「コンタクト」
蛙鮫
「コンタクト」
燦然と輝く星空の下。雑踏の中をこの俺、平野蓮は石像のように重くなった体を引きずりながら、家に向かっていた。
ビルの間から顔を覗かせる満月が街の喧騒とはかけ離れて、なんとも美しい。
等間隔で設置されている街灯が照らす人気のない道を、進んでいると住んでいるオンボロアパートと見えてきた。錆びついた階段を力無く登り、部屋に入った。
社会人になり、俺は日々のストレスで生きる意味を見失っていた。多忙な仕事に、上司からの理不尽な罵詈雑言。やめようにも生活的な問題があるから辞職に踏み出せない。結局、今日に至るまでほとんどの時間を会社に捧げてきた。生きる為に仕事をしていたのに、仕事をする為に生きてしまっている。そして、全てにおいて活力を亡くなってきている。
まるで傀儡だ。脳を取り除かれ、コントローラーで操られている気分だ。唯一の救いといえば、明日が休日だということだ。社会人にとっては何物にも変えがたい貴重な時間である。
しかし、身心ともに疲労困憊のせいか、休みをもらっていても休んでいる気がしない。数日後、再び会社があると考えると、病みそうになる。この心中で蠢く負の感情をどこへ向ければ良いのだろう。
ゲームでもやろうとしたが、あいにくそんな気分ではないし読書にしても、昔から活字は得意ではなかった為、却下した。それでも束の間の休息を有効活用しなければ、次の仕事中、発狂しかねない。そうなってしまったら俺は上司が自慢げに首からぶら下げた黄金のネクタイで、首を絞め上げて絞殺するかもしれない。もしくは廊下に用意されている消火器で、撲殺する可能性もある。
どのみち悲劇は避けられない。自問自答と煩悶を続けた結果、俺はある一つの結論に至った。それは最も王道で手軽な方法だ。地球に住む男なら誰もが一度は経験した事があるだろう。
男にとって避けては通れない道だ。そういえば、俺が初めてした時は中学二年の頃だったかな。今まで何とも思わなかったクラスメイトの女子が異様に淫美に見えてしまい、悶々としていた時、友人達の話を聞いてその方法を知った。半信半疑だったが、恐る恐る実践して見た。俺の体では収まらない程の衝撃が下腹部を走った。体の全神経、ミトコンドリアやヘモグロビン、白血球に至る全ての意識が下腹部に統合された気がした。あの衝撃はまさにビックバン、宇宙開闢そのものだった。
ノアの大洪水の後に訪れたのは明鏡止水の領域。この時、精神は水面のように穏やかなで、数分前まで抱いていた邪な感情が一切存在せず、森羅万象の全てと精神が一つになった気がした。大地、海、空、星が雄に目覚めた若人を受け入れてくれたのだろう。あの感動を再び、取り戻そう。そうしたら、きっと立ち直れるはずだ。
意を決した俺は粗末な敷布団に腰を下ろして、スーツという名の鎧を脱ぎさり、平野の蓮に対面した。浴槽や用を足す時に対面しているが、このような形で会うのは久しぶりだ。俺は蓮とともに対話を始めた。一心不乱に交信を開始し、蓮にコンタクトをとろうと試みる。
ここ数ヶ月、ご無沙汰していたせいか中々、反応してくれない。頼む、反応してくれ。でなければ俺はストレスという名の牢獄に囚われ、社会という名の戦場で戦う英気を養う事が出来ないのだ。性欲を発散するとストレスが軽減するらしい。このストレス社会、性欲を発散することが世の男達にとって、どれほど救いになっていることか。
だから蓮。お前も答えてくれ。お前も俺ならば、俺の辛さがわかるはずだ。お前にしか出来ない。
その思いが通じたのか、蓮も僅かだが、反応を示してくれた。よし、この好機を逃すな! 腕に血管が浮き出るほど力を込めて、交信の速度を速める。すると先ほどまで気力とは無縁だった蓮が天高く反り上がったのだ。その勇ましさと壮大さはまさしく、北欧神話に登場する世界樹ことユグドラシルを彷彿とさせた。
さらに交信を続けて、俺達の意識は繋がった。シンクロ率が徐々に上がっていく。もうすぐだ。蓮は既に限界だった。そして遂に固く閉ざした禁欲の扉の隙間から、一筋の光明が暗く澱んだ俺の心に差し込む。エデンの園。約束の地、カナン。桃源郷。ユートピア。人類が夢見た安息の地がもうすぐ見える。開放感とともに視界が白く染まり、俺の五感は途切れた。
視界がはっきりとしていくと、俺は辺り一面が真っ白な空間にいた。物音も風の音も一切、感じない。ここはどこだ。一人も見当たらない。嘘だろ、俺まさか死んじまったのか。これが俗にいうテクノブレイクという奴なのか。
「よお、久しぶりだな」
背後から声が聞こえ、思わず肩が大きく跳ねた。恐る恐る、背後を振り返った瞬間、俺は視覚と己の認識能力を疑った。
そこには俺と同じ顔の全身が白いスウェット姿の男がいた。俺は驚きのあまり、距離を取ってしまった。
「お前は誰だ?」
「俺はお前だよ。いや、お前になるはずだった存在って感じだな」
男はそういうと、快活な笑い声をあげた。気がつけば知らない場所に移動しており、目の前に自分と同じ顔の人間がいて、そいつが話しかけてくる。普通なら至極不気味な光景なはずだが、何故か妙な安心感を包まれる。
「確かお前、生きる希望を無くしたとか言っていたな」
「なんでそれを・・・・・・」
「言っただろ。俺はお前だって」
俺はこの男に凄まじい違和感を覚えるとともに、すごく懐かしい雰囲気を感じ取った。
「お前なあ、ちょっとやそっとで、めげてんじゃねえよ。お前は俺たちと競い、ひしこいて生きる権利を勝ち取ったんだ」
「さっきから何言ってんだよ。俺はお前とか、競ったとかワケわかんねえよ」
俺は胸中に渦巻く疑問をぶつけた。姿といい、発言といい理解できないことが多い。すると男は俺の態度に見て、何かを決心したようにゆっくりと息をはいた。
「仕方ねえなあ。じゃあ頭を出しな」
男にそう言われて、半信半疑のまま頭を突き出す。男が人差し指を俺の眉間に押し当てた瞬間、体全身に電流がほとばしり、見たこともない光景が脳裏に映し出される。
暗闇の中、ただひたすらに突き進んでいる光景だ。後方には幾千万、いや億単位の俺が必死にどこかに向かっていた。眼前に先に透明で巨大な球体が見えた。すると他の奴らにもそれが見えたのか。先ほどより、動きが活発になる。まずい、ここまでは先を越される。急げ! 早く! 生き急げ! 生きるために! 俺の叫びが頭蓋を割らんばかりに木霊する。そして、俺は球体にその身を押し込んで、転がり込むように侵入した。入り損ねた他の連中は諦めきれないのか、無理やり押し入ろうとしていた。しかし、一向に入れる気配はない。 「あとは頼んだぞ」
どこからそんな声が聞こえた。その瞬間、外にいる俺達が力尽きたように一斉に沈んでいく。まるで何かの役目を終えたように。この時、なんとなく理解した。
これは俺が俺の原型ではない頃の光景なんだ。この世に生まれる前、それ以前の出来事を俺は見ているのだ。
突然、プツンと糸が切れたように、意識を引き戻された。たった数秒間の出来事だったはずなのに、酷い脱力感だ。
「これで分かったろ?」
目の前にいるのはおそらく俺だ。この世に生まれる前に出会った無数の俺の一人なんだ。俺自身は無数の俺とのデスレースに打ち勝って、生誕という名の特権を勝ち取った存在だ。つまり、俺は俺自身に諭されているって事なのか?
「それに俺だけじゃないぜ」
男が身をずらすと、その背後には大勢の人間が整列していた。十や百の話ではない。千、いや、もっといる。彼らの顔をよく見ると、俺と同じ顔の奴から、他界した俺の叔父や祖父に似たやつもいた。
「蓮坊」
叔父の声だ。子供の頃、よく釣りに連れて行ってくれた。褐色の肌とガハハという豪快な笑い方が特徴的で、砕けた性格の人だった。確か数年前に膵臓癌で亡くなってしまった。叔父の様に明るく、他人を笑顔に出来る様な大人になりたいと思っていたが、今では対極の存在になってしまった。
「蓮君」
次は祖父の声だ。俺が小学六年生の時、老衰で亡くなったしまった。穏やかなで陽だまりの様に暖かく、優しい笑みに固く冷え切った心が溶けていく。思わず涙がこみ上げて、溢れ出しそうになった。こんなに人に優しくされたのはいつぶりだろうか? 最近、耳にするのは同僚による嘲笑や、上司からの誹りだけだった。傷だらけの心をまるで母の抱擁のように包み込む優しい声。この上ない多幸感に満たされた。蓮、蓮坊、蓮君と俺を呼んでいる数多の声が共鳴するように木霊して、白亜の空間に響いていく。
無数の声が耳管を通り、脳裏に優しく浸透する。ああ、俺はなんて愚かな事を考えていたんだ。彼らの想いを、俺は断ち切ろうとしていたのだ。彼らだって、生まれたかったはずなのに。
「蓮、生きろ! お前なら出来る!」
男が語勢を強くして言い放った言葉が、電撃の様に体を駆け巡る。そして、周囲は再び、眩いばかりの光に包まれる。彼らの姿が光で徐々に霞んで行く。それとともに意識も朧げになっていった。
纏わりつくような倦怠感を払いのけて、薄く瞼を開けると、そこはいつもと変わりない俺の部屋だった。窓の外からと眩しい朝日とともに小鳥のさえずりが聞こえた。
蓮は一仕事終えた疲労のせいか、項垂れていた。
どうやら知らぬ間に眠っていたらしい。何とも奇妙な夢を見たな。しかし、心なしか、気分が楽になった。先日のコンタクトの影響だな。すると突然、両目から温かい涙が静かに頬を伝った。拭おうと右手の甲で涙に触れた瞬間、電気が走り、鮮明に先ほどの夢の記憶が蘇る。
「生きろ」
彼ら、いや、俺達の声が再び、脳裏に波紋の様に広がって行く。
「ありがとう」
彼らは俺達の先祖、そして、俺自身だ。俺の本心なんだ。俺達の意志を無駄にしない。生まれた事に、俺の人生に誇りを持って生きて行こう。俺は胸に固く決心した。
ふと、敷布団に眼を向けると、無数の俺達が四方八方に飛散して干からびていた。
「コンタクト」 蛙鮫 @Imori1998
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