シャロン・ボンゼルの決意
シャロンとしてもヘンリックのことを「クズ」と形容するのに異存はない。シャロン自身の本質は心優しい淑女であり、その卓越した容姿も相まって15歳ながら男に言い寄られた経験は数多であった。
それでもシャロンがヘンリックに嫌悪感を抱いているという事実は揺るがない。母を亡くして落胆の底にあった自分に降り注いだ容赦ない叱責は、シャロンの心根を深く傷つけた。
そんな中にありながら、シャロンがヘンリックのエクドール=ソルテリィシア大公国への婿入りに同行したのは理由がある。勿論エクドール=ソルテリィシア大公国が母の故郷であることも確かだが、母を亡くしてから独り身であったシャロンを憐んでという名目で、現皇帝のゲレオン・レトゥアールは16歳になったらシャロンを側室に入れる考えを固めていた。ゲレオンは50代にも関わらず女遊びが激しく、シャロン自身も絶対に側室に入りたく無いというのが本音だった。
とはいえ、今のヘンリックの使用人としての地位を失って16歳になれば、ゲレオンは権力を傘に来て必ず側室に入れようと画策する。ヘンリックに同行すればしばらくは暮らしていけるだろうという楽観的な考えもあった。
そんなシャロンがヘンリックの治療に全力を投じている。自分でも理解ができない行動だった。しかし、もっと理解できないのはヘンリックの行動であった。
シャロンのことを見下し、蔑んできたヘンリックが自分を庇い、あまつさえ瀕死の大怪我を負ったのだ。しかも金を手渡して逃げろという。別人に変わったのではないかと錯覚するような変わりようだった。
(それに、母がエクドール出身なんて誰にも教えたことがなかったのに)
ヘンリックが自分だけでなく母のことまでも熟知していることにはシャロンも驚きを隠せない。
「ホルガー……。俺は約束を……果たせそうにない。民を、国を安んじることが……できなそうだ。すまぬ……」
ヘンリックの瞳から一条の滴が零れ落ちる。うわ言のような台詞だった。シャロンは耳を疑う。ホルガーという人物をシャロンは知らないが、それよりもヘンリックの口から「民を安んじる」などという言葉が飛び出すとは夢にも思っていなかった。
ヘンリックは常に些細なことでも他人を叱責し、他人を気遣うそぶりなど一度も見たことはない。
(まさか、殿下は私の行く末を案じて……?)
昨日までの自分なら全力で首を振るような結論に至る。思えば、ヘンリックは常に自分を追い詰めていた。日々の研鑽を欠かさず、ひたすらに自分を追い込む。シャロンもそれは帝国を背負う人間として当然の責務なのだろうと納得していた。
だがそれは違った。ヘンリックは自分にも他人にも厳しい人間だったのだ。そして常に民を思う心優しき皇子でもあった。ヘンリックもまだ17歳に過ぎず、自分と2つしか違わない。そんなヘンリックが民を帝国の圧政から救うべく、一人で戦い続けていたのだとしたら……?
「……ッ」
シャロンは感極まって顔を覆った。この世界は戦が絶えない戦国の世。そんな世界に平民として生を受けた時点で自分は不幸な人間であり、ヘンリックのような目上の存在から虐げられる存在なのだとどこか受け入れていた。帝国は身分や貧富の差が非常に大きな土地だ。貴族は贅沢の限りを尽くし、安く奴隷を買い上げて労働力として利用する。なんて理不尽な世だと嘆いたことは数えられる程度では到底収まらない。
母が死んでから随分経つが、孤独な自分を案じて声をかけてくる貴族も多かった。無論、それは下心9割、哀れみ1割の濁りきったものである。濾過したところで決して透明にはならない。貴族が自己陶酔に耽り、立場の弱い女を妾にして「保護」することで自尊心を得るための余興に過ぎないのだ。
その貴族と比べてみると、ヘンリックは口は攻撃的で態度も悪く、むしろ他の貴族の方が一見幾分かマシに思える。それでも、ヘンリックは同情を表に出さず一貫して自分に厳しい言葉を投げ続けてきた。下心を一切感じさせない態度も今思えば不器用なヘンリックなりに自分を思いやってのものだったかもしれない。
思わず頬に触れそうになったが、不敬だとかぶりを振り手を引っ込めた。
今考えると、ヘンリックは自分が一人で生きていくのに困らないよう、率先して厳しく接していたのではないか。自分を悪者に仕立てて孤立したとしても構わない、そんな風に思っていたのではないか。
シャロンの母は皇帝の側室だった。卓越した容姿から皇帝に見初められ、シャロンという子がいる事を知りながら、半ば強引な手口で側室にしたのだ。その母は数年前に亡くなったが、皇帝の頻繁な無理強いが祟って過労によって命を落としたのだという。当然シャロンは皇帝でなく帝国自体を憎んだ。ヘンリックに同行したのには、帝国から離れたいという願望も大きく影響している。ヘンリックは直接的な原因ではないものの、皇帝と同様に性根はひん曲がったものだと評価せざるを得ない。故に内心ではヘンリックに対する不信感のようなものも積もっていた。
そんな理由で、帝国の事情にはある程度精通している自負がある。ヘンリックが現皇帝の実子ではなく、前皇帝の子であることも。
当然国がクーデターによって崩壊したことも教えられていた。エクドール=ソルテリィシア大公国に婿入りさせられたのも、国から厄介払いを受けたのと同義なのだとも気付いていた。
最初はいい気味だと思った。しかし今となっては口が裂けても言えない。ヘンリックは弱い自分を出さないために、あえて他人を寄せ付けないような態度を貫いてきたのだ。
(私が支えてあげないと)
シャロンの胸中に芽生えたのはそんな感情だった。ヘンリックは「民を、国を安んじる」としながらも、その胸中とは裏腹に人は離れていった。先代恩顧の貴族は軒並み国を追放されるか、酷い場合には牢獄に入っている。自分がヘンリックを止めなければ、いずれ歯止めが効かず暴走するだろう。そう感じた。
シャロンは常に回復魔法をかけ続けた。氷の槍を受けたときは瀕死の重傷だったが、運良く急所は外れており、かろうじて息は残っていた。
帝国でも魔法を使える存在は少ない。シャロンも魔法が使えることは隠してきた。そんなことも言ってられないと魔法を行使しているわけだが、コンラッドをはじめとして皆固唾を呑んでヘンリックの回復を見守っている。
「おそらくはもう大丈夫だと思います。しばらくは眠っているでしょうが、じきに目を覚ますかと」
「本当か?! 良かった……」
コンラッドはあからさまにホッとした表情を浮かべていた。巨体を携えながら先ほどまでの気細そうな様子は目に毒だった。
あの後、王国の刺客はリーダー格の男が大怪我を負ったことで退散していった。山道をこのまま進むのは厳しいと判断し、一旦山を降りてから街道を進むことにした。
夜も寝ずに進んでいるのは不穏な空気を避けたいがためで、これ以上の危険を回避する意味合いが大きかった。馬車は一晩中進み続けたが、懸念していた問題は起きることはなく、翌昼にはエクドール=ソルテリィシア大公国の西の町・アルバレンに到着した。
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