迫る危機
時はあっという間に経過していく。自己の研鑽を重ねるとともに、私兵隊の強化に努めた。私兵隊の強化にあたっているのは専らコンラッドだが。小隊を50人ずつの4部隊形成し、グレスマンを含む四人の隊長を任命した。その上にコンラッドがおり、俺が命じる形となっている。
私兵隊だけでなく、政務の補佐を務める有能な人材もシャロンの判断のもと召し抱えた。シャロン一人では限界があるから、丁度良いタイミングだったと言えるだろう。文官も私兵隊と同じくらい重要視している。どちらも欠かせない存在だ。
その政務もひと段落した頃、王城から出る一つの影を捉えた。俺は気紛れにも後をつけてみることにした。ここ数ヶ月は言葉すら交わしていない。冷え切った夫婦関係とはこういうものなのだろうか。いや、そんな生優しいものではない。俺と彼女の関係には夫婦という概念が欠如している。愛を育む基礎地盤すらなければ、俺が意図的に突き放したことによって印象は最悪だろう。
アルシアナが国民に愛されている。それを実感するのにそう時間はかからなかった。自分が公女という立場にありながら、直接救う手段はない。権威はあっても使える金は限られているのだ。それはアルシアナがまだ20に満たない少女だから、権限は思った以上に少なかった。まあ俺も20に満たないガキではあるが、精神年齢的には20を超えている。現大公アレオン・ソルテリィシアは俺のことを特別扱いするが、それなりに有能だという姿を見せてきたからこそ、そして名ばかりとはいえ帝国の元皇子という立場も大きい。端的に言えば義父はアルシアナをまだ年端のいかない少女としか見ていないのだ。
中層街は雪に包まれながらも平穏でそれなりに活気がある。彼女は常日頃この中層街に顔を出しているらしい。そしてパトロールに似た行動をして、悪を正し町の秩序を守ろうとしている。町で起きたいざこざを鎮めたり、また強盗を掌で転がして成敗してしまう。以前のヘンリックが見たら自己満足の低俗な行動に過ぎないと鼻で笑って馬鹿にするだろう。
だがそれは正義感の強さをを表していて、国民を思う確かな気持ちを感じられる行動だ。尚更世俗の混沌、醜さに直面させるのが憚られる。中層街は比較的治安が良い。その揺り戻しのように下層街では無秩序な社会が形成されている。彼女はそれを知らない。父によって立ち入りを禁じられているから。孤児の現実を知ったらきっと彼女は涙する。
彼女は正しくあろうとしている。胸が痛くなった。俺はこの国を更なる混沌に導こうとしているのだ。俺は醜い存在だ。それを胸に刻んで歩まなければならない。だから俺は彼女を遠ざける。たとえ嫌われても構わない。俺は強く拳を握った。
◆
二の月に入り、私兵隊から放った密偵から報告を受けた。王国が兵糧や革、鉄、矢羽などの戦時物資の購入を増やし、また兵の召集を進めているということだ。間違いなく戦の支度である。
俺は平和ボケした公国の上層部に、公国に危機が迫っていると声高に叫びたくなった。余所者が権威を以って従えるには実績が不可欠だ。
国の上層部には当然帝国と手を結ぶことをよく思わない者も多く、俺の存在を疎む者も多かった。当初はあからさまに睨みつける人間もいたが、銀山従事者の労働状況の改善や悪徳財務長官の更迭(処刑)を機に見る目が変化した。まあその一端には賄賂があるのだが。ルドワールの溜め込んでいた財の一部を上層部の連中に密かに横流しして信頼を得たのだ。所詮は仮初の信頼に過ぎないが、未来の公国で彼らの上に立つ存在としては上層部との信頼構築は不可欠だ。以前のヘンリックがそのままソルテリィシア家に婿入りしていたとしたら、その高圧的な態度が彼らどころかアレオンにすら信用されることは無かっただろう。決して馬鹿にはできない。
ただこれをすぐに公表しても動揺が広がるだけだ。余計なリスクを負うのは避けたい。結局、大公アレオンに相談するしかなかった。
「王国が戦の準備を進めているとは真で?」
アレオンは俺の報告に脂汗を浮かべて動揺を露わにしている。密偵は本当に重要な存在だ。敵の情報収集を行わなければ、勝てる戦も一気に傾く恐れがある。
「はい。兵糧や革、鉄、矢羽の購入量が明らかに増加しています。まずは耳に入れておくべきかと存じた次第にございます」
兵糧、つまり兵站を筆頭に、戦に用いられる物資を王国は買い集めているというのだ。兵糧については冬の間に国の至る所に義倉を設けて貯蓄している。公国の兵站運用は一先ず問題なしと言える。
「すぐに諸侯を集めて……」
手拭いで額の汗を拭ったアレオンは拳を握って早計な判断を下す。
「いえ、いつ王国が攻め込んでくるかわかりません。混乱は最低限に抑える必要があります。長らく戦争をしてこなかった国民に、いつになるかわからない戦に備えろと言うのも酷でしょう。まずは軍の指揮官にだけ伝え、指揮系統の確認、傭兵の雇用等準備を進めるべきかと」
王国がただ「物資を集めている」というだけの段階で諸侯にそれを告げてしまえば、国内に長い緊張が走る。物資を集めている理由は帝国と戦うためかもしれないのだ。それはそれで取り越し苦労となって戦わなくて済んだ安堵感が先に来るだろうが、とにかく王国が攻め入ってくると確信できるまでは情報を伏せておいた方がいいだろう。
「早とちりは己の首を締めることになりますな。すぐに軍部に通達致しましょう。しかし以前、ヘンリック殿は帝国の援軍は呼ばないのが好ましいと仰られましたが、王国との戦を行える力は我が国にはありません。如何にして大軍を退けるか、私にはとても荷が重いと案じております」
そう、いくら王国軍が攻め入ってくると分かっていたところで、戦力差は比べるべくもないほど歴然なのだ。勝つ手段などごく限られている。戦力差で劣る此方が勝つには策を弄する他ない。
「確実に勝つ手段などありませんが、国を守る、この一点に絞れば十分可能性はありましょう。エルドリアは一年の七割が雪に覆われます。冬の間も城を攻め続けるのはいくら精強な軍隊であろうと極めて困難。夏の間持ち堪えれば王国も撤退を選ばざるを得なくなりましょうな。士気を十分に保てれば、ですが」
夏と冬の戦は根本から違う。冬の、それも雪に覆われた土地での戦は兵站の充実がものを言う。冬の間は兵糧の消費が倍に増えると言われる。これは消費カロリーが極寒の環境では単純に増えるからである。
「士気の維持は私にかかっている、そう言いたいのですな」
「左様。たとえ堅牢な城であっても大軍を前に萎縮してしまえば長く持ちません。この戦に公国の存亡はかかっております。必ずや王国を退けましょう」
この戦に敗れれば公都を失い、この国は一気に窮地に立たされる。
「ヘンリック殿は若いのに頼もしいですな。公国の未来を掴むため、よろしくお頼み申す」
アレオンは大公の地位にありながら俺に深々と頭を下げた。俺も戦の経験があるわけではない。どうなるか不安が募っているのもまた事実。若いからこそ楽観視が先に来てしまうのかもしれない。しかし勝たねばならない。俺は改めて兜の緒を固く締め上げた。
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