第8話
「今日は泰葉ちゃん、ピアノの発表会らしいよ」
母がそんなことを教えてくれた。
今日は停学期間の最後の日だ。停学中なのだから出来るだけ外出はしない方が良いのだが。
「泰葉ちゃんもあなたに聴きにきて欲しいって。今までちゃんと自宅待機してたんだから気晴らしに行ってみたらどお?」
僕もずっと家に缶詰めで気が滅入っていたところだ。
お言葉に甘えて散歩がてらピアノの発表会に行ってみることにした。
場所は隣町の公園にある野外音楽堂。
青空のしたで子どもたちのピアノを楽しもう、という催しらしい。
僕は指輪をポケットに入れた。
台座の顔をちらっと見ると、無表情にこちらを見返している。
会場への道中、この指輪を拾った場所を通る。そこで指輪は捨てていくつもりだ。
こんな物、もういらない。
危うく僕の人生がめちゃくちゃにされるところだった。
これからはこの力に頼らずに生きていく。
会場へは徒歩で行くことにした。
自宅謹慎中は、特に外を出歩くような用事も無かったので運動不足気味だった。
小一時間ぐらい歩くことになるだろうが、それぐらいで調度良い。
僕は隣町まで続いている川の河川敷を、急ぐでも無くとぼとぼと歩いた。
しばらく歩いていると、前からガラの悪そうな格好をした、いかにも不良という感じの集団がこちらに向かってくる。
各々が手にバットやら木刀やらを握って僕を睨みつけてくる。
「おい、このあいだはよくもやってくれたな」
一番先頭の金髪ロン毛に鼻ピアスの男が開口一番凄んだ。
「なんの話だよ」
「とぼけんじゃねえ!駅前で俺の鼻を思いきり殴ってくれたろうが。おまけに財布まで持って行きやがって!」
よく見ると、そいつは僕が指輪を使って喧嘩に明け暮れていた時の犠牲者の1人だった。
つまりは仲間を連れて復讐しにやって来たのである。
だが、僕はもう喧嘩は御免だった。
振り返って逃げようとすると、後ろからも4人の男が迫ってきていた。
完全に囲まれた。謝れば許してもらえるだろうか、いやそんなわけはない。
なら、指輪を使うか。
ダメだ。僕はもうあの力は使わない。そう決めたばかりではないか。今日だってもう捨てるつもりで持ち歩いていたのだ。
僕はポケットの中をまさぐって指輪に触れた。
『なら、黙って殴られるのか?』
突然、頭の中に声が響いてきた。
まさかと思って指輪を取り出すと、台座の顔がニヤニヤと笑ってこちらを見ていた。
驚いて投げ捨てようと思った瞬間。
「どこにも逃げられねえぞ。ぶっ殺してやる!」
金髪鼻ピアスの男が懐からナイフを取り出して叫んだ。
冗談ではない。そんなものを使われたら怪我では済まされないではないか。
『ほら、ほら見てみろ。アイツはお前を殺すよ。きっと殺すよ。オレを使え。そうしなければ助からないよ』
僕は佐藤の腕を折ってしまった時の感触を思い出していた。
出来ない。もうあんな経験は御免だ。
「悪かった。謝るしお金は返すからナイフはしまってくれ」
僕はその場に土下座しようとして、手を地面につけた。
「ふざけんじゃねえ!」
金髪は僕の下げようとした頭を力一杯蹴り上げた。
ガンッという衝撃で目の奥に火花が散り、僕は草むらに転がり落ちた。
『無駄だよ。謝っても無駄無駄。お前をぼろ雑巾にしなきゃ、連中気が治まらないらしい。』
(黙れ。僕はもうお前は使わない。両親にも喧嘩はしないと約束した)
『お前が大ケガしたら、あまつさえ死んだなんてことになったら、お前の親は悲しむだろうな』
ギャハハと下卑た笑い声をあげながら不良たちが草むらを降りてくる。
(くそ!なめやがって)
『そうだ!お前が喧嘩で負けるなんてあり得ない』
(俺を誰だと思ってやがる)
『連中に分からせてやれ!』
僕は朦朧としながらも指輪を嵌めた。
世界が一瞬グニャリと歪み、時間の流れが淀み出す。
指輪の力は日ごとに強まっていたが、このとき世界はほとんど静止しているかのようだった。
だが胃の腑からマグマが噴火するように吹き出した怒りが、僕の脳みそまで駆け上がり思考力を燃やし尽くし、正常な判断が出来ない状態にしていた。
(俺が誰だか分からせてやる)
僕はにやけ面のまま固まっている、金髪の顔を思いきり殴り飛ばした。
『あ~あ、やっちゃった』
指輪が嘲るのと、拳が頬を捉えるのが同時だった。
金髪の頭は首から離れると近くの仲間の腹にぶつかって大穴を開けた。
(えっ?)
頭が真っ白だ。何が起こったんだ。頭が飛んだ?首から離れて…。
「うっうわああああ!」
口から絶叫が溢れてでた。人を殺してしまった。それも2人も!
『あはははは』
指輪が狂ったように笑っている。
(嘘だ嘘だ嘘だ)
僕は急いで指輪を外そうとした。だが指が固く詰まっていてなかなか取れない。
半ばパニックになりながら腕を振り回すと、周囲の空気が腕の動きでたわんで波のように広がって行く。
なんとか指輪を外した瞬間。
バーン!
凄まじい爆発音がして、目の前の不良たちが文字通り粉々になった。
周辺の建物の窓ガラスは割れて吹き飛び、辺りから沢山の悲鳴が聞こえた。
パラパラと肉片と血の雨が降る。
「ああっあああ!」
この悲鳴は僕の口から出ているのだろうか。
僕は遮二無二走った。
走ってひたすら逃げた。
あてもなくただただ足を動かした。
受け入れられない。目の前で起こったことを。自分のしでかしたことを。現実を。
「君、止まりなさい」
気が付くと隣にパトカーに呼び止められた。見回すと僕はまったく知らない場所にいた。
パトカーから2人組の警察官が降りてきて言った。
「いったい何があったんだ。血まみれじゃないか」
僕の服はさっき殺した不良たちの血で真っ赤に染まっていた。
「応援お願いします―血まみれの少年が―」
警官の1人がトランシーバーで応援を呼んでいる。
僕は何か言おうとしたが言葉にならない。
そもそも、何を言うのか。今さっき人を殺してきたとでも言うのか。そんなことを言えば逮捕されてしまうではないか。
(逃げなきゃ)
『フフフ、俺を使えよ。逮捕されてしまうぞ。そうすれば一生塀の中だ。フフフ』
固く握った左手の中に指輪があった。気がつかなかった。あんな状況でも捨てずに握り締めていたとは。
『さあ俺を使え!俺を使え!』
指輪の声を聞くと、僕はもう何も考えられなかった。
命令されるがまま指輪を嵌めるとひたすら走って逃げた。
警官の1人にぶつかって相手が半分に千切れて飛んでいくのが見えた。
もう脳みそが働かない。
走っているあいだ衝撃波で周囲の建物や車の窓ガラスが吹き飛び、通行人が吹き飛び血しぶきが顔を濡らし…。
沙織の顔も見たような気がする。彼女の肩とぶつかって半身を吹き飛ばしたような…。
でも…もう、どうでもいいか。
僕は今、野外音楽堂の観客席に座っている。
ほとんど流れを止めた時間の中、一番後ろの席に1人で。
回りにあるのは肉片だけだ舞い上がる血しぶきも今や空中で動きを止め、赤い霧が周囲に立ちこめているようだ。
ステージの上には泰葉ちゃんが、緊張の面持ちでピアノの前に座っている。
そして今まさにその指で鍵盤を叩こうというところだ。
僕は待っている。
彼女の記念すべき1音目を。
ある日不思議な指輪を拾ったら大変なことになった件 杉の木 @natumenatuki
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