黄昏時 下

 避難訓練を抜け出してから、ヒヨリとセイヤは古い住宅地を走り回っていた。正確には、狭い道を走り抜けるヒヨリをセイヤが追いかけていた。


 ヒヨリは猫に追われるハムスターのように角をでたらめに曲がりながらちょこちょこと走っている。空からは小粒の雪が降りはじめていた。


「おい。…おいって!」


 そろそろ猫役も疲れてきたとき、ようやくセイヤはヒヨリの肩を捕まえた。コートで着膨れした肩はうまく掴めなかったが、ヒヨリはあっさりと足を止めた。


「どこに行く気だよ?」


「このまま行けば、たぶんわかるよ」


 肩を少し上下させているセイヤに、ヒヨリはほにゃりと笑いかけた。真面目なのかからかわれているのか、セイヤにはわからなかった。


 セイヤがなにも言えないでいると、ヒヨリはまた走り出した。枯れた植木鉢が並ぶ道、ブロック塀に挟まれた道、干した洗濯物で視界がさえぎられた道を走り抜け、やって来たのは堤防だった。避難壕からはかなり離れている。


 枯草を踏んで堤防に上がったときに風は少し強くなっていて、雪の量も増えてぼた雪になっていた。眼下では幅広の川が緩やかにうねっていどこまでもつづいている。


「ここまで来て、あとはなにするんだ?」


「……この先、行ってみたい」


 ヒヨリは黒い大蛇のような川の先を指差す。いつものように子どもじみているとセイヤは苦笑しかけたが、ヒヨリの眼を見て口元を引いた。ヒヨリの眼には、いままで見たことのない鋭さがあった。


「……それは、だめだ」


 セイヤの声はいつもより少し籠っていた。セイヤは下腹に力を入れてもう一度言った。


「それはだめだ」


「行けるよ」


 ヒヨリはきっぱりした口調で言った。セイヤがはじめて聞く声で、ヒヨリの意思がなまなましいほどはっきり感じられた。


「足もあって手もある。頭も心もある。私たちはどこにでも行けるんだよ?」


 ヒヨリは強くセイヤのジャケットの袖を引いた。ヒヨリもセイヤも、吹きつけるぼた雪で髪が濡れているのに気づいていない。


「行こうよ、いろんな所に。いろんなものを見ようよ」


「行けるよ。俺たちは、いろんな所に行ける」


 セイヤはヒヨリの手をやんわりと抑える。


「でも俺は、そうやって別れた人たちのことを心配したり後悔したりしながら歩くのは嫌だ。卒業式みたいに、みんなが胸いっぱいにいい気持ちになって歩き出したい。そのほうが、いいんだと、思う………」


 恥ずかしくなって、セイヤの言葉は最後には途切れ途切れになって小さくなっていった。


 セイヤは、早くヒヨリになにか言ってほしかった。笑ってもらってもよかった。この寒い沈黙をどうにかしたかった。


 悪魔の歌のような風の音は、暖かな声によって払われた。



「———そのときまで、その先も、一緒にいてくれますか?」



 恥ずかしさで顔を川の方へ背けていたセイヤは、はっとして顔をヒヨリへ向け直す。そのときヒヨリは手を伸ばして、セイヤの頭上の雪を払っていた。


「早く帰らないと風邪ひいちゃうね」


 背伸びをしてセイヤの頭上を払うヒヨリはいつもと同じ様子で、セイヤはさっきまでのできごとはすべて幻だったのではと首をひねった。


 とりあえずヒヨリの頭上に積もった雪を払っていると、後ろから男女の声が聞こえてきた。振り返ると、アイカの手を引いたヨシノが堤防を上がって来ていた。ヨシノのトレンチコートはなぜかアイカが羽織っていた。


 ヨシノとアイカのさらに後ろ、川の向こうからは黄昏時の明るい夜空が重い雪雲の合間から見えていた。風が雪雲を少しずつ押し流しているらしい。


 ヨシノとアイカの姿を見て逃げ出そうとしたヒヨリの手を、セイヤは素早く掴んだ。どこに行くにしても、まず説教を受ける必要があるらしい。


「ほら、一緒に行くぞ」


 手を握って歩き出すと、ヒヨリはしぶしぶといった様子でセイヤの後につづく。セイヤとヒヨリが湿った枯草を踏みながら歩く先でヨシノは緩く手を振り、アイカは肩をすくめている。


 空は暗さを増している。


 もうすぐ黄昏時がおわる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

晴れ、ときどき曇り 紀乃 @19110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ