最終章 君へ捧ぐ

第133話 終わりを告げる一日が始まる

 暗い部屋の中で、男の声が響いた。その声は震えていて、歓喜に満ち溢れているようにすら聞こえる。


「そんな……馬鹿な」


 ああ、と男は――鏑木柊は声を漏らした。目の前の画面では、朗らかに笑う彼の最高傑作……厭世のアドニス・レトリックが映っていた。アドニスは、ほとんど鏑木と変わらない精神構造をしている。天才たる彼が産み出した、渾身の写し身。

 アドニスは、記憶を消した鏑木とも言っていいほどの完成度だ。それを……それを、目の前の彼は鎮めてみせた。笑わせてみせた。


 もう一度明日を生きる希望を、アドニスに与えたのだ。それはまさしく鏑木の求めるすべてで、答えだった。いつしか忘れて、見限った筈のプレイヤー。確か……名前は、『ライチ』と言っただろうか。

 それが、自分のコピーを打ち倒した。彼はそれだけに留まらず、ワールドクエストをクリアするのに必須なスピカの救出を成し遂げ、更には甘い恋慕の感情すら浮かばせている。


 破滅に世界への憎悪を濁らせ、不滅に前に進むことを決意させた。紅い月を乗り越え、この世界でも有数のユニークNPCであるロード・トラヴィスタナと深い繋がりがある。彼の道のりを探る度、ログに目を通す度、鏑木は嗚呼と声を漏らした。


「嘘だ……いや……」


 見れば見るほど、知れば知るほど……ああ、完璧だ。認めるしかない。欠点など無い。間違いなど無い。その生きざまに触れるだけで確信するのだ。


「認めるしかない……ああ、認めよう。アドニスが認めたように、君を。君は……確かに僕の求める物を持っている」


 それがどんな色なのか分からない。分からないからこそ求めてきた。その先で……ああ、君のような人間に出会えるなんて。鏑木は歓喜に心を震わせた。


「君は『variant rhetoric』を持っている。後はそれを自覚して、僕に教えてくれるだけでいい。そうだ、教えてくれ……僕には、分からないんだ」


 一瞬、鏑木の脳裏に美しい映像が映る。それはきっと、全てが完璧だった……壊れる前の、最後の記憶。


 白い光をバックに、白衣を着た『彼女』がふらりとこちらに振り返って、肩までの茶髪を揺らす。そして、思わず太陽が微笑むような、最高の笑みを咲き誇らせた。


『ささっ、次は何処に行く? 私はシュウ君と一緒なら何処だって楽しいよっ!』


「僕は――」


 君の、隣がいい。そう思っていた。けれど、そのときはどうにも恥ずかしくて言えなくて……。


『はぁ? 何言ってるんだよ君は……えーっと、そうだな……その、最近出来たケーキ屋にでも……』


『行く行く!うわぁ、私ケーキ大好きなんだよねっ!というか甘いもの大好き!』


『そ、そんなにがっつくなよ……』


 笑う彼女の美しさに心を奪われて、そんな甘酸っぱさが気恥ずかしくて目を逸らした。


「……」


 眩いばかりの光は、いつの間にか消えていた。思い出は、所詮過去でしかない。そうだ、結局過去だ。……もう、二度と戻れはしないのだ。暗い部屋の中で、暗い影が伸ばされて……空回りした。伸ばした先には誰も居ない。誰一人。だから――


「だから僕は……君に会わなきゃいけない」


 ライチ。都合がいい事を言っている自覚はある。けれど、そんなことなどもう気にしていられない。小さな事を考えるような時間も、余裕も僕には無いんだ。鏑木は静かに呼吸をした。そして、ゆっくりと部屋の中を歩き回り、最新型のヘッドギアを床から拾い上げた。


「……まさか、これを使う日が来るなんてね」


 ヘッドギアにセットされているのは、彼の産み出したゲームである『variant rhetoric』。鏑木はヘッドギアに幾つかのケーブルを繋いで、コンピューターからデータを送り込む。ヘッドギアを改造するのは違法だが、知ったことではない。

 データの海で埃を被っていたリソースが形を成してゲームに流れ込む。


 数分後、データの改竄が終わったヘッドギアを抱えた鏑木は、最後にもう一度ライチの姿を見た。


「……もう、疲れたんだ」


 考えるのも、足掻くのも、苦しむのも。もう飽き飽きで、疲れてしまった。


「だから」


 だから。


「僕に、教えてくれないか?」


 君の、『variant rhetoric』を。

 暗い部屋で、一人の男の意識が電脳に飛び立った。



 ――――――――――



 聞きなれたアラームの音で目を覚ます。ほんの少しだけ残った眠気に瞼を擦った。それとなく窓の外を見つめれば、いつもと変わらない世界が広がっていた。どれだけゲームの中で何が起きようと、現実世界に何か影響が届くことはない。

 鳥は朝日に歌を囀ずるし、名前の無い風は行く先も考えずに寒さを運んでくる。時間は進み、誰の言うことも聞こうとしない。


「……冬だなぁ」


 このゲームを始めた頃は秋真っ只中といった感じであったのに、今ではすっかり冬の景色をがやってきている。窓から見える葉を落とした樹木に、どこか感慨深い気持ちが沸き上がってきた。

 季節も巡ってきたな。年末は近いし、クリスマスも……また晴人と男臭いクリスマスを迎えて咽び泣くのか……。今年のクリスマスプレゼントは何にしようか。勿論、母さん達に買ってあげる物だ。いつも世話になっているからな。


「……」


 そんな軽い思考たちが素早く俺の頭の中を駆け抜けていって、最後に重い色を含んだ問題だけが俺の隣に佇んだ。


「『Variant rhetoric』」


 このゲームのタイトルで、最終目標……そして、俺が持っているらしい、鏑木を救う鍵。それが何なのか、俺にはわからない。分からないけれど……ああ、分からないなりにどうにかしなくてはいけないのだろう。

 下の階から俺を呼ぶ母さんの声が聞こえる。多分、俺が寝ぼけて二度寝をしゃれこもうとしていると思っているのだろう。起きてるよー、と返事をしてゆっくりとベッドから出た。それだけで、来るべき最後の瞬間へのカウントダウンが始まったような気がする。


 そんな不安にも似た焦燥感を、頭を振って振り払い、朝の支度を始めた。



 家を出ると、やはり寒い。防寒具を着けてきて大正解だ。けれども、指先や足先は寒さが防御を貫通して随分と寒い。そこを暖めるには動かすしかないので、手を擦り足先を靴の中でうにうにと動かしながら通学路を歩いた。

 人の少ないコンクリートの道を踏みしめながら、そっとポケットからスマホを取り出す。歩きスマホは良くないぞ、と心の中で真面目くさった自分が目敏く注意してくるが、今日ばかりは許してくれ。


 スマホの電源を入れてから、少しだけ考える。掲示板を開くか、それとも……。昨夜、堕落が目覚めたらしいということは通知で知っていた。それと同時にレグルとテラロッサが向かい合ったということも。

 あの双子は、恐らく俺などには計れない深い事情があって分かたれているのだろう。堕落もきっと、果しない時の中を封じ込められていたはずだ。そんな彼らが動きだし、向かい合い、進んでいく。


 世界を産み出した鏑木という男の破片たちは、前に進もうとしているのだ。唯一その主である鏑木こそが、過去に囚われているとアドニスは語った。

 左手の手袋を外し、スマホの画面を操作して――『variant rhetoric』と検索した。出てくるのは『VR』の公式サイトやスレッド、攻略WIKIに攻略ブログ。


 スマホの画面をスクロールし、それらを流し見した。そしてスマホから目線を上げて道の安全を確認すると、検索した『variant rhetoric』からrhetoricを除いてもう一度検索する。


「Variant……形容詞で『異なる、別の』……」


 今度はvariantを抜いて検索してみる。


「Rhetoric……『修辞学、説得力、巧言』……」


 その二つが組合わさると、一体どんな意味になるのだろう。異なる修辞学?別の説得力?そのままくっつけてしまっては、なんだか変に感じる。異なる修辞学を探せ、とは何だかばっとしない。

 そういえば、ゲームを始めた時にキャラメイクで本があったな。その中に書かれていた唯一の言葉が、『お願いだ、見つけてくれ……Variant rhetoricを』だったな。


 今なら分かる。その一言はきっと、鏑木という男の切実な心の内の一言だったのだろう。張り裂けそうな気持ちを、情動を、たった一行に纏めたのだろう。だからこそ、分からない。それが何なのか。どうして俺がそれを手に入れられたのか。

 考えても考えても、答えは出てこない。遂には学校の前まで結論は出ず、俺にしては珍しく先生に注意を貰ってしまった。何だか少しだけ気分が落ち込む。


「考えても……分かるわけないかぁ」


 ヒントも何もない。いきなり言い渡された予習範囲外の問題を解けるわけがない。……どちらにせよ、その答えは今夜に言い渡されるのだ。教室の扉を開けると、どうしてか少しだけ騒がしい。その原因は、いつもゲームの話題で盛り上がっている男子たちのようだ。

 心の中で首を傾げながらも、それに意識を割いている余裕もなく、いつも通り自席についた。


「一体なんなんだろうな……あいつ」


「勝てねえわ、あんなもん。運営に抗議入れてもいいんじゃね?」


「ワールドボスとかいっていきなり出てこられても困るわ……」


「NPCの慌て具合半端じゃなかったな」


「戦闘始まった瞬間にレベルダウンは無理」


「間違いねぇわ」


「王都はまず終わっただろうな」


 ワールドボス、王都、レベルダウンという特殊すぎる攻撃……それが指し示すのは、十中八九ワールドボス『堕落』であろう。晴人が予感していたのは、配下ですら国を幾つも滅ぼす堕落の気配だったのだ。しかし、王都にそんな化け物が眠っていたなんて……足元に爆弾が埋まっていると知ったら、人は普段通りの生活など覚束無いだろう。

 きっと怯えて何もできない。直ぐにでも逃げようとする。それを隠して、危険を抱える意味は何だ?


 ついでに現在の王都の様子が知りたい。今の俺のアバターはアドニスの居る広い海と空の真っ只中だが、知っておいて損は無いだろう。情報を求めて、いつも通り推理小説を開く。本の中で、探偵は確かに犯人を指差していた。これを読み進めれば、直ぐにでも騒がしい足音が鳴って、教室の扉が控えめに開けられる。


 そうして晴人がいつものにやけ面で挨拶をしてくるのだ。


 してくる……筈なのだ。だが、幾ら待っても彼は来ない。少し読めば来ると思っていたが、それでも来ない。晴人を待って、話を読み進める。探偵は鮮やかにトリックの種を解き明かしていく。矛盾を砕いていく。ユーモアを交えつつも鮮烈に、そして苛烈に殺人という罪を犯した犯人を糾弾した。自分と同じく身体的な障害を持った被害者を殺すなんて……しかもそれが、自分の身内なんて。


 探偵は悲しげに首を振った。これだけ綿密に計画を立てて、そんなに彼女を殺したかったのか、と。そうして探偵は鋭く決め台詞を言った。


『貴女が見えていなかったのは目だけではない。きっと――心もだ』


 きっと貴女は羨ましかったんだ。自分は目が見えない。それと似て耳が聞こえなかった身内が幸せを掴むことが、堪らなく憎かった。他人の幸せを許せなかった。それが、貴女の罪だ。


 その場に居た全員は、目の見えない犯人を見て悲鳴を上げた。あるものは侮蔑の視線を向け、あるものは力強く罵り、あるものは冷たい怒りを込めて拒絶した。

 人の幸せを奪った女は、同じく自分の幸せをも失う。実に因果な結果だ。

 罵られ、嘲られ、拒絶され、殺人の罪を犯した女は――




 されど朗らかに笑って、言った。


『目が見えていないと言うのは、きっと貴方達のような方々の事を言うのでしょうね』




 その一文に目が釘付けになり、思わず目を見開いた瞬間に、突き放すような予鈴が鳴った。同時に教室のドアが開いて、先生が入っている。周りを見渡しても、晴人の姿はない。呼名が始まる。一人一人の名前が確認されていくなか、晴人の時だけは返事がなかった。そうして先生は欠席の理由を聞いている奴は? と聞いた。が、俺は全く知らない。


 メールも何も届いていないし、前日に何かを聞いたというわけではない。さっぱりだ。誰も反応をしないことを確認した先生は、ふぅむ、と一つ声を上げて手元の名簿に空欄を打ち込んだ。

 それからホームルームが終わり、授業が始まる。時間が進み、一限、二限と過ぎていく。



 けれどこの日、晴人が学校に姿を見せることは――遂に無かった。

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