第112話 お手を拝借
飛び込んだ部屋の中は相変わらずサイケデリックだが、見渡す限りはシャボン玉が無い。部屋といってもここはかなり広々としており、そんな部屋に一人で居たらしいスピカはきっと寂しかったに違いない。
通知に気をとられながら部屋の安全を確認する俺に対して、目の前のスピカは両手をワンピースの胸元に寄せてキラキラとした視線を俺に送っていた。その様子にどこからか既視感が顔を出す。深い記憶の倉庫から、同じくキラキラとした瞳で俺を見つめるセレスの記憶が引き出された。……うん、似てる。
俺に出会えた事がよほど嬉しいのか、スピカは機嫌良さそうに身体を揺らしながら明るく笑っていた。その姿を改めて観察してみる。
年は大体……うーん、13歳か14歳くらいか?ロードやレグルが少女然としているのに対して、スピカは完全に幼女と言っても差し支えのない見た目だ。もしや俺の年など関係の無いほどの年月を生きているのかもしれないが……いや、止めよう。女性に年齢の話をするのはタブーだというのが世界の常識だ。
母さんに年齢を尋ねる度に一瞬だけ殺意の眼差しが混じることを鑑みて、それは間違いないだろう。
長い白髪はツインテールに結われ、白いワンピースも相まって清楚な印象を受ける。にこりと笑う瞳の色は左右非対称で、赤と青の非常に珍しいものだった。オッドアイってやつか。
スピカのほっそりとした左腕には何やら二つの星をずらして重ねたような黒い刺青が入っており、ワールドボスであるテラロッサと同じような匂いを感じる。
スピカはぴょこぴょこと跳ねながら口を開いた。
「えっと、えっと……色々と言いたいことがあったのに、上手く喋れないよ……えーっとね、その……」
「大丈夫だ。俺は急いでないし、急かすつもりもないからゆっくり話してくれれば、それでいいよ。どちらにせよ、疲れて動くにも動けないからさ」
ははは、と笑うと同時に地面に尻餅を付く。やたら派手な音がなって、スピカが大慌てで俺に駆け寄った。流石に無理をし過ぎた。ステータスを開いてみれば、残りのHPは一割でMPは二割……本当の本当にギリギリだった。あと少し、ほんの少しでも扉が遠かったら、俺は間違いなくこの世界の酸の餌食になっていただろう。
「王子様!大丈夫……?痛い所はある?スピカが直してあげるよ」
「いや、大丈夫だ。鎧はあれだけど、体は休めば直ぐ治るよ。……それまでに、君の話が聞きたいな」
「だ、ダメだよ!えーっと……うぅ、あれを使っちゃうとあの子凄く怒っちゃうし……」
スピカは幼くも端正な顔を心配そうに歪めながら、俺の鎧を擦った。表面の装飾は溶けて潰れ、モロに強酸を被ってしまった肩は軽く歪んでいる。これだけで済んでいるのが逆に驚異的なレベルだが、スピカにとっては一大事らしくなんとか治せないかと溶けた部分を撫でてみたりしている。
流石にそれだけでは治せないらしく、うぅ、と眉を八の字にして困り果てていた。正直言うと真隣にしゃがみこんでいる彼女との距離はとてつもなく近く、鎧のあちこちを撫でるスピカの頭がとても近い。
ここに来て視点が兜の中に無いことが災いした。取り敢えず体はこのまま休ませておくとして、なんとか彼女を引き離さねば……流石に幼女にどぎまぎはしないが、その……なんというか、めちゃくちゃいい匂いがする。ミカンというかイチゴというか、そういった甘くて爽やかな匂いがスピカからはするのだ。そこだけは心臓にとても悪く、こっちまで慌ててきてしまう。
怪我を心配するスピカの白い手を傷付けないように優しく握って、語りかけた。
「君が話をしてくれたら、もしかしたら痛みが引くかも知れない……」
「本当に?……うん、分かったよ。スピカのお話で王子様が元気になってくれるなら、スピカは頑張る!」
決意を新たに俺の隣に膝をついたまま、スピカが自分の身の上を話そうとする。それとなーく距離を取ろうとしたが、同じくスピカがそれとなーく距離を詰めてきたのであきらめた。
「スピカはね、元々空の上に居たんだ。お父さんとお母さんはかっこよくて綺麗でね、王様と王女様なの。王子様も知ってると思うけど、スピカは星のお姫様なんだよ。でも皆、スピカに気遣いをしないで遊んでくれてね、皆が好きになったんだ」
今は亡き星の王と星の女王を思い出すスピカは、夜空の星を連想させる笑みを浮かべていた。しかし、その話が終わると同時にその笑顔を強ばらせ、なんとか作った笑顔で伏し目がちに言葉を続けた。
「でもね、スピカは『バグ』なんだって。あの子が何度も、何度もそう言ってくるの。アドニスだって、たまに遊びに行くと、舌打ちしちゃって相手をしてくれないんだ。……アイゲウスはスピカの話を聞いてくれないし……でも、レグルとテラロッサは優しいよ」
「……あの子って誰か聞いてもいいか?」
「……うぅん、ダメだよ。話そうとすると息が詰まってね、どうしても話せないの」
ワールドボス以外にも、誰か強い力を持った存在がこのゲームに居るのか?何しろワールドボスであるスピカに正面から『お前はバグだ』なんて言えるのは尋常ではない。もしかしたら、神聖国家が崇拝している至高神とやらなのかもしれないな……それにしては『あの子』という言い方が引っ掛かるが。
俺が話を聞いていることを目線で確かめたスピカが、暗いトーンのまま話を続けた。
「それでね、スピカはいつか立派な女王様になれるように、お勉強をいっぱいして、いっぱい笑って遊んでたんだけど……もういつか分からない位昔に、お父さんとお母さんが死んじゃって……スピカは無理矢理空から連れ出されちゃったんだ」
「……もしかして、『あの子』にか?」
「……うん。そうだよ」
スピカはなんとか明るく笑おうとしているが、その顔は笑顔には程遠く、曖昧な表情は苦笑いにも泣き顔にも似て見えた。スピカは本当なら泣きたい位辛いはずなのに、どうにか明るく語ろうとしている。それはきっと、その話を聞いているのが俺だからだろう。俺が暗い気分にならないように、きっと怪我が治るような明るい気持ちになってくれるように、スピカは無理矢理な笑顔で話を続けていた。
「スピカは危ないんだって。そのまま成長しちゃったら、アイゲウスよりも、レグルよりも怖くなっちゃうんだって。……皆を壊しちゃうかもしれないって、あの子に言われたの。スピカは本当なら逃げられたけど、皆を傷つけたくないんだもん……それでね、スピカはここに連れて来られたんだ」
「……」
「ここからは頑張っても出られなくて、お父さんとお母さんのお葬式にも出られなかったよ。その時はここのシャボン玉でそれを見ることも難しくてね……ちょっとだけ……泣いちゃったな」
あはは、とスピカは笑ったが、オッドアイの隅には確かな涙が浮かんでいた。それを無かったことにするように、スピカはさらりと白魚のような指先で涙を拭った。
「それから、ずっとここにいるよ。ずっと、外を見てる。最初は大丈夫だったんだ。これも皆のためだって、分かってた。でもね、何年も……何年もここに居ると、いつの間にか空が恋しくなって、皆の笑顔が恋しくなって……シャボン玉で皆の顔を見たらね――みんな、辛そうだったんだ」
星の王が消えてから、きっと長い年月……俺たちがゲームを始めた時にはアルデバラン達が空をなんとか統治していたのだろう。スピカを空からずっと探しつつ、空っぽの玉座に見守られながら星を間引いて来たのだろう。
しかし、それもいずれ限界が来る。破滅の砂漠で見上げた星の空があんなにも綺麗だったのは恐らく、抱えきれなくなった星で空が飽和していたからなのだろう。最高の夜空は、彼らにとってきっと絶望すべき限界の事態だったんだ。
スピカは最早泣き顔が八割を占め始めた表情で、何処か遠くを見つめていた。つられて俺もその方角へ視線を向けるが、そこには何もない。藍色の夜空も、銀の月も、灰色の雲だって欠片ほどもない。あるのは毒々しい発色の世界のみだ。
俺には何も見えない。何も。けれども、それを見つめるスピカの瞳の奥には、確かに星空が光っているように見えた。気の遠くなるような時間を、ひたすらに焦がれた空が、帰るべき家がそこには光っていた。さながらスノーボールのように、郷愁も望郷もすべてを詰め込んだ二色の瞳は当たり前のように美しく、どうにも見惚れてしまった。慌てて首を振る俺に、スピカが口を開く。
「ずっとずっと……ずっと、スピカは帰りたいと思ってた」
星空が煌めく青の瞳に、キラリと流れ星が一滴……尾を引いてこぼれ落ちた。
「帰りたいよ、あの空に。あの場所に帰りたい。ずっとずっと、そう思ってた。帰りたい……皆に、会いたい……」
そうやってシャボン玉から外を見て、外を見続けて……もうずっと長い時間が経っちゃったよ、とスピカは続けた。
「もう心が壊れちゃいそうで、泣きそうで、苦しくて……そんなときだよ」
俺は言葉が出なかった。……なんて、なんて声をかければ良いんだよ。そうか、とか、もしくはありがとうとかか?どうにも気が利いた言葉のひとつも出なくて、分かりやすく口をつぐんでしまった。
「スピカは見てたよ。何度も王子様を見るためにシャボン玉を探しに行って……怪我をしちゃった事があったり、色々あったけど王子様を見てたよ」
だから、知ってるの、とスピカは続けた。
「王子様がどれだけ優しくて、色んな事に巻き込まれてて、それでも全部解決しちゃう、本当の王子様みたいな人だって」
「……俺は……」
「スピカは知ってるよ。王子様が誰かの為に一生懸命になれるのを。王子様が友達を大切にするのを。王子様がたった一人でお友だちの為に砂漠を歩いてたのを。それに……スピカの為に、ここまで来てくれたのを知ってるよ」
喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。見てたのか。俺が歩いてきた軌跡を。ずっと遠くから、堪らないほどの郷愁の中で。それはきっと彼女にとっての灯火のようなもので、希望に近しいものだったのだろう。だから、言えない。
――俺は、王子様なんかじゃない……なんて。
言えるわけがないだろう?必死に暗闇でもがいて足掻いた彼女にとっての灯火が、虚像でしかないなんて絶対に言えない。だから飲み込んだ。
本当に王子様は優しいね、と呟いて、スピカが俺の兜の奥を見つめる。小さな唇から、はっきりとした言葉が飛び出した。
「だから、ライチは……スピカの王子様なんだよ。こんなところまで来てくれたから。独りぼっちのスピカを見つけてくれたから」
「……」
「えへへ……スピカの話はこれでおしまいっ!王子様の怪我は治った?」
「あ、あぁ……もう完璧だ。傷一つ無いよ。……スピカのお陰だ。ありがとうな」
「えへ、どういたしまして!」
白いツインテールを揺らして、スピカは笑った。その笑顔があまりにも眩しくて、同時にその笑みは俺の言葉ではどうあっても言い表せないくらい、長い時間を越えていた。
その時初めて、ロードの言葉が脳をよぎる。
『……えーと、相手のお姫様に……手を出しちゃ駄目ですよ?』
漸くその意味がきちんと分かった。ああ、分かったよ。こういう事だったんだな。ああ、大丈夫だ。忘れないよ、ロードの言葉は。
――忘れないからさ。
だから、どうか大目に見てほしいんだ。
ゆっくりと俺は立ち上がった。体の不調は既に抜けている。突然立ち上がった俺を、スピカが惚けたような顔をして見上げている。そんな彼女に向けて、俺は銀色の籠手を左腕だけ外して薄い灰色の手をスピカに差し出した。
そして、相変わらずにポカンとした様子のスピカに、出来るだけ威厳のある優しい声で……こう言った。
「俺の名前はライチ。遠い世界の果てから、連れ去りに来ました。約束通り――あなたを」
「……え?」
俺の言葉に、スピカが驚いたような声をあげ、徐々に言葉の意味を理解して……泣き出しそうな笑顔になった。苦しいような満面の笑みで、白い歯を見せてスピカは泣いた。
そんな彼女に、冗談めかしてこう言った。
「お手を拝借して宜しいですか?」
「……うん。うん……連れてって、スピカを――あの場所まで」
白い手を優しく包み込んで、俺はにっこりと笑った。そして、ゆっくりとスピカの手を引いて、その小さな体を起こした。スピカはオッドアイから大粒の涙を溢しながら、俺を見つめている。そんな彼女に、俺は大きく頷いた。
――俺は、王子様なんかじゃない。
――ロードの騎士だ。彼女だけの騎士だ。
――けれど、頼むから……この子の前でだけは、この子の王子様でいさせてくれ。
――きっと、最後に別れを告げる……その時までは。
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