セドリア川の戦い②
遡ること一日。俺はグレスマンと共に川の上流を訪れていた。
「あの、ヘンリック様。これを何に使うって言うので?」
意外にも、二人でこうして話すのは私兵隊の選抜以来である。グレスマンは人の良い笑みを浮かべつつも、こなした命令の意図に疑問を持っているようだ。
「火計だ」
「火計?」
俺が王国軍に完膚なきまでの勝利を突きつけるために選んだ策、それが炎を使うことだった。火計は古今東西戦において一定以上の有効性が認められてきた策だ。人間は炎に飲み込まれれば一溜りもなく、やがて炭と化してしまう。関東大震災では多くの住人が炎によって命を奪われている。現代日本でも火災は容赦なく猛威を振るい、火を用いた犯罪が後を絶たない。裏返せば、それほど威力や殺傷能力が高いが故に使われているということだ。
「つまりは火によって敵を打倒する。この川を使ってな」
川を渡る王国軍は川の流れに逆らっているため、敵の身動きを制限した状態で一網打尽にできる。そして上流から下流という川の流れを使って火を流すのだ。
「なるほど……。しかし水と油は相反する存在。油を介して火をつけても流れの強いこの川では火は瞬く間に消えてしまうのではございませぬか?」
グレスマンは俺の言葉の意図を瞬時に理解し、問題点を探り当てた。確かにグレスマンの言う通り、火をつけて川に流したところで、すぐに火は消えてしまうだろう。何か細工を施す必要がある。
「ああ。故に水で火が消えにくくする。集めた木材で筏を作り、その上に油で浸した麻縄を縛りつけ、薪を敷き詰めて上流から流す。浮いている筏の上に炎上していれば余程のことがなければ消える事はない」
大雨に襲われ川の流れが早くなり、筏が転覆したりすれば消えるだろうが、川の流れが早くなればそもそも渡河も難しくなる。わざわざ雨の中危険な場所に足を踏み入れる事はしないだろう。川の東岸で雨が止み水量が落ち着くのを待ってから進むのが賢明だ。
三国志で孫権と劉備の連合軍が曹操を打ち破る赤壁の戦いを参考にしている。油をかけ薪を満載した火船によって曹操の船団は大炎上している。急流のセドリア川で火の勢いを持続させるため、水で消えにくいよう細工を施すわけだ。
「なるほど……。それならばロンベルクを討ち取れるやもしれませぬな」
光明を感じ取ったグレスマンが目を見開いている。
「油を集めさせたのはこのためだ。火攻めは成功すれば最も有効な策になる。故にグレスマン、貴様には上流から筏を流す役目を任せる」
油は相当量用意できた。あとは川に流す筏を大量に作る作業だ。
「はっ?そのような重要な役目を私にですか?」
「ふん、貴様を信用して頼んでいるのだがな」
俺は拍子抜けしたように肩を竦め、溜息をついた。その様子を見て顔を青ざめたグレスマンが慌てて捲し立てる。
「め、滅相もございませぬ。必ずや成功させて見せまする!」
これがグレスマンに命じた内容であった。
◆
(炎が何故川から流れてくる!)
グラハムは眼前に迫る非現実的な光景に息を呑んだ。上流より火を纏った筏が無数に迫っているのだ。現実を受け止めきれず、避けきれない未来に歯を食い縛る。側近も貴族である。自らの身が大切なのは当然であった。火船を視認するや否やグラハムの元を離れ、故にグラハムは焦りから溺れかける。足のつく川であっても、溺れてしまうことがままある。それを情けないと思う余裕すら、グラハムには既にない。
公爵家の当主として相応しき豪華絢爛な威容を備えた重々しい甲冑が災いした。甲冑は重々しく、ただ川を渡ることも難しい。そんな泳ぐこともままならない現状で、迫りくる炎はグラハムの恐怖を煽る。
「ま、まだ我は死ぬわけにはいかぬ!おい、だれかあれから我を救え! 助けた者には望むものを与えようぞ!」
その姿はおよそ公爵家の当主とは思えない焦りようであった。しかし必死な言葉が届く事はない。側近の貴族も我先にと川の岸に向かっており、グラハムの周りに人影はもはやなかった。
「くっ、無念だ。我がこのような死に方を迎えるとは思わなんだ」
グラハムの胸に去来した自虐の念が、口から飛び出して虚空に消えていく。火の勢いは尋常ではなかった。
王国はこの先どうなるだろうか。公爵家が力を失わず今後も国の中枢にいられるだろうか。そんな未来を案じる思考を巡らせる。グラハムの嫡男は26歳。老獪な他の公爵家の面々と相対するにはまだまだ未熟である。大敗の責を取らされて公爵の地位を失う恐れもあった。
しかし後悔は先に立たない。グラハムは王国と公爵家の安寧を祈りつつ、激流と共に火の筏に飲み込まれていった。
◆
「敵大将グラハム・ロンベルクを討ち取ったりぃ!」
王国軍にとっては絶望が、公国軍にとっては朗報が甲高い声と共にもたらされた。あるものは事の真偽に右往左往し、あるものは自失茫然としている。グラハムは王国軍を率いる総大将で、兵士からの絶大な信頼を受け、精神的支柱でもある。その人間が死んだなどと伝えられて冷静でいられるはずもない。
煩雑な戦場において、「グラハム・ロンベルクの討死」の影響は計り知れないもので、瞬く間にその真実は戦場を駆け抜けた。
やがて現実を認識した一部の兵が一目散に脱しようと駆け出す様子を皮切りに、惑乱が支配した戦場は瞬く間に崩壊した。四万の兵が瓦解したのだ。もはや統制という文字は存在せず、一部では混乱のあまり同士討ちが起こる有様であった。
「敵指揮官、特に貴族を捕まえろ! 捕まえた者には褒美を与える!」
一方で、大公国貴族が息を吹き返したように精気を取り戻し、掃討戦の様相を呈していた。都合の良いことに鉄条網は王国軍によって殆どが破壊されており、落とし穴も厚い板を架ければ渡れる。アルバレンに残った千五百を除く大公国軍三千が容赦なく敗残兵を襲った。
精強であるとされた王国軍の散り様とは、なんとも無様なものである。また狩られる側が狩る側になる光景は、獰猛な獣が覚醒する姿に似通っていた。激流のセドリア川は慌てて退避しようとする王国兵を容赦なく襲い、重い甲冑を脱ぎ捨ててまで必死に逃げる光景があった。
そして部隊の指揮官であった貴族を多数捕縛すると共に、王国軍の四分の一以上を討ち取るという大戦果を挙げ、セドリア川の戦いは幕を閉じる。捕縛した貴族はいずれも一定以上位が高い者ばかりで、王国との交渉で利用できそうである。グラハム・ロンベルクは激流と火の筏の餌食となり、死体は川の藻屑となった。王国の一角を支える公爵家の当主の死去は、王国に大きな激震をもたらす事だろう。
俺は浮ついた達成感と共に、拳を強く握った。
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