第126話 世界のベールが捲れる時

 ひたすらに、南へと進路を切る。メラルテンバルは全速力で銀翼を動かし、景色が後ろへと流れていった。何度か見た景色を通り過ぎて広い平原に出ると、そこには始まりの街『ロドリオン』がある。

 ただ前に見たときと違うのは、その街から黒い煙が吹き出している点だ。更に広々とした草原には幾らか黒い影があり、幾人ものプレイヤーが武器を構えてそれに向かい合っていた。


「本当に……世界中を襲ってるんだな」


『……さっきの会話を聞いて分かったけど、彼らにきっと悪気は無いんだろうね』


 煙を吹く街を遠目に見て独り言を呟いた俺に、メラルテンバルが呟いた。その青い瞳は思慮深く細められており、深い思考の海を泳いでいることは明瞭だった。

 確かに、厭世の青達に悪意は無い筈だ。いきなり生み出され、創造主に『街を襲え』と命令されたのなら、そうしないわけが無いだろう。それを責めるのは、生まれたばかりの赤子の行動に文句を言うのと同じくらい理不尽だと思う。


『彼らもきっと、苦しんでいるんだ。何かを探していて、その答えを君が持っている』


「……」


『ライチ。僕にはそれがなんだかわからないよ。けどね、確かな事がひとつあるんだ』


 メラルテンバルは翼で強く空気を押し退けた。ぐんと体が後ろに引っ張られ、風邪の音色が煩く鳴る。少々の間を置いて、メラルテンバルは言った。


『この世界は、確かに変わりつつある。大きな流れが僕たちを包んでいて、厭世も不滅も何もかもを入り混ぜた渦が大きく広がっている。……その中心に居るのは、きっと君だよ』


「……俺は、自分をそんな大それた奴だとは思えないよ」


 ほんの少しの弱音を吐いた。俺にはあまり自信がない。自覚もない。恋の一つにこんなにも頭を悩ませる高校生が、世界だ厭世だという大渦の真ん中に居るのだ。やれるだけのことはやるし、俺は俺らしく楽しむつもりだ。だけど、やはり少しだけ……心配というか、不安なのだ。

 ここに来てもなお不安を捨てきれない俺に、メラルテンバルが鼻に掛かった笑い声を上げた。


『はっ、君はまだそんなことを思っていたのかい?相変わらず謙虚というか、卑屈というか……ロード様と似ているよ。美徳であって欠点だ』


「……生来のもんでな、上手く美徳としておきたいんだが……」


『いいかい、ライチ。君は、君が思っているよりずっと立派だ。君が思っているより強くて、賢く、優しい。認められるかは別として、それは僕の主観を通した事実なんだ』


 なかなかに恥ずかしいことをさらりと言ってのけるメラルテンバルに、僅かながら顔に熱が集まるのを感じた。言葉に詰まる俺に、メラルテンバルが畳み掛けてくる。


『どこに困っている女の子の為に死神に立ち向かう男が居る?たった一人の【お願い】の為に紅い月を乗り越える騎士が居る?』


「……」


『僕はね、これまではこの二文字が嘘臭くて大嫌いだったけれど――君のことを、英雄のようだと……そう思っているよ』


 いい加減一般人ぶるのは止めたらどうだ?と言外に伝えるように、メラルテンバルは言った。英雄……英雄か。俺にはどうにも堅苦しくて、眩しい響きだ。背負っていられる自信がない。けれど……賢者の弟子であった白竜がそう言うのなら――厭世を救おうと、そう決意するのなら。


 それならば、今だけでも……英雄として振る舞ってもいいのかもしれない。


「……やっぱり恥ずかしいな。でも、やれるだけやるよ。勇気を出してみる」


『そう来なくっちゃね。さあ、行くよ。一人の男を救うために、大切な女の子の為に、白竜に跨がって世界を救いに行こうか』


「中々に中々な事を言っている自覚はあるか?」


『英雄譚に誇大表現は付き物さ。叙情は付いてくるものだと思った方がいいよ』


 俺が文句を言う前に、メラルテンバルが更に速度を上げる。最早何だかんだで空の上も慣れてしまった。もしかしたら絶叫系も大丈夫になっているかもしれないな。よい方面で進歩した自分の成長を噛み締めつつ、強くメラルテンバルの背中にしがみついた。



 ――――――――――――



 誰も居ない海。ひたすらに青い世界を、メラルテンバルと共に進んでいく。二度目ならばそれほど怖がるものなど無い。前回は夜だと言うことも重なって、どうにも怖かったのだ。

 低空飛行で海に波紋を生みながら、メラルテンバルは進む。進んで、進んで……そして、ある一線から海に波が立たなくなった。詰まる所、特殊なエリアに侵入したということだ。


「メラルテンバル」


『分かったよ』


 メラルテンバルが飛行をやめる。ここまで来ればアドニスまでの距離はそうそう無い。硬い海面にさざ波を浮かべながら、メラルテンバルの背中から降りた。アドニスが居るであろう南に視線を向けていると、メラルテンバルが俺に小さく声を掛ける。


『ライチ』


「ん?どうした?」


『僕は、ここに残るよ』


「……」


 何故だ、とかどうしてとかは言わない。俺にも理由は分かっているから。メラルテンバルが俺に付いてくる意味はない。彼へ答えを提示できるのは、きっと俺だけだ。それに対してアドニスがどういった行動を取るのかは分からないが、きっと深く込み入った話になる。

 そこに傍観者を入れることはあってはならない筈だ。ここまで連れてきてくれたメラルテンバルに深く礼をして、だだっ広い海面を進んだ。


 どこを見ても青だけで、自分が一歩進んだことすら認識しづらい。ひたすらに鏡合わせになった景色の中を歩んだ。


 しばらく進むと、遠くに大きな人影が見える。アドニスかと思ったが、どうにもその人影の形は歪で大きい。違和感を感じながら、それでもその人影に近づいて――思わず息を飲んだ。


「……君か」


「……アドニス、その姿は……」


「うん?あぁ、前に会ったときよりも随分と変わっているか。でも所詮、中身は僕だ。誰かが変わってくれればどれほどよかったか……」


 はあ、とため息を吐くアドニスの姿は、はっきり言って人外そのものだった。片腕が異常なほど黒く肥大化し、結晶化しているようにすら見える。その黒の結晶化は彼の胸元を通って顔の半分を覆い尽くし、黒の表面には幾つもの瞳が蠢いていた。

 そんな化け物のような姿になっても尚、アドニスの心に変化は訪れていなかったようだ。


 作り替えられた体を気にもとめず、いつもと変わらず空を見つめている。黒と青に変化した瞳は前に見たときと変化なく空っぽでガラスのようだ。たたずむ姿、言葉、瞳。そのすべてが彼を彼たらしめていた

 言葉の出ない俺を差し置いて、アドニスはさて、と俺に向き直った。


「君は、何をしに来たんだ」


 変わらない空、変わらない彼。生きる意味も価値も知らずに、体の変化にも無関心だ。いっそ白々しさすら感じるほどの言葉に、ようやく俺は自分を取り戻した。

 深呼吸の一つで全身の血液が素早く循環して、鼓動が速くなる。一瞬、臆病な自分が顔を出そうとして消えた。


 勇気をかき集めろ。今の俺は……誰かにとっての英雄だ。


「俺はな――お前を、助けに来たんだ。アドニス・レトリック」


 唯でさえ空虚なこの場所に、静寂が顔を出した。耳が痛くなりそうな程の静けさの中、アドニスは無表情を俺に向けて――無表情のまま、嘲りを含めた笑い声を上げはじめた。


「はははは! 僕を、君が? 冗談はよしてくれよ。はは、助ける……助けるだなんて」


「……」


「僕は君みたいに思い上がった無知な人間に救われる程僕は弱くないし、救えるほど弱ってもいない。馬鹿にしないでくれよ」


 心底馬鹿にしたような無表情で、アドニスは俺を蔑んだ。無駄だと、無知だと散々な言葉を吐いて、アルカイックに大笑いした。いつもだったら怯んでいたかもしれない。ほんの少しだけ怖がって、苛立ったかもしれない。けれど、今は違うのだ。


 俺は知ったから。アドニスが誰かに操られていることを。

 俺は見たから。粗雑なコピーだとしても、彼の心の奥底に潜む闇を。


 それならば、震えることも怯むことも無くていい。彼のこういった全てをくるんで――俺は、彼を助けるんだ。

 笑うアドニスに向かって大きく一歩踏み込んで、半分壊れた顔にある二つの瞳をじっと見つめて言った。


「それでも、俺はお前を助けるよ。なんと言われようと、弱かろうと、お前を助ける。知ってるだろ? 俺が馬鹿みたいに誰かを助けずにはいられないって」


「……そういうのを、思い上がってるって言うんだ」


 彼は憎々しげにそう言った。けれども、その顔にはもう嘲りは浮かんでおらず、いつもの無表情をしていた。

 巨大な腕の瞳を瞬きさせながら、アドニスは強い口調で言う。


「君に僕は救えない。絶対、絶対だ。君に僕が理解できて堪るものか。この世界の意味も知らないくせにさ」


「……なら、教えてくれよ」


 余りにも強い口調にそう言い返すと、アドニスは少しの逡巡の後に吐き捨てるようにこう言った。


「ああ、良いよ。君もそろそろ知るときだろう。こんな世界、無意味だって。僕が……僕たちがどれだけ汚れてるかってね」


「……」


 アドニスはいつの間にか荒くなっていた吐息を整えて、俺を一睨みした後にゆっくりと俺に背中を向けて何もない空を見つめた。それから少しの時間を置いて、彼はゆっくりと語り出す。何故にこれだけ自分が苦しんでいるのか、世界が無意味なのかということを。


「長い説明は無いよ。簡単な事だからね。簡単で単純で……最低だ」


「……」


「僕たちワールドボスは――たった一人の男の感情で出来ている。僕たちが言う『彼』の、どうしようもない感情の塊……それが、僕たちなんだ」


 感情……それも、たった一人の人間から彼らが生まれたのか? ますます『彼』への謎が深まる。それが誰なのか、敵なのか。けれどもそんな疑問よりアドニスの話の方が、この場では遥かに大切だった。


「この世界を壊してしまいたいという思い、あの過去に戻りたいという思い。誰もが自分より不幸になればいいという思い。それでも、諦められないという思い。……そして、純粋な厭世だ」


 僕はとりわけ完璧に作られたみたいでね、お陰で最悪だったよ。空虚な笑い声を上げてアドニスは言った。


「『彼』はとある出来事で心を狂わせていた。その黒い感情の塊から生まれたのが……僕たちワールドボスだ」


「……一人の男の厭世が、お前の存在の元なんだな」


「そうさ。信じられるか? ある日突然生み出されて、何もわからないなりに必死に生きてみれば……お前は完璧な器だなんて言われ、お前は私の分身に過ぎないなんて言われるんだ」


「……」


「僕の苦しみも、悲しみも……この世界のすべても全部、彼の心の闇から出来ている。何一つ、明るいものなんて無いよ。無駄なんだ。当たり前だろう? 食材がそもそも腐ってるんだ。それでどれだけ腕を振るおうと、できる料理は腐っているのが当たり前だよ」


 大きく鼻を鳴らして、アドニスは続ける。


「だから、全部無駄なんだ。僕は何者でもない。結局感情の欠片で、コピーで、考えや一つとっても『彼』の複製だ。僕は……アドニス・レトリックなんて存在は、この世界に存在していないのと同じなんだよ」


「……」


「破滅も、不滅も、郷愁も、堕落も……この世界自体が、ちっぽけな一人の男の情けない感情の上に立っている。素晴らしいバックボーンも、冒険の果てに見る秘宝もない。僕たちは……この世界はそんなものの為に作られた訳じゃないから」


 だから、とアドニスは言ってこちらに振り返る。荒れた言葉とは裏腹に、彼の顔には一分の歪みもない。嘲るような様子こそあれ、それはいつもの無表情の延長線だ。

 これだけ悲痛に叫んでいるのに、苦しんでいるのに、彼はそれでも操り人形だった。どう足掻こうと、結局は無意味だと知った男は、変わらない無表情で言葉を吐く。


 どろりとした怒りを、先の見えない悲しみを。……そして、堪らないほどの、厭世を。


「君に僕が救えて堪るものか。理解できて堪るものか。この何千年もの孤独が、それをもたらした最低な存在理由がもたらした苦痛の一片でも君は理解できないだろう?」


「……」


「なあ、分かるわけが無いだろう? 何もかもが偽物だって、そう思うことですら計算されたもので……怒りに惑うこの言葉だって、何もかも誰かの思い通り、操り人形で動く気分が。何千年も、最低な誰かの真似をさせられ続ける気分が」


 一瞬だけ、ほんの一瞬、アドニスの無表情が崩れたような気がしたが、それはすぐに元の形相に戻り、変わらぬ言葉を続けた。


「僕がどれだけ苦しんでも、考えても、意味はない。それは僕の感情じゃない。僕に感情はない。僕なんて存在しない。

僕は……僕は、空っぽなんだ。最低限、生きていくために必要な物が何一つ無いんだ。」


「……俺には、お前の気持ちは分からないよ」


 俺の言葉を聞いたアドニスは、俺をきつく睨み付ける。分かってやれる気がしない。そんな大それた悲しみを、俺は背負ったことなんてない。一緒にそれを背負えるだけの器量も、俺には無いのだ。

 ――でも、それでも……。


「だから、君は僕を救えない。救えないよ。僕は誰よりも『救えない』存在だから。そういう風に創られた、中身の無い人形でしかないから」


「……それでも、俺はお前を救うよ。アドニス、お前が何者で無くたって構わない。お前を理解できないのは悔しいけど、それでも俺は、俺に出来る全部で――お前に向き合いたい」


「……」


「俺と、話をしてくれないか? アドニス」


「……馬鹿馬鹿しい。いつまでヒーロー気取りなんだ」


 散々に厭世を吐き散らしたアドニスは、俺の言葉に火にでも触れたような顔をした。俺は彼の苦しみを一分だって理解してはやれないけれど、それでも見ていられないから。

 アドニスは肥大化した腕を痙攣させて、言った。


「もう、どうだっていいんだよ。君も、彼も、世界も、命令も……僕だってもうどうでもいい。散々考えてきたんだ。どうなったら、僕はこの苦しみから断たれるのかって」


「……」


「考えた先で見つけたさ。簡単な話だよ……全部――壊してしまえばいいんだ。こんな下らないオモチャみたいな世界、あっても僕が苦しいだけだ。だから、全部壊す。何もかも壊して、いっそ全部白紙に戻すんだ」


「それこそ、本当に無意味なんじゃないのか?」


 諭すようにそう語りかけてみるが、アドニスの心には響かなかったようだ。無意味とか、無意味じゃないとか、これはもうそういった話じゃないんだよ、とアドニスは言った。


「どうせ世界は無駄なんだ。無価値で、救えない。誰もがいがみ合っているし、生きる価値なんて見いだせない。腐った世界で何を思おうと、君も僕も等しく『無』だ。だから、消してしまうだけなんだよ。世界を、全部を……僕を苦しめる全部を、これから消してしまえば――それで僕は、ようやく解放される」


 これは彼にも命令なんてされてない、僕だけの感情だ。自分に言い聞かせるようにそう言って、異形の腕を戦闘態勢に構えた。その瞬間、リミッターが外れたみたいにアドニスの表情が動いて、狂気を孕んだ笑顔になった。  


「その邪魔をするなら――誰だって、消す」


「……そうはさせない。俺がさせない。この世界には……ああ、思い入れがあるんだ」


 沢山の思い入れと、思い出が。思い返すほどに瞬き、眩しい……宝石よりも価値のある繋がりがある。瞳を閉じずとも、それはありありと俺の胸の奥から溢れだし、俺の体に力をくれた。

 ゆっくりと、俺も銀の盾を構える。だが、本気で戦うつもりはない。


「だから、俺はお前を止める」


「止める? この期に及んで『止める』のかい? 冗談もここまでくると笑えないよ。いい加減悟ったらどうだい? 世界は無意味だ。君の気持ちも、きっと無価値だよ」


「それなら、本当に無価値なのか……確かめてみるといいさ」


 それから、言葉は無くなった。ひたすらに青い世界で空っぽの人形と銀の英雄が、世界を賭けた戦い話し合いを……始める。

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