第六章 厭世に捧ぐ
第120話 その気持ちは真か
ピピピ!
ピピピ!
ピピ――
騒々しいアラームの音色で目が覚めた。体に染み付いた反射が、瞳を開けることなくアラームを止める。
「……あぁ……きっつ……」
全身がダルい。頭も痛い。とにかく体調は最悪だ。疲労、心労、睡眠不足、長時間のダイブ。考えうるすべての原因が纏めて襲い掛かってきており、体が動く動かない以前に瞼が開かない。目を覚ました瞬間に飛び込んでくる全ての情報が騒がしく、頭を掻き乱す。
「……これは無理だな……無理」
こんなグロッキーではとてもでは無いが学校になど行けない。行ったところで確実に眠って意味を為さない。今日は学校を休もう。……理由はゲームのしすぎという情けなさてんこ盛りな物だが、無理なものは無理だ。
次からはもう少し自重しよう、と固く心に決めて、リビングに居るであろう母さんを呼んだ。
出来れば歩いて行きたかったが、階段で確実に倒れる。ひやひやしながら母さんに体調がすこぶる悪いと伝えると、母さんは何も言わずにじっと俺の目を見た。
「……」
「……えーと?」
「……ゲームのし過ぎだけが理由じゃないみたいね」
「……」
どきりとした。そうだ、この体調不良には疲れたのと別の理由がある。俺は昨日、眠れなかった。あれだけ疲れていても眠れなかった。理由は単純だ。スピカとロード、星の姫と悠久の死神との関わりが、俺の心を深く揺さぶったからだ。
あれだけの出来事があって、脳死で眠れるわけがない。ゲームからログアウトすると同時に、俺は自分が涙を流しているのを知った。
ダイブした後の所謂脱け殻な体が心に共鳴して、世界を越えて涙を流していた。ヘッドギアを外した瞬間には、首もとまで涙が溢れていて、潤んだ瞳で夜空を見上げてしまった。
都会の空はくすんでいて、星なんてそうそう見つからない。けれども、そんな空のなかでも一際煌めく星が俺の心を揺さぶった。
それと同時に、鎧の唇に触れた柔らかな感触も蘇ってくる。顔を赤らめながらこちらを見つめるロードが見える。心が、どうにかなりそうだった。俺は所詮、高校生だ。死神と一戦を交えることもなければ、破滅に向かい合うこともない。
このままきっと、普通に生きていく普通の高校生だ。それが……それがあんな体験をしてしまったのだ。決して相容れない
思春期の柔らかい心には、どうにもそれは刺激が強すぎた。
寝るにも寝れず、起きるにも起きれず。夢と現実の境界を綱渡りして、そうしていつの間にか朝になっていた。
それを知ってか知らずか、母さんは小さく頷いて俺に背中を向けた。
「学校には連絡しておくから、寝てなさい」
「……ごめんなさい」
「謝ることは無いわ。貴重な体験をしたなら、それは学校の勉強よりもきっと役に立つから」
一体何を言っているのだろう、と思いつつ首をかしげるような体力は持ち合わせていない。取り敢えず重すぎる瞼を下ろして、与えられた休みを睡眠に費やした。
―――――――
カラスの鳴き声で目が覚める。瞳はきちんと開き、体のだるさも引いていた。唯一頭だけがまだ重いが、そう簡単に完治はしないだろう。ゆっくりと体を起こして、うーんと凝り固まった全身を解す。関節が幾つか鳴って、年寄りみたいな声が出た。
「……今は何時だ?」
体の調子を確かめながらデジタル時計の時刻を見ると……嘘だろ?17時?慌てて窓の外を見てみると、最早夕暮れに近い光景が広がっていた。
「マジかよ……めっちゃ寝たな」
自分の行動に心底驚いていると、扉が三度ノックされて母さんが部屋に入ってきた。体調は大丈夫?と聞かれたので大丈夫だと答える。これだけ寝れば体調など瞬時に回復するだろう。
「にしてもこんなに寝るって……まあ、それだけ体が弱ってたのかな?」
「……慎二」
「ん?どうしたの?母さん」
驚きをそのまま口に出してみると、母さんは神妙に俺の名前を呼んだ。そして、ゆっくりと俺の寝転がるベッドに腰かける。妙に距離が近く、普段と全く違う様子の母さんに思わず目が丸くなった。
驚く俺を不安にさせないために、母さんが微笑みを浮かべながら布団を軽く擦る。相変わらず珍しい母さんを見つめていると、母さんはベッドの上の俺を見つめ返してこう言った。
「あなたの為になるかは保証できないけど、慎二に私の昔の話をしてあげるわ。私がどうやってあの人と結婚したのか」
「え?」
「まあ、参考程度に聞き流してくれていいわよ」
母さんは一言で言えば寡黙だ。あまり家庭でも話すことは無いし、昔話なんて殆ど聞いたことがない。けれども、俺は母さんを冷たい人だなんて思ったことは一度もなかった。毎朝父さんの頬にキスをして送り出すのを見るし、仕事で遅くなっても手料理をきちんと残してくれている。
よく見ればくすりと笑っている顔は見えるし、冗談は嫌いではない。それに、メールでのやり取りでは可愛い顔文字を使っている。
母さんはメールでの会話で齟齬を起こさない為だと言っているが、それにしては妙に顔文字のバリエーションが多いが。
最近のお気に入りは『(*´ー`*)』らしい。よく使っているのを見かける。
そんな母さんが話す父さんとの馴れ初め……気にならない筈がなかった。息を潜めて話す態勢を整えると、そんなに気構えることじゃないわ、と軽く笑いながら、母さんは昔話を語り始めた。
「父さんと初めて出会ったのはね、大学生の頃よ。同級生に誘われて飲みの席についたけど、本当ならすぐにでも帰りたい位だったわ。別に、異性にそんなに興味は無かったから」
「……」
「その席でね、向かい側に座ってたのがあの人なのよ。第一印象はね……正直に言うと『頼りない』ね」
「おぉう……」
確かに父さんは頼りない。猫背で隈がとれないし、いつも大体疲れた顔をしている。母さんや俺と話しているときは楽しそうに笑っているが、それ以外は本当になよっとしたサラリーマンだ。
そのときの父さんを思い出したのか、母さんは苦笑いを浮かべた。
「出来もしないテニスのサークルに入った結果、あちこちが絆創膏まみれでね。おまけにずっと困ったみたいな笑顔をしてて、変な人だって思ったわ」
「なんだか想像に難しくない……」
「実際に話してみたら、やっぱり頼りなかったわ。話す話題をずっと探してて……悪い意味で記憶に残ったわね」
それから何事もなくその席は解散して、母さんは大学を卒業し、看護師になった。毎日激務に追われる中、対応した患者の中に父さんが居たのだと言う。
「過労で病院に運ばれたあの人の顔を見た瞬間、何年も前の顔と重なったわ。いつも困ってて、変に体がボロボロで、今度は隈までセットよ」
「全く感動しない再会だ……」
「どうしてか分からないけど、あの人も私の事を覚えてたみたいで、私の顔を見た瞬間ビックリしてたわ」
あの人は本当に変な人でね、と母さんはため息混じりに続ける。
「いつも必ず何処かを怪我してるのよ。病院の中でも転んでギプスを嵌めたって、聞いた時は唖然としたわね」
「刑務所の中で殺人するみたいな」
「例えが悪いけどそんな感じね。訳が分からないわよ。かといって縛っておくわけにもいかないし……それで、私は彼に付き添いで看護したわ。放っておくと直ぐに怪我をして帰ってくるもの。病院も手を焼くわよ」
勿論、その時には特別な気持ちなんて無かったわ、と母さんは言う。
「ただ、どうしてもあの人は放っておけなくてね……純粋に心配なだけだったのよ。この人、そのうち病院の中で死ぬんじゃないかって。一応顔見知りな訳だし、死なれたら気分が悪いじゃない?だから、丸一日彼に付き添ったわ」
聞けば聞くほど、俺の記憶の中の父さんが苦笑いをする。そういう体質と言うべきなのだろうか……にしても、怪我を呼び寄せるとは凄まじい。
意識を母さんに戻すと、母さんは呆れたようなため息をつきながら、言った。
「丸一日付き添って、その日の最後にあの人は何て言ったと思う?」
「ありがとうとか?」
「いいえ。『凄い、今日はどこも怪我してないぞ!』よ。心底呆れたわね。……それと一緒に、この人は私が見てないと駄目だわって思ったの。それから毎日あの人に付き添ったわ」
あるときは階段で転げ落ちそうなところを助け、あるときは自動ドアに挟まれてもがいているところを救出した。そうして過ごしていった病院の日々の最後に、父さんは母さんにこう言った。
『貴女がずっと側に居てくれたお陰で、すっかり体が元気だよ。……これからもずっと、貴女が一緒にいてくれたらなぁ』
「その言葉に、ため息を吐いて『仕方無いわね』って返したら……あの人驚きすぎて首を捻挫して……本当にどうしようもない人だって思って、久しぶりに笑っちゃったわ。怪我で笑うなんて不謹慎だけどね」
それから紆余曲折を経てここに来たのよ、と母さんは言った。
「確か、プロポーズの言葉は……『君無しじゃ生きていけないんだ』よ。ええ、勿論笑っちゃったわ。何を言ってるの、この人って思って……指輪を受け取ったわよ。放って置いたら本当に死んじゃうもの。それに……あの人はあの人で、一生懸命に頑張ってるんだって付き合ってみて分かったから――本当にいつの間にか、好きになってたわね」
話を切って、母さんは柔らかい笑顔で俺を見た。
「私は、あの人を選んで後悔したことなんて一度も無いわ。だって私、あの人が好きだもの。あの人と結ばれて、あなたを産んで、何一つ間違いも後悔も無い人生って言い切れるわ」
だからね、慎二、と母さんは俺の手に優しく触れた。夕日を受けてなお笑う母さんは、何十歳も若返ったみたいに朗らかに笑った。
「あなたも、あなたの好きなようにしなさい。好きなように好きになって、好きな人を好きになりなさい。大丈夫。あなたはあの人と私の子供よ。あなたが好きになった子なら、きっとあなたにとっての正解だから」
「……母さん」
「あらあら……もうこんな時間。お夕飯を炊かなくちゃね」
わざとらしく声をあげて、母さんは俺の部屋を後にした。取り残された部屋で一人、扉を見つめ、窓から差す斜陽を見つめた。母さんの言葉の残響が、まだ鼓膜に浅く残っている。
瞬きの内にそれは耳から頭へ、心へと染み渡り、積もっていた心のおりを取り払ったのを感じた。
「……好きなように、か」
相変わらず母さんはエスパーだと小さく思いつつ、先程の言葉を反芻した。誰かを好きになる、というのは複雑なように見えて、実は単純なのかもしれない。放っておけないとか、大切だと思うとか、きっとそんな単純な気持ちを誰かへ一心に向けられることが、『好き』という事なのだろう。
それなら、俺はロードを好いているということになる。今更だが、大事な事なのだ。俺はロードを大切だと思っているし、一心に『守りたい』と思っている。手にしたことの無いこの思いにラベルを貼るとすれば、それは確かに『好き』なのだろう。
それが分かっただけで、どうにも吹っ切れたような気分になって、重いからだを動かしてベッドから出た。そして、台所の母さんを手伝うために部屋の扉を開ける。
「料理なら任せろ……火の信奉者の実力を発揮してやる」
小さく自分の言葉に笑って、部屋から出た。まどろっこしく俺にまとわりついていた悩みは、いつの間にか消えていた。
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