ひとこころ
宮守 遥綺
母の焼酎
幕切れとは、思っているよりもずっと呆気ないものなのだと。
知ったのは、母の病室だった。
体のありとあらゆるところを壊しながらも、最後まで酒を飲み続けた母が死んだ時。
私は「やっと解放される」と思いこそすれ、悲しみなんぞ一ミリも感じなかった。
自分を育てた母親に対し、「何て冷たい」と世間は言うだろう。
個々の家庭の中のことなど、世間は見ようともしない。
自分たちが信じる理想の幸せに必要のないものを、彼らは無きものとする。
母が『アルコール依存症』と診断を受けたのは二年前の夏だ。
アパートの狭い窓の外では騒がしく蝉が鳴き、大きな綿雲が青い空の中で揺れていた。
五年前。父の死をきっかけに酒を飲み始めた母は、昼も夜も構わず酒を飲んだ挙げ句、血を吐いて倒れてなお酒を飲み続けた。
これはおかしいと思い、嫌がる母を無理やり精神科に引きずっていったのだ。
結果は、前述の通り。
しきりに入院を勧める医師の言葉を、母は突っぱねた。
その固い拒否に若い眼鏡の医師は入院させるのを諦め、その代わり月に二度の診察には必ず来るようにと母に約束させていた。
家に帰る道中、母はまた酒を買った。
いつもの安い焼酎だった。
「あれ、
母の葬式が終わって一週間。
二年前までは半同棲状態だった彼の家の冷蔵庫横に、見慣れた大型のペットボトルを見つけた。
四リットルで三千円弱の、安物の焼酎。
透明の液体で満たされたペットボトルに、少しだけ母を思い出してしまう。
「ああ、それ。この前友だちと宅飲みしたときに買いすぎたんだ。あったらまた今度飲めるし、置いてったんだ」
ソファに寝転がってスマホをいじりながら涼介が言った。
「ふーん」とそれへ返事をしながら、冷蔵庫から取り出した麦茶のパックに口をつけた。
コンビニで買ってきた安物の麦茶は冷やされすぎていて、冷たさばかりが鼻に抜ける。
喉を潤すと、今度は別の渇きがやって来る。
麦茶を冷蔵庫に戻し、テーブルの上のタバコとライターを手にベランダに出た。
さらりとまだ少し冷たい風が吹く。
夏にまだ届かない季節の夜は、寒い。
少し離れた繁華街の灯りが夜の中に、別世界のように浮いているのが見えた。
夢と策略と酒の匂いが混ざり合う場所。
父と母が出会った、場所。
「あれ」
咥えたタバコに火をつけようとして、ライターが切れていることに気付いた。
役目を終えたそれをパーカーのポケットにしまい込んで、一度咥えたタバコを指先で弄ぶ。 こうして静かな場所で、一人になって。
ただぼぅ、と遠い場所を見つめるのは何だか久しぶりのような気がする。
母が倒れて、病院に行って。
目を離すと酒を飲むから、一人の時間もなかなかとれなかった。
仕事に行って、帰ったら酔っ払った母の世話をして。
あっという間に、二年が過ぎて。
あっという間に、母は逝った。
死んだときには、清々した、と思っていたはずなのに、繁華街の騒々しい灯りに、思い出すのは母の顔ばかりだ。
酔っ払ったときの赤ら顔ではない。
まだ酒を飲んでいなかった頃の、優しくも逞しい母の顔。
『あんたは、ちゃんと勉強して、いい学校に行きなさいよ。お父さんの娘なんだから、やればできるはずなんだから』
『友だちが少ない? 別にいいじゃない、そんなもの。たくさんなんて必要ない。本当にあんたのことをわかってくれる人が、周りに少しいればいいじゃない』
『お母さんは、いつだってあんたの味方よ』
思い出というのは美化されるらしい。
思い出す母の顔が美しいばかりなのは、そのせいだろうか。
母は、高校を卒業してすぐから繁華街で働いていた女だった。
居酒屋で働いていたこともあれば、スナックやキャバクラで働いていたこともあったらしい。
それを聞いたのは、私が高校生になってからだった。
「お父さんとは、キャバクラで働いていたときに会ったの」
真面目で仕事一徹の父の姿しか知らなかった私には、何だか意外な話だった。
驚いた私の顔を見て、おかしそうに笑った母は羨ましくなるほど美しかった。
歳をとっても美しい女は珍しい。
「最初は先輩に連れてこられたのよ」
父との出会いを語る母の顔は輝いていた。
恋をする女は美しいと言うけれど、母は結婚してからもずっと、父に恋をし続けていたのだと思う。そうでなければ、あんなに幸せそうな顔でいられるはずがない。
本当に仲のよい夫婦だった。
父としても母としても、申し分の無い人たちだった。
だから母の最後の数年だけを取り上げて、「いなくなって清々した」と思ってしまう私はやはり冷たいのかもしれない。
それでも、やっぱり涙なんて出ては来ないし、悲しいという気持ちも沸いてはこない。
「何してんの」
ベランダに出てきた涼介が、タバコを持ったまま突っ立っている私を怪訝そうに見る。
そしてそのまま横に並ぶと、タバコを咥え、火をつけた。
薄い唇から吐き出された煙が静かに夜の空に昇っていく。
葬式の日、晴れた青空に昇っていった細い煙がそれに重なる。
「ん」
涼介の横顔をじっと見ていると、不意に彼がこちらを向いた。
咥えたタバコを示す。
手に持ったままだったタバコを咥え、そっとタバコの先同士でキスをした。
彼には、何も言わなくてもいつも何かが伝わってしまう。
それが厄介で……心地いい。
何も言わずにただ隣にいることは、ただそれだけなのになかなか難しい。
沈黙で話すことができる人間は、世の中にそう多くはないのだ。
肺に入った煙が渇きを癒やしてゆくのと感じながら、言葉にされない言葉を探す。
それは「きっと彼ならこう言うだろう」という想像でしかないけれど、どこか確信めいて私の中に染み込んだ。
「ねえ」
「ん」
「さっきの焼酎、飲んでもいい?」
煙を吐き出しながら言った私の言葉に、彼も同じように煙を吐きながら「別にいいよ」と言った。
普段は飲まない焼酎を飲みたいと言う、その訳すら彼は聞かない。
すべてをわかった上で、ただ「いいよ」という返事のみをする。
言葉通りの許しの奥に透ける、甘やかな慰めが、今はとても有り難い。
短くなったタバコを、ベランダの隅に置いてある小さな缶に投げ入れた。
水の入った缶の中で、ジュ、という終わりの音だけが小さく鳴った。
二人で家の中に入る。
食器籠からグラスを出した私の横にやってきて、彼が「俺も」とグラスを手にした。
右手にグラス。左手に焼酎のペットボトル。
涼介はリビングのテーブルに座って、無言でペットボトルを開けた。
私は冷蔵庫の中のミネラルウォーターを手に、彼の向かいに座る。
沈黙の宴会が始まった。
何に対する祝いでもない。
ただなんとなくグラスを合わせ、なんとなく水割りを煽った。
「……不味」
「そりゃ、お前はいつもジュースみたいなのしか飲まないからな」
きついアルコールの味に顔を顰めた私を見て、涼介がカラカラと笑った。
同じ水割りを飲んだ彼も、「やっぱハイボールの方がいいな」と呟く。
私も、いつもの果実酒の方がおいしいな、と無言で彼に同意した。
母はいつもこれを飲んでいた。
ほかの酒も売り場にはたくさん並んでいるのに、いつだってこの安い焼酎しか買わなかった。
なんで、こんな不味いものを……。
そう考えて、ふと思い出した。
母が酒を飲むようになる前から、この酒はいつもうちにあった。
そうだ。この酒は。
思い出すと、急に目頭が熱くなった。
まもなく、温かいものが頬を流れる。
そうだ、この酒は。
この酒を、いつも飲んでいたのは。
母の顔が次々に浮かんでは消えてゆく。
笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔……父を失ったときの、絶望の顔。
そして最後に残ったのは、焼酎を飲んで赤ら顔になった母の、寂しげな顔。
『
あのとき、母はそう言って何かを諦めたように笑った。
私はそれに「こんな飲んだくれになんて絶対にならない」と思ったけれど、母が本当に言いたかったのはそういうことではなかったのだと、今になって理解した。
酒を飲むとか飲まないとか、そんなことではない。
彼女が言いたかったのは、そんなちっぽけなことではない。
ひとりの人間に、人生のすべてを懸けたりするな。
自分で立って歩け。
自分を、守るために。
馬鹿な女だ、と思った。
救いようの無い、馬鹿な女だと。
ひとりの男に恋をし続け、その男を人生のすべてにしてしまった。
男が死んでからも、男の面影を追い続けて……そして自分を殺した。
そんな人間に、お前はなるなと。
母が言いたかったのは、そういうことだったのだろう。
無言で泣き出した私を見ても、涼介は何も言わなかった。
ただ何も言わず、驚きもせず、不味い焼酎の水割りを飲み続けていた。
まるで私がここで涙することを知っていたかのように。
そしてわざとらしく点いてもいないテレビの方を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……結婚しようか」
今、このタイミングでそれとは。
本当にふざけた男で……本当に、優しい男だ。
涙が止まらないにも関わらず、口角だけが上がってしまう。
答えなんて、決まっていた。
ひとつ小さく、うなずいた。
涼介は何も言わないが、グラスを傾ける彼の口角も上がっていた。
もう一度、母の言葉を思い出す。
『あんたは、あたしみたいになっちゃダメよ』
母の顔がまるで昨日会ったばかりのように鮮明に浮かぶ。
寂しげで、悲しげな母の顔。
私はそれに向かい、心の中で言ってやる。
私は、お母さんのように一人の人間にすべてを懸けたりはしない。
私は私として自分で立って歩いて行く。
だけど。
私もお母さんのように、ひとりをずっと想い続ける。
グラスに入ったままの水割りを煽る。
それはまるで母の人生の終幕のように、苦く苦く、口に残った。
了
ひとこころ 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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