モーツァルトの曲から

増田朋美

モーツァルトの曲から

その日は、ことごとく暑い日で、もう夏が来てしまったのではないかと思われるような、そんな日であった。最近の日本は、とても寒い時から、急に暑くなってしまうので、その中間がないと、みんな嘆いていた。中にはこの暑さで、今はやりの発疹熱も、どっかへ行ってくれればいいなあという人さえいた。

そんな日に、杉ちゃんと由紀子は、百貨店に買い物にやってきた。昨日までしまっていた百貨店が、今日から営業を再開したという。さすがに長い行列を作っているわけではないけれど、営業開始時刻になる前には、たくさんの人が待っていた。

杉ちゃんの場合は、食料品を買いに行くだけだからすぐ買えた。洋服売り場見たいに、買うのに手間がかかるわけじゃないから、すぐ店を出る。さて、買い物は終わったぞ、と、杉ちゃんと由紀子が勢いよく店を出ると、一人の女性が、右手に何か持って、ロケットみたいに突っ込んできたからたまらない。杉ちゃんは車いすごとひっくり返ってしまった。

「あ、ああ、申し訳ございません!急いでいたのでぶつかってしまって、申し訳ないです!」

「まったくだ。」

杉ちゃんは、由紀子に起こしてもらいながら、いやそうな顔をしていった。

「あの、お怪我はありませんか?」

そういう彼女は、日本語をしゃべっているのは間違いないけれど、どこか訛りのある口調だった。顔つきも日本人に近い顔つきだけど、そういうところから、ちょっと違うんだろうな、という気がする。

「まあ、けがはないけどさ。お前さんが突っ込んできたから、びっくりした。」

杉ちゃんが正直に言うと、

「本当に申し訳ありませんでした。お着物、汚してしまいましたよね、これでクリーニング代を。」

と、彼女は杉ちゃんに一万円札を渡そうとするが、

「へん、金なんか要らないや。それよりも、食べ物で払ってもらおう。」

と、杉ちゃんは言った。

「食べ物で払う?」

由紀子が思わず聞くと、

「そうだよ。僕たちまだお昼ご飯をたべていないのよね。どっかのラーメン屋でも行って、そのラーメン代を出してくれ。それで十分さ。」

という杉ちゃん。そんな無理なことは言わないほうがいいのでは?と由紀子は思ったが、杉ちゃんは、もうラーメン屋のある方へ、車いすを動かし始めていた。

三人はしばらく通りを移動して、「いしゅめいるラーメン」という看板のある店に入った。飲食店は営業を取りやめにしているところが多かったが、ぽつりぽつりと営業を再開している店も出てきている。いしゅめいるラーメンもその一つだった。

「いらっしゃいませ。」

三人が店に入ると、鈴木亀子さんが出迎えた。

「あんた、お客さんだよ。ほら、早く用意してやってよ。」

亀子さんが厨房に向かって声をかけると、日本人でもなければ西洋人にも似つかない、顔つきをした男性が、メニューをもってやってきた。杉ちゃんと由紀子、それに例の女性の三人は、一番奥のテーブル席に座った。

「はいどうぞ、ご注文決まったら声をかけてね。」

「おう、ありがとう。ぱくちゃん。」

と、杉ちゃんはメニューを受け取った。渡されたメニュー一覧を見て、彼女はまたびっくりした顔をする。メニューはすべてひらがなで書かれていたが、その内容は、ぽろ、しょいらなどのご飯ものから、いわゆるトマト麺のようならぐまんや、すいとんのようなすいかしなどのスープ料理で、すべてウイグル族の料理だったのである。

「あの、お客さん、ご注文は?」

ふいにぱくちゃんにそう聞かれたので彼女ははっとした。杉ちゃんと由紀子は、何の迷いもなく、ポロとスイカシを注文した。彼女は困った顔をしてしまう。おい、自分のものは食べんのかと杉ちゃんが聞くと、彼女はえ、ええ、とだけ言うが、どうしても食べるものが決まらなかった。

「食べないと、力でないぜ。名前で見るとわけのわからない料理に見えるけどさあ、すごくうまいから、だまされたと思って、一品食べてみな。」

「え、ええ、そうね。それはそうなんだけど、、、。」

彼女が口ごもると、急にぱくちゃんの顔が変わった。どうしたのと杉ちゃんが聞くと、

「君は漢人だね。そういう訛りのつけ方は、僕も知ってるからすぐわかる。よくも僕たちをコケにしてくれたな!僕たちはおかげで、住みたいところに住めなくなったじゃないか!」

と、強い口調で言った。

「あんた、ここは日本なんだから、もうちょっと優しくなろうよ。少なくとも、この人は、悪い人には見えないわよ。理由もなくこっちに来たわけじゃないでしょう。それでいいにしてあげましょうよ。」

亀子さんは、そういってぱくちゃんをなだめるが、

「僕はやだからね。漢人は許さない!」

とぱくちゃんは意思を曲げなかった。

「ちょっと待て待て、まあこういうところに民族感情を持ってきてはいかん。確かに漢族とウイグルは不仲だと、歴史の中でもそうだけどさあ。一体直接的に何をされたのか、話をしてくれよ。」

杉ちゃんがぱくちゃんにそういうと、ぱくちゃんは話をする気にもならなそうであったが、亀子さんが、おはなししてあげなさいよ、というと、ぱくちゃんはいやそうな顔をしながらも、こう話してくれた。

「だ、だってね。僕たちは、幼いころは、普通に暮らしていたんだよ。それがさ、いきなり漢人が僕たちの家に入ってきて、ここは自分たちの家を建てるから、お前らはすぐに出ていくようになんて、押しかけてきて。だったら、代わりの土地を欲しいと言ったら、そんなものないとか変なこと言ってさ。勝手に僕らを追い出して、自分の家を建てたんだよ。いやだって言ったら、収容所行きだもん。僕らは、ただ、ウルムチ市に住んでいただけなのにね。なんで何も悪いことしたわけじゃないのに、いきなり住んでいるところを分捕られて、収容所なんか行かなきゃいけないのかな。僕たちはそれに抗議して、みんなでデモ隊を作ったりもしたけど、結局、僕の家族は、銃で撃たれて死んじゃったしね。そんなわけだもん、漢人は許さんよ。人の土地を勝手に持っていくような奴らだもん。悪い奴らに決まっている。」

「そうかそうか。歴史的な事情だな。でも、悪い奴らばっかりじゃないよ。この女の人は、僕が転んだとき、ちゃんと謝ってくれたんだもん。えーと、お前さんの名前は何と言ったかな?」

杉ちゃんが聞くと、彼女は縁麗と名乗った。そして、それを言った直後、いきなり椅子から立ち上がり、ぱくちゃんの前に両手をついて座り、

「ごめんなさい。」

といった。亀子さんが、そっとぱくちゃんの体を押さえているのが見えた。それだけぱくちゃんにとっては、強い怒りなんだろう。

「謝られても困るよ。うちの家族は、皆殺されちゃったし、好きな食べ物だって、食べられなくなった時のつらさなんて、わかるはずもないよね。そういうわけで、謝られても、家族もこっちへは帰ってこないもの。返してくれと言っても、できないでしょ。もうどうしようもないんだ。だから、漢人は許さないって誓ったんだ。」

「そうね、確かにぱくさんの言う通りかもしれないわね。」

由紀子が小さい声でつぶやいた。

「でも、ぱくちゃん、もう許してあげなよ。僕たち日本人も戦時中は同じようなことしたのかもしれないじゃないかよ。ほかの国のやつらだってそうだよ。だから、もういいじゃないか。許してやりな。」

杉ちゃんがそういうと、

「でも、僕、傷ついてる!」

ぱくちゃんは小さく、でも強く言った。

「だけどねえ、確かにそうかもしれないけど。」

と、杉ちゃんが続けた。

「いつまでもそんなこと言ってたら、解決しないよ。どっちか片っぽが許してやることが、解決への一番の近道なんじゃないのか?」

「ごめんなさい。私、出身が、新疆ウイグル自治区のすぐ近くだったけど、そんなことしてたなんて何も知らなかった。ただ、仲良くしているだけだと思ってたわ。まさかそんなことやってたなんて知らなかった。」

縁麗さんがそういうと、

「謝られても困るんだよ。」

とぱくちゃんは言った。

「本当に、知らなかったんですか?」

由紀子が聞くと、縁麗さんは、申し訳なさそうに頷いた。学校でも、ウイグル族の存在は、名前を聞かされているだけで、何も知らなかったという。そういうところが、ずるがしこい教育なのかもしれなかった。

「そうだよなあ、若い人は知らないで通っちゃうんだろうな。でも、そうなると僕たちは、余計にむなしくなってくるよ。こんなことがあったのを、まったく知らないで通っちゃう人がいるんなんて、、、。ウイグルの料理も、音楽も、みんな分捕られてしまって、忘れられちゃうのかなあ。」

「それよりも、お客さんたちの注文を作ってやってよ、あんた。」

ふいに亀子さんがそういうことを言った。

「ほら、ポロとスイカシ作ってやって。それと、縁麗さんの注文を聞いて。」

「あたしは、食べる資格がありません。」

と縁麗さんは言った。

「だって、あたしたちは、あなたの言葉を借りていえば、料理も分捕ってしまったことになるわけですから、それを食べてしまうのは、非常識というかなんというか。」

「いや、大丈夫だ。ここは日本だし。少なくとも中国ではないんだから、気にしないで食べろ。」

「そうよ。それに食べないと、さっきも言ったように、力がつかないわよ。」

その言葉に、杉ちゃんも亀子さんもそう付け加えるが、

「でも、僕は、あの時、住んでたところも、みんな分捕られて。」

と、ぱくちゃんはまだ泣いていた。

「あんた、こういうときは、人種も民族も関係ないの。誰でも食べることはするんだから、食べさせてやってよ。」

由紀子は、その亀子さんの言葉だけでは納得していない、ぱくちゃんの顔を見て、何とかできないだろうか、と思った。その時、縁麗さんが、持っていた、長いものに目が言った。それはビジネスバックにしては長細過ぎるものだった。あれれ、もしかしたらこれ、有名な中国の楽器なのでは?と由紀子は直感的におもった。

「あの、もしかして、これは、二胡のケースですか?」

と由紀子は縁麗さんに言う。

「そうですけど、なんで?」

と、彼女が聞き返すと、

「いえ、音楽のほうが、言葉よりよっぽど通じるものがあるのではないかと思いまして。」

と由紀子はそれだけ言った。まさか弾いてみてくださいという気にはなれなかった。でも、二胡という楽器は、人間が歌うのをまねしているような音色があり、バイオリンにはない、人間味がある楽器なのは知っていた。すると、杉ちゃんも同じことを考えていたらしい。

「おう、そうだよな。ちょっと、弾いてみてくれよ。あ、そうだ、ぱくちゃんのピアノに合わせたらいい。それをやってみれば、素晴らしいものになるぞ。」

と、そういうことを言いだした。

「あら、すごいこと言うじゃない。ほら、あんた、練習用のキーボードもってきて、それで弾いてみてやって。」

と、亀子さんがぱくちゃんに言う。

「きっと、漢族とウイグル族が共演すること何てなかなかないと思うけど、やってみてよ。」

「でもさ、、、。」

ぱくちゃんは、まだ躊躇しているようであったが、

「そうだけど、過去にこだわっていたら、前へは進めないですよ、ぱくさん。それよりも、今とこれからを考えなくちゃ。きっと縁麗さんだって、十分に悔い改めたと思うんです。だからもう許してあげてください。」

由紀子は、きっぱりといった。ぱくちゃんは、少し考えているようであったが、亀子さんに改めて肩をたたかれて、

「よし、わかったよ。やってみよう。」

と、一度厨房の奥へ戻って、キーボードを持ってきた。それを開いているテーブルの上に置き、

「今習っているのはモーツァルトのこれだけどわかりますか?」

と言って、モーツァルトのソナタの11番、イ長調を弾き始めた。縁麗さんは、その間に楽器を取り出し、急いで弓に松脂を塗って、ええ、と言って弾き始める。二人の息はぴったりだ。縁麗さんが、リードしていくぱくちゃんにそっとお詫びをするような感じで、演奏は続いた。第一変奏から、第六変奏まで、しっかりと演奏はつづけられた。

「よし!うまいぞ!上手じゃないかよ!」

と、杉ちゃんが演奏し終わると大拍手する。由紀子も、思わず立って拍手した。本当に、音楽の力というのは何なのだろう。音楽は、それまで敵同士だったのを、仲良くさせてくれるようなそんな力を持っている。

「さてあんた、演奏ができたんだから、もう許してあげて頂戴ね。ほら、彼女に何が食べたいか言ってあげて。」

亀子さんに言われてぱくちゃんは、

「ご注文をどうぞ。」

と、縁麗さんに言った。

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モーツァルトの曲から 増田朋美 @masubuchi4996

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