第139話 だから僕は、天才なんかじゃない
次の日から、誰にでも遊べるゲームを作る日々が始まった。講義をかじって頭の中で理論を組み立てつつ、手元のノートにこれからの目標を書き込んでいく。
講義が終われば全員で集合してゲーム開発の開始だ。八崎はシナリオのラストに詰まり、道月もあまり触れた事の無いゲームというもののシステムに困窮している。
鏑木も、八崎が提示した広すぎる世界に手を焼いていた。そのどれもが所謂『ファンタジー』な景色で、地面を埋め尽くす銀月草や現実ではあり得ない中世の王都に魔法のエフェクト。特に闇魔法については何度も八崎と協議を重ねていた。
前提からおかしいのだ。誰もを感動させる最高のゲームを、たった三人で作ろうとするなんて。それでも彼らは諦めなかった。それぞれに、それぞれの夢があったから。
その夢のために今を生きて、ひたすらに試行錯誤を繰り返していた。開発は前進と停滞を繰り返し、カレンダーの月日が巡っていく。
八崎はゲームをソフトに落とし込む為に四方八方を駆け回り、道月は存在しない感覚を補填するプログラムが作れずに頭を抱えていた。かくいう鏑木も、NPC一人一人の顔や体格、服装を考え続けて疲弊していた。
「うぅぁあ!やっぱり難しいよ!」
「……どうした」
「どう頑張っても感覚を補填できないの……やっぱり無いものをそこに作り出すのは難しいのかなぁ」
「脳に擬似的な信号は……ああ、そうか流せないな」
VR機器は前提として脳に走る信号を全てコピーして変換している。詰まる所、そもそも視覚に関する信号が流れない盲目や音盲の人間は、その部分が空なのだ。変換する信号が存在しない。かといって膨大な信号を書き込むわけにもいかないし、そもそも信号は人によって異なるのでそのまま書くなど絶対に不可能だ。
「だから機械で脳の視覚野を解析して、その人にあった信号を獲得してから変換するシステムを作ろうとしてるんだけど……」
「……仮に出来たら神の領域だな」
「うぅ、そんなこと言わないでよー。難易度上がっちゃうでしょ?」
言われた位で難易度が上がるのか、と鏑木は首を傾げた。ずっとパソコンの前で唸り続け付いた道月は、遂に回転椅子を反転させ、鏑木の方を向いた。
「鏑木くんはどこまで進んだのー?」
「ん……最初の街が八割。草原とかの一般のフィールドを除いた特殊なフィールドは六割。NPCとかモンスター、魔法、アイテム、武器防具に関しては一割も進んでない。多く見積もって六パーセントが良いところだ」
「うひゃあー……想像するだけでも大変だね」
「お前と違って難しい問題とかはないから、根気の問題だがな」
大きなディスプレイに街の描写を映し、それを見つめて違和感を探る。……噴水が目立たなすぎるな。街の中央なんだからもう少し目立たせるか。赤レンガでも敷かせて……植木とかは……要らないな。赤と緑は協調性が取りづらい。代わりに猫でも放しておこう。
サクサクと噴水を形作ると、中々見映えが良くなった。次は噴水回りにいるNPCについて……確か常設なのがおおよそ六人で通りかかるのがランダムなんだったか?
鏑木が街を作っていく時のタイプ音やオブジェクトを試作するために振るうペンの音に、道月は目を瞑って耳を澄ませていた。彼がどんな世界を作っているのか、彼女にはさっぱりわからない。見えないし、想像もできないのだ。それどころか、彼の顔だって――
「ねー、鏑木くん」
「ん?」
「……私さ、君の顔が見たいな」
「……はぁ?あ、いや、すまん。あんまりにも急だったもので」
「あはは、いいよ。癖なのは知ってるし」
「……」
なんだか癖を知られているというのは妙な気分だと鏑木は思った。まるで自分を形作る設計図を覗かれているような……まあ、悪い気分では無かったが、鏑木にしてみればこそばゆいともいえる気分だった。
取り敢えず道月の言葉の真意を知ろうとして、鏑木は道月に聞いた。
「それで……どういうことだ?僕の顔が見たいっていうのは」
「うーんとね……なんていうかさ、私、目が見えないでしょ?」
「……まあ」
「あは、なにその反応ー。……私は目が見えないから、鏑木くんの作った物が見れないんだ。どんな場所を作ってるのかも分からないし、それを作ってる鏑木くんの事だって……全く見えないんだよ」
「……」
僕が見えないことに何か問題があるのだろうか、と鏑木は疑問に思ったが、彼女からすれば問題なのだろうと言葉を飲み込んだ。
「それが見たくてこうして頑張ってる訳だし、きっと鏑木くんの顔をゲームの中でも見てやるぞーって思ってるんだけどさ……」
「時間が大分掛かる、と」
「うん。私は、鏑木くんの顔が見てみたいんだ。何て言ったら良いのか分からないけど――」
珍しく言い淀む道月に、鏑木は作業を一旦中止した。そして、取り敢えず向かい合って話そうと回転椅子を回して振り返る。振り返った鏑木は、大きく息を飲んだ。特に気構えもせずに振り返った先には、本当に息が触れそうなほど近くに道月の顔があったのだ。
意図せず全身が硬直し、深い色合いの彼女の瞳を見つめてしまった。
近くではっきり見た彼女の瞳は焦げ茶色で、やはり虚空を見つめていた。桜色の薄い唇から、湿っぽい吐息が吐かれているのが見た目でも分かった。こんなに近くにいるのに、それでも僕のことが見えないのか。
なんともやるせない感情が渦巻く鏑木の前で、焦げ茶色の瞳が――ゆっくりと鏑木の瞳に向かい合う。
その瞬間、彼は全身が痺れたような感覚に陥った。合格発表の時にも感じた、この感覚。今ならばわかる……これは、彼女の瞳に見惚れている感覚なんだ。
深々と硬直する鏑木の前で、焦げ茶色の瞳がまるで見えているかのように鏑木の瞳へ吸い寄せられている。
暗い宝石。そんな比喩が浮かぶほど美しい瞳が……優しく弧を描く。道月の表情が柔らかく緩んで、見たことの無い微笑みになった。
「鏑木くん、今私のこと見つめてるでしょ」
「……」
「えへへ……もしかして見惚れちゃってる?私、自分の顔のこと知らないからさ……綺麗だといいなぁ」
綺麗だよ。思わず溢れかけた言葉を理性が慌てて飲み込んだ。至近距離、笑った吐息が鏑木の鼻先に触れて、彼の心拍数を跳ね上がらせた。
私ね、と道月は鏑木を見つめたまま口を開く。
「本当に……どういったらいいのか分からないんだけどね――君の顔が、堪らなく見たいんだ。こんな気持ち初めてなんだよ。初めて……私、目が見えたら良いのにって思っちゃってるの」
「……」
「機械の世界の鏑木を見ても、きっと私は満足できるけど……それでも私は、本物の君が見てみたい」
無理だって分かってるけどね、と道月は笑った。その笑顔はあまりにも可憐で、美しく、鏑木は豊富な語彙を投げ出して、その笑顔を見つめた。僕だってこんな気持ち初めてだ、と言えない言葉が心の奥で反射する。
一生のお願いを言っても良い?と道月は言った。
「私の……ワガママを聞いてくれる?」
「……あ、あぁ」
「……君に、少しだけ触れさせて」
そう言って、道月は鏑木の頬に手を添えた。白魚のように繊細な指先が鏑木の頬を撫でて、そのままスススと顎のラインをなぞる。深い瞳に見入られて、鏑木はまるで魂を抜き取られているかのような恍惚とした気分になった。
細い指先が鏑木の整った鼻筋をなぞり、控えめに唇をなぞって、瞼の上を滑っていく。なんともこそばゆく甘い感覚が、鏑木の背筋を登って脳をショートさせた。
ひとしきり鏑木の顔をなぞった道月は、もう一度鏑木の頬を撫でてにこりと笑う。
「うん。……うん。きっと、見えたよ。鏑木くんの顔……綺麗だった」
「……分かるのか?」
「……実はあんまり」
「……なんだそりゃ」
「でも、幸せな気持ちになったよ」
「…………」
「確かに、鏑木くんの顔が見えたんだもん」
「……反応に困ることを言わないでくれ」
「えへへ、ごめんね」
「……」
「……ねぇ、鏑木くん」
「ん?」
「……シュウ君って呼んでも良い?」
「…………勝手にしろ」
「あはは、ほっぺたが熱いよ?」
「うるさい」
「私のことも、そろそろお前とかじゃなくて、結って呼んで欲しいなぁ……なんちゃって」
「…………――」
「え?」
「……何でも無い。僕は作業に戻る」
「えー!結って呼んでよー!一生で二度目のお願いー!」
一生に二度目って何の価値も無いだろう、と心の中で呟いて、鏑木はパソコンに向き直った。赤い頬と、聞こえなかったらしい呼び声を胸の奥にしまいこんで。
それからも、開発の日々は続いた。山ほど積み重なった課題、つまらない講義の合間に手元を動かしても、殆ど意味をなさない。八崎は東奔西走ともいえる動きであらゆる会社に赴いてソフトの発注を受けてくれる場所を探し、道月はじっと虚空を見つめて神の領域へと踏みいる理論を考える。
天才の一言では括れない道月をもってしても、失った視覚を取り戻すのは難しかった。彼女は自分の考えが行き詰まると、決まって鏑木を外に連れ出した。息抜きだ休憩だと口にして、見るも鮮やかな笑顔を浮かべて彼の手を引くのだ。
その笑顔を見てしまうと、鏑木の思考は正当な回路を放棄してしまい、彼女の言葉に渋々といった様子を取り繕いつつ頷いてしまうのだ。
『シュウ君!喫茶店行こっ!休憩だよ』
『……仕方ないな』
『シュウ君~、アイス食べたい……息抜きしようよ~』
『……はぁ、全くしょうがないやつだな。駅前に良い店がある。行くぞ』
『外の空気が吸いたいなぁ……ね、シュウ君。公園行こ!』
『はぁ?公園って……子供じゃないんだから。……一時間だけだぞ?』
そうやって誘いを受けると、彼女はどうにも嬉しそうな笑みを浮かべるので、つられて鏑木も笑ってしまうのだ。遊びに出た先で見せる彼女の新しい一面や表情、仕草すらも鏑木の目を引いた。……はたから見れば否定できない恋慕というやつを、鏑木はいつの間にか道月に寄せていたのだ。
けれど、本人は断固として認めなかった。純粋に恥ずかしかったのだ。天才である自分が、そんな俗物的な感情を――ましてや恋なんてものを、自分を打ち負かしたこいつにするわけがない。
そう思いつつ、道月のことをもう一度結、と呼べるタイミングを探していたり、後ろを歩く道月に「面倒だから手を繋げ」と言い放つのを今か今かと画策していたりしている。
けれどもそれらは最終的に緊張や自尊心という大敵に阻まれ、遂に口にすることができなかった。
開発の日々は続いていく。カレンダーの日付が捲られ、鏑木の誕生日というイベントを過ぎ、道月の誕生日が人知れず過ぎたことに鏑木が激昂したり、八崎の誕生日が三人で祝われたり……。
特に、道月が自分の誕生日を言わずに過ぎ去ってしまったことには、鏑木が久々の激昂を起こした。何故言わなかったと詰め寄り、自分の誕生日が目の見えない彼女では分からないと知ると、鏑木は数時間後にケーキを買って過ぎた誕生日を祝った。
『これからは僕がお前の誕生日を知らせてやる。毎年祝うから覚悟しておけ』
ケーキの蝋燭に火を着けながらそう言うと、道月は泣き出してしまった。
『はぁ!?おい、八崎!何とかしろ!』
『ははは、それは難しいかな』
『うぅ……そういう、不意打ちは……駄目だよぉ……』
四月三日。それが道月の誕生日だった。涙ながらに火を吹き消そうとして、検討違いの場所に息を吹いていたのを鏑木はよく覚えている。
月日が過ぎていく。世界が産み出されていく。世界の機構が生まれ、人々が息づき、花が咲いて空の星が光る。一年、二年、と月日は過ぎていった。それでも三人の関係性は変わらないままで、それらを結びつけるゲームだけが作り上がっていく。
そうして、二年と半年の月日を経て……鏑木の仕事が終わった。全ての世界を描写しきり、全ての人々の動きもアイテムも作り終えた。
八崎のシナリオも、父のゲームと遜色のない……いや、それ以上の完成度を産み出して完結した。
あとは、世界が道月の手によって始まり、時を刻むのを待つだけだった。――しかし、それでもやはり失った感覚は戻らない。道月はパソコンの前に座り、月日を経ることで美しさを増した顔で思案していた。
――あと、少し。あと少しで、点と点が繋がって線になる。そんな予感がする。
考え込む道月の耳に、聞き覚えのある二人の男の声が入ってきた。そろそろ帰るぞー、と告げている。その声に顔を緩ませて、道月ははーい、と元気な返事をした。
鏑木たちは、順調に夢の実現に迫っていた。荒唐無稽な目標は、今や現実味を帯びている。もう何百回通ったか分からない道を八崎の車で通りつつ、鏑木は八崎に話しかけた。
「僕たちも、来るところまで来たな」
「ああ、これも君たち二人のお陰だよ。君達が居なかったら俺は……きっと、どうしようもなくなっていた」
「分かんないよー?もしかしたらおんなじ位の事が出来たかも……?」
「出来たとして、俺はよぼよぼのお爺さんになってるよ」
「間違いないな」
鏑木は笑った。車の窓から、川へ沈む夕日が見える。茜色が、鏑木の瞳に光を灯していた。もう少し……もう少しだ。もう少しで、きっと僕たちは夢を叶えられる。彼女に……結に、世界を見せてやれるんだ。
そしたら、僕は……ああ、そろそろ伝えよう。こんな俗物的な気持ちを抱えたままなのは、もういいだろう。きっと斜陽を受けてよりいっそう綺麗になった道月を見るために、鏑木は後部座席に振り返った。
流れていく景色の中で、道月結は笑っていた。虚空を見つめ、ちょこんと淑やかに座席に座っている。その姿は相変わらず綺麗で、今ではいとおしい。いつか見た景色を振り返るような彼女の姿に見惚れて――気がついた。
後ろから、とてつもないスピードで車が迫ってきている。そのスピードは、間違いなく制限速度を飛び越えており、ブレーキを踏んでも間に合わないほどだ。それを認識し、理解した瞬間……鏑木の脳裏に事故の二文字が浮かんだ。
真後ろからの追突。車同士の事故となれば、死人が出てもおかしくない。咄嗟に鏑木は叫んだ。
「八崎ッ!!アクセルを踏めッ!」
「え?」
「うわぁ、びっくりし――」
「いいからアクセルを踏めって言ってるんだッ!!速くしろ!」
尋常ではない鏑木の様子に、漸く八崎は真後ろの車を知覚した。そして、大慌てでアクセルを踏みしめる。
しかし、最初から最高速の車と途中から加速した車ではスピードが段違いだ。間に合わない。避けられない。それならばとにかく道月を庇って――
……夕日の差す川の前で、鉄と鉄がぶつかり合う音が盛大に響いた。
追突の衝撃で意識を失った鏑木が最後に見たのは、砕けたガラスと曲がったフレーム。そして、前の座席に叩き付けられて血を流す――道月の姿だった。
その日のニュースや新聞の一面に、その事故がこう並んだ。
『飲酒運転で追突事故。大学生三人が意識不明の重体。暴走した車の運転手は死亡』
はっと目を覚ます。白い天井だった。手足が動かない。ここはどこだ、自分は何をしていたんだ。そんな疑問がぐるぐると頭を巡る。目を覚ました鏑木が居たのは、事故現場から近い病院の一室だった。麻酔であやふやになった思考で、どうにか状況を整理しようとした鏑木の体に誰かが覆い被さる。
一人の男と、一人の女。
八崎と道月……ああ、そうだ。僕は事故に巻き込まれて……それじゃあここは病院か。良かった、二人は無事なんだな。二人の身に何かあったら、大変だった。安堵する鏑木に、二人の男女が涙ながらに声を掛けてくる。
「良かったっ……!柊が死ななくて良かった!」
「ああ神様!柊を助けて下さってありがとうございます……!」
違う。二人の声じゃない。呼び方も話し方も違う。誰だ、この二人は。固定された首を何とか動かして、鏑木は自分に覆い被さる二人を見つめた。
「……父さん……母……さん」
「ああよかった!私たちの事を覚えているんだね?」
「あれだけの事故に遭っても生きているなんて……流石私たちの子供よ!」
覆い被さっていたのは、鏑木の両親だった。二人とも涙ながらに鏑木を抱き締めている。その暖かさは鏑木にとって心地よかったが、それよりもずっと気になることがあった。
「父さん……僕の他に乗っていた……二人は……?」
「柊の他……?ああ、あの二人の事だね?無事だと聞いているよ」
「事故に遭った三人の中でも、柊が一番長く眠っていたのよ?」
「何日……?」
三日だ、と鏑木の父は言った。丸三日間、鏑木は生死の間をさまよって昏睡状態だった。最初の一日で二人に比べて軽症だった八崎が目覚め、次の日に道月が目覚めた。
鏑木は自分の体を見下ろしてみた。ギプスのはめられた両腕と首、両足は折れていないようだったが、ガラスが突き刺さっていたらしく包帯が巻かれていた。
それをじっと見つめた鏑木は、取り敢えず全員が無事であることを喜んだ。あんなスピードで突っ込まれて、三人とも生きているなんて奇跡に近い。程無くしてやって来た医師も、満面の笑みでよく生きていたね、と鏑木に伝えた。それだけ事故が激しかったということだ。
女に振られてやけくそになった男が酒を飲んで運転。アクセルを踏み抜いたまま八崎の車に追突した、というのが事件の概要らしい。八崎の車はめちゃくちゃに潰れていたらしく、三人は死んだと思われていたらしい。
「本当に、奇跡ですよ」
「……はは。僕たちはまだ、死ぬにも死ねませんから」
「そうですよね。まだ貴方達は若い」
若い云々ではなく、開発中のゲームがあるからなのだが、さすがにそれは伝わらない。だが、伝わらなくても問題は無いだろう。最後にとんだトラブルに見舞われたが、全員が無事ならきっと問題はない。あの笑い合える日々がきっと帰ってくる。
心のなかで胸を撫で下ろしつつ、鏑木は医師に聞いた。
「他の二人はどんな様子でしたか?僕より軽いらしいと聞いているのですが」
「……あぁ……同乗していた二人の事ですか……その……」
微笑みながら投げ掛けられた鏑木の言葉に、医師は押し黙った。それはまるで、何か伝えづらいことがあるような顔で……。
鏑木は嫌な予感がした。まさか、二人に何かあったのか?もしかして、脳に障害でも起こしているんじゃ……。鏑木の脳内に最後の景色が浮かぶ。投げ出されて頭を打った道月――
「何ですか。早く言ってくださいよ……まさか、そんな……ね?」
「……」
「早く言ってくださいよ。早く……言えよ。言葉に詰まるなよ……!何もなかったって、無事ですってそう言えよっ!」
「落ち着くんだ柊。どうした?柊らしくもない……」
確かに鏑木は両親の前で声を荒らげることはなかった。それどころか乱雑な言葉遣いをすることすら初めてなのだ。鏑木自身も驚いていた。こんなにも心が荒波を立てるのが不思議で、同時にしょうがないという気分になっていた。
あの二人は、鏑木にとっての夢であり、初恋の相手であり、数少ない心を許せる友人でもあるのだ。それを……もしも失ってしまうことなんてあったのなら。その二人が傷つくような事があったのなら……。
震える鏑木の前で、医師は地面に目を逸らしながらぼそりと告げた。
「八崎君
鏑木の聴覚から、音が消えた。
「事故の衝撃で脳に障害を負ってしまいました。彼女はもう――」
――耳が聞こえません。
嘘だ。鏑木は長い空白の後に、その二文字だけを思った。そんな事があるわけがない。あって良いわけが無いだろう?
「そんな、う、嘘……だ。ありえない、待ってくれ、彼女に……いやまずは八崎に」
鏑木の脳みそが崩れていく。才能が壊れていく。思考も、理想も、夢も、恋も……全部下らないと思っていた、そのすべてを鏑木はいつの間にか宝物にしていた。
「そんなのってないだろう?だって、彼女は目が見えないのに……それなのに耳まで?」
全身の血液が沸騰していた。思考が煮立って、体が震えて、歯の根が合わない。体が燃えるように熱いのに、鏑木は悪寒を感じていた。
「そんな残酷な……彼女は頑張って生きてきて……いや、待ってくれ。間違いかもしれない。彼女ならきっと……ああ、そんな……おかしい、おかしい……」
おかしい。おかしいだろ。そんなことあっていいわけがない。盲目でも世界が見たいと、空を、人を、海を、花を見たいと言って、きっと果てしない夢を見つめていた彼女から……唯一見えていた夢まで奪うのか?
世界はどれだけ残酷なんだ?彼女が何をしたっていうんだ?彼女の何が悪なんだ?あの笑顔の、無垢な夢の、切実な願いの、何が……何が――
「ふざけるなぁッ!!!ふざけるんじゃないッ!!そんなこと僕が許さないッ!!こいつを外せ!彼女に会いに行く!外せッ!」
「落ち着け柊!」
「君、すぐに人を呼んできてくれ!」
「柊!?」
「麻酔を打ちます!」
道月結は、盲目だ。何も見えない。それでも彼女は笑っていた。
その笑顔は、まるで箱の中の撫子のようだった。
暗い世界で、それでも彼女は咲いていた。何も見えないなりに世界を見て、エコロケーションまで覚えて、僕を打ち負かし、プログラムを組んで……。
それが、許されないというのか?飛べない鳥は地べたを這いずっていろとでも言うのか?何も見えず何も聞こえない世界で、彼女を独りぼっちにするつもりか?
あの笑顔さえ……世界が彼女から奪うのなら、そんな世界は――
「あああああああああああああああ!!!!!」
――無意味で、無価値だ。
――――――――――
鏑木の乱心から数日が経ち、遂に彼は道月に会うことを許可された。まるで幽霊のような足取りで、鏑木は彼女の病室の前に立ち、そしてゆっくりと扉を開けた。開いた扉からは、消毒剤の臭いと、僅かなゴムの臭いがした。風が柔らかく鏑木の頬に触れる。
空いた扉の先で、道月結は笑っていた。
いつものように虚空を見つめて、頭には包帯を巻いて……ダークブラウンの瞳が白い天井を見つめる。分厚いカーテンが小さくはためいた。
「道月……」
半ば放心しながら、鏑木は彼女の名前を呼んだ。道月は、目が見えないからこそ、聴覚には敏感だった。扉が開く音がすれば、すぐにそっちを見たはずだ。それなのに彼女は、鏑木に目もくれない。まるで鏑木が存在していないような、彼女と鏑木の間に目に見えない壁がそそりたっているようであった。
「……道月」
もう一度、鏑木は彼女の名前を呼んだ。けれども、帰ってくるの沈黙だけ。鏑木は金縛りにでもあったように、そこから動けなかった。指一本ですら動かせるような気分ではなかった。むしろ立っているのが精一杯で、いつの間にか背中から地面に倒れてしまいそうだった。
まるで精巧な彼女の人形がそこにあるように、ピクリとも道月は動かなかった。ただ、微笑み続けていた。鏑木は自分の全身が震えているのがわかった。
「なぁ……返事をしてくれよ」
吐き出す声は情けなく、震えていた。
「道月……」
「……」
「道月……!」
「……」
「……結っ!」
大きく叫んだ。けれども、道月はピクリとも反応しない。鏑木は全身の力が抜けていくのを感じた。それでもなんとか勇気と意思を燃やして、震える声で語りかける。
「なぁ、結……駅前に新しいケーキ屋が出来たって言っただろう……?」
「……」
「あそこ、美味しいって評判だったよ。……退院したら一緒に食べにいこう……?」
「……」
「結は、甘いものが好きだろ……?あそこはタルトが……自慢だって……」
言葉は最後まで続かなかった。鏑木の足元に、水滴が溢れ落ちる。それは弾けて、白い床の上で小さな小さな水溜まりになった。
「こんな話……意味がないじゃないか……!」
君が答えてくれなきゃ何にも意味がない。無意味だ。どれだけ君を誘おうと、君はうんともすんともいわない。首を縦に振ってくれることさえしない。僕を見てくれない。僕に笑いかけてくれない。
「僕を見てくれよ……なぁ……頼むから……」
道月は、空を見ていた。そこには何もない。空虚な……空虚過ぎる天井だけがあった。
「僕は……僕は君が――好きだ……!」
「……」
「好きだ!」
「……」
「……好きなんだよ……!頼むからもう一言、僕の話を聞いてくれよ……僕の、僕が持ってる言葉全部で君を口説くから。たった一言で君の心を奪うから……だか、ら……」
帰ってきたのは、無言だった。どんなに語彙があっても、才能があっても、好きな人に愛してると伝えることもできない。何が天才だ。何が神童だ。
「僕は最初から、何一つ出来てないじゃないか……!」
最初からずっと流されて、ようやく見つけた夢の先で、ようやく見つけた好きな人に何も言えなかった。時間なら沢山あったのに……つまらない自尊心で何も言えなかった。好きだと、そう伝えれば……きっと未来は変わっていたのに。
「何だよ……何なんだよ、僕は」
天才が、この様か。こんなもの……こんな姿――
「無能か、負け犬そのものじゃないか」
それを自覚した瞬間、鏑木から才能の灯火が消えた。そして、彼は光を失った自分に付いた『天才』のラベルを乱雑に剥がし、『無能』のラベルを張り直した。
僕は、天才なんかじゃない。
その途端、すべてが嫌になった。怖くなった。もう自分には何もできない。そんな錯覚に陥った。たった一人の女も救えない、そんな無能に何ができるんだ。
そもそも僕が彼女に出会わなければ、彼女はきっと天才として夢を叶えていた。僕が居なければ、きっと彼女は音を失わなかった。笑顔を失わなかった。僕さえ……居なければ。
怖くなって。
震えて。
嫌になって。
そして、鏑木柊は逃げ出した。音の無い病室から飛び出した。目の前が真っ白になって、気でも狂ったように走る彼は、廊下を歩いていた誰かにぶつかる。ぶつかった相手共々地面に倒れ込んで、鏑木は頭を押さえながらぶつかった相手の顔を見た。
「いったた……」
「……八崎」
「……か、鏑木君……」
鏑木がぶつかった相手は、奇しくも八崎だった。鏑木は八崎の顔を見つめ、八崎は気まずそうに鏑木の顔から目をそらしている。そんな八崎を見て、鏑木は自分の中に何か黒い感情が蠢くのを感じた。それはきっと、外に出してはいけない怪物。黒い感情の成れの果てだった。
「お前が……」
「……」
「お前が、もっと早くアクセルを踏んでいれば……!」
「……それ、は……」
八崎はナイフで刺されたような顔をした。言葉に詰まる八崎の襟首を、鏑木は爪が白くなるほど強く掴み、上下に揺すった。
「お前さえ居なければ……!彼女は……」
「……」
「何か言ってみろよ!おい!八崎ッ!」
馬乗りになり、成す術もなく地面に叩き付けられる八崎は、沈黙の後にこう言った。
「……すまない」
その言葉が、鏑木の中の獣に火を着ける。すまない……?すまないって、そんな言葉で彼女に謝ってるつもりか?そんな言葉で償えると思ってるのか?
「ふざけんなよッ!お前ッ!」
「……全部、俺のミスだ。後ろの車に気が付かなかった。シートベルトを着けさせていなかった。君が声をかけてくれなければ、三人まとめて死んでいたかもしれない。……俺が、悪かった」
自分の非を認めて謝る八崎に鏑木は拳を振り上げたが、それが八崎の顔にぶつかる前に通りがけの医師が気がつき、鏑木は取り押さえられた。行き場の無い怒りが、心の闇が、鏑木の心を蝕んでいた。
かつての仲間に手を上げて、好きな人には何も伝えられず逃げ出して……僕は一体、何者になってしまったのだろう。鏑木は病院の一室に拘束され、ぼーっと天井を眺めていた。何をしていても、彼女のあの姿が目に浮かぶ。
もういっそ、死んでしまおうか。そんな事を考えて、鏑木はそれを取り下げた。彼女を残して死ぬなんて、そんな最低なことは出来ない。僕も悪いんだ。シートベルトを着けさせていなかったのは同じだし、もう少し車の接近に気がつけば……。
どうしたらいい。どうしようもない。
ずっと頭の中で思考がめぐる。何をすれば彼女はもう一度笑ってくれる?どうすれば、僕はまた彼女と話し合えるんだ。鏑木は怖かった。あの静寂が、取り残されて咲く道月が堪らなく怖くなっていた。まるで人形のようで、思い出すだけで悪寒が止まらなかった。
何日も何日も過ぎていく。無意味に過ぎていく。その間、彼女はずっと一人だ。何もない世界で一人きり、音も聞こえず微笑み続ける。
「なぁ……どうしたらいい?どうしたらいいんだ?」
鏑木は空に向かって懇願した。力なき哀願で、情けない他力本願だった。とてもではないが、世界に名前を轟かせる天才だとは思えなかった。震える唇を動かして、彼は言った。
「誰か……誰か教えて――」
教えてくれ?教えてもらう……そうだ。僕じゃあ無理だ。こんな無能じゃあ、きっと分からない。永遠に分からない。だから誰かに見つけて貰わなければいけない。そして教えてもらおう。
――彼女に言葉を伝える方法を。
その為の媒体は……ああ、良いものがあるじゃないか。作りかけの残骸。創造主の消えた箱庭。……そうだ、そうしよう。
「ゲームだ……」
奇しくもゲームがまた、鏑木の行く先を決めた。ゲームを作ろう。何千人、何万人という人間がプレイするゲームを。そして、最後に残った人間に僕の話を伝えて……聞くんだ。答えを。伝え方を。
その瞬間、鏑木の瞳に暗い炎が灯った。翼をもがれた天才が、もう一度地べたから這い上がる。暗い、暗い意思を持って。最低な他力本願を、情けない方法を、明るい世界だったものに詰めて。
「……発売は、八崎を使うか」
ゲームをシナリオごと作り変える。そんなことをすれば、きっと八崎が黙っていないだろう。だが、今のあいつは僕の言葉に従う他無いはずだ。
まさか反対などしてこないだろう。
「ゲームのタイトルは……そうだな……ああ」
『Variant rhetoric』だ。
――――――――――――
「お話はこれでおしまいだよ」
「……」
「ようやく、この時が来たんだ……ここまで来るのに六ヶ月も掛かってしまったよ」
真っ白な世界で、黒い影が恍惚として叫ぶ。ようやくだ、と。これでおしまいだと。その言葉に、俺はどう返したら良いのか分からなくなってしまった。なんだ、このバックストーリーは。このゲームは、そうやって生まれたのか?
そんなものが、果たしてゲームだなんて言えるのか?
情報の波に飲まれる俺に、鏑木は仰々しく両手を広げて言った。
「彼女の誕生日が近いんだ。僕は毎年必ず祝うと言った。でも、このままじゃ祝うことなんて出来ない。だから――このゲームが必要だった」
「……こんなもの、ゲームじゃないな……」
「ああ、そうとも。君も理解してくれたか」
これはゲームじゃない。壮大で、長大で、情けない……たった一つの質問箱だったんだ。ワールドボスがこの世の空虚さを嘆く気持ちもわかる。破滅が訴えたこの世界の無意味さが、俺にもはっきりと理解できた。
震える俺の前で、鏑木が世界の疑問を紐解いていく。
「君たち魔物プレイヤーはずっと思ってきただろう。どうしてこんなにも不平等なのか、と。どうして話すことが出来ないのだろうと」
「……」
「そもそも、魔物プレイヤーこそがこのゲームで一番大切な役割だったんだ」
魔物が、一番大事?あれだけの扱いでか?そう言うと、鏑木は笑いながら言った。あれだけの扱いだからだよ、と。
「人と魔物はいがみ合う。争い、殺し合う。言葉が通じない、それどころか種族が違う。触れあうなんてもっての他だ」
「……まさか」
「そのまさか、だ。僕はこの世界でずっと探していたんだ。言葉が通じない、いがみ合う二つの中で――それでも、言葉を伝えようとする存在を」
考えてみてくれ、と鏑木は言った。
「言葉が通じない中で、争っている中で……それでも伝え合えるのなら――それこそが僕の求める答えじゃないか?目が見えず、耳も聞こえない彼女に言葉を伝えるのと、殆どそれは変わらない」
「だから、魔物に異常なほど厳しかったのか。イベントも、システムも」
「君たちに力なんて要らない。そもそも、戦う必要が無いんだ。これは、戦うゲームじゃない。長い長い答え探しだ。それをまんまと邪魔してくれたあいつには心底腹が立ったけど……もういいんだ」
だって、君が居るからね。黒い影の瞳が、俺の瞳を見透かした。闇よりも深い深淵に、確かに喜色が浮かんでいるのが見える。
ここまで言われれば、もう分からないとは言えない。この世界の真実に、弱々しい男の目的を知れば……それが何だとは言えないのだ。
さぁ、と鏑木は言った。
「答え合わせだ。きっちり教えるよ。これが最後に教える言葉だ。この世界の、僕の目標である『variant rhetoric』というのは」
この瞬間を待っていたとばかりに、弾んだ声で鏑木は言った。
「
「……それを答えろっていうんだな?」
「君は今さら断ったりしないだろう?」
ああ、断ったりはしないさ。そんな事は出来ない。俺は鏑木の過去のような大それた話をされてもどうにも出来ない。出来ないけれど、目の前の一人を救うことくらいは出来るつもりだ。
静かに鏑木の目を見つめる。俺の様子を見て、鏑木は満足げに頷いて、最後にこう聞いた。ずっとずっと抱えてきた質問を、答えられない難問を。
「ライチ……僕に教えてくれないか?僕は、どうすればいい?『variant rhetoric』を……もっと違う伝え方を、僕に教えてくれよ」
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