逃避行
酷く身体が震えていた。暖房設備も何もない地下牢は極寒で、視界は暗黒に包まれている。貴族の罪人を収容する場所だけに、もう少し環境がマシでも良いのではないかとアルシアナは切なげに笑った。いや、罪人に口なしだ。しかし、アルシアナは犯罪などを犯した覚えはない。
突然ヴェルマー男爵に拘束され、なんの説明もないままに放り込まれたのだ。困惑の渦に巻かれながら、強い孤独感に浸る。ヴェルマーは温厚な貴族で、無礼を働かれたことなど一度もない。しかし、牢屋を見張っていた兵に尋ねると、色々情報を吐いた。そして驚愕の事実に心が折れそうになった。父がもうこの世にいないかもしれないという悲観、このまま見捨てられたら自分はどうなるのかという不安に苛まれる。
窓すらなく光が全く刺さない空間は絶望を加速させる。このまま罪人として一生を終えるのか、と世の中を呪いたくなった。
「誰か、助けて……」
自分でも情けないと自嘲するようなか細い声が虚空に消える。助けなど来るはずがないのに、勝手に期待して落胆はしたくないと、視線を緩やかに落とした。
「行くぞ」
縮こませた身体が伸びる。顔を上げた先にはあのヘンリック・レトゥアールがいた。普段の余裕綽々という態度からは想像もできない程に焦りが顔に浮き出ている。
「えっ……。ヘンリック……様?」
呆然と口を開いた。なぜ自分を助けにきたのか、それを問い質したい気持ちで一杯になったが、そんなことを聞けるような状況ではない。ヘンリックは苛ついた表情でアルシアナの手首を掴み、勢いよく自分の腕を畳んで駆け出した。
(震えてるわ……)
傲岸不遜ないつもの態度を見ているアルシアナは、何かに恐怖しているのか小刻みに震える様子を感じつつも、されるがままに引っ張られるしかなかった。
「あの、なぜここに……」
恐る恐る尋ねるが返答は帰ってこない。下らない問答に付き合っている暇はない。そう言いたいのだと後ろ姿が語っていた。ヘンリックは妻であるアルシアナの存在を決して認めようとせず、無視に等しい態度を取り続けた。ある日財務長官を処刑したことが耳に入った。アルシアナはそれを責め立てるも一切心に届くことはなく、軽くあしらわれるだけであった。なのになぜ、単身自分を救うためだけに地下牢までやってきたのだろうか。
(私が公女だから?それとも私のことを心配して?)
思わずそう聞きたくなった。それをすんでのところで踏みとどまったアルシアナは足を早めるヘンリックと共に逃避行の道を急いだ。
王城には公族以外知り得ない脱出通路がある。これはヘンリックが指示して作らせたもので、エルドリア郊外の西、五キロ程のところに出口が設けられていた。アルバレンに脱出する必要に迫られた時のために人員を雇って通路を掘らせていたのだ。
私兵隊と合流を果たしたヘンリックとアルシアナは一路西に進む。ようやく余裕が出たのか、歩く速度はやや落ち着きを見せていた。
「聞きたいことがあるの」
「なんだ。それは今話すべきことか?」
精神的な余裕がないヘンリックは難色を見せる。飄々と振る舞うヘンリックに似合わず、右手は未だアルシアナの手首を掴んだままで、精神的に不安定な様子がアルシアナにありありと伝わってきた。
「なぜ私を助けたの?」
「貴様がいなければ俺の次期大公の地位が揺らぐからだ」
アルシアナの予想通りの答えが返ってきた。これが本心なのか、現状判断はできない。しかしそれが事実でもあることがアルシアナは分かる。ソルテリィシア大公家の血を継ぐ自分がいなければ次期大公として認められるのは難しい。
(でも余裕がない今なら、本心を引き出せるかも)
「これ以上は答えん」
「一つとは言っていないわ。これからどうするつもり?」
「……」
「あれほど息巻いていたのに、何もないの?」
アルシアナはあえて逆撫でするように告げる。
「……そうだ。偉そうな態度を取っておいて、完璧だと確信して講じた策が裏目に出た。もはや国を滅ぼした大罪人だ。誹られようと文句は言えぬ」
ヘンリックは感情の濁流を抑え切ることができなかった。自嘲めいた表情にアルシアナは胸を締め付けられる。
アルシアナとてこれほどに弱々しい姿を引き出したかったわけではない。徹底的に固く生成したその仮面の下の顔を見たいという気持ちはあったが、気丈な姿を見せてほしいというのも本心だった。
「自らの浅慮が義父を殺した。もはや俺が殺したようなものだ。亀のように城に篭っていればこうなることはなかった。俺が確実に勝てる戦略を追い求めた結果、最悪の結果を招いた。ああ、責めたいだけ責めればいい。大口叩いた男の末路がこれだ。笑いたければ笑え!」
そしてヘンリックは感情を偽ることなく吐露する。何もしない方が勝てる可能性は高かった、その現実に打ちひしがれていた。
「いいえ、責めないわ。責めたら貴方は救われてしまうもの」
「……ッ」
「まだ終わったわけではないわ。父上も死んだと限ったわけじゃない。愚者の屍は凍らない。この国にはそんなことわざがあるわ」
「それが……どうした」
「愚か者は死んでも魂だけ現世に残り、一生残り続けるという意味よ。貴方がこのまま諦めたら、貴方自身が苦しみ、国民全員もまた深い苦しみに喘ぐことになる」
「俺は帝国を打倒するためにこの国を固めようとした。俺は前皇帝の四男、国では嫌われ者だった。俺は政略結婚が決まった時喜んだ。帝国を打倒する手段を得たと。民を危険に晒し、公女を踏みつけてまでこの国を帝国打倒の道具にしたかった。だが結果はどうだ。無様にも必須性の低い戦で大敗を喫し、積み上げたものを全て沙汰やみになった。最早一縷の望みもない」
視線はどこか上の空で、正気とは思えない様子だった。ヘンリックは憔悴しきっていた。間接的に自分の義父だけでなく、多くの兵を殺したのだから。
――パチーン!
アルシアナの左の掌がヘンリックの頬を一閃した。
「それほどの思いを秘めているのに、どうして諦めるの?!まだ戦える。まだ負けてないわ。私の嫌いないつもの不敵さを見せて。父上の犠牲を無駄にしないで!」
迫真の叱責だった。このまま諦めたらアルシアナの言う通りアレオンの死を無駄にしてしまうことになる。悔いることはいつでもできる。しかしここで諦めれば義父の死を無駄にするだけでなく、帝国の民を全員見捨てることにもなる。ヘンリックにとっても、それは一番恐れていたことであった。
「……死んだとは限らないんじゃなかったのか?」
ヘンリックの双眸に光が灯る。アルシアナはそれを見て口角を緩めた。ようやく強く握られていた手首から力が抜ける。手首は少し赤らんで跡になっていた。
「揚げ足を取れるくらいにはなったのね」
「ふん、いいだろう。見せてやる。乾坤一擲の大勝負だ。どんな汚い手でも使う。汚名は返上せねばならぬ」
綺麗に勝とうとは思わない。どんな手を使ってでも泥臭く勝つまでだ。そんな決意がヘンリックの胸に宿った。
「元々汚名なんて無いに等しいではありませんか。これはご主人様だけの責任ではありません」
ヘンリックの後方に控えていたシャロンが突然口を挟む。突然の横槍にヘンリックは露骨に眉を顰めた。
「いいですか、公女殿下。この方は素直じゃないんです。口では不遜な態度を取っておられますが、実は公女殿下のことをよく気にしておられました」
「……そうなの?」
アルシアナは目を丸くしてヘンリックに問うた。
「こいつの話は嘘八百だ。聞かなくていい」
「そもそも、ルドワール男爵を処刑したのは、国の銀を着服して王国に横流ししていたためで、なんの根拠もなく権力を濫用したわけではありません。労働者の待遇改善や孤児院の支援などもなされています。決してアルシアナ殿下を嫌っているわけではありませんよ」
「……それが本当なら私、なんて勘違いを」
途端に顔面蒼白になる。それ以降、アルシアナは言葉を噤んだままだった。
「余計なことを言うな」
「でも主君が悪印象を持たれているのも好ましくありません。罰ならお受けします」
「はぁ……。もういい」
ヘンリックは呆れて溜息をついた。そして一行はその日のうちにアルバレンに到着した。アルバレン男爵は公国の危機に快く受け入れてくれ、同時に対王国の全面協力を申し出た。アルバレンには無傷の将兵が二千おり、エルドリアから辛うじて逃げてきた一千を合わせて3千が残っている。限界まで兵を動員すれば、五千は確保できる筈だ。これだけあればまだ勝機はある。ヘンリックはもう二度と過ちは犯さないと固く誓った。
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