たまゆらを君と結ぶ

たまき瑠璃

第1話

釜戸の火に息をフゥーと吹き込むと、木蓋がポコポコと踊る。棒手振の声が表通りから聴こえ、きよは外に出た。周りに女性達がたむろしており、降ろした桶の水の中で豆腐が揺蕩っていた。

きよは俯いてなるべく人目を避けながら棒手振に五十文を渡し、一丁の豆腐をどんぶり鉢に受け取って厨へ戻った。それを半分に分けて更に賽の目にし味噌汁に入れ、残った分は水を張った桶に入れておく。

ふと、土間の隅に置いてある木箱が目にとまった。蓋を開けると中には塩鯨が入っている。

きよは奥で鋏を研いでいたヤエに話しかけた。

「師匠、これはどうします?」

「あー、それはな葱を臭み抜きに添えて、酢味噌で食べるとええ」

「わかりました」

ヤエの仕事の関係で遊郭の女郎や大店の妻女からは時々祝儀の品が届く。ヤエはまだ三十そこそこだが、きよにとっては親代わりであり、命の恩人でもある。

「皮はとっといてな、雑炊に入れると美味いねん」

「じゃあ今晩は雑炊にしますね」

釜から米をおひつに移し、ふわりと立ち昇る湯気を逃す。茶碗にご飯をこんもりと盛ると、炊きたての粒は上を向きツヤツヤと輝いていた。

鋏の調整がひと段落したのか、ええ匂いやなーと言いながらヤエがお膳を運ぶ。

「喜八郎も嫁にするならうまい飯が作れる女にしときや」

そう言うと、まだ奥でヤエの道具を片付けていた喜八郎が顔を上げた。

「ヤエが作った料理じゃなきゃ大概うまいよ」

「お、喧嘩売ってんのか?」


寺院から聴こえる時の鐘の音が六つ時を伝える。いつも通りの時間だ。

鯨なんて久しぶりだ、旨い美味しいと盛り上がりながら、三人で朝食を食べていると玄関の戸が開いた。ここの大家である権平だ。

「おヤエはおるかい?」

「朝はよからいきなり来て、何の用や?」

「相変わらずキツい物言いだなお前は」

「そんなつもりないねんけど、堪忍な」

突然の来訪者に、喜八郎は人懐っこく手を振り、お構いない様子で米を口に運ぶ。対照的にきよは笑顔をつくり会釈するものの、さり気なくヤエの後ろに隠れた。

「ちょっと面貸せ。表で人が足りねえんだ。あと町触れのこともある」

後半声を控えめにする権平に、何かを察したヤエはさらさらとご飯をかきこんでから出て行ってしまった。

いつもは仕事が始まるまでの間、表通りにある権平の書店から歌書や俳諧書を拝借し、ヤエが仮名文字や漢字の読み書きを二人に教えているのだが、隣で妙に楽しそうな顔をしている喜八郎をみてきよは嫌な予感がした。

「ヤエ帰ってくるまで遊びに行こうぜ」

「ええ、勉強は?」

「一日くらいサボっても大丈夫だって。ヤエが戻る前に帰ってくればバレないしさ、な?」

予感は的中した。自信あり気に言い切る喜八郎の誘いを、きよは断れなかった。


二月といえど雪解けはまだで、足駄はシャリシャリと音をたて童が雪だるまを作っている。  

浅草寺の大きな提灯の下は早朝から賑わっており、きよは左頬の火傷が誰からも気付かれないように、自分が被っている頭巾をキュッと結び直す。髪の毛を左側だけに垂らし、片目が隠れている、へんちくりんな髪型にしているのもそのためだった。

「人が多いね。はぐれないように手繋いであげよっか?」

「んなガキ見たいなことしねえよ」

私より二つ下なんだからまだ子供じゃないのかなときよは考えたが、それを言うと喜八郎が口を尖らせて拗ねるだろうと思い、ふふっと笑った。

「昔はよく三人でお参りしたよね。最近はちっとも来れなくなって。近くなのにね」

「まあ、散髪もそうだけど髪結いの仕事が特に忙しくなったよな」

そんな話をしながら辿り着いた本堂で二人はお参りし、それぞれに願をかけた。

「次は見世物小屋行こうよ! 師匠と一緒だと行かせてくれないんだもん」

「こんな時しか行けないもんな、行こうぜ」

五年前の初詣の時、三人で立ち寄った奥山で、展示されていた河童や人魚をみたヤエが珍しく「ひぃ」と小さく声を上げた。それからというもの、ヤエはきよ達が誘っても頑なに奥山は好かん! と言っているのだ。

五年振りの見世物小屋には海の向こうから来た、見たこともない大きな動物がいた。

「喜八郎、見て! すごいね」

象というらしいその動物は、長い鼻を使って器用に鞠を投げ、水を撒いている。この生き物を見ると七難去り七福が訪れるという謳い文句は今や江戸中に渡っている。

あくびしながらすごいねと返した喜八郎に、退屈か? ときよが伺うと、ちがうと首を横に振る。

「身体が夜中にミシミシいって寝れないんだ」

改めてきよは喜八郎の目線が自分と同じになっていることに気づいた。声も段々と低くなりつつある。


二人が家に帰るとヤエはまだいなかつた。胸をなでおろしたきよと喜八郎は、すぐに読書に取り掛かった。半刻ほどしてヤエが帰ってくると、二人は笑いを堪えすました顔で出迎えた。

「師匠、お帰りなさい!」

「遅かったじゃん」

「ああ、色々面倒な事になってもうてな」

疲れたわーと大仰に態度で示すヤエに喜八郎は興味津々といった感じで近づいた。

「面倒なことって?」

「坊主は知らんでもええ面倒や」

妙にニヤニヤしている表情が気に入らなかったのか、パチンと喜八郎の額をヤエは人差し指で弾いた。

「またガキ扱いしやがって!」

「さっさと仕事に行くよ」


浅草から少し歩き日本堤の土手を登る。水路の表面には薄く氷が張っており、傍の松には雪が積もっている。

やがて、しだれ柳が見えお歯黒溝に掛けられた橋を渡ると吉原大門に着いた。

門番はヤエの顔を見ると挨拶した。

「源太、調子はどないや」

「へえ、おかげさまで。身請けの噂が流れたもんで、近頃は昼見世にも見物客が増えとります」

「しっかり監視せえよ。今日は三浦屋と玉楼へ行ってくるわ」

源太に見送られ大門をくぐると、白と朱色の外装や門の上に金銀の飾りが付いた豪華な店構えの廓が立ち並び、昼間だというのに人で賑わっていた。

遊女が仲間同士でカルタをしたり、話したりと思い思いに過ごしているのを朱色の格子戸の外から男衆がジロジロと見ている。

吉原の中央である仲之町は、提灯や桜色の行灯が店先にいくつと並んでおり、年中春の様な奇妙さがある。

「ここがお前達がまだあった事ない花魁のおる店や。ちゃんと挨拶するんやで」

周りよりも一段と豪華なその店にヤエはサッサと入って行く。

きよと喜八郎は顔を見合わせ、生唾を飲み込み後に続いた。


「ようこそ、おいでおくんなまし」

玉楼に入ると日本人形のように可愛らしい禿が、玄関まで迎えに来ていた。歳は喜八郎よりも少し下くらいか、推定十一、二歳の少女は、綺麗な振袖を着て化粧を施してはいるが、まだあどけない。

少女は、初めて見るきよと喜八郎のことを大きな瞳でジッと見つめて、弾けるような笑顔で微笑んだ。

「お初にお目にかかります。ゆかりと申します」

そう言って頭を下げるゆかりに、慌ててきよと喜八郎も、それぞれ短く挨拶した。

「姐様がお待ちです。どうぞこちらへ」

可愛らしい鈴が転がる様な声に誘われて、壺庭に沿って廊下を歩く。手摺り一つをとっても、随所に凝った装飾がされており、まるでお城にいるみたいだ。


毎日吉原で遊女の髪結いをしているが、花魁につくのはきよも喜八郎も初めてだ。

「姐様、ヤエ様がお越しです」

「どうぞお入りなんし」

襖絵を開けると、紫に金色の刺繍が入った着物を着た遊女が、藤が描かれた屏風の前で、煙管を楽しんでいた。

「夕霧はん、身請けされるんやってな。おめでとうございます」

「ありがとうござりんす」

「今日はどういった風にしはる?」

「この簪を髷のとこに刺しておくんなんし」

夕霧は煙管をゆかりに渡して、鏡台の引き出しから簪を取り出した。

「後ろはどうしはる?」

「この紋付のやつがいいざんす。あとはおまかせで」

「かしこまりました」

そう言うとヤエは夕霧の長い髪を櫛で丁寧にときながら、鬢付け油を伸ばしていく。髱の部分を輪にし左右に扇のように広げた横兵庫は粋で華やかな髷で花魁の中で流行っているのは頷ける。特にヤエのつくるものは今にも羽ばたきそうな蝶の様に、きよには見えた。

その間夕霧は鏡に向かい、慣れた手付きで化粧をしていく。白粉を水に溶かし刷毛で念入りに首や足まで塗っていく。玉鏡で確認しながら真菰で眉をひき、最後に紅をたっぷりと塗った。

まるで蛹から蝶がうまれるように艶やかに変貌していく夕霧の姿に、きよの視線は釘付けになっていった。

トン、と音がして櫛が落ちる。

「おっと、こら生きとるわ」

「なわけないです。もう、大事な商売道具なんですから」

冗談を言うヤエに、きよは素早く櫛を拾って渡した。その時、鏡の中の夕霧と目が合い、きよは慌てて目線を逸らす。

「ちょっとヤエ、あのだらしない娘はなんざんす? 髪結いの弟子とは思えない姿でありんすねえ」

夕霧は片眉をツンと上げてそう言った。

「頭、動かさんといてください」

そう言うとヤエは後頭部の中心に場巻結びで飾りをつけ、紋付の簪を後ろの髱に十二本刺した。前にまわり、珊瑚の丸玉簪と松葉簪を刺し櫛を三枚着け、前髪を丸く整えた。髷の前には先ほど指定された揺れる飾りのついた銀の簪を最後につけた。

「若さに胡座かいて、磨こうともしないなんて」

刺すような言い方にきよはぐっと息が詰まる感覚がした。夕霧のように綺麗になれるわけじゃない。だけど仕方ない、消したくても消えない火傷跡が自分にはあるのだから--ときよは自身をなだめて落ち着こうとした。

「夕霧はんも私からみたら十分若くて綺麗やで。残りの花魁道中も華やかにやるんやろ?」

「あちきほどの女を手にするんよ。吉原の外にまでこの夕霧の高下駄の音が響き渡るように、って言ってござんすからねえ」

「ほな、これでお終いや」

「ありがとうござりんした」

身支度を終えた夕霧は、花魁の煌びやかさと自信を纏い満足気に笑みを浮かべる。その姿は確かに千両以上の価値はあるのだろうときよは思った。

羨望と嫉妬の入り混じった、眼差しに気付いたのか、夕霧はススと近づき、きよの髪を無造作にかきあげる。突然の事に、きよはその手を振り払うこともできず硬直する。

きよの隠していた火傷跡が露わになったのだ。

夕霧はジトリと舐めるようにそれを見た後ハッと笑った。

「お前さん、なにか勘違いしてありんすか?」

「えっ……」

「不幸だからと、優しくされるわけではござりんせん、不幸の反対は幸せではござりんせん」

夕霧のひややかな声色が、言葉が氷柱のようにきよの胸に深く突き刺さった。


「お見送りして来ます」

頭を垂れたゆかりの向こう、振り返りもせず夕霧はひらひらと白いなめらかな手を振っただけだった。

「きよ様、先程は……」

「平気、慣れてるから」

「姐様もほんとは優しいんです。でも仕事の時は気を張ってしまって、あんなこと言うてしまったんだと思います」

申し訳なさそうなゆかりの姿にきよ曖昧に笑い返すので精一杯だった。

吉原を出て帰る道中、きよは過去の記憶を思い返していた。

この火傷は六年前の火事のせいだ。長屋全体に瞬く間に燃え広がり、焼け崩れた柱が生死を分断した。幸い戸口側にいたきよは家族を助けようとしたが、父の逃げろ! と言う地鳴りのような声を聴き、鉄砲玉のように家を飛び出した。

きよは一夜で家族も、女としての価値も失い、引き取り手もなく遊郭へ引き渡されそうになったが、傷物は要らないと切り捨てられた。

そこにたまたま居合わせたヤエが、きよを引き取ったのだった。

そうやってモヤモヤしていると、なんだか横から視線を感じる。

喜八郎が心配してこちらの様子を伺っているのだ。しかし自分からはなかなか言い出せないのか、きよの様子をちらちらと見ている。

きよは、小さく溜息を吐いて喜八郎に話しかけた。

「喜八郎は幸せってなんだと思う?」

うーん、と自分なりに考えているのか首を何度か捻ったあと喜八郎は答えた。

「俺は不幸じゃなけりゃ幸せだと思うよ」

「でも、夕霧さんは違うって言ってたよね」

「そういう難しいことはよくわかんねーよ。気にしすぎるとよくないぞ」

(本当にそうなのかな……。そしたら私は今どっちなの?)

再び黙ったきよに何を思ったのか喜八郎は慌ててつけたした。

「きよの思う通りにやったら、俺は良いと思うけどな」

そう話しながら外を歩くと、変わらない泥臭い現実に戻され、刻が元通りに流れ出す気がして安堵する。



吉原から帰ると昼ご飯の支度を始める。飯櫃から冷や飯をとり握る。囲炉裏に火打石で火を付け、帰り道で行き合った棒手振から買ったさわらを焼いた。三人分のお膳に、握り飯と、焼き魚、それに沢庵を添えた。食べながらヤエは二人に話しかけた。

「最上級位の花魁みた感想はどうや?」

「髪型もそうだけど、身に纏ったもん全部自分のものにしてて圧倒された」

「夢見鳥として姿絵が出回るのも納得する美しさでした。その、少し恐ろしかったですが……」

「きよは、一発かまされたからなあ」ヤエ笑う。


「花魁も髪結も人相手の商売や。みてくれを整えるばかりやなくて、その人の本質を見なあかん。そのためにはどうしたらええと思う?」

「とにかくお客と話をして仲良くなる!」

「あほ、お前は落ち着きなさすぎや。店立つ時自分のことばっかり話しとるやろ。ベラベラ喋りすぎやねん」


「花魁はな、枕だけやってる夜鷹とは違うんや」

「どんな客きてもええように、小さい頃から芸事やら文字の読み書きやら、色んなこと勉強してはんねん」

「でもそれは、髪結いかて同じ事や。違うか?」


「相手のことを知って、初めて喜ばせる事が出来るんや。その為には、色んな人や物をよう見て、知っとかなあかん」

技術はその後や、とヤエは付け加えた。

「ほんで、昼からやけど喜八郎、今日は自分の話は禁止や」


自分の店を持たないヤエは、昼からは髪結い仲間の床屋で働く。女髪結いが鋏を持つのは珍しく、男衆に混じり引けを取らない稼ぎを出してるヤエに嫉妬する者もいたが、ヤエは道端の草ほども気に留めてはいなかった。

物心ついた頃からヤエの側にいる為、そこそこの腕はある喜八郎は人懐っこい性格のせいか客に可愛がられている。喜八郎も半月程前から使いっ走りを卒業して、鋏を持ち客をとっている。

「それから、きよ。お前はまだ掃除しとるだけやけど、今が好機やからな。手元をしっかり観察して、男共の技術全部盗んだれ」

皆食べ終わると、ヤエは空気を変えるように二回手を叩き、風呂敷を背負った。

「ほな行くで」

昼からの仕事の始まりだ。



昔話しよう思うねんと、話しかけてきたのは布団を敷き寝支度が済んだ後のことだった。

突然のことにきよと喜八郎は頭の上に疑問符を浮かべた。

「まあ寝物語として聞いとき。実はあたしには三つ上の姉がおってな、しのっていうんやけどーー」

ヤエはとつとつと話した。丹波国で生まれた彼女には姉と父がいた。母は顔も知らぬうちに病で没しており、幼い頃父がつくった博打の借金の肩代わりの為に姉妹は島原へ売られることになってしまう。しかし、この子の分も私が働くから!と姉のしのがヤエを庇い、一人島原へ連れて行かれた。

「あたしはそんな姉を助ける為に、髪結いになったんや」

「そ、それで?」

「お姉さんと再会できたんですか?」

きよと喜八郎は知らず身を前に乗り出して聞いていた。

「もちろんや。再会したときは二人して抱き合って泣き喚いたわ」

せやけど、と続けたヤエは表情を曇らせた。

ヤエが髪結いとして島原に出入りする頃には、しのも遊女として、髪結いの稼ぎでは身請けは難しいほどに人気を得ていた。

妓楼で髪を結うほんの少しの間だけ、言葉を交わすことを姉妹は楽しみにしていた。

「そんな時、姉が間夫との間に子供ができたと言うてきた。しかもその子を産みたいと」

楼主にバレたらどうなるか、しかしヤエは姉の願いを叶える為に、髪結いとしてのツテを使って、遊女や禿たちの協力を得て力を尽くした。「それで、しのさんは産んだんですか?」

「産んだよ。男の子やった」

ヤエはゆっくりと喜八郎をみた。

きよもつられて喜八郎の顔をみた。

当の喜八郎はというと、全てを飲み込めていないのか、キョトンとした瞳でヤエを見つめ返していた。

今までは山道で拾ったと言われて、血縁者はいないと思っていたのに、突然実の叔母だという事実に戸惑っている様だった。

「そんなお前も、もう元服する歳やろ。そうなったら独り立ちするんやで」

「今更言われなくても、わかってるよ」

「ちゃう、わかってない。髪結いなるんやったら、組合に入らなあかんやろ。せやけど最近の市場の状況的に、いつまでもお上が黙っているとも限らんし……」

首を傾げている姿にヤエは苦笑いを零した。

「来年の春からはお前がこの家の当主や、ええな?」

完全に理解は出来ていないだろうが、喜八郎はこくりと頷いて返した。

株仲間には賭博などをしてる奴らがいるので深入りしないことなどを言い聞かせた。

それから、と言って次はきよを見つめた。

「この稼業につくならもっと度胸持たなあかん。背に隠れて黙って俯くばかりじゃ舐められて当然やで」

はい、と返したがその声は重たくなってしまった。

「私がいつまでも面倒を見るわけやない。大人なるんやから、ちゃんと考えときや--」


とんでもない話を聞いてしまった。私が聞いてもいい話だったのかな。

隣で眠る話した本人は、どてらを着て布団を頭まですっぽり被り、こんもりとした形は小さいながらも山のようだなときよは思った。

寝ないと、と意識すればするほど目がさえてしまって、落ち着けずにいた。

何度目かの寝返りをきよがうったとき、隣の更にもう隣の布団がもぞもぞと動いて、次に小さく、きよ起きてるー?と呼ぶ声がした。それにきよも声を潜めるようにして応えた。

「起きてるよー」

暗闇の中、喜八郎は身を起こして、外、と一言発した。

きよは理解して、二人の真ん中にある小山を起こさないよう、喜八郎に続いてゆっくり外へ出た。


月明かりの下、寒いねと言いながらどてらの袖の中に手を引っ込め、2人丸まってくっつき暖をとる。

雪が花のようにヒラヒラ落ち、降り積もった白に月の光が反射している。

「ヤエ、いきなりなんだってんだよなー」

「でも初めてきいた」

「ああ、もっと早く言えよなって感じだったけどな」

「でも、喜八郎よかったね」

「血が繋がってようが、ヤエはヤエだ。変わんねえよ」

「喜八郎らしいね」

そう言ってきよは笑ったものの、喜八郎の強さが羨ましいと思い、自分の左頬をなんとなしに撫でた。

思えば火事があった一夜の事はきよに辛く苦しい思いをさせたが、きよから自信と笑顔を奪ったのはこの火傷であった。

このせいで、きよの心は毎日鏡を見る時や、人に見られる度に過去と向き合わせられ、その上に無意識に顔に火傷を負った少女の価値を評価する目を見なければならない。それは、その美醜に悪口を言う人も哀れみの言葉をかける人も、大差なくきよの心を傷付けた。

「昼にさ、夕霧さんに言われたこと。私家族が死んでから不幸に浸ってたのかな」

「知らねえけど、家族がいないことが不幸なら、きよは違うだろ?」

「うん、そうだね。そうだ。」

喜八郎の言葉を噛み締めながら空を見上げると、流れ星が大きく弧を描いて飛んでいった。

「あ、流れ星!俺はじめてみた」

喜八郎も見えたらしく、夜だというのに大きな声を出すから、口の前に指をあて、静かにときよが言うと、ごめん。と喜八郎は小声で返す。

私もはじめてみた、と口を押さえながら十六の娘らしくクスクス笑うきよを見て、喜八郎も満足そうな笑顔をつくる。

「なんで流れ星って動くのかな」

「あの星、実は天狗が走ってる姿なんだってさ」

「えー。風が星を運んでるんじゃなくて?」

そんなこと言い合いながら寝床に戻った。


借りていた小説を読み終えたきよは、権平の書店で新しい本を探していた。前回は恋愛物を借り途中までは楽しく読んでいたが、駆け落ちして心中する結末がまだ恋を知らないきよにはどうにも共感できず、次は人情物を探していた。

喜八郎は部屋の隅に胡座をかき、怪談集を読みながら時々、おおーと感心した様な声を上げながら興味津々に読んでいたが、半刻が過ぎると集中が切れたのか本を閉じ、ヤエ遅えなーと文句を言い出した。

「私呼んでくるよ!」

きよは裏長屋へ戻った。

(今日は殊更に冷え込んだから、きっと外へ出たくないと渋っているのだろう)

長屋の戸を開くと、土間で呻きうずくまるヤエの姿が目の前に飛び込んできて、きよは目を見開いた。

--そこからは早かった。一月と立たぬうちに、ヤエは帰らぬ人となった。その年は寒波が強く立春と呼ぶには寒すぎる日だった。

きよはヤエの髪を梳き、丁寧に結った。普段化粧をしなかったヤエに化粧施し紅を指すと、その顔は生きている時よりも安らかで綺麗に見えた。

「ヤエ、こんなに綺麗だったんだな」

「毎日化粧すればよかったのに、師匠ってば勿体無いね」

庭にポトリポトリと落ちていた椿を添えて、冷たくなったヤエを寺へ引き渡した。

荼毘場から昇る煙を眺めて、きよの目からは枯れたと思っていた涙がまた溢れた。下を向きはらはらと泣くきよの隣で、喜八郎は歯を食いしばっているのか口をきゅっと結び、目に焼き付けるかのように煙をじっと見つめていた。


長屋に二人で戻ると、そこにヤエが居た存在感だけがあった。暖をとるために囲炉裏の前に喜八郎と座った時も、無意識に一人分の空間を開けて座っていた。そこにいる気がするのに、意識すればするほど、ヤエはもう居なかった。

沈黙が続く部屋に外の話し声が段々と近付いてきた。

「ヤエでも子供二人食わせていくのは厳しかったんじゃねえか?」

「だけどあんだけ気が強えかったら何も言えんだろ」

「まさかポックリ逝っちまうとはな」

足音はきよたちの長屋の前でピタリと止まり、扉越しに呼び掛けられる。

「喜八郎はおるかい?」

喜八郎は、小走りですぐに扉を開きにいく。

「○○のところのおやっさん、どうしたの」

きよはその場から様子を伺い、目が合うとペコリと会釈をして奥に引っ込んだ。

「ほんと愛想の無い娘だな」

「全く扱いづらいったらありゃしねえよ」とぼやいてから喜八郎に向きなおった。

「ここらで髪結いやるなら株を買って組合に入らなきゃならねえ。お前の腕ならよしみで面倒見てやってもいいぞ」

二人のぼやきを目の前で聞いた喜八郎は眉根を寄せ、きよも?と問いかけた。

○○は顎に手をやり考えるそぶりを見せ、あの娘はどっか奉公にでも出すかと答えた。

「そんな!」

「なんだ喜八郎、あの娘が好きなのか」

「嫁にでもするってーのか?なぁ」

揶揄い混じりにその顔を覗き込んだ。

「そうです。俺にとってきよはもう、家族みたいなもんだし、これからも一緒にいたい。それじゃダメなの?」

キッパリと喜八郎が言い放つと、大人たちは目を見開いて顔を見合わせ大笑いした。



大人たちが帰ったあと、きよはおずおず切り出した。

「喜八郎、さっきのさ……」

「勢いもあったけど俺は本気。--だけど、きよが決めていいよ」

喜八郎の真剣に見つめる瞳を、きよは怖いと感じた。

「妻になりたくないなら、結婚はしない」

今まで築いてきた関係が、音を立てて崩れていく。そういうのって好きな人とするものじゃないの?喜八郎は誰でも良いの?

ぐちゃぐちゃな感情がきよの中で吹き荒れ涙が滲む。

「きよ」

喜八郎が困った顔で呼びかけ、きよの頬に手を伸ばす。

嫌だ。変わりたくない。今まで通りが1番幸せだったのに、これ以上奪わないで。

「やめて!」

その手を振り払って走り出すきよ。喜八郎が結婚するって言ったのは、私が哀れだったからじゃないのか?ほんとは本当に自分はこのまま髪結いで良いのかな?

心の靄を振り切りたいとばかりにただひたすら駆けた。

(師匠、教えてよ……!)

あてもなく走った先は毎日ヤエと通った吉原。

見返り柳の近くに辿り着く頃には涙も出し切ったのか頭も冴えてきた。吉原の灯りがキラキラしている。ここはいつ来ても常春のような、それこそ桃源郷と言わられるのも納得のような。きっとその光は、遊女達の涙も笑顔も幸せも不幸も全部包んだ、泡沫の夢の様なもの。



大門を入るとすぐに板屋根の小屋があり、きよは案内茶屋でヤエに買ってもらっていた女通り切手を示して、吉原に入った。

夜の遊郭は昼よりも活気があり人の喧騒が、更にきよの孤独感を浮き彫りにした。

ちらちらと、降ってくる雪を見上げる。

そういえば日が暮れてからの吉原には来たことがなかった。喜八郎にも見せてあげたいなと考えた時、くしゃりと笑う姿を思い浮かべた。

心があたたかくなった。喜八郎はいつだって張り詰めたきよの心に寄り添ってくれていたのだ。

「夕霧様のおなーりー!」

ハッとしたように通りに目を向ける。周囲から一等抜きん出て賑わいをみせる人垣が目につき、きよは声のした方へ足早に向かった。

先頭の下男が声を張り上げながら、ゆっくりと歩き、禿のゆかりがそれに続いた。

更にその後ろから、絢爛豪華な着物を着た夕霧がきよの前に現れた。提灯を持った下男の肩に捕まり、右手は○色で金糸を○○に施した柄の帯の下で着物の裾を持ち上げている。

赤い番傘を夕霧にかざしてるもう一人の下男の後ろでは、女郎なのかまだ若い女が四人息を合わせて歩いている。

黒塗りの三枚歯の高下駄を地面に滑らせ、右に次は左にと、ゆっくりと八の字を描く様に、歩く夕霧。同じように下男や女郎達も歩むその列は一体となって、一つの船の様に、ゆるりゆるりと前に進んでいく。

「よ、夕霧!日本一!」

あちらこちらから掛け声が上がる。

通りの店の窓から身を乗り出し眺める者、店から出てきて見物する者など、まるで吉原中の客が夕霧に注目しているのではといった盛り上がりだ。

「最後の花魁道中だってな」

「今夜で見納めかぁ」

寂しいもんだねぇ、と野次馬の噂話が聴こえた。


夕霧さん!とかけた声に、まず反応したのはゆかりだった。丸く開いた目をぱちぱちと動かし、きよを見つめる。

反対に夕霧は眉ひとつ動かさず、視線も合わせる気配がない。すかさず下男が下がれと止めに入るが、きよはもう一度食いかかるように呼びかけた。今ここで伝えておかないといけない気がして、切羽詰まった気持ちで出した声は、叫びに近かったかもしれない。

「夕霧さん!」

--まちなんし、と夕霧が呟くと静かに花魁道中は動きを止めた。

きよは夕霧のそばに近寄り話しかけた。

「不幸の反対は幸せじゃないって言いましたよね」

「はて、そんなこと言ったでありんすか?忘れえした。なんとでもお言いなんし」

目も合わさず冷たく返す夕霧


「不幸と幸せはむしろ近くにあるんじゃないかと思います。だからーー」

フッと自嘲気味に微笑んだ夕霧は、初めてきよを見た。

やはり綺麗なその姿に、きよは気圧されそうになりながらも、目を逸らさずに見返した。

すると夕霧は一歩近付いて、きよの目線まで屈み、ゆっくりと言い聞かせるように呟いた。

「苦界十年、こはばからしゅうありんすね」

そう言うと、また背筋を伸ばし夕霧は遠くを見た。はたまた、何も見ようとしていないのか、虚ろな瞳は吸い込まれるように綺麗で、でもその瞳孔の奥には確かに火が灯っていた。

様子を見ていた先頭の下男が仕切り直しとばかりに声をあげる。

「夕霧様の、おなーりー!」

きよの横を通り過ぎ、立ち去っていく華やかで孤独な夕霧の後ろ姿が眩い妓楼の灯りに吸い込まれていく。まるで火に飛び込む蛾のように儚く、そして気高いときよは思った。


吉原を出てきよは、他の誰の為でもない、自分自身の日々を思い描いた。

朝窓を開けて舞い込んでくる桜、風鈴を聴き夜風で涼む垣根の下、夕暮れに家へ帰る紅葉の道、味噌汁で温まりながら眺める庭先の雪。

想像した日々の中、どれだけ季節が移ろいでも喜八郎だけは必ずそこにいた。書物で読んだ燃えるような気持ちはないが、ただ、そこにいて心地いい人。きよがきよらしくいられる場所。


薄暗い中、見返り柳の下で見知った影をみつけたきよは心が弾んだ。

探しに来てくれたんだ!と思わず喜八郎に駆け寄る。

「喜八郎、なんでここって分かったの?」

吐く息が白い。

「夜明るいとこなんて、そんなないだろ」

そう言いながら自分の羽織をきよに着せた。

「とっとと帰ろう、寒くていけねえ」

そう言って、フイと歩いて行く

その少し素っ気ない仕草や不器用さが、なんだかヤエに似ていると思い、きよは喜八郎が可愛いと思った。

喜八郎の耳が赤いのは、寒さのせいなのか。

「喜八郎」

着物の袖を掴むと、喜八郎が振り向く。

「なんだよ」


ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、少し不安そうで寂しそうな目をしている。今迄喜八郎のこんな表情を見たことは無かった。

不安な思いをさせてしまったことに、申し訳なさを感じたが、それ以上に自分の事でそこまで気持ちが動かされる彼を、これからはもっと大切にしていきたいと、強く願った。

「これからも一緒に隣を歩いていい?」


喜八郎は真っ直ぐ向き直り、きよの手を両手で包んだ。

きよはすっぽり包まれた手の感覚に、迷子になって泣いていた頃の喜八郎では無いんだなと思い、自分の心臓が高鳴るのがわかった。

「きよ、俺の妻になってくれますか」

いつのまにか低くなり、男性的になった声。

節くれだった指先をキュッと握る。

取り合った手の汗はどっちのものか分からなくなっていた。

コクリと頷くきよ。

じわじわと頬が熱くなっていくのを感じる。

喜八郎の耳がさっきより更に赤くなっていた。



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たまゆらを君と結ぶ たまき瑠璃 @kuruliokai

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