第113話 Beyond the sky

 最早俺達の間に言葉は要らなかった。この世界にたった二人で手を取り合って、目指す先はたった一つ。


 あの場所へ、遠き彼方――空へ。


 果てしない高度も、世界の壁も、何もかもを飛び越えて……ああ、星空に向かおう。こぼれ落ちた乙女座の『スピカ』を、元の位置に帰してやるんだ。


 スピカは俺の本体の左手を握りながら、ポロポロと涙を溢して笑っていた。そうだ、涙は嬉しいときに流すべきだ。悲しくて溢れる涙なんて見たくはない。スピカの手を握りながら、ステータスを確認する。

 ……取り敢えずHPとMPは全快だな。鎧に多少傷がついてしまっていたが、十分使えるレベルだ。空いた右手を軽く握りしめたり開いたりして、スピカに声を掛けた。


「スピカ。帰り道は分かるか?一応俺が通った道が帰り道だと思うんだが……」


 あまり道を覚えている自信はない。後半からは完全に泡の数が跳ね上がって、前すら見えない状況が続いていたからな。あまりにも危険すぎる帰りの道以外にも、何か帰り道があれば助かるのだが……。

 俺の言葉にスピカは涙を拭いて考えるようにオッドアイを動かした。


「うーん……分からないよ。ごめんね……いつも出ようとしても『あれ』が邪魔をしちゃうし」


「『あれ』?」


 スピカ失踪の真相は分かった。『あの子』の言葉によってスピカは自分からこの世界に入ったのだ。だが、スピカがここから出ようとする可能性は十二分にある。実際そうなっていたし。けれども、スピカが外へ出ることは無かった。俺が通ってきた道は確かに危険だが、ワールドボスのスピカなら無理やり突破をすることは不可能ではないはずだ。


 それを邪魔する存在が居る、と。


「えーっとね、大きなドラゴンさんだよ。走ってもすぐに追いつかれちゃうし、逃げられないの……」


「この世界にドラゴンが居るのか……ならどうして俺を追い払わなかったんだろうな。……クエストのレベルは間違いなく正確だし、これから先に絶対現れる筈なんだが」


 その『大きなドラゴンさん』が今回のクエストのボスだろう。ワールドボスであるスピカを閉じ込める地力に加えてこの異常なフィールド……難易度が果てしなく高い。正直あそこで戦闘しろなんて言われたら音速で首を横に振る。

 走り抜けようにも翼を持ったドラゴン相手では分が悪いだろう。


 まず火力が足りるか、何が弱点か、戦うべきなのか、戦うフィールドはどうするのか、最終的な展望……。考えられるだけ考える。予測は人間にもたらされた、最大の武器だからな。


 まずクエストの難易度が空白ではないことから、メルエス戦の時のようにロード……今回はスピカが主体で戦うことはまずない筈だ。だとすればもちろん戦うのは俺なんだが……無理だろう。確実にレベル35相当の戦いが訪れて、それを俺一人で解決するなんて無理にも程がある。

 が、レベル格上をクリアすることが不可能ではないことは月紅の時で明らかになっている。


 何か、ギミックがあると考えるのが適切だろう。泡をどうにかするとか、なんとか。一応シャボン玉についてスピカに訪ねてみたが、特に何も知らないらしい。


「これは戦闘で一発勝負な感じのクエストか……?」


「うぅ……スピカがもっと強かったらなぁ」


「……大丈夫だ。俺が何とかするよ。お姫様は後ろで笑っててくれればいいんだ」  


「はうぅ……わ、分かったよ!スピカはニコニコしてるね!」


 何だかスピカの心にクリーンヒットしたらしい。よく考えればまだ手を繋いだままだったな。……手を繋いだままさっきの台詞を言うって、中々とんでもない事じゃないか?俺的には気にしないでくれ、位のニュアンスだったが、スピカは白い頬を紅潮させながら激しく頷いていた。

 ……いちいち考えてたらこの先持たないな。いろいろな雑念を切り捨てて、スピカに一応の作戦を伝えてみる。


「取り敢えず俺の記憶に従いつつ、シャボン玉を避けて進んで……ドラゴンが出てきたら相手をするって感じで行こう。どうせ逃げても追い付かれるみたいだし」


「分かった!」


 スピカははっきりと頷いた。俺はドラゴン攻略の鍵が『泡』にあると考えている。何故なら相手も生物である以上、無差別的な酸のダメージを食らう筈だ。体が大きいドラゴンともなれば、アドニスの言う通り『大きな的』でしかない。

 泡の多い方面に誘い出しつつ、こちらは何とか避けて相手に酸をぶつける。これがここのギミックだと予想している。酸が効かないとかだったらもはや呆れる他あるまい。


 取り敢えずドラゴンが勝手に自爆してくれるまで耐久すればいいという話……であると嬉しい。


「この部屋に居ても外に出られる訳じゃないからな。……さあ、行こうか――外へ」


「うん!スピカをここから連れ出して!」


 そのフレーズをスピカから改めて言われると、何だか恥ずかしい気分になる。それにちょっとだけ苦笑いして、雑な黒の扉へと向き直った。

 流石に素手だと酸を被ったときのダメージが痛すぎるので、左手には籠手を装備し直したが、スピカの熱い希望で手は繋いでいる。本人は『部屋の外に出たら離すよ』と言っていたが、これから外に出るんだが……細かいことは気にしたら負けか。


 歪んだ銀のドアノブをゆっくりと回して、そっと開けた。僅かに開いた隙間から外を観察してみる。


 外の景色は相変わらずの世界に相変わらずの泡が何でもないように浮いている。つまり平常運転ってことだ。地面に酸の水溜まりの一つでも残っているんじゃないかと危惧していたが、あの酸は揮発性が高いようですぐに蒸発して影も形もない。

 宙に浮かぶシャボン玉は大中小と様々で、玉虫色に光っていた。


「……取り敢えず、大丈夫そうだな」


 安全を念入りに確認して、ゆっくりと扉から体を出した。遅れてスピカも外に出る。一応断りを入れてスピカから手を離した。流石に片手で盾を持っていると、それだけで重い。大分この重さというのに慣れては来たが、こんな場所でハンデを背負うことがどれだけ愚かなのか、知らないわけではない。


 扉周りには特に何もなく、空を見てもシャボン玉ばかりでドラゴンなど影も形もない。周りが安全だということが確認できて、小さく安堵の吐息がこぼれた。が、大変なのはこれからだ。


「うーん……見るだけで絶望できるな、この光景」


「王子様を見るためにこの中を歩いて回ってたから、スピカはそんなに怖くないなぁ」


 歩き回る……この中を?確かに俺に比べて遥かに小柄かつ生身のスピカならば、この中を歩くのは容易いかもしれない。というより俺の格好がこの場を歩くのに、これ以上無いと言えるほど最悪なのだ。大きな体格、小回りの利かない鎧に危ない盾。

 だが、これを脱ぐなんてとんでもない。あり得ないというか、最早選択肢の内に入らないのだ。


 表面が溶けた盾の装飾を銀の籠手の先でなぞってロードの事を考えていると、スピカが不思議そうに声を掛けてきた。


「どうしたの?王子様。やっぱり、まだ体が辛い?」


「いや、そうじゃないよ。ただ、そうだなぁ……この鎧をくれた人の事を考えてたんだ」


「そうなんだ。体が辛くないなら良かったよ」


 にかっ、と明るくスピカが笑った。スピカに心配を掛けてしまったか。いきなり立ち止まって盾を撫で出したら不審に思ってもしょうがないかもしれない。彼女を不安がらせるのは俺にとってもいい気分では無いので、気を付けよう。

 ……さて。


「ゆっくり行くか……感覚を取り戻さなきゃな」


 深く深呼吸をして、泡の海に体を投じた。取り戻すと言っても数十分前だが、細かいことはどうでもいい。体の動きに細心の注意を払って前に進む。泡に近づき過ぎると泡がその動きを止めて映像を見せ始めてしまうので、動けなくなってしまう。出来るだけ視界を切りつつ進まなくては。


 左右にぶれる視界の隅で、軽やかな動きのスピカが見えた。俺にとっては鬼畜過ぎることギミックも、彼女にとっては最早日常なのだ。きっと何年もここに居たであろうスピカの動きは洗練されており、それが俺にはとても悲しく感じた。


 スピカがニコニコと笑いながら俺に声を掛けてくる。


「スピカね、ここを誰かと歩くのは始めてなんだ。……何だかちょっとだけ、嬉しいな」


「そう、か……」


 だってさ、とスピカは続ける。彼女にとってここは殆ど危険のない場所なのだろうが、俺にはそうでもない。スピカの言葉に耳を傾けながら、何とかシャボン玉を避ける。だが、必死な俺の耳に続いて飛び込んだ言葉は、俺の体を強く縫い止めた。


「だって……王子様と歩いてるんだもん。嬉しくて嬉しくて……いつもここが嫌いだったのに、今じゃ――デートみたいっ」


 キャッ、と初々しい反応を見せたスピカに、俺は全身の動きを止めざるを得なかった。止まった俺の視線の先をシャボン玉が通過しようとして固まり、赤い月の浮く空を映してそそくさと行ってしまった。

 デート?……デートとか、初めてなんだが……初デートがこんなに危険で良いのだろうか?いろんな意味で忘れられない初体験になりかねない。


 例えるなら爆弾の解除をしながら、隣に居る彼女にキスをするタイミングを計る感じだ。一歩間違えば即死であるのに、雰囲気的にはもうキスをする流れなのだ。爆弾から目を逸らさないようにしつつ、唇だけ彼女に向けて汗を掻く……なんだこれは。訳がわからないぞ。


 だが、これはスピカにとっても初めてのデートなのだ。彼女は本当に久しぶりに誰かと出会って、笑って、手を触れ合って――久々に、誰かの隣を歩いているのだ。

 ならばその感情に、その記憶に泥を塗ることは……断じてあってはならない。


「スピカは、アルデバランを知ってるか?」


「あ!アルデバラン!お父さんと良くお話ししてたなぁ……スピカと遊んでもくれたよ。……懐かしいなぁ」


「いやぁ、アルデバランがこの話を頼んできてくれて……さっ!」


「そうなの?それなら帰ったら一杯ありがとうを言わないと……勿論、王子様にもね!」


「はは……楽しみにまっ、てっ、るよっ!」


 何とか会話を成立させつつ、シャボン玉を回避して前に進む。さながらスパイ映画のワンシーン……金庫の前に張り巡らされたレーザーの光を避けつつスピカとデートを演出する。俺的には確実にデートと言えたものではないが、それはこの際置いておこう。


 小耳に挟んだ星達の名前を出せば、スピカが楽しそうな声を上げてはしゃぐ。そんなことをしても一切シャボン玉に触れない辺り、本当に動きに無駄が無いな。どうにか真似出来ないかと見て盗もうとしたが、割と洒落にならないミスを発生させそうになって止めた。


 今の俺には三つの物が求められている。一つは一回のミスも許されない『正確さ』、二つはデートを演出する『クオリティ』、最後がそれら二つを兼ね備えつつ前に進む『スタミナ』だ。

 忘れがちだが、明日は平日だし今日は学校があった。現在時刻は完全に天辺を回っている。集中力も限界を完全に突破していた。

 それでも何とか力を振り絞って会話を続け、段々とシャボン玉の密度が薄くなっていく。


 よし、このままなら――一瞬の安堵を壊すように、音が聞こえた。


 ――パリン!


 二人して固まる。スピカがミスをするはずがない。ならば俺か……しかし、一向にダメージがやってこない。体にダメージを食らう感覚が無いことに困惑していると、また音が聞こえた。


 ――パリィン!


 今度はより高く、激しく。いつの間にか近くに居たスピカが、何かを思い出したように息を飲む。そして、音の方角にオッドアイを向けたまま、静かにこう呟いた。


「王子様……大きなドラゴンさんだよ……」


「ここでお出ましか……」


 いづれ来るとは分かっていた。分かってさえいれば怖くないのだ。さあ、姿を見せてみろ。ギミックを出してみな。俺の中の全部で打ち倒してやる。しっかりと盾を構えてドラゴンの居るとおぼしき方角に構える。

 同時に、周りのシャボン玉が一斉に動きを止めた。……来るか。


 ドラゴンがこっちに飛び込んでくる――ことはなかった。それより前に、シャボン玉が一斉に動き出す。音の鳴る方へ、吸い寄せられるように……ま、まさかブレスか!?ドラゴンが大きく息を吸って、シャボン玉をブレスにするつもりだと理解したが、体が動かない。固まっているのだ。


 敵の攻撃を受け止めるために力んだ姿勢からはそう易々と動けない。どうにかスピカだけでも……鎧の奥で歯を食い縛った俺の目の前で、泡達が集まっていく。集まって集まって集まって――


 ――何かを、形作っていく。


「なっ!?……おいおい、嘘だろ……?酸が利かないことはあるかもと思ってたけどさ……」


「王子様!あれが、大きいドラゴンさんだよ!気をつけて!」


 まさか……敵がそもそもシャボン玉で出来たドラゴンであるなんて、誰が予想できるんだ。スピカの言葉を証明するようにシャボン玉は嫌な音を立てて集まり、一つの大きな体を……虹色の龍の体を作り上げていく。


 嫌な音が止まったとき、そこには一匹の巨大なドラゴンが居た。それは空っぽの眼光をゆっくりと俺に向け、そしてスピカに向けた。煌めく鱗のすべては虹の泡。尖った牙も、眩しい翼も、全てが強酸を詰めた玉虫色のシャボン玉だ。


 ここに来て、完全に予想が破壊された。何が『シャボン玉を利用して云々』だ。相手がシャボン玉その物だぞ?完全に裏切られた予想に放心する俺へ、ゆっくりとドラゴンが口を開いて――ガラスが弾けるような、盛大な咆哮を放った。

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