第119話 番外編:わたしにとって、あなたが。

 ライチに背を向けて飛び立った空の上。真っ暗な夜の空で、スピカ・レトリックはライチの為に空で微笑んでいた。彼女が視線を動かすと、優しい星たちが敢えて何も言わずに黙々と光っていた。

 スピカはそれが嬉しくて堪らない。だって今慰めの一つでも掛けられようものなら、すぐに涙を流してしまうだろうから。


「……スピカは、泣かないよ。うん、だってスピカは星のお姫様だから……」


 星の光は陰らない。星たちの姫であるスピカの煌めきが消えかけることなど、あってはならないのだ。そうやって自分の心を締め付けて、遠い空から世界を見下ろしていても……スピカの心は苦しくて、堪らなかった。

 元気な筈の笑顔は引き裂かれるような色を含み、赤と青の瞳は確かに潤んでいた。


「スピカは、諦めるって決めたもん……決めた……決めたのに……」


 ――どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。


 自分を鼓舞する筈の言葉は、直ぐに色を変え矛先を変え、スピカ自身に牙を剥いていた。こんなことなら、彼を好きにならなければと、無理矢理な空想を浮かべようとして……スピカはそれを取り下げた。何故なら――


「そんなの……無理だよ」


 彼を好きにならない自分が想像できない。だってそうだ。あんなに強くて優しくて、欠点なんてほとんど無いような人が……遠い遠い世界の果てから自分だけを助けに来てくれたんだから。

 スピカ・レトリックは思い返す。彼を……彼女にとっての王子様を初めて見た時の事を。空の上で思い返す。



 ライチを見つける少し前、スピカは狂おしいまでの郷愁に押し潰されそうだった。帰りたいという想いだけがひたすらに募って、手も触れられない世界の美しさに嫉妬すら覚えていた。百年近い監禁は、幼い少女の心を蝕むには十分すぎたのだ。


 来る日も来る日も、ひたすらに同じ日々の延長線。変わらない世界、壊れた空と対象的な外をありありと見せつける意地悪なシャボン玉。

 そこでの毎日が、スピカにとっては拷問だった。見える景色に意味はなく、聞こえる音など何一つ無い。人の声は聞こえない。笑い声などもう何十年も発していない。


 たった一人で狂った世界に押し込められて……このまま孤独に消えていってしまうのだろうか、とスピカは考えた。それを考える度に、外への欲望は増していく。いつか見た彼らの笑顔を、もう一度……もう一度でいいから見たい。


 けれども、世界は残酷だった。何度逃げようとも、あのドラゴンが邪魔をする。拷問の日々は終わらない。きっとその拷問に終わりは無い。自分の人格が擦りきれて、気が狂っても終わらない。

 もう、もういっそ――世界なんて全部……。


 地面に座り込んで、世界への憎悪を花開かせようとした……そんなスピカの目の前に、ふわりとシャボン玉が現れる。

 今にも崩れそうで、壊れそうだったスピカにとって外の景色など毒でしかない。死んだ瞳でシャボン玉を外に払おうとした……その時だった。僅かにシャボン玉が景色を映す。


 それはズタボロで、瀕死で、今にも朽ち果ててしまいそうな――一人の騎士だった。そんな騎士は、それでも前を向いていた。鎧はひしゃげ、パーツを継ぎ接ぎにされていて、それでも隠しきれないダメージが体の節々に満ちていた。


 それでも、その騎士は膝を折らなかった。それでも、その騎士は盾を構えた。まだ終わらないと、ひたすらに生にしがみついていた。見るものが見れば、それはひたすらに醜い足掻き。無駄なもがきだと見られてもおかしくはなかった。

 けれど、その騎士のひたすらな足掻きを……スピカは美しいと思った。格好いいとさえ思った。


 騎士はひたすらに打ちのめされて、それでも前を向く。それでも、立ち上がる。見れば相手は遥かに格上の存在だった。勝てる可能性など、微塵も無かった。なのに騎士は折れない。曲がらない。朽ち果てない。


 その姿を見たスピカの心に、遠い昔の思い出の欠片が甦った。眠れないとぐずるスピカに、母が読んでくれた簡単なお伽噺話。


 竜に拐われた姫を、心優しい王子が助けに行く。そんな単純な物語だった。よく言えば王道で、悪く言えば捻りがない。けれども幼いスピカにとってそのお伽噺は、確かな灯火になっていたのだ。本を読み終わった母が、スピカのおでこに軽くキスをして……そのあとに交わされた言葉を、スピカは今でも覚えている。


『ねえ、お母様ー。いつかスピカにも王子様は来てくれるの?』


『……ええ、勿論。いつか貴女にも、素敵な王子さまがやって来てくれるわ。貴女を助けてくれる、そんな人が』


『本当!?本当の本当に?』


『うふふ……ええ、本当よ。きっと――王子様は現れるわ』


 スピカはその言葉をずっと嘘だと思っていた。王子様なんて居ない。誰も自分を助けてくれない。そう、思っていた。なのにどうしてか……ひたすらに立ち上がる騎士を見て、スピカはこう呟いてしまったのだ。


「……王子様……」


 自分は何を……とその言葉を取り下げようとしたが、その単語はどうしてもスピカの中でピタリとはまっていて、考えれば考えるほどそうだと思えた。

 その日スピカは、醜く生き足掻き、倒れ、それでも立ち上がる騎士のことを――王子様みたいだと、そう思った。


 きっと、彼なら諦めないから。倒れないから。どれだけ苦しもうと……ああ、きっと――彼ならボロボロになりながらも、にこやかに笑って自分を連れ出してくれるんじゃないかとスピカは思ったのだ。



 それからはあっという間の日々だった。何とかシャボン玉の群れを掻き分けて、ひたすらに彼が映るシャボン玉を探した。彼を一目見たくて、退屈で孤独なこの世界でも、彼を見ていれば辛くは無かった。

 その笑う姿を見る度に、傷つきながらも立ち上がる不屈を目の当たりにする度に、スピカはライチの虜になった。


 シャボン玉を探して怪我をしたこともある。けれども、彼の行く先をどうしても見たくて……彼を見ている時は、自分が彼の隣に居るような気がして、スピカはひたすらに毎日を過ごした。


 彼がオルゲスやレオニダスを打ち倒した時には手を叩いて喜び、月紅を乗り越えた時には思わず声をあげて跳び跳ねた。

 ダンジョンでの奮闘に興奮をし、彼が必死にリエゾンの髪留めを探している姿には涙すらこぼれた。


 見れば見るほど、惹かれていった。壊れた世界も、彼を見ていれば完璧な劇場のように思われた。その所作に見惚れ、その在り方に心が揺れる。

 ああ、そうだ。きっと何時からかも知れぬときから、スピカ・レトリックは――ライチに恋をしていたのだ。


 自分がシャボン玉の向こうの王子様に恋をしていることを、スピカは段々と自覚し始めていた。そんな初々しい恋の芽が、大輪を咲かせることは――無かった。


 いつものようにシャボン玉を見つけて、それを部屋に持ち帰って覗き見る。今日は本当に素晴らしい日だった、とスピカは興奮冷めやらない内にシャボン玉を覗いて――銀の月の元でライチの唇が動くのを読み取った。


 シャボン玉からは音は聞こえない。だから、王子様と一緒にいる相手の会話は分からないのだ。ライチは星の一族になる可能性を含んだ種族であるため、鎧を挟んでいてもぼんやりと言葉は伝わる。そんな彼の唇がこう言ったのだ。


『す、き、だ』


 それを見た瞬間、スピカは自分の中の何かが弾けてしまうのを感じた。それは愛だとか、恋だとか……そういった名前の物、全部だ。


 王子様には、もう好きな人が居る。それなら、自分は何者だ?顔も声も姿も見せず、遠くからただ片想いをし続けている……そんな不気味な子供だ。

 スピカ・レトリックはライチの事が好きだ。堪らないくらい、好きだ。


 けれども、彼女が想いを寄せる王子様は……彼女以外へ想いを寄せていた。


 それが、どれだけ彼女を絶望させるに足るのか、きっと誰も分からない。ただ一人で百年近くを過ごし、気が狂う寸前で見つけた一点の光が……彼女の王子様が、彼女へ背中を向けて去っていく。


 ――お願い、嘘だって言って……ねぇ、本当に……お願いだから……。


 けれども、吐いた言葉に偽りは無かった。彼女がどれだけ彼を想おうと……意味など無いのだ。その瞬間から、ライチは彼女の『王子様』では無くなってしまった。


 ならばもう、いっそ忘れてしまえ。もうどうだっていい。自分なんて所詮……そうやって彼の事を忘れようとした。今までずっと一人だったんだ。もう一度一人に戻っても……きっと大丈夫だ。

 大丈夫だと――そう思っていた。


 なのに……なのに……!


『スピカ。多分君は今、俺の事を見つめてるんだと思う』


「……うん、そうだよ」


『俺には君が何処に居るか分からないし、君が誰なのかも分からない。声だって聞いたことが無いんだ』


「……そうだね」


『でも、安心していてほしい。俺は、きっと君を見つけ出す』


「……えっ?」


『俺が世界中を駆け回って、君を見つけるよ。そして――』


「や、止めて……それ以上言ったら……止めてよ……そんなにスピカに笑いかけないで……」


『俺は君を、連れ出すよ』


「……そんなに言われたら、スピカは……!」


『君を連れ出して、きっとあの空に連れ帰る。だから、安心して待っていてくれ。俺は……絶対に君を見つけるよ』


「また、貴方を好きに――好きになっちゃうよ……!」


 忘れようって思っても、貴方をどうしても忘れられない。遠くで見て満足していたのに、こんなに笑いかけられたら……また、期待してしまう。


「貴方は王子様じゃないのに、それでもスピカを助けようとしてくれるの?」


 シャボン玉の中の王子様は、銀の竜に跨がって……自分を助けるために必死に前に進んでいる。自分を連れ出してくれると、そう約束してくれた。


「そんなの……ズルいよ……」


 シャボン玉の映像が切れた。玉虫色のシャボン玉が、用は済んだとばかりに飛び去っていく。残されたスピカは、ライチの言葉を思い出して、思わず涙が溢れそうになった。


 まるで、ずっとずっと昔のお伽噺話みたいだと、スピカは思った。拐われた姫を、心優しい王子が助けに行く。……彼が自分の王子でないこと位は知っている。でも、それでも……スピカはライチを諦めきれなかった。どうしてもその心のなかで燃える恋の炎を消すことが出来なかった。

 それどころかそれは更に熱く滾り、身をよじり、深く心の奥で光を放っていた。



 結果として、ライチはスピカを救い出した。お伽噺話のように、鮮烈に、華やかに。ボロボロになりながら世界を渡ってスピカの手を取り、竜狩りの果てに自分の手を引いてくれた。

 それら一つ一つがどうしようもなくスピカの心を掴んでは、優しく抱き締めてくれる。


「……あんなことされて、好きにならない訳が無いもん……」


 空の上で、スピカが呟く。それと同時に、自分が行ってきた小さなワガママが脳裏によぎる。


「久しぶりに誰かと隣を歩いたとき、ライチが辛そうにシャボン玉を避けてるのを知ってたけど、それでも貴方と話したくて……うん、デートみたいだねなんて言っちゃったよ」


 他にも、外の世界に出てからライチの手をとって墓地へ向かうとき……スピカは出来るだけスピードを落としていた。もう少しだけ手を握っていたくて、このお伽噺が終わってしまうのが堪らなく怖くなった。夢のような時間が、本当に文字通り夢のように終わっていく。


 勇気を振り絞って告げた「愛してる」も、「大好きも」何もかもが彼には届かなかった。それがほんの少し――いや、嘘だ。真っ赤な嘘だ。本当は心が張り裂けるほど悔しくて、もっと前から彼に会いたかったと思った。

 彼は優しい。泣いている自分を見れば、きっと同情してしまう。また助けようとしてくれる。だから、嘘をつき続けた。泣き崩れそうな心を縫い止めて、ひたすらに彼へ笑った。我慢しきれない涙が溢れても、それでも彼に笑った。


 それが、彼へのお礼だと思ったから。


 本当なら、離れたくなど無かった。ずっとずっと一緒に居たかった。でも、彼が他の誰かを好きなのは知っている。彼が幸せなら……ああ、それでいい。

 暗い空で、スピカ・レトリックは涙を流して……それでも笑った。彼を照らすために、見上げられた自分がいつも笑っているようだと感じてほしくて。彼の記憶の中の自分はずっと笑っていたはずだから。 


 朗らかな笑顔を、大粒の涙が伝っていく。それらは空へ落ちていくと尾を引いて、いくつもの流れ星になった。それを見つめながら、スピカは小さく呟く。


「もしも……お星さまに願いをかけるなら――王子様にずっと、笑っていて欲しいな」


 願い込めた流れ星が縦横無尽に空を切る。消えることなどないと言わんばかりに煌めいて、ひたすらに空へ爪痕を残した。


「ねえ、王子様……」


 スピカは遠い遠い大地を見つめた。もしかしたら自分を見上げているかもしれない誰かを。そして、行き場のない感情を、言わなかった想いを……涙と共に溢した。


「スピカにとってね、王子様が……ライチが、スピカの星だったんだよ」


 見上げた空に見える優しげな星。いつも自分の行く先を照らしてくれる。ああ、そうだ。貴方はきっと、私の星だったんだ。スピカは地上に星を見た。忘れられないほど鮮明に輝く……銀色の一等星を。


 ずっとずっと遠くで笑う星。壊れた世界でも、それは変わらずに美しかった。


「だからね、今度はスピカが王子様の星になりたいんだ。王子様に貰った光を、全部返せるように……」


 故に郷愁は、空の上で泣きながら笑った。掻き乱された心の奥と裏腹に、浮かべる笑顔は澄み渡って朗らかだ。それはきっと、星を見ているから。彼女にとって何よりの、地上の星を……見ているから。



 ――遠い空の果てで、貴方を想います。勝手に想います。そうして夜空を照らすから、あなたの星になるから……遠い空に私が居ることを――どうか、忘れないでいて。



 ……それはきっと……星を跨いで、世界を跨いで紡がれた、世界最大級の『I Love you』の話。

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