現代百物語 第39話 美しい人

河野章

現代百物語 第39話 美しい人

「次の取材はな、人魚だ」

 レンタカーの中で嬉々として新進気鋭の作家、藤崎柊輔は後輩の谷本新也(アラヤ)に告げた。

 休みの日に無理やり連れ出された新也は、ふてくされて車の外を眺めていたが思わず「え?」と聞き返した。

「なんだか、いかにも胡散臭い……八百比丘尼の伝説、ですか?」

 以前に似たような話を……それどころかその肉を食ったなと思いながら新也は返す。

 人魚の中でもいちばん有名な伝説。

 人魚の肉を食べると不老不死になるという話だ。

「いや、今回のは違うぞ。人魚自体が不老不死……だったかな。で、現れると吉兆、よってそれを殺したり傷つけたりすると凶兆──やがては悪いことにが起こるっていう伝説だな」

「ふうん」

「地元の漁師さんと、寺の住職に話を聞くことになってる。まあ、よろしく頼むよ」

 藤崎がニヤッと笑う。

 いつものとおりだ藤崎のペースだ。新也は不承不承頷いた。 

 

 漁港とそれに隣接する市場は、潮と腐った生魚の混じったような何とも言えない臭いでいっぱいだった。慣れていない新也と藤崎は一瞬ムッとした臭いに顔をしかめる。

 しかし、予想に反して田舎の漁港にしては、街は活気に溢れている。市場が観光客に開放されており、昼前だというのに買い物客で賑わっていた。

「へえ、立派なもんだな」

 真新しい市場に藤崎が感心した声を漏らすと、地元の人が最近改装したのだと教えてくれる。

 それでも、その市場からも腐臭のような生々しい魚の臭いがする。

 人々であふれる市場から離れて、二人は地元の元漁師という老人数人から話を聞き取った。

 市場から離れれば、時おり沖から流れてくる海風は清々しい。

 漁港の隅で、小一時間、二人は話を聞いていた。

「ありがとうございました」

 藤崎が話を聞き終わった老人たちに礼を言う。 

「次は寺だな」

 藤崎が言う。寺はここから歩いて一五分だということだった。

 せっかくだから歩こうかと提案されて、新也も同意する。職場と家との往復では最近、運動が足りていない気がしていた。

「話は聞いていたとおりでしたね」

「そうだな……しかし、日本の人魚ってのは本当に……綺麗な生き物ではないんだな」

「ここでの伝説は、水かきの手に長く伸びた爪、鱗で覆われた水で膨れた上半身。獅子のように鼻の潰れた顔……ベッタリと張り付く髪、ですか。水死体に近いですよね」

 聞き取ったメモを見ながら市場に向けて二人は歩く。寺は市場を通り過ぎて交差点を山へと向かえばすぐということだった。

 と、新也は芳しい花のような香りにふと顔を上げた。

 遠くから小柄な女性が歩いてくる。一昔前のレース襟の半袖ブラウスにタータンチェックの分厚いロングスカート、足元は汚れた白のサンダルとちぐはぐな格好だった。

 しかし、その首の上に乗るのはどんな美女もひれ伏すというような絶世の美女の顔だった。

 大きな色素の薄い目に白い肌。小ぶりだがツンと上を向いた鼻先に薄い唇。対照的に背まで流れる黒髪は風に波打つほどに豊かだ。

 遠くからだが、つぶさにその美しい容姿が見て取れた。

「……凄い……」

 思わず声に出していた。

 それに気づいた藤崎が新也の視線を追って女性に気づく。

「……新也!」

 何故か抑えた声で、叱責のような声を藤崎は上げた。

 あまりにあからさまに女性を見つめ過ぎたからだろうか。けれど彼女を見つめることをやめることが出来ない。『新也!』ともう一度名を呼ばれたが、新也は無視して彼女へ近づいていった。

 女性は市場の端で作業をする漁師たちに次々声をかけているようだった。

 大体が首を横に振られて断られている。

「余った魚を……貰えませんか」

 近づくにつれて鈴の音のような涼やかな声が新也の耳に届いた。

「何でも良いです……魚を……」

「これで良けりゃ、持ってけよ」

 ある漁師が小魚がいっぱいに詰まったビニール袋を彼女へ寄越した。彼女は押し抱くようにそれを受け取りペコリと頭を下げた。

 髪がサラリと肩から流れ落ち、海風に攫われる。

 小さく礼を言う赤い唇が美しかった。

「あの……!」

 思わず、新也は声をかけていた。声をかけずにはいられなかった。

「はい?」

 女性が耳へと髪をかけながら振り返る。海の反射の光を受けて、薄い光彩がきらりと光ったように見えた。

(僕と一緒に……来て欲しい)

 そう、喉まで言葉が出てきているのに声に出来ない。惹かれて惹かれて堪らなかった。彼女の細い背中を腕に抱きたい。唇を、肌を味わいたかった。

「あの、僕と……!」

「新也!」

 藤崎の怒声とともに肩を引き戻される。

 藤崎は意志を持って敵意を彼女に向けていた。

 彼女は藤崎に睨まれると少し眉を寄せた後に、『失礼します……』と横を通り過ぎていった。

「なに、するんですか!? 先輩!」

「お前こそ、なにしてんだよ!」

「なにって彼女に──……」

 そう言いかけて、新也は言葉に詰まる。もう少しで、初対面の女性に告白をするところだった。

「お前、今、完全に魅入られてただろ」

「いや、そんな……」

「なにしようとしてた?」

「……いえ、はい……──告白、を。あまりに綺麗な人だったので……」

 説明をしながら顔から火が出そうになり、声が小さくなる。良い年をして恥ずかしい。一目惚れで告白なんて。 

「は……!? お前には、彼女が美女に見えてたってのか……?」

 今度は藤崎が小さな声で問い返した。

 それからぶつぶつと呟きなにかを考え始める。

「いや、人の美醜の基準に文句をつける気はないが……」

「……すごく、綺麗な人だったじゃないですか……?」

 はあっと藤崎がため息をついて頭をかいた。珍しく戸惑っているようだった。

「あのな。俺には……伝説の、人魚そのもののような見た目に見えた。抜け落ちて少なくなった濡髪に、長い爪、鱗のように毛羽立った肌。手足は膨れ上がって、顔は獅子頭だ……お前が見たのはそういった女性か?それなら告白だろうがなんだろうが止めない」

 新也はさっと青ざめた。

「違い、ます……」

「お前がどんな女性に惹かれようと文句はない。が、見る人によって見た目が変わる女性なら……止めといた方が良い」  

「はい……」

 新也は遠ざかっていく彼女の背中を眺めた。背中までもりんと伸びていて美しい。小さくなっていくその後ろ姿。

「あれ……」

 気づけば目の前が涙で曇っていた。

 新也は手の甲で溢れる涙を拭った。

(彼女がもし人魚であれば、一人、この漁港で生きていくのだろうか……)

 そう思うと、なぜか涙が止まらなかった。  



【end】  

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