紅と青、その後日譚
※濃い性交・流血表現あり
どうしてこうなったのだろう。
真っ白なはずの天井には消灯したランプがぼんやりと浮かんでいて、ゆっくり、ゆっくりと小さく揺れている。隅っこには最低限の調度品が背を伸ばして不気味にただずんでいて、見慣れた本棚はない。いつもカップを乗せている机もない。そして、木々から漏れてくる星と月の柔らかい光を導く窓さえも、ここにはない。
言い換えれば、明かりのない密室。ちょっとした旅行の、宿泊している部屋。
私は今、めずらしく横になっている。引かれるままに背中をぴったりと冷たい床につけて、少し首が痛い。後頭部に生える角と棘が、首より上を支えてくれている。一回だけ、仰向けで寝てみようとしたことがあったっけ。
結局、首が痛くて、いつものように座って眠った。紅竜というものは、うつ伏せで、腹這いに眠るやつも少なからずいたけど、私は好かなかった。腿がつるし、首が痛い。
そして、私は今動けない。
仇敵に見つかり、拘束されてるわけじゃない。お腹がすいて、動けないわけではない。風邪をひいて、けだるくて、動きたくなくて、無気力なわけじゃない。
ただ、動けない。
やろうと思えば、体を起こして、立つこともできる。こいつが、こいつでないなら、私は間違いなくそうしていた。ふざけないでって、覗き込む金色に爪を突き立てて、痛みに転げまわるその姿を尻目に、逃げて、助けてほしいと、この宿の主に懇願すればいい。
けどこいつだからか、やろう、とは思えなかった。首にかけている革製の鞄、その紐に着けられているアクセサリが揺れていて、抵抗する気が失せた。それは今、私の右手首にもつけられている。
「だめかな……」
闇の中では黒にしか見えないその身体で、首を傾げてくる。
こうなってから、これで、三度目の問いかけだ。多分、こいつは無意識だ。
こいつは、私に求めている。私は、答えなかった。
私がこれに答えてしまったら、どうなってしまうのだろう。不安、というか。期待、というか。つかみどころのない感情がそこにはあって、理解しきれたものではない。
別に、壊れてしまっていいと思ってる。こいつはただの、黒犬の提案によって現れた、同居人に過ぎないのだ。どうせ、その接点がなくなってしまえば、こいつはねぐらを変えるだけなんだろう。逆に、これ以上の何かがあれば、きっと私が、この手ですべてを壊してしまうことは分かっている。
こんな枷があっても、きっと、見知らぬこいつを傷つけるより、ためらいなく、傷つける。きっと、いや、絶対に。
「なんで、私なの」
考えに、考えた結果。
「あんたと私は、そういうのじゃない。ばかじゃないの」
鼻先が触れ合うだろう距離で、彼の目がまっすぐ、こちらを見ている。
すると彼は、私の胸に、ぐっと体重を預けてくる。
彼女は僕のことをどう考えているんだろう。
ほんのりと温かいお湯に半身を沈め、淵に顎を下ろしていたとき、ふとそんなことが思い浮かんでしまった。
さっき、帽子を外して、鞄を置いて、いざ温泉、と意気込んだのはいいのだが、ふと視界に入ってしまった、赤と青の石が交互に輝くブレスレットが、どうにも頭から離れない。
彼女が行方不明になって、探し続けること何十日。市場の復興も適度に進んだある日、祭が催された、急な決定に大騒ぎだったけれど、それはそれ。いざ当日になって、探すこと以外やることもなくって、アリアとジーダがいて、食事をして。
それで、アリアが何を思ったのか、二つの同じブレスレットを買ってくれて、別れて。なんとなく、世界樹に登ってみたら、彼女が、ラクリは根っこに座って、心ここにあらずといった様子だった。
何があったのって、聞くのは簡単なことだったんだろう。けどそんな勇気は全然湧かなくて、だから僕はあんなことを言ってみたら、ようやく、ラクリはラクリに戻った。そのとき、渡したんだけど、アリアは予知でもしてたんだろうか。あれから会っていないから、真相は分からない。
ザプンと、チャプチャプと、身体を撫でるお湯が気持ちいい。こんなことを考えるなんて、どうしたんだろう、僕。
今はお互いの利害の一致で、世界樹から離れた商業市に来た。僕は遺産の掘り出し物探し、彼女は好きな作家の新作を買いに来た。別に市場でも買えるのだが、数日遅れになってしまうとのことで、どうせならばとやってきた。それで、安くつく相部屋にして、同時に引き払おう、となったのが昨日、チェックインしたときの話。
よくよく考えてみたら、ラクリと同じ部屋で過ごすのって、初めてじゃないか? 普段から同居して、食事とかは一緒にとってはいるけれど、それ以外は出かけているか、どちらかの部屋に籠りきり。一緒に市場に食べに行ったりすることもあるけれど、そうだよね。
初めてじゃないか。そうだ。僕の勘違いでなければ、僕は初めて、ラクリとほぼ一日を共にすることになるんだ。
パシャンと音がした。遅れて、尻尾を包んでいくお湯の感覚。パタパタと水面に作られていく波紋。
「あ、ごめんなさい」
振り返りながらつい出てしまう配慮は、杞憂に終わった。がらがらの湯舟には、遠巻きにこちらをちらりと見ただけの者ばかり。そういえば入ってから、誰も来てなかったし、誰も出ていかなかったな、と思いだす。これだけ広ければ、余裕はあるのだ。
ドドトドドド。湯気立つお湯が、湯船に溶けていく。もっとよく浸かろうと、じりじりと後退する。口をしっかりと閉じて、鼻だけを出して、じっくりと浸かることにする。湿り気いっぱいの、温泉特有の煙が鼻腔に流れ込んでくる
僕は、どうなんだろう。元気になった彼女に、どうしてあれを渡そうと思ったんだろう。
単に、元気を出してほしかった。僕がいるからって。ここに、隣にいるからって分かってほしかった。恋人同士が同じアクセサリを身に着けてっていうのがあることは忘れていたけれど、決してそんな意味はなかった。うん、なかった。ただ、元気になってほしくて。
温かい空気が鼻腔から、喉へ入り込んでくる。独特の臭いを、目を閉じて味わってみる。
優しくなくて、本が好きで、魔法を見せてくれて、ことあるごとに怒ってきて、めんどくさそうで、スープが好きで、あと、尻尾が太くて、目を細めてカップを脇にのんびりと本を読んでて、こっちに気が付いたら、いつも睨んできて……。
それでムっとすることはあるけど、嫌い、じゃない。むしろ、僕を見てくれているときは、優しい、と思う。
でも、ギルと一緒にいるときって、どうだっけ。同じだった気がする。シェーシャには一層のこと優しいけど、それも……。
ああ、好きなのかなぁ、僕。彼女のことを。
ふと自覚する、すとんと腑に落ちる一つの回。
同時に分かる、言ってしまえば、拒まれること。
それでも、あの子に伝えたら、どんな顔をするんだろうか。明日、帰るんだ。だったら、言うなら、今夜しか、ないのかもしれない。
リエードは、一緒に来たら良かったのに、とぼやきつつ、帰ってきた。
「先生の新作が読めるのに、これを置いていけるはず、ないでしょ?」
私はそう返して、就寝時間ぎりぎりまで読みふけった。昨日買って、予め買っておいた食料を食べながら、ようやく半分。盛り上がりが落ち着いたところで、閉じて、荷物の上に。そろそろ寝ようと彼に提案する。さっきからこちらをちらちらと見ていた彼は、昼間に交換していたはずの寝藁でくつろぎつつ軽く返事をした。
私も寝床の位置を確認してから、ランプを消す。
「ラクリ」
ふっと闇に消えた世界へ足を踏み出そうとしたときに、呼ばれる。何、と問いながら、声のした方に向く。
胸元に来た大きな衝撃に、息が詰まる。続けて襲い来る第二の衝撃に耐えられず、バランスを崩して背中をうちつける。
「ごめん、こうしないと聞いてくれないと思ってさ」
何が起こったのか、考える間もなく首に硬くも温かいものが触れた。加えて、声も近い。
「大丈夫? 痛くない?」
痛いっての。何やってんの、こいつ。だがそんなことを考えているうち、目が闇に慣れ、私を見下ろしているリエードの輪郭が見えた。
「……痛いに決まってるでしょうが。あんたの方が、身体でかいんだから」
こいつと私の普段の姿勢は同じくらいの背丈だが、こいつは四脚類。私なんかよりもずっと重いし、体当たりなんかされたら、とても立っていられないことはすぐに分かるでしょうに。多分、一撃目が尻尾、二撃目は重さがあったから、前脚だろう。
ごめんね、と牙をのぞかせながら微笑んでるらしいのが、腹立たしい。かといって、殴る気にはなれなかった。読み疲れかな。ていうか、何してんの、こいつ。私の首に前足を添えて、もう片方は視界の隅に。つまり、私の上にいる。
急く鼓動を分かち合いたいと言わんばかりに、脈打つ身体で軽くのしかかってきて、じっと見つめられている。
「君のことが、好きだ」
きっと私の目は、大きく見開かれたことだろう。
「えっと、同居人としてじゃなくて、その、一個人の、恋愛感情としてっ」
唾飛ばさないでよ。何を言ってるの、こいつは。
「それで……それで、君との、その、えっと」
好きだ。この言葉を言われたのは、いつぶりだろうか。
記憶を遡って現れるのは、ある日の夜、暗い森から現れたジーダ。勝手に狩りの成果をよこして、ある日突然、言われたっけ。もちろん私は断った。次期長老と言われていようが、私にはどうでもよかった。
魔女の絵本が好きで、本に、魔法にはまって、子供を育てることすら放棄した、紅竜のあぶれもの。親はともかく、紅竜たちの視線は冷たいというか、無視されていた。それでよかった。アリアと出会って、しばらくして、俺と一緒に暮らそう、だなんて。魅力の欠片もない言葉が、そいつからは飛び出した。
世界の中心で本を埋もれて、魔法を使えたら、それでいいのに。こいつに、また同じことを言われるとは思わなかった。
『別に。』
私が言うならば、答えるならば、この一言に尽きる。
勝手に、言わせておけばいい。思うことは、自由なのだから。
これを、目の前で言葉選びに苦心している彼に告げるのは、酷だろうか。
「君との……したい……なんて」
私は、どんな目で、この青竜を見上げてるんだろうか。
言ってしまった。僕の下で、抵抗もせずにまっすぐ見上げている彼女は、かわいかった。
短い鼻先、ちょっとだけ開いている口、彼女の身体に負けない、赤い、赤い目。
温泉から上がった時に、どう伝えればいいかなって思い始めて。でも、本を読む邪魔をしたら、絶対に機嫌を悪くする。新しい本をとっぷりと読みふけっているわけだから、伝えるなら、今しか、ない。
それで、それで……、伝えた。ちょっと強引に押し倒して、見つめ合って、どうにか気持ちを伝えようと、言葉を探していたら、
「君と……したい……なんて」
あれ、なんて言った、僕。これだと身体目的みたいじゃないか! 違う。僕は君のことが。
予想通り、ラクリの視線がすっと冷えていった。侮蔑と、敵意。
「だめかな……」
口にしたものは、元に戻らない。だから、そう、続けるしかなかった。
受け入れてよ、とは言えない。けど、答えがほしい。
一言、言ってほしい。
いいわ、ふざけないで、私も、でも、嫌いでもいい。
「なんで、私なの」
そうだ。彼女は、
「あんたと私は、そういうのじゃない。ばかじゃないの」
僕をそうは、見ていない。
けど、ラクリは、僕を見上げるばかりで、抵抗はしない。
きっと、リエードは嘘なんてついていない。
その証拠に、彼は長い口を軽く開いて、襲い掛かってくる。私なんかよりも鋭い牙を舐める舌に見入っているうちに、距離があっという間に縮まった。目の前に金色の瞳があって、こちらを飲み込まんとしている。
ジーダのなんかよりも、穏やかなもの。唇を舐めてから、侵入してくる。くすぐったいと同時に、気色が悪い。えっと、なんていうんだっけ、こういうの。何回か、読んだと思う。
抵抗は、できる。でも、不思議と嫌悪感はない。粘り気のある音が聞こえる。どこから、と思うが、舌に触れてくる柔らかい何かに、口づけとか、キスとか、物語の一節が脳裏にふと浮かんでくる。
姫と勇者は、契りの口づけを交わし、結ばれた。大災害を生き残った二人は冷える夜を互いの体温で温めながら、愛し合った。はたまた、冷たくなった躯に、彼女は愛のキスをささげた。
舌を引っ込めようとしたが、もう遅かった。細長いそれにするりと絡めとられる。一度、二度と舌の表面を、ざらざらとしたもので撫でられていく。苦いような、甘いような……彼の口端に泡ができているが、それでもリエードは、私の粘膜を味わうようにこそぎ続ける。
こういうとき、小説ではどうだったっけ。いや、読んだことがない。こういうのは、あくまでお互いの唇を触れ合わせるだけで、こういうことって、するもんなの? ジーダの時は、抵抗しながら息をするのに必死で全然覚えてない。
やがて、唇の裏まで味わった彼は口をさらに大きく開いて、少しだけ離れて荒い呼吸を繰り返す。解放された私も、新鮮な空気を吸い込めば、肺の中にあった湿っぽい空気が吐き出されていく。遠のいていたらしい意識が戻ってきて、彼と同じリズムで呼吸をしていることに気づく。
「嫌がらないんだね、ラクリ」
そう言われると、何も言えなかった。あんたが無理やりやったんでしょ、と今すぐにでもここから逃げ出せば、まだ間に合うんだろう。でも、そうと気づいた頃には、彼は次の行動に移っていた。どちらのものと分からない冷たい粘液が、首の近くに落ち、特有の冷たさが襲ってくる。
「ごめん。うまい言葉が思いつかなくて」
垂れていく冷たいところを、上書きするように首を舐めあげられた。先とは違う這うような感覚に身震いする。嬉しそうだ。貴重な遺産を手に入れた時と同じか、あるいはそれ以上か、闇の中だというのに爛々と瞳を輝かせながら、味わっていく。
冷えていく。べったりとした、体温で二重、三重と上塗りしても、すっと私の体温を奪っていく。顎とか、胸とかを、首を曲げて、器用に舌を伸ばしている。
なんだろう。くすぐったい。心地いい。
ゆっくりと、彼女をきれいにしていく。どうせほぼ一日引きこもって、手入れなんてろくにしていないだろう鱗は、古くなった殻ちらほらとあって、普通なら洗い流すものだけど、欠片が舌にひっかかる。でも彼女の目の前だ。特に味もしないそれを呑み込んで、もう一度、鱗を逆なでする。
赤が静かに見つめてくる。愛おしい。好きだ。この気持ちに、嘘はなくて。
ゆっくりと身体をのけ、後退する。彼女のぬくもりが離れていく。
横になったまま、はだけた紫の衣をそのままに、両手も、脚も投げ出して、ぼんやりとしている紅竜。
「もし、もし私が、あんたとの子供を殺そうとしたら、どうする?」
起き上がることも、僕に向かってくることもなく、口を開いた。
この爪で切り裂いて。
牙で喉を破って。
布切れで首を絞めて。
崖から突き落としたりして。
真っ暗な部屋の中で、唱えられる呪詛。
「私、アレンが、邪魔をしてくるもんだから、一回、殺しかけてさ」
にやりともせず、淡々とした言葉は、天井に向けて放たれる。
「あの子が甲高い悲鳴を上げて、母さんたちが来なかったら、多分、あのまま……」
途切れる言葉の先は、言葉にならなかった。
あの子は、ラクリが育て親のアレンは、僕の見る限りでは、彼女を恨んでいる様子はなかった。アレンは君のことを、と伝えることはできる。だからと口にしようとしたところで、はっとその思考を否定する。ラクリは、アレンのことを手にかけようとしたことを後悔しているわけじゃないんだ。
和解した、ように見えたのにこんな話をするということは。彼女が求めている言葉は。
「ねぇ、どうするの? 産まれる度に、殺してほしい? 何人も、何人も」
何も思いつかなくて、迷っているうちにむくりと体を起こした彼女は、ぼんやりとこちらを眺めていた。わずかに光を返す目が、闇の中に光っている。
「……よく考えて。あんたがそうはさせないなんて言っても、きっと、無駄」
軽く俯く。どうしてそう言えるのか。
「だって、邪魔……邪魔で、仕方ないから……」
一つの可能性がぷかりと浮かぶ。彼女は、幼いアレンに目障りだという感情を抱いた。けど今、ラクリが心配、いや否定しているのは子供という存在ではない。間違いなく、
「どうしようもないの。私が、私が、そう思ってしまうから……!」
彼女自身が、どこからともなく湧いて出るその感情を否定しているのだ。
「樹海に迷った子供と話してるときだって、何を言えばいいのか分からないし、いっそのこと、消したくなった! なんでそんなことを、ただの子供に思うのかってわかんなくて、これはあの子のせいじゃないんだって気づいて、それで、あんたにそんなこと言われたら……!」
無意識なのかは分からないが、両の手が震えている。きっと、次に生まれた子供を殺してしまうことではなく、その衝動に襲われることを、現れることを恐れてる。気が付いた頃には、冷たくなっていく小さな身体があって、それを僕や、両親が責めていて、いつ現れるかもしれないものに、さらなる恐怖を抱きつづる。
こんなに小さいやつだっけ、ラクリって。
ほんと、何も思い浮かない。彼女との暮らし以前を思い出してみても、いい言葉は見つからない。
父上に、初めて襲われたときの光景がフラッシュバックする。僕を母上だという幻想を見て、色々なことを言ってきたと思うが、どれこれも、リクラために捧げられた言葉だ。どれもこれも、僕と、ラクリのためになるようなものは存在しない。
邪魔されたから。それはきっかけに過ぎない。本を読んでいた私にペタペタとよじ登っては、肩とか、頭の上とか、脚の上でじっとして、これが、紅竜の子供としては、当たり前のことだったんでしょう。
でも、これを殺してしまえばいい、と思った。そうしたら、一人の、私の安寧が戻ってくるはずだって。
ある日、アレンを殺しかけて、親に任せきりになった。それで、市場に逃げて、すっかりそんな感情が湧かなくなって、一次的なものだと安心していた。
ところがどうだろう。
小屋のある樹海に入り込んだ子供たち。あそこを知っているのは私たちしかいないから、私が探すしかなかった。他愛もない問いを、ただ返す。無邪気に彼らは、私を魔女だと話しかけてくる。
ああ、目障りだった。ここならば、誰にも見つからないだろう。クチナシ(言葉を喋らない者)に襲われたって遺体を持っていけば……。
ふと息が詰まり、愕然とした。彼らは私が育てている子供ではない。ましてや、初対面だ。なんでこんなものを抱いてしまうのだろうと。この子たちにも育てか、産みの親がいて、彼らに育てられている。かつての私がそうだったというのに、なんでこんなことが?
分からない。どこからか来る衝動が、どこから、ここから湧いてくるのだ。誰だと、なぜだと問うても、帰ってくるのは反響音だけで、他でもない私なのだと認識させる。
この爪で肉を穿つ。牙で食む。布切れに力を込めて。崖を見下ろして。
私であるから、逃げられない。だからこいつを拒んで、逃げるのだ。
「嫌でしょう? 帰ってきたら、私が冷たくなった子と一緒にいるなんて」
怯えればいい。いっそのこと私から逃げてしまえ。そうしたら、私はこんな思いをせずに済むんだ。
「お願いだから、変なこと言わないでよ。見るのは、夢だけにして」
ずっと、リエードは押し黙ったまま。私の視界の隅で、考え込むようだった。
「明日、帰るんでしょ? 早く寝ましょ」
それがいい。一晩寝れば、気分なんてすぐに晴れるものだ。十日もすれば、こんなこと忘れているに違いない。上にいる彼を押しのけ、立ち上がって、一瞥して、寝床へ。部屋の隅の、箱型に成形された寝藁へ。尻尾を前に回し、目を閉じながらゆっくりと体重を預けていくと、私の身体に沿って沈んでいく。
パラパラと床に落ちていく藁。くすぶる不安を包み、いっそのこと消し去ってくれと願いながら、ゆっくりと息を吐き出す。彼は微動だにしない。そのまま、そっちのもう一つの寝藁に顔をうずめて、そのまま眠ってしまえ。今日くらいは許してあげるから、好きなだけわめいときなさい。
私が、その子を殺めてしまうことに比べれば、ずっとマシでしょう。
こいつと、これまでと同様でいられるのか。わだかまる胸の中の奇妙な感覚に、歯ぎしりをしたくなるが、これを解消するすべなどない。強いてあげるなら、本を読んで夜更かしか。けどそんなことしたら寝坊しかねない。
ガリ、ギィ、ギィ。諦めたかしら。バカなこと言ってないで、あんたはあんたの好きなことしてなさいよ。じゃあ、また明日。
だがいつまで経っても、もう一つの藁音は聞こえることはなかった。軋み続ける床は、細かな間隔で、大きくなっていく。
いつも、彼女はこんな格好で寝てるのかと思うと、妙に胸が高鳴った。
両足を投げ出し、その間に尻尾を床に這わせて。固められた寝藁に全身を預け、蛇腹の黄色いお腹がよく見える。首元で結ばれている紐が、彼女の好む魔女服をつなぎとめていて、ゆっくりと開く目が、妖艶に光っている。
「……しつこい。殺すわよ?」
わずかに持ち上がった後頭部からはらはらと藁の破片を落としながら、歯茎を見せつけてくる。眉間に薄くしわを寄せ、深紅がよく見える。
パキパキと聞こえ始める耳障りな音。見れば、軽く握られた彼女の手から、結晶がいびつな植物のように伸び始めている。それは、蛇のように睨みをきかせていて、あと一歩近づけば僕の喉に触れるだろう。彼女はそれを巧みに操り、この僕を裂くのだろうか。
だから踏み出す。喉元に触れた結晶はパキパキと折れていく。美しい結晶は、断面をさらしたまま、植物のように伸び続ける。
さらに進んで、右前脚を持ち上げる。そっと彼女の衣服唯一の留め具を二本の爪で挟む。滑り落ちないように引っ張れば、蝶の羽が小さくなって、緩んで、ほどけていく。睨みを利かせ続けているラクリを無視して、僕は最後の結び目に手をかける。するすると結び目はほどけ、はらりと落ちた。
いつもはよく見えない、衣一枚によって隠されていた胸部が露わになる。
立脚類で、女性である彼女の、それなりに逞しく見える身体。
彼女は読書家だけど、魔法も扱う武闘家でもある。戦闘体勢の彼女を見たことはないけれど、テレアいわく、爪で斬撃を弾き、魔法を敵にけしかけるそうな。
真っ暗だけど、よく見える。すごく、きれいで。おそる、おそる、べったりと汚してみる。鱗の境目を舌先で開こうとして、拒否される。切れない程度にくすぐる。
結晶が、成長を止めた。身体を這っていた感触が、なくなる。うめき声一つ上げない彼女に反して、僕の身体が、また熱を帯びてきている。嫌悪の色が降ってきても、もうそんなことは関係ない。
また紅竜の身体を、組み敷いた。
興奮してるらしいリエードが、さらに近づいてくる。汚れた牙の隙間から、肉食らしい臭いが鼻を衝く。
私は、こいつを拒絶した。それでも、こうしてくるなら、なんか一言あってもよくないかしら。不器用なこいつが、何かうまいこと言えるだなんて、思ってはないけれど。魔法でこいつの首を裂いてやろうと考えたが、あきらめる。
お腹のあたりに、何かが触れていて。同時にそこはべったりと濡れて、体温を奪われて。
彼の胸板で、それは見えない。けど何であるかは知ってる。粘液質なものに覆われているそれは、時間の経過とともに、ふれて、私を汚して、一層、彼の鼓動を早くしている。
やるなら早く、終わらせてほしい。どうせ、ジーダみたいに、一度やれば気が済むだろうから。
私が、市場に逃げた理由のひとつ。あのストーカーみたいに。
生暖かいものの先端を私にこすりつけて、探している。尻尾の付け根から、その上あたり。お腹の鱗一枚一枚の隙間を調べるかのように、楽しんでいるかのように、下半身を動かして、私の身体にねばつくものを広げていく。
この時間、お風呂あいてたかな。本屋の場所に夢中で、よく見てなかった。そんなことをぼんやりと考えていると、ぞわりと悪寒が身体を駆け抜ける。鱗ではなく、神経の通った場所に、とうとう触れられたんだと気づいたとき、動きを止めた彼は、ゆっくりと、静かに見下ろしてきた。
金の瞳。すっかり闇に慣れてしまった視界。隠されない、角のない、男らしくない顔。ああ、なるほど。こいつの父親が勘違いするほど欲情していた理由が分かった気がする。あくまで、想像に過ぎないけれど。
こいつは、じっと見下ろしてくるだけだった。私は、何も言わなかった。
ぺろりと唇を湿らせた。意を決したように押し込んでくる。それでも遠慮がちなぬくもりは、粘液の滑る音を一瞬奏でるだけで、密着するまでは至らない。下腹部にかき分けてくるような圧迫感を覚えるものの、不思議と痛みは感じない。ドク、ドク、と違うリズムを刻むモノの主は、相も変わらず臆病者らしい。
あるいは、初めての感覚に驚いているのか。目を見開いて、瞳を揺らして、息が荒い。
トク、ドク、トクン。私と触れる面積を大きくしていく。じわりと伝わってくる熱が、境界線が分からなくなっていく。あいつは、完全に自分のペースだったっけ。
なんで、私なんかを、好きになるのだろう。
早鐘を打つ心臓をなだめながらラクリの様子をうかがう。相変わらずの視線だけど、抵抗もしない。
びっくりした。行為として知ってはいたけれど、なんて言ったらいいのか分からない、ビリリと襲ってきた感覚をようやく整理し終えた。父上のときとは違う、言うなら、言うなら、なんだろう。心臓を掴まれたというか、なんというか。
エルディも、これに狂っていたんだろうか? 何度も、何度も、母上の名を呼んで。
絶対にあんなふうになるもんか。しっかりと脚をふんばってみるものの、それだけでも襲ってくる得も言われぬ刺激に、腰が抜ける。いや、気をしっかり持て。めぐってきたチャンスというか、その、絶対に言っちゃだめだけど、
君を抱けて、嬉しいんだから。
ゆっくりと腰を沈めて、挿しこんでいく。ねっとりとまとわりついてくる刺激が、また心拍数を上げてくるが、来ると分かっている感覚に意識を手放しそうになるものの食いしばる。根本の一歩手前で、これを受け入れている彼女の顔をうかがう。
ぴくりと身体を震わせ、耐えるように目を閉じた。ゆっくりと開いた紅は、じっとこちらを睨んでくる。でもやっぱり、抵抗はなかった。加えて、全くと言っていいほど余裕のない中に入り込んだものを、きゅう、きゅうと締め付けてくる。
これまで体験したことのない、急所を攻められる感覚。
じっと、何かを訴えかける鋭い視線が、嗜虐心をくすぐる。
「始める、よ?」
舌を伸ばして、口吻に触れてみる。硬い、無味の鱗。もちろん、返事なんて待たない。喉を膨らませたことを尻目に、僕は大きく息を吸い込んで、小さく抽送を始める。
中ほどまで引いて、押し込む。くすぐったいような、痛いような。頭の奥に直接、ビリリとした刺激が流れてくる。クチュ、ズ、コチュ。先端が彼女に潜り込む度に、ぞわりと鱗が逆立つ。
もう一度、もう一度。もっと、もっと。奥に。紅く、紅くなっていく。この子を、味わいたい。
どっちのものとも分からない荒い吐息。ぎゅっと目を閉じて、僕の動きに合わせ揺さぶられている。
ぞくぞくする。堪らない。見せてほしい。君の淫らな姿を。
何度も、何度も繰り返されているうちに、痛みも失せていた。
グチュ、グチュという音に合わせて、いっぱいに膨らんでいるものが、犯してくる。
いつしかあったみたいに、こいつも狂ってる。欲望むき出し視線。食らいつくような口づけに、しつこいくらいにうねる舌。
中へ、中へ、奥へ、腹の裏を目指している。こいつも、きっとそうなのだ。
熱くなっていく身体に反して、やはり頭は冷めている。ドクドクとうるさい音を聞きながら、今か今かと、終わりの時を待っている。ぷるぷると腕を震わせて、何を我慢しているのか。さっさとぶちまけてしまえばいいのに。
早く、早く済ませてほしい。寝てしまいたい。
一度、彼は息継ぎをした。それでも、抽送だけは絶えることなく、私の胎を目指して、すっかり濡れてしまった下腹部が触れ合うほどに、いえ、もっと深くを目指して食い込んでくる。
「出して、いい?」
覗き込みながら、首を傾げつつ、ゆっくりと、そこに体重をかけてくる。溢れていた粘液が、べったりと広がっていく。
「……」
私の中を埋め、存在を誇張するかのように、ぴく、ぴくと蠢いてる。彼が何を考えているのかは知らないが、分かっているのだろう。それの止まっている位置から先に、私のそこに、何があるのか。
「……」
殺したい。もし、私がそう口にしたら、こいつはどうするのだろうか。
あんたが、こんなことをしなければ、こんなことは起きなかったんだ。
赤く濡れた爪で指さして、頭を抱えて、牙を剥いたら、こいつはどうするのだろう。
父親に幻の妻として愛されていたこいつは、何をするのだろう。
「……夢、見たいなら、したら?」
ガンガンとうるさい頭でどうにか紡いだ言葉に、小さく頷いたように見えた彼は、左腕を押さえつけてきて、くわりと牙を剥いたかと思えば、太い私の首に食らいついてくる。ミシミシと食い込んでくる牙が、鱗を、下にある皮膚を貫き、この首を折ってしまうのではと思わせるほどの力が、襲い来る。
不意に意識が遠くなる。息が詰まり、身体が内側から火傷するのではないかと思えるほどの熱を生み出す。さらに深く食い込む牙が、容赦なくこの身体を求めてくる。やめて、それ以上は、やめ。
目を見開き、瞬きもしない彼の目。
いつの間にか抜かれていたそれが、勢いよく、容赦なく最奥を殴りつけた。
内側から殴られる感覚。同時にやってくる、じわりと広がる熱。
ゆっくりと傷口に吐きかけられるぬるい吐息が止まると、びくんとそれは跳ねる。
一度、二度では終わらない。何度も、何度も、外から内へ、何かが吐き出されていく。
ドク、トクン。中で存在感を示しながら、枯れることなく、満たしていく。
目を閉じて、私を押さえつけて、彼は微動だにせず、私を汚し続ける。
溢れることなく、精を注ぐことだけに集中している。
じっくり、じっくりと、絶えず、私の胎へと。
どれくらい、熱に酔っていたのだろう。
戻ってきた意識の中で、ものが抜かれていることに気が付いた。まだ少し、胎が熱を持っているような感覚がする。
彼は横になって、息絶え絶えにぐったりとしていた。私の血で汚れた牙を掃除することもせずに、だらしなく横たわっている。
正直、お風呂に行きたい。できるなら中のものを洗いたい。あと、傷口も。
「よかったよ、ラクリ」
首の傷に触れようとしたとき、不意に声をかけてる。それが精いっぱいなのか、動かない。よくよく見てみれば、彼の下腹部の鱗の隙間から、だらしなくものがのびっぱなしだ。
「……これっきりにして。こういうのは」
少しの間をおいて、うんと答えてきた。男って、こういうものなのかしら。
「……僕は君と、こういう関係でいたいけどな。ダメ?」
ばか。
それだけの口にして、沈むように私の意識は途切れた。
世界樹は耳を澄まし ラクリエード @Racli_ade
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