王国軍の撤退

 王国軍が完膚なきまでに敗北を喫したセドリア川の戦いから一夜明け、その夕刻にエルドリア城に凶報がもたらされていた。


「お、王国が敗れたとは真の話か……? 何かの間違いではないのか」


 真っ先に狼狽の声を上げたのは、グラハム・ロンベルクの全幅の信頼を受け、五千の兵を任されていたレスター・シュライヒ伯爵であった。シュライヒ伯爵家は軍部の中枢を担う軍人を多く輩出するエリート家系であり、また選民思想の強い人種でもあった。

 そのレスターは伝令の報告を聞いて額に青筋を立て、苛立ちを露わにする。


「あり得ぬ、王国軍は四万を数える大軍のはず。かの大軍が敗れるなど考えられぬ」


 アクロンが火に油を注ぐように声を上げる。レスターはグラハムを心の底から敬愛していた故に、そのショックは計り知れないものであった。グラハムの才を誰よりも近く認識していたからこそ、軽く言い放ったアクロンに怒りを覚えた。思わず睨みつけそうになった自分を抑え、落ち着き払った仮面を即興で作り上げる。

 このレスターもまた、大公の地位にありながら元は男爵であるアクロンを見下している。それを表に出さないのが、軍人の過酷な環境に揉まれた成果でもあるのだろう。


「レスター様、城下で暴動が起こっております。どうやら市民が王国軍の兵士に襲いかかっているとのこと」


 四万の軍勢を率い敗れたのだ。誇り高き王国軍の失墜した名声はもはや形をなさない。


 王国軍の主力がエルドリアを発った後も、残った兵士の横柄な行いは留まることを知らなかった。大公国正規軍の勝利が誇張されて伝わった今、もはや王国軍の自由を許す者はおらず、それどころかこれまでの鬱憤を晴らすべく粗末な刃物や木の棒を得物として王国軍の兵士を襲い始めたのだ。突然の豹変ぶりに歯噛みしたレスターは苦渋の決断を下す。


「くっ、もはや是非もない。すぐに撤退するぞ!」


レスターにとって市民とは戦闘能力をろくにもたない雑魚であり、選民思想の強い彼自身にとって卑しい人種である。そんな暴動を起こした市民を抑えつけるのは難しくはない。能力で言えば天と地ほどの差があるのだ。しかしこれほど濃厚な叛意を見せられれば、もはや王国によるエルドリア統治は立ち行かない。アクロンを見下す判断に時間は要さなかった。


「そ、そんな!王国軍の戦力を失えば我らは保たぬ!」


 それはアクロンにとっての「絶望」を意味していた。エルドリアに王国軍が進駐してから、五千をゆうに超えていた公国軍のうち、アクロン自身の愚行や王国軍の狼藉によって信望を失い、アルバレンに脱出する者が続出したのである。その結果、総勢は五千を下回る王国軍が大きな顔をする実情に士気は非常に低かった。


 この国はもはや王国の圧倒的な力がなければ立ち行かないところまで追い込まれている。急速な治安の悪化も王国軍が主因なのだから、悪化の一途を辿る情勢に歯止めを掛けることすらままならなかった。


「そもそも貴様が寝返らずとも五万の大軍ならばいずれエルドリアを滅ぼしていた。貴様の余計な行為がこの状況を生んだのだ。もはやこの国に用はない。貴様も命が助かりたくば王国に亡命でもするが良い。待遇は保証せんがな」


 レスターはそう吐き捨てて早足で部屋を去っていく。

 八つ当たりも同然の言葉だったが、アクロンは顔を伏せた。自分のした不義理な行為が今の現状を呼んでいることは、重々承知していたからである。アクロンはその場に立ち尽くすことしかできない。

 やがて力なく椅子に座り込んだアクロンは、拳を卓に叩きつけた。大軍を率いて揚々と西進したはずの王国軍が、寡兵の公国軍に敗れた。その事実を未だ信じられずにいた。


「これが報い、というわけか」

「左様」


 自嘲に塗れた呟きを肯定する言葉は、レスターが去った方向からのものであった。


「……リンデル男爵か」


 苦虫を噛み潰した様な顔で応対する。


「これが先代大公を弑した報いだ。目先の欲望に釣られ、軽薄な判断と甘い見通しが国を滅びに導いた」


 底冷えするような声音に物怖じすることなく、アクロンは飄々と告げた。


「ふっ、貴殿も私を罵倒するか?愚かにも国を裏切った私に」

「そんなことをしたところで意味はないわ」


 無論、セルジオとて怨念を吐き出そうと思えばいくらでも出てくる。弱腰な大公ながらも、アレオンのことは強く敬っていた。そのアレオンを殺した当人を前にして、余裕のある笑みを崩さずにいられているのも、年の功というものだろう。


「ならば私をどうするというのだ。言葉で罵らないのなら、ここで私を暴力によって屈させるか?」

「人間を痛めつける趣味はない。だが我が身を含め多くの貴族がヘンリック様に寝返っている。もはや勝ち目などない。大人しく降伏した方が身のためだ」


 追い詰められたアクロンにとって大人しく降伏する理由はないが、逆にこれ以上抵抗する意味もない。セルジオとてアクロンは九分九厘極刑に処されると確信しているが、慈悲によって御家が存続する可能性もまだ残されている。


 「降伏した方が身のため? 生き残ったところで国を乱した大罪人として晒されよう」


 逆に勝てば稀代の英傑として名誉を挽回できる可能性も残されている。それが強い者が正義である乱世の宿命で、たとえ反逆者であろうと勝てば英雄になるのだ。寡兵で4万を撃ち破った現実があるならば、自分にもできない話ではないとアクロンは腹を括った。そしてクワッと目を見開いて立ち上がる。


「どうせ死ぬならばみっともなくとも足掻いて見せるわ!」


 懐から出した鋭利な短刀を掲げ威嚇しながら、アクロンはその場から立ち去っていった。全盛期のセルジオならば容易く往なせていただろうが、還暦を間近に控える現在、老体に鞭を打ってまでリスクは負えなかった。


「愚かな者よ。事ここに至って戦を挑むとは」


 セルジオは小さく溜息を吐く。事実だけ見ればアクロンに与していたセルジオも同様に国を乱した大罪人なのだ。もはやヘンリック率いる正規軍の凱旋後は、自身の立場が危うくなるのは必定である。少なくとも改易は免れず、多くの貴族も同様の憂き目を見るはずだ。


 御家存続は許されるとしてもこれでは先祖に申し訳が立たない。自業自得だとは分かりながら、自分一人が取り残された蕭条な一室に身を浸すしかなかった。

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