとやらを消費するでなっ!! じゃが、まったく残念なことに最近は倹約ならぬ倹欲家とやらが増えてしまっておるからの。お役目がないとはなんとも世知辛い世の中じゃ……よよよ」


「だったら俺の片恋を叶えてくれやしないか、神様仏様カグラ様」


「生憎と、我は恋愛成就の神様ではないからの……」


 なんて使えねぇ神様なんだ。


「がっかりだよ……。そんじゃあ今日から飯抜きにするか。ダイエットしろ。神様なんだから絶食したところで死ぬわけじゃないんだし」


「それだけは勘弁してくれっ!! 音々の料理にありつけなくなるのは困るっ!! いまの我の生き甲斐なのじゃ!! それを取り上げようなど……お主、地獄にでも堕ちたいのか!?」


 とんだ居候だなおい。



 そんな他愛もない話をしているうちに、テレビの画面越しではお天気お姉さんが元気溌剌に各地の天気予報を伝えはじめて。


「……って、やべ、もうこんな時間か」

「あたしはとっくに準備できてますからねー、先輩」

「音々はよくできた女子おなごじゃな。それに比べて我があるじときたら……」


 駄目神が哀れんだ眼差しを向けてくる。


 ……お前にだけは言われたくないのだが。


 そそくさと支度を済ませると、リビングの一角、三年前になくなった祖母の遺影の前で合掌し、心のなかで行ってきますの挨拶を交わす。両親が不在がちとあって、亡くなるまで、俺は祖母にべったりだった。いまでも感謝は尽きない。


 リュックを背負い、ローファーを履いて、俺と音々は家を出る。


 ……と、その前に。


「カグラ、今日だけど、十五時に校門で待ち合わせな」

「何用じゃ?」

「音々の定期健診」


「……ああ、そうか。もうそんな時期がやってきたか……」


そう言うなり露骨に嫌そうな顔を浮かべるカグラ。


「つまり、あやつと顔を合わせなければならんということか……」

「そんな顔するなよ。音々のためなんだから我慢しろ」

「わかっておる。これも我の務めじゃからな」


 カグラは不承不承といった様子で頷いた。


「そんじゃ、よろしくな」


 無理もないことなので、これ以上はなにも言うまい。


 すべての発端と責任はお前にあるんだから、という呪いは喉元で押しとどめる。

さすがにもう、口に出さずとも自覚しているはずだから。

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