セドリア川の戦い①
グラハム・ロンベルクは悔しげに歯の奥を軋ませる。斥候の報告によれば、幅が広く急流のセドリア川に架かる橋が無残に崩れ去っていたという。策としては至極真っ当な手段であるが、胸臆に蔓延る感情は複雑なものであった。
「なに……? 鉄の柵があるだと?」
前方の部隊が川を渡り始めた時、斥候によって鉄条網の存在が知らされる。一度は眉を顰めて不快感を露わにした。しかしすぐにいつもの余裕に満ちた面持ちに戻ると、次は敵を嘲笑うように口角を緩め、呆れたように前方を睨んだ。
「ふん、懲りずに同じ策を講じるしかないとは、落ちぶれたものだ」
無論、グラハムとて対策を講じていないわけではない。布や板で柵を覆って、接触するリスクを抑え、破城槌でなぎ倒すという策だ。ただそれでも厄介なことには変わりがない。ひたすら嫌がらせのように罠で進路を塞がれていく、これに不愉快を覚えるのも当然であった。
しかし敵が城に籠もる前に、四万といえど徒らに兵を減らしたくはないのが本音で、なるべく少ない被害で戦うつもりであった。鉄条網の餌食となった味方の背中を越えていったエルドリアの戦いのような過ちは二度と犯さないという忸怩たる決意が見て取れる。
だがそれを邪魔するのは、またも鉄条網を挟んで前方にいる公国軍から放たれる飛び道具であった。弓矢は容赦なく王国軍を襲う。しかし対処に手惑い瓦解しかけた以前とは違い、咄嗟に盾で頭上を覆うなど、公国軍の攻撃には殆ど被害を受けることなくある程度の対処ができていた。
「同じ策が何度も成功すると思っていたのであろうな。なんとも愚かな者たちよ」
「誠に左様ですな」
側近の同意に満足げな笑みで答える。鉄条網はすでに半分ほどが対処され、板を地面に敷いたことにより端材の毒に触れる者も少ない。全ては王国が描いた通りに事が進んでいるはずだった。
しかし突如として王国軍のものではない喊声が戦場をこだまする。街道の南北に生える森の木々にジッと身を潜めて、「王国軍の総大将が川の真ん中に差し掛かったころ」を見計らって、ヘンリックの私兵隊が一斉に前方に意識を向けていた王国軍の横腹を痛烈に突こうとしたのだ。
怒号と共に私兵隊と僅かな手勢を合わせた五百の兵で戦場に混乱を招いた。
そして鉄条網の対応にあたる前方の部隊も時を読んだようにヘンリックが設置していた落とし穴に嵌った。これも時間稼ぎに過ぎないが、道の端から端まで溝が通っている以上、一定以上の効果は見込めるというヘンリックの判断である。
横腹を突かれた王国軍は、其方に対処しようと気を向けてしまい、前方から飛んでくる飛び道具への対応が疎かになった。弓矢はこれまでの不振が嘘のように命中し始め、呻き声が至るところで上がる。
「どうなっている!」
河上で混乱を感じ取ったグラハムが声を張り上げた。
「わ、わかりませぬ。敵の奇襲やもしれませぬ」
「大公国の雑魚共が図に乗りおって。だが兵数は圧倒的に此方が勝っている。焦る必要などない。数で抑え込め!」
グラハムの苛立ちは頂天に達していた。大公国の弄した策に嵌められたこともあるが、川の流れで思うように身体が進まない事にもどかしさを覚えていたのが主な原因である。
しかし思惑に乗せられて焦るほどグラハムは暗愚ではない。公爵家の当主としての意地と誇りを胸に、虚空を睨みつけた。
◆
魔法によって存在感を消失させ、息を潜めて身を隠していた俺は、目の前の煩雑な戦場に吐き気を覚えていた。耳朶を打つ怒号、槍が人の肉を突き破る生々しい音、そして鮮やかに舞う赤黒い鮮血。どれもが俺の生きてきた時代では絶対に見ない光景だ。不意を衝かれたことで、敵の方が圧倒的に被害は多く、優勢に事は進んでいるように見える。選りすぐりの精鋭とはいえど、四万の兵に寡兵で横槍を突き刺したのだ。少なからず味方も手傷を負いつつある。
俺は歯軋りと共に震える手を抑えられない。
「大丈夫ですよ」
自責に苛まれそうになった俺の手を包み込んだのは、少し離れて控えていたはずのシャロンであった。私兵隊が大怪我を負った場合に備え、シャロンも危険だと分かりながら連れてきていたのだ。
「ヘンリック様の策は、必ず成功します」
何を根拠に、と問い詰めたくなった。だが吸い込まれるような双眸に捉えられ、そのまま口を噤むことしかできない。手の震えはいつのまにか止まっていた。
卑怯だと罵声が何処かから聞こえた。卑怯?寡兵で戦うのならば卑怯にでも戦うしかないのだ。明瞭な敵意が奔流する戦場において、「正義」などどこにもないのだ。あるのは薄汚れた人間が互いを斬り付け合う、最も正義に反したものだ。
だが、劣勢に転じたら撤退するよう命じていたにも関わらず、徐々に王国軍の混乱が収まりつつあっても、乱戦において冷静な判断力は持ち合わせていないようで、撤退の機を逃しているように見えた。
(頼む、グレスマン。ロンベルクを仕留めてくれ)
もはやグレスマンを信頼し、ただ祈るしかない。私兵隊の必死な足止めを無駄にしたくはない。
グラハムは渡河に時間がかかることを見越して、安全を確認したあと渡るのだろうと考えていた。しかし急流に足を取られ流されてしまうのを危惧したのか、川を渡る軍よりも上流で歩調を合わせて進んでいる。自分より上流に側近を置いて、流れを軽減しようとしているあたり、狡賢い性格であることが窺えた。そしてついにその時は来る。
「な、なんだあれは!」
誰のかも分からない喫驚が戦場の将兵の耳を一閃に劈く。俺は反射的に背後に視線を向ける。
猛然と迫る業火が川を下っていた。
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