勝利
セドリア川の戦いが公国軍の勝利に終わるや否や、至る所から歓声が上がった。返り血を浴びて赤黒く体を染めながらも、勝利に湧いて飛び上がっている者もいれば、深い傷を負って床に倒れながらも勝利に口元を緩めている者もいる。皆で掴み取った勝利だ。
「勝った、か」
俺はそう独りごちた。周囲には王国兵の死体が無数に転がっている。歴戦の猛将ならば勝利の証だと誇ることもできただろう。あるいはヘンリックであっても同様であったはずだ。この世界の人間は戦とともに生きている。平和な国から来た俺のような異分子が、それを簡単に受け入れられるはずもなかった。
ーー俺がこの凄惨な光景を生み出したのだ。
その事実から目を背けることはできなかった。
無論、国を、民を守るために為さねばならなかったことだ。しかし感情の面でそう簡単に折り合いをつけることはできない。それでも気丈に背を張って堂々と馬を跨いだ。俺は臨時とは言え大公だ。情けない姿を見せるわけにはいかない。
「この勝利はご主人様の甲斐あってこそ。多くの民が救われました。救国の英雄です」
側にいたシャロンが聖母のような笑みで告げてきた。胸の内を明かされた気分だ。
「英雄とは大層な称号だ。そう呼ぶとしてもエルドリアを奪還してからにして欲しいものだな」
この戦いで払った犠牲は極めて少ない。その分怪我を負ったものは多いが、死に直結するような状態である者は皆無だ。ただ、俺の命令によって王国軍の横っ面に奇襲をかけた俺の手勢は乱戦によって多くが命を落とした。精強な私兵隊は1人の犠牲に留まったものの、数合わせで投入した他の兵はそうではなかった。元々百人の私兵隊だけで行おうと考えていた。これは彼らの技量を見越して、機を見て撤退する事は造作もないだろうと判断してのことだ。だがそれでは奇襲には足りず、一瞬で飲み込まれてしまう懸念があった。
結果、エルドリアの戦いで主を失ったものの、コンラッドの誘導でアルバレンに辿り着いた将兵を組み込んで戦うことにした。その結果、経験の浅い部分が露呈し、劣勢を感じる判断力を失い撤退に失敗するものが続出する。一気に四方を塞がれ一網打尽にされてしまった。蓋世の英傑ならばもしくは、用兵を更に巧みに行い犠牲を最小限に抑えられるかもしれない。だが俺にはそんな能力はなかった。
後悔しても仕方がない。今後のことについて考えなくてはならない。アルバレンを守ったものの、この戦の趣旨はエルドリアを奪還することだ。すぐに三千の兵の態勢を整え、エルドリアに向けて一路進軍する必要がある。王国が敵領で大敗を喫し瓦解した今、エルドリアはもぬけの殻に等しい。後盾を失ったアクロンももはや貴族の支持を一気に失う筈だ。
「エッカート、傀儡のヴェルマー卿を一気に崩すぞ。元々ヴェルマー卿の政権に否定的だった有力貴族に調略をかけよ。内部から瓦解させる」
「承知仕りました」
諜報部隊を率いるエッカートはアクロンに気づかれずに国内の有力貴族に接触することができるはずだ。今は陽が沈みはじめる逢魔時であるが、明朝未明には出立したい。喜ぶのはエルドリアを落としてからだ。浮ついた高揚感から一気に現実に引き戻された俺は、冷静に思案を固めていた。
アクロンが王国に寝返って大公の地位を強奪したことを快く思わない人間も当然多い。ヴェルマー男爵家は長い歴史もあり、形こそエクドール随一の権威を誇っていたが、所詮はソルテリィシア大公家の寄子に過ぎない存在だ。エクドールに入部した当時のソルテリィシア家の圧倒的な武威によって屈せざるを得ず、その関係は今まで続いていた。アクロンは“やりすぎた”のだ。エクドール=ソルテリィシア大公国の下には伯爵以上の爵位が存在しない。多くは子爵で、有力者が男爵の地位にいた。元々エクドール州を治めていた貴族が、男爵より上の地位がいなかったのが理由である。エクドール州は当時から無用の土地として考えられており、広大であるにも関わらず住める土地は少ない。雪も多く冬の間は行き来も難しいという土地柄から、辺境伯の地位すらなかった。
つまり、エクドール州は力の優越こそあれど、地位はほぼ横並びという特殊な地域だったのである。大公家の寄子となった現在では、名目上はどこも平等な立ち位置だ。そんな中、権力に然程差のない人間が突然自分を差し置いて分不相応な地位についたとしたら、平静でいられるだろうか。権力に固執しない俺であっても確実に不満の種を抱える。ましてや長年エクドール州を統治してきた人間ならば尚更だろう。
アクロンの手法はやり方が悪かった。王国の誘いに乗って国を乗っ取ろうと画策するに飽き足らず、前大公のアレオンを弑するという暴挙をしでかしたのだ。アレオンは王国の圧迫に耐えかねて、婿を迎えることで帝国の庇護を受ける決断を下した張本人と言っても、弱腰ながら好感の持てる性格によって好意的に接する貴族も多かった。元より権力に固執するような貴族が少なかったことも理由の一つであるだろうが、まがりなりにも十年近く大公を務め上げたのだから、小国の主としては及第点の仕事をしていたと言える。
無傷のアルバレン城塞に戻ると、待機していた一千五百の兵に出迎えられた。戦勝の報告に城内は湧き立っており、俺を手放しで讃えるものが多かった。城下町も危機を脱したことで安堵の空気に包まれている。アルバレンの城下から徴用した兵は多かった。一家の大黒柱である男が戦争に駆り出されたとなれば、残された家族は気が気ではなかっただろう。仕方なかったとは言え、申し訳ないことをしたと思う。
祝杯の催しは丁重に断った。戦はここで終わりではないのだ。明朝には出立することを伝えるとセレスに苦笑しながらも、直後には神妙な面持ちになって畏っていた。
気を緩めず明日に備えるよう将兵に伝達も命じている。とりあえず早く就寝して身体を休めたいと充てられた部屋に入ると、直後にノックが耳に響いた。
「ヘンリック様、少しいいかしら」
「なんだ。俺は疲れている。手短に済ませろ」
俺は苛立ちをアピールしながら向き直った。眠気に襲われていたのは事実だが、強い疲労感とは裏腹に目は冴えていた。戦の喧騒が今も耳を鳴らし、しばらくは落ち着きそうにない。
「国を救ってくれてありがとう。貴方がいなければ国は滅びていたわ。感謝してもしきれない」
一切の澱みのない、真っ直ぐな感謝であった。アルバレンを守ったという事実が、今もなお胸の内の昂りを続かせている。一方で義父の死を無駄にせず、王国軍を打倒できた安堵感も同時に胸を這っていた。
しかし、強い疲労がそんな安堵感を打ち消し、残った耳鳴りのような喧騒が俺の苛立ちを加速させていた。本来ならば受け入れるべき感謝も、素直に受け取ることができない。
「何度も言っているがエルドリアを落とさぬねばこの勝利も水の泡だ。謝意を持つのは自由だが、俺に言うならば全て終わった後にしろ」
「いいえ、アルバレンの民を救った。その事実は私にとってとても大きいものよ。口だけの私にはとてもなし得ないわ。父上も同じことを思うはずだわ」
自虐の孕んだ口調に心が大きく揺るがされる。アルシアナは「ソルテリィシア大公家の姫」である。正義感の強い彼女は、この勝利を誰よりも喜んでいる。国民を危難から救い出せたのだから。
「その父が死んだかもしれぬのによく平静でいられるものだ」
裏では己の不運を嘆いて枕を濡らしているかもしれない。疲労困憊の脳はそんな配慮も生成できず、思わず本心を告げてしまった。
「……そうね。けれど嘆いたところでどうにかなることではないわ。私は前を向くことにした。貴方の横を胸を張って歩くために」
篤実な物言いであった。瞳には一切の嘘偽りを感じ取れない。翳りを見せたその表情を見て、俺は先ほどまでの言動を後悔した。しかしなぜか二の句を紡げない。
「……」
結果黙って俯くことしかできなかった。
「とりあえず今日は感謝を真っ先に伝えたかった。用件はそれだけ。じゃあ……。明日の武運を祈ってる」
アルシアナは告げるだけ告げて颯爽と去っていった。流石にデリカシーのないことを言ってしまった自分を責めながらも、身体的にも精神的にも深い疲弊を感じていた俺は耳鳴りを無視してそのまま静かに眠りにつくのであった。
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