鉱山病対策

 悪夢を見た。

 現実を精巧に形どった過去の記憶。冷えきってドロドロとした無味無臭の液体を強制的に無理やり胃に流し込まれたような感覚を覚える。

 過去の記憶とはそういうものだった。


 「俺」の記憶ではない。ヘンリックの記憶である。これまでは思い出す暇すらなかった。怒涛の日々だった。生まれ変わったと思えば国を追われ、王国の刺客に命を狙われ死にかけた。腐敗した国内の情勢にも梃子を入れた。

 ようやく内政にまで目を向けられると思ったそんな矢先。少し気を抜いたのが良くなかった。見えるのは俺が傀儡として皇太子に据えられた後の光景。


「何をやっている!この鈍間が!」

「申し訳ございません!」


 クラウスに対し、給仕紛いの仕事を押しつけられる。そんなことは日常茶飯事であった。これも「前皇帝の息子」を顎で使うことへの一時的な快楽を得るための“娯楽”に過ぎないのだ。今回は淹れた紅茶の味が気に入らないのだそうである。胴を何度も足蹴にされる。そんな現状をどこか受け入れつつあった時期だ。


 俺は精神的にも肉体的にも酷く弱っていた。生来、俺は自らの力でこの国の民に遍く栄光をもたらさんと豪語するような、志の篤い男だった。それがいつの間にか、そんな志すら公に宣うことも難しい立場に追われてしまった。

 それでも内に秘めた正義心だけは決して色褪せることはないと己を強く持っていたつもりであった。

 それでも結局、正義感などは薄汚れ、それはやがて獰猛な怒りや憎悪の感情が常に胸の内を渦巻くようになった。俺はクラウスに媚び諂うストレスを、周囲に当たることで発散していたのだ。


「ヘンリック様。大丈夫ですか……?」


 シャロンの声があった。


「……ああ」

「うなされていたようでした。ご気分が優れませんか?」

「問題ない。少し悪い夢を見ていた」

「夢、ですか」


 なぜこの部屋にいるのかという疑問が頭に浮かぶことはなく、ぐっしょりと湿気を帯びた服を見て眉を歪めながらも、大きく深呼吸した。

「帝国での記憶だ。貴様は見ていただろう。愉快なものではなかった」

「……はい」

「この国は豊富な銀を持つ国土でありながら、痩せた土地で、銀の一部を王国に吸い上げられている。敵対しようものならすぐに滅んでしまう。それを無意識に自分と重ねてしまったのだろうな。なんとも滑稽な話だ」

「ヘンリック様の人々の暮らしを豊かにしたいという想いはご立派だと思います。夢の中でなお、人々の生活が良くなるよう願っておられます。それが将来実を結ぶと、私は信じています」


 そんな高尚なものではない。だが不思議とその言葉は胸の中にスッと入り込んだ。傲慢でもいい。俺にできることはいくらでもあるはずだ。頭を使え。民のために腐心しろ。彼らは俺自身だ。目に見える成果や、豊かな暮らしを営める環境を構築しなければならない。


 俺は瞑目して決意を新たにした。




 ◆




 財政を脅かす諸悪の根源を排斥し、改めて領内に蔓延る問題に手を出す時が来た。俺はゲームのようにスキルを持っているわけでなければ、一般的に希少価値の高い魔法の力を秘めているわけでもない。あるのは仮初の権力や幾ばくかの資金だ。自由に使える資金が多いわけではない。まずは目に見える結果を挙げて、『帝国の傘下に屈した』公国を害す存在ではなく、逆に国を盛り立てる存在なのだと知らしめなければならない。

 中間層の生活水準は帝国と比べれば劣るものの、ある程度張り合えるように感じている。


「下層街の男達の寿命がなぜ低いか分かるか」


 独り言のように呟いた言葉だったが、部屋に控えていたシャロンはその言葉を拾って返答する。


「給料が低く、日々の糧を得るのに苦心しているからでしょうか」

「いや、奴らはそれなりに給料は良い。食うに困るほど困窮してはいない」


 銀山事業は国が行っているものだ。労働者への報酬は適正な域である。銀山労働者が食うに困る、という事態は殆どない。


「ならば犯罪が多発し、死人が多いからとか」

「貴様も下層街を見ただろう。あの男が牛耳っていて、思っているほど犯罪率は高くない」


 下層街は権力を持った人間が治安を維持しており、犯罪は非常に少ない。結束は意外と固く、平穏を乱しかねない危険因子には徹底的に厳しいという性格を持っている。ある意味自警団を兼ねてると言ってもいい。


「……なるほど」


 いずれももっともな回答だが、下層街の住人が銀山で働く以外の選択肢を選びにくい現状が問題だ。中層街の連中は下層街の男を雇いたがらない。これが収入ごとに区画を分けた弊害だろう。排他的な思想が根付いているのだ。


「銀山だ」

「銀山?」


 鸚鵡返しで答える。ピンときていない様子だ。


「銀山の劣悪な労働環境が労働者を飼殺しにしている」

「あっ……」


 漏れ出た声はそういえばというニュアンスのものだった。シャロンは帝国の出身だ。銀山の労働環境なんて知る由もない。

 結局は以上の理由で、下層街の人間が銀山という劣悪な環境で働かざるを得ない。下層街ではロクな仕事がないからな。生活水準は総じて低い。良好な条件で人を雇う場所なんて滅多にない。銀山に行く以外の選択肢を自動的に排除されてしまっているのだ。

 加えて、健康度も高いとは言い難い。労働者層は平均寿命が三十歳に満たないという状況だ。坑道内での出水や高温多湿、煤塵といった人体に悪影響を及ぼす環境で従事しているからに他ならない。


 まずはこの下層街の住人の生活環境の改善が必要だろう。しかし、銀山従事者は国の財政を支える要となる存在だ。労働力を削ることは実質的に不可能と言っていい。


「ならばそれに見合うだけの保障を与えねばならん」


 俺はそう独りごちると、再び思案に耽った。銀山労働者にはそれに見合うだけの社会保障を用意しなければならない。鉱山病に倒れた人間には保障として見舞金の給付や、その家族の養育費の補填、医療費の負担などを行う必要がある。

 だがそれだけでは財政的に圧迫してしまう。鉱山病を予防するために、銀山の環境も整える必要があるだろう。まず坑道内の通気を最低限設けるために、坑道から外に出る通気口を設置する。これである程度軽減することはできると見込んでいる。

 あとは坑道内で発生する粉塵を肺に入れないようにするための、防塵マスクの配布を行うことが効果的だろう。そもそもマスクというものが存在しないが、作るのにそう手間はかからない。布を大量に買い付けて、量産させることとしよう。生産にも人手がいる。鉱山病で夫を失った未亡人にも職を与えることができる筈だ。


 俺は病で死ぬ前に沢山の書物を読み込んだ。大学を休学しての長期入院だから、色々な分野に手を出している。その一環で、石見銀山の鉱山病対策として梅干しを挿れ込むことで、粉塵を防ぐ役目を担う事実を知った。あいにく梅干しはないが、梅の花に類するものの存在はヘンリックの記憶から確認済みだ。

 梅干しとしての売買も可能になるかもしれない。梅干しは戦争でも使えるものだ。野戦兵糧として長い保存が効くし、見るだけでも唾液分泌を促進させる効果があるため脱水を未然に防ぎ、摂取すれば栄養も手早く体内に入れることができる。特に籠城戦では役立つだろう。

 傷の消毒や伝染病の対策にも役立つらしいから、まさに万能な食材である。

 鉱山病を防ぐためにもう一つ重要なのが、日々の衛生管理だろう。これは鉱山病だけでなく、すべての人間に必要なことだ。伝染病の対策にもなる。


 汚れを取り除く道具ならば石鹸が有効だ。しかしそんなものはこの乱世では手に入りにくい。需要が薄いからだ。帝国の一部には出回っていたが、極めて高価で手を出しづらい。

 ならば安価で作れればいいのだ。石鹸は獣肉を焼く際に滴り落ちた獣脂と薪の灰が混じった物に雨が降り注いで油脂の鹸化が自然発生してできたと聞いたことがある。つまり獣脂と木灰汁の組み合わせることで比較的容易に作れるわけだ。山々が大部分を占めるこの国では、度々害獣の襲撃に悩まされてきた。そこで猟師が山で狩ってきた鳥や猪などの害獣の肉から獣脂を抽出し、石鹸に流用すればいいのだ。害獣を取り除く猟師にも手当を給付することで、確保できる量も安定するはずだ。害獣の肉は食用にもできる。一石二鳥と言えるだろう。木灰汁は草木を焼いて作った灰でいい。これで極限まで材料費を削ることができるだろう。安価で国内に出回ることになれば、庶民も手を出しやすくなり、衛生観念も徐々に良化するはずだ。

 

 内政改革の端緒として、以上の事に取り掛かる事にした。ルドワール財務長官の遺した財は一個人が持つには莫大すぎるもので、功を認められた事でこの金の一部を使えるようになった。あとは速さが大事となる。

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