そいつはひたりと寄ってくる

1


 新学期が始まって、高校二年になったばかりの俺――神座かむくら照人てるひとは、コンビニで買った冷やし中華の入ったビニール袋を引っ提げて夜な夜な道を歩いていたら、出会ってしまった。


「薬師……?」


 見間違えるはずがない。


 尽きようとしている寿命を謳歌せんと点滅している街灯の真下、腐れ縁の同級生である薬師沙夜が素足で突っ立っていた。


 薄い黒のキャミソールに肌色のスウェット。彼女にしては珍しいラフな佇まい。腰まで伸びた白銀の髪が月明かりにきらめいて、普段の清楚な佇まいからはおよそ想像もつかない妖艶さをまとっていた。


 あり得ない光景がそこにあった。


「…………ん」


 彼女が俺を見て、小首を傾げる。


 何年にもなる付き合いだというのに、たったいま、はじめて俺という人間を知ったような、そんな表情を浮かべて。


「薬師……だよな? こんなところで、なに……やってるんだ?」


 中学の頃から片思いをしている相手なのだ、見間違えるわけがない。


 だというのに、俺は再度、彼女の名を呼び確かめてしまった。


 そんな姿でいることがあり得ないから。


 今朝、始業式で生徒代表として答辞を述べていた薬師の髪色は、黒漆を溶かしたようだったのに。


 それが、一体全体どうしてそこまでグレてしまったのだろう。

 さすがにエキセントリックにすぎやしないか。

 反抗期にしては、はっちゃけ具合が振り切れてしまっている。


 そんなふうに次々と湧き出てくる疑問を些事だと踏み潰すように、彼女が幽鬼のように歩み寄ってくる。


 まるでおもちゃを見つけたような、きらきらした眼差しを湛えて。

 大好きなはずの彼女を、俺はこのときはじめて、ただ純粋に恐ろしいと思った。


「…………あはっ」


 口元に覗く犬歯を舌なめずりしながら、晩餐を見つけたかのように薬師が笑みを溢す。


「…………っ!?」


 ――喰われる。


 思わず後ずさった。

 本能が激しく警鐘を鳴らす。

 背筋に怖気が走る。


 いつの間にか、腕ががちがちと震えていた。


「ふ、ふふふふふふふ――」


 なんだ、これは。

 恐怖で脚が竦む。

 ぎんいろの髪。

 血の気のない柔肌。


 紅に染まった瞳は虚ろで、俺は目を合わせられない。


 なんだ、こいつは・・・・


 これで二度目だ。こんな異常事態に遭遇するのは。


 だから分かる。

 こいつは、夢じゃない。


「…………神座くん」

「ひっ――」


 俺は情けない悲鳴を漏らし、身を翻すと、脱兎のごとく、その場から逃げ出した。幸い、家からそれほど離れていない路地裏だ。


 表通りに出てしまえばなんとか撒いて――


「どうして逃げるの?」

「っ!?」

「一緒に踊りましょ?」


 視界を塗りつぶすようにして、薬師の皮を被った化物が降ってきた。

飛び退って彼女から距離を取る。


「薬師、おまえ……人間を辞めたのか?」

「馬鹿なこと言ってないで付き合ってよ……ねぇ?」

「まさか、こんな状況で逆告白されるだなんて思ってもみなかったけど、できることなら正気のときに聞きたかったかな……っ!!」


 俺は目くらましとばかりにポケットにあった小銭を化物へ投げつけて再び逃げ出す。


 明日の一食分が消えたが命のほうがよっぽど大事だ。五百円玉で明日は買えない。


 迷路のように入り組んだ路地裏を右に左に折れ曲がり、化物を撒く。


「はぁ……、はぁ……、はぁ…………っ」


 やがて追いかけてくる足音も聞こえなくなったところで足を止め、乱れた息を整える。


 なんだあれは。

 化物? 怪異? それとも生き霊?

 まったくもってわけがわからない。


 どうして薬師があんな姿になっているんだ。


 突然の事態に頭はほとんど真っ白だが、こんなときに頼れる相手は決まっていた。


 餅は餅屋だ。

 ポケットからスマホを取り出し、履歴の一番上に表示された番号へ電話をかける。


「……ったく、なんなんだよあれは……っ、ああくそっ、はやく繋がってくれ――っが、は!?」


 肺に溜まっていた空気が全部、血反吐とともに口から漏れた。

 耳元に押し当てていたスマホが滑り落ちて、暗闇へ消えていく。


「ねぇ……踊りましょ?」

「な…………ん、で…………っ」 


 目と鼻の先で、化物が蠱惑的な笑みを浮かべていた。


「私のこと、好きでしょ? 好きなのよね? なんで逃げるの? もしかしていままでの告白は全部嘘だったのかしら? それとも、私の美貌を前にして怖じ気づいてしまったのかしら? けれど、もう逃がさないわ。あなたは永遠に私のもの……ずっと抱きしめて、取り憑いて、離さないからっ!!」


「あ、ああっ、ああああああ――」


 逃げられるはずがなかった。「せんぱーい」ぐちゃ、という歪な音が俺の下腹部を容赦なくまさぐる。痛い。腹から生えた化物の右腕、その肘から先が霞がかった月光に照らされて紅に染まっている。「あさですよー」痛くて堪らない。臓腑がべちゃりとこぼれ落ち、「遅刻しちゃいますよー」彼女の痛い裸足に朱が咲いて痛いそんな極彩色も厭わず初恋相手の皮を被った獣は血濡れた腕で「起きてくれないとイタズラしちゃいますよー」俺を痛い痛い締め上げるように抱きしめて脊椎が内側から軋むような音を響かせ痛い痛い痛い痛い痛い――


「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

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