米倉華はサヨナラをいわなかった

谷川人鳥

米倉華はサヨナラをいわなかった


  彼女が死んでから、ちょうど一年が経った。

 窓越しに街を白く濡らす雪を眺めながら、去年の十二月二十五日はホワイトクリスマスなんて小洒落たものではなかったことを思い出す。

 そういえば僕とは違って、彼女はサンタクロースが好きだったっけ。

 だけどそんな彼女はもういない。目障りなくらいの快晴が広がった冬の日に、彼女は病死してしまったからだ。

 病名は知らない。

 僕が彼女について知っていることなんて、女の子らしい可憐な名前をしていることと、僕の通う高校で唯一僕より成績が良い生徒だったことと、血液型がAB型だってことと、トナカイに過剰な労働をさせる赤服の老人が好きだってことくらいだ。

 べつに彼女と僕の仲が悪かったわけじゃない。むしろ世間一般的な基準からいえば、仲の良い方だったと思う。彼女と僕は沢山の会話を交わしたし、一緒に様々な場所に行ったし、長い時間を共に過ごした。

 だけどそんな彼女は、僕に病気のことを最後まで話してはくれなかった。

 そう、僕は知らなかったんだ。

 彼女が死んでしまうその瞬間まで、いや正確にいえば彼女が亡くなったという知らせをどっかの誰かから聞くまで、彼女が余命宣告を受けるほどの重病に罹っていることをずっと知らないままだった。

 命日の日付だけ覚えている僕は、彼女の死を誰から教えてもらったのかは覚えていない。担任の先生からだったような気もするし、何人かいる知人の中の一人からだったような気もする。

 不思議とよくは思い出せなかった。

 きっとそれは、どうでもいいことなんだろう。

 だから忘れているんだ。

 たしか初めて彼女に興味を持った理由は、健全な男子高校生らしい下品なものだったはず。

 つまりは容姿が整っていて、胸部の膨らみが豊かだったからとかそんなところ。

 でもそんな彼女と何度も顔を合わせるうちに、僕の興味は段々と内的な部分に引き寄せられていった。ただの目の保養から、彼女は僕の目をくらませる存在へと変わっていったんだ。

 彼女が死んだと知らされたとき、僕は涙こそ流さなかったが、とても悲しいなと思ったことをよく覚えている。

 こんな月並みの感想だと、まるで僕が感情に乏しい冷徹な人間のように思うかもしれないけど、そういうわけじゃない。

 僕はただ、実感がわかなかっただけなんだ。そして、それは今も同じ。

 結局最後まで僕に、彼女はさよならをいわなかった。僕はその理由がわからず、それを少しだけ寂しいと思った。



 夏に似合わない機械的な冷気を肌に感じながら、僕は教室に張り出された期末試験の結果をぼんやりと眺めていた。

 米倉華、有村薫、横沢夏樹、藤谷有紀……、不吉な期末試験の総合順位を上から順に四つほど確認すると、途端に僕から視界に映る白と黒への興味が失われる。

 上位五十人までしか書き出されない名前の羅列。

 そこにはいつもと同じように僕の名前が表記されていて、名前の位置も前回とまったく変わっていなかった。

 少し前までは試験結果の校内順位表を見ると興奮に似た感情を覚えたのに、今の僕は特に何も感じない。

 だけど僕をそう変化させた理由はわかっている。

 僕は知っているんだ。ここに僕の名前があること、そして僕の名前がこの位置にあることに今や何一つ意味がないということを。

 少しだけ沈鬱な気持ちになった僕は、自席の鞄を手に取ると、放課後らしく人気の少ない教室をあとにした。

 廊下に出れば、期末試験も終わり夏季休暇を待つだけとなった同級生たちの賑やかな声で溢れかえっている。しかし通りすがら他の教室を覗いてみれば、熱心に居残り勉強に勤しむ人の姿を少なからず見つけることもできた。

 僕たちはもうこの高校の最高学年だった。

 いよいよ本格的に受験期に移り変わる季節でもある。僕のように一年後、いや半年後のことすらまともに考えていない人の方が今や珍しいのだろう。進路希望調査を提出していないのは、この学年ではもう僕ただ一人だと担任の先生も言っていた。まあ僕の場合、無理に出さなくていいとも言われているけど。

 階段を下りれば昇降口に着き、まだ夏服に着慣れていない生徒の後姿が目に入る。

 一年前、二年前の今頃、僕は何をしていただろうか。何を考えていただろうか。

 追憶の日々は色褪せていて、否応なしに僕へ影を落とす。


「どうも、こんにちは」


 するとその時、外履きに履き替えている僕の背中に、聞き覚えのない声がかかった。

 どうも声の調子から判断するに女性。そして僕の知らない人物かつ、僕みたいな冴えない見た目をした男に話しかける人物。たぶん、僕とは接点のない女性教員の誰かしらだろう。


「あ、ど、どうも、こんにちは……?」


「初めまして」


 だが僕の適当な推理はまるで見当違い。振り返った僕の前にいたのは、見たことのない顔をした女生徒だった。

 その泣き黒子のある彼女は悪戯な笑みをしている。

 明確な何かしらの用件が僕にあるのはまず間違いないようだ。


「私のこと、知ってる?」


「え? い、いや知りませんけど」


「ふーん、そうなんだ。意外、というよりはむしろ妥当?」


 自分でいうのもなんだが、僕は記憶力がいい。

 一度同じクラスになった人の顔と名前は全員すぐ覚えるし、一度覚えたら絶対に忘れない。中学生、小学生、顔さえみれば幼稚園時代の友人だって思い出せる自信がある。

 つまりそんな素晴らしい記憶能力を持っているこの僕が知らないと感じる彼女は、確実にこれまで僕と一切の関わりを持ったことがない存在ということになる。

 だいたい、彼女自身初めましてという言葉を使っていることだ。きっと僕が彼女のことを知らないのは当然のことなのだろう。


「試験結果、張り出されたわね。見た?」


「一応見たけど、それがどうしたんですか? というか、そっちは僕のこと知ってるの?」


 彼女の口調に敬語が混じっていないことから、おそらく同学年だろうと見当をつける。

 僕は部活には入っていないし、委員会や何やらの組織にも属していない。後輩である可能性はほとんどないはずだ。

 中途半端な丁寧語で対応しながら、僕は出口の見えない会話を続ける。


「私は貴方のこと知ってる。だって貴方、有名人だもの」


「あ、そうなんですか。ちなみに、帰国子女とかじゃないよね?」


「ううん、私も三年生。だからそんな探り探りの喋り方しなくていい」


「なんだ、よかった。じゃあ敬語は使う必要ないね」


「私が下の学年だったら敬語を使うの? 普通逆じゃない?」


「そう? なんか年下の女の子にくだけた話し方するの怖くない?」


「べつに」


 帰国子女は敬語が使えないという、偏見の過ぎる前提に基づいた突飛な質問の意図が正確に伝わったことに内心驚きつつも、僕は彼女の整った顔立ちに今更気づく。胸の膨らみもこの年頃の娘にしては中々のもので、背が女子高生にしてはやや高いことも相まって実に魅力的なプロポーションだった。

 面食いの気があるこの僕が、知り合いでないとしても、これほどの同級生をまったく記憶していないのは少しだけ不思議な気がする。


「それで結局、僕に何の用事? 一目惚れ? 愛の告白なら随時受付中だけど?」


「は? いや、違うから。……ちょっと待って。え。頭は良いけど変人って、こういう意味なの?」


 彼女は真顔で首を何度も横に振ると、露骨に嫌そうな表情をした。自分から話しかけておいてなんて態度だろう。

 ちょっと見てくれがいいからって、調子に乗っているのかもしれない。


「それじゃあ話を戻すけど、僕に一体何の用なの?」


「話を逸らしたのは貴方でしょ?」


「あれ? そうだっけ?」


「そうよ」


「そっか。じゃあ今度こそ軌道修正。君が僕と結婚したいって話だっけ?」


「ねえ、貴方って、誰にたいしてもそんな感じなの?」


「そんなって、どんな?」


「なんかムカつく感じ」


「ああ、ムカつく感じね。よく言われるよ」


 黒いスカートと紺ソックスの間に見える白皙の太腿を鑑賞するついでに彼女の足下を見やると、彼女もすでにローファーに履き替えていることに気づく。それならこんな場所で立ち話をする必要はない。

 彼女が僕と同じように電車通学であると決めつけて、昇降口を抜け駅へと歩き出す。

 夏の陽光はいまだ夜を予感させず、湿度の多い空気が肌にまとわりついてとても不愉快だった。




「私、たぶん貴方のこと苦手だと思う」


「そう? 僕はきっと君は僕のこと得意だと思うよ」


「得意ってなに? 言い回し変」


「ごめん僕、帰国子女なんだ」


 くたびれた会社員と、学校帰りの学生と、社会人なんだか大学生なんだかわけのわからない人で三分された駅のホーム。

 そこで僕はご機嫌麗しい同級生を隣りに、色付きのラインが入った電車を待っていた。


「私、貴方のこともっと違う感じの人だと思ってた」


「へえ? 興味あるな、君の想像上の僕」


「知的で、物静かで、大人っぽい眼鏡をかけた人だと思ってたの」


「ほとんど合ってるじゃん。大人っぽい眼鏡はかけてないけど」


「……本当に、ムカつく」


 愉快な言葉のキャッチボールを続けながら、僕は彼女の横顔を盗み見る。

 鼻は小ぶりだが、筋が通っていて形がいい。

 奥二重の瞼から覗く瞳は明るいブラウンで、シミひとつない肌は瑞々しく、油断するとうっかり手を伸ばしてしまいそうだ。


「それで君は、僕のどこに惚れたの?」


「しつこい。それにべつに大した用件なんて元々ないから。前から貴方に興味があって、試しに話しかけてみただけ。正直後悔してる」


「どんまい。人間、失敗から学んでいくものさ」


「貴方、友達いないでしょ?」


「わお。よくわかったね? でも今日、生まれて初めて友達ができたんだ。その子はなんでも前から僕に興味があったらしい」


「はいはい、おめでとうおめでとう」


 僕との会話が面倒になったのか、彼女は疲れたように頭を右手でさする。一方僕は、久し振りに若い女の子と喋れて実に上機嫌だった。

 電光掲示板が点滅を始め、やがてぬるい風が僕らの下へ運ばれてくる。

 気づけば目の間に出現していた扉。

 それはゆっくりと開き、中に詰め込まれていた見知らぬ人々が吐き出されると、僕と彼女は入れ替わりに吸い込まれていく。


「混んでるね」


「いつもと同じじゃない」


 再び閉じられた扉に背中を預け、僕は彼女に特に意味のない言葉投げる。

 返答は実にそっけないもので、少しだけ僕を興奮させた。


「君、何組?」


「三組」


「二年生の時は?」


「私、三年生からの転入生だから」


「あ、そうだったの? どうりで。でも珍しいね、高校で転入なんて。どこ高校?」

 

 彼女は僕がこれまで耳にしたことのない高校名を口にする。


「どこそれ。他県?」


「そうよ。知らないでしょ」


「うん、聞いたことない。他県の高校名なんて基本わかんないよね。僕の場合、部活にも入ってないし」


「知らなかったら、存在しないのと同じだもんね」


「まあでも、知っていても、存在するとは限らないけど」


「なに?  哲学の話?」


「さあ、僕べつに哲学詳しくないから。だいたい君が言い出したんでしょ?」


「そうだった?」


「そうだよ」


 中身のない会話を重ねるうちに、彼女の機嫌が僕に近づいていくのを感じる。

 それにしても転入生がいたなんて知らなかった。春ごろ僕は一週間くらい休んでいたから、その辺りで入ってきたのだろう。

 ふと外を見やる。

 やっと空が赤みを帯び始めてきていて、目を凝らせば月影が薄らんでいた。


「貴方は普段、どれくらい勉強してる?」


「うーん、そうだな。だいたい一日四十八時間くらい?」


「うざ。行きたい大学とかあるの?」


「あー、そうだねぇ。マダガスカル大学とか?」


「つまんな。私は文系だけど、貴方は理系なのよね?」


「一応言っておくけど、君の言葉の後半が疑問形なせいで反応できないだけで、前半部分も聞こえてるからね? ちゃんと傷ついてるよ?」


 そうか。彼女は文系なのか。そういえば三組は文系クラスだった。

 もちろん、もし僕が彼女と同じように文系だったとしても、僕らの道が交差することはない。僕にまつわる物語に、ヒロインもハッピーエンドも存在しない。

 突然悲観的な思考に襲われた僕は、そんな考えばかりする自分が嫌になる。僕はいつからこれほど根暗になったのだろう。


「貴方はどうして理系を選んだの?」


「僕、サンタクロースが嫌いなんだ。だからだよ」


「なにそれ意味わかんない。もしかして真面目に答えられない病気なの?」


「ははっ、病気ね。鋭いじゃん。でも実際、理系を選んだ理由なんてべつにないよ。本当はどっちでもよかったんだ。しいて言うなら、文系クラスの雰囲気が苦手な気がしたからかな」


「ふーん。そうなんだ。意外、というよりもむしろ妥当? ちなみに私はサンタクロース好きよ」


 ふいに感じる、多くの人が同じ擬音を想起しそうな揺れ。

 体幹トレーニングが足りていないのか、彼女の身体がぐらつきセミショートの髪が躍った。

 手すりと扉で自分を固定していた僕にぬかりはなく、一瞬焦った顔をした彼女を小さく笑う。彼女はとても不機嫌そうな顔をした。

 もうすぐ夏休みだ。今年は宿題が出なかった。

 何をして過ごそうか。

 どこか遠くに行くのもいいかもしれない。


「そろそろ学校が終わるね。君は夏休みなんか予定とかあるの?」


「……そうね、ほとんど予備校の夏期講習。貴方は予備校とか、塾とか、行ってないの?」


「行ってないよ。ほら、僕って天才だから。必要ないんだ」


「じゃあ、何して過ごすの?」


「ちょっと、つっこんでよ。まるで僕が自意識過剰の痛い奴みたいじゃん」


「なにも間違ってないじゃない。貴方は自意識過剰のナルシストでしょ?」


「違うし、意味が被ってるよ」


「それはごめんなさい。それじゃあ自己愛の塊に言い直す」


「そうだね。そっちの方がいい。シンプルでエッジが効いてる」


 予備校か。僕も春休みは春期講習に行っていたっけ。結局最後まで完走はできなかったけど。それに友達とはいえないまでも、顔見知りくらいはいたはずだ。

 彼らは今も僕のことを覚えているだろうか。僕の方は顔も名前もすぐに思い出せる。


「でも高校最後の夏を全部勉強に捧げるなんて、なんとも寂しい高校生だねぇ」


「べつに寂しくなんてないでしょ。みんなそうだし」


「みんな? ここに例外がいるじゃん」


「それは例外だからいいの」


 言葉とは裏腹に、彼女の瞳はどこかアンニュイな色を滲ませていた。顔こそ僕に向けられていたが、その明るい茶色の視線の先に僕はいない。


「最後の夏かぁ。なんかやっておきたいこととかあったっけなぁ」


「まあ、夏なんて毎年くるし。高校最後の夏だからって、べつに気を張る必要ないと私は思うけど」


「そうだよね。夏なんて去年も来たし」


 去年の夏。一昨年の夏と変わらない、いたって平凡な夏だった。劇的なことなんて

何一つなかった。

 しいていえば、一巻の発売から追いかけていた漫画が完結したことくらい。


「本音をいえば、私は高校生のうちにやってみたいこといくつかあったんだけどね」


「そうなの? たとえば?」


「そうね、たとえば……あ、私ここで乗り換え。それじゃ、サヨナラ」


「え? あ、うん。さよなら」


 ゆっくりと窓の外を走りゆく景色が止まると、僕が寄り掛かるものとは反対側の自動扉が開く。すると、はっとした表情をした彼女は扉の向こう側へ足早に去って行った。

 僕との宙ぶらりんの会話を置いてけぼりにして、無機質な扉は閉まる。

 夏の夕暮れに飛び出していった彼女は一瞬だけこちらへ顔を向け、なぜか笑いをこらえながら小さく手をかざす。

 そして妙なしこりを胸に残したまま、僕はまた運ばれていく。彼女の姿はすぐに見えなくなって消える。

 それにしてもこんなに口を動かしたのは久し振りだ。今日の夜は口輪筋が攣ってしまうかもしれない。

 彼女がいなくなって初めて、この車両で喋っていたのが僕たちだけだったと知った。





 枯れた観葉植物みたいな表情しかしない両親との交流もそこそこに、僕は気怠い夏の通学路を急いでいた。

 今思えば、昨日はわりと非日常だったように思う。

 昼下がりのロンドンにシンパシーを感じる僕のここ最近の中では、間違いなく一番エネルギーを消費した日だったろう。

 僕はあまり人見知りをしない性格だが、その相手が容姿の優れた異性だと話は別だ。実際に面と向かっている間はなんともないのだが、僕はしばらく経った後に自らの恥ずかしい言動の数々を反芻するくせがあり、そのたびに自己嫌悪に苛まれるのが常だった。

 自分でも間抜けで、損な気質だとわかっている。

 それに加えて、僕は今年の頭に起こしたある事件を理由に、この数か月まともに友人と会話をしていなかったという状態だった。

 そんなブランクがある状況で、面識のない可憐な少女との会話をこなしたのだ。今の僕の目の下に隈ができていて、学校に向かうのがおっくうなのもそういうわけでなんら不思議ではない。

 額に薄く浮かぶ汗を、手の甲で拭う。僕は生まれてこの方ハンカチを携帯したことがない。

 狭い歩幅で歩く僕の頭を埋め尽くすのは、やはり昨日の彼女。

 彼女は僕が有名人だと言っていた。思い当たるふしは二つあるが、おそらく学年順位の方だろう。

 振り返ってみれば彼女がする話題は勉強に関することが多かったし、それにもう一方の僕を有名にした案件は、どう考えても僕に話しかけることを躊躇わせる。

 やがて駅につき、定期券を出し、僕は電車に乗り込む。

 見飽きた景色を口を半開きにして眺めていると、一旦中断されていた思考が再起動される。

 転入生か。そういえば名前を聞き忘れた。

 もちろん僕が彼女の名前を覚える必要性はまるでないが、彼女の方は僕の名前を知っているのに、僕は彼女の名前を知らないというのはなんとなく不公平に思えた。

 ちなみに、至極どうでもよく、いまさらどうにもならないことだが、僕は自分の名前が嫌いだった。理由は実に単純なもので、男らしさの欠片もなく、よく女に間違われる名前だからというだけ。

 さらにいえば、両親に本当は女の子が欲しかったといわれたのも僕を不機嫌にさせた大きな理由の一つだろう。しかも結局妹が生まれたことも、僕の不機嫌さを加速させた。だけど僕の妹は贔屓目に見ても可愛いので、それはまあ許す。

 それにしても、やっておきたい、ことか。

 またもや僕の頭を支配した彼女の言葉を天井に浮かべ、僕はどうでもいいことばかり考える。

 僕にいまさらやっておきたいことなんてない。それは本音だ。

 しかし、一つだけ、知りたいことがあった。それは指先を動かすだけで電脳世界が教えてくれるようなことではなく、機会を逃した僕には一生知ることができないものだとこれまで思っていた。

 でも彼女ならもしかして、その答えを教えてくれるかもしれない。

 その思いつきは唐突で、その計画は自意識過剰を通り越して自己愛の塊だった。

 矢のように流れる景色が止まり、面白味のない顔をしたサラリーマンの波に乗って僕は外に押し出される。

 この計画は非常に傲慢で、成功するとはとうてい考えられないが、失うものが何もなく、ちょうど夏休みの予定がなかった僕にはぴったりだと思った。

 彼女に僕の方から話しかけるのはきっと勇気がいるが、一度舌が回り始めれば後悔も怯えも忘れてしまうだろう。

 そんな僕の自己予想は、さすがというべきか、見事に正解を導き出していた。


「やあ、また会ったね」


「……え。ストーカー?」


「ち、違うよ。校内でたまたま会っただけで、ストーカー扱いは酷いんじゃない?」


「それで? こんなところでなにしてるの?」


「なにって、目の前に自動販売機があるんだからわかるでしょ?」


「あ、なるほど。私のストーカーね」


「もしかして君って、ナルシスト?」


「やめて。貴方と一緒にしないで。笑えない」


 午前の授業が終わり、彼女を探して校内を歩き回っていると、一階にある自動販売機の前でその姿を見つけた。

 偶然を装い話しかけたにも関わらず、本気か冗談かはともかく、僕の思惑を見透かされたようで若干焦る。


「君って、コーヒーとか飲むんだ」


「私、好きなの、コーヒー。特にブラック。ミルクもいいけどシュガーは邪道だと思ってる」


「また背伸びしちゃって。僕は当然ミルクティー。苦いより甘い方が美味しいに決まってる」


「私、甘い物も好きよ。ミルクティーよりはコーヒーの方が好きだけど」


「僕はコーヒーなんてめったに飲まないね。というよりこれまで飲んだ記憶がない」


「それって飲まず嫌いじゃないの?」


「飲まず嫌い? 変な言い回しだね」


「べつに私は帰国子女じゃないわよ」


 上手く会話の方向性を九十度変えることに成功したことに安堵。

 僕は小銭を細長の穴に二つ滑り込ませると、世界一美味しい泥水を手に入れる。商品名はもう名前からして上品そうな漢字四字だった。


「そうだ。友達に貴方のことちょっと教えてもらったんだけど、あの友達が一人もいないって話、冗談じゃなかったのね」


「あ、聞いちゃった? ちょっと転入生には刺激が強かったでしょ?」


「うん。正直言って、驚いた。貴方に話しかけて、一緒に帰ったっていう話をしたらユキ、餌を食べるときのクリオネみたいな顔したわ」


「面白い比喩を使うね」


「それであの話、本当なの? こうして貴方とまた話してる今も、あまり信じられない」


「……まあ、嘘か本当かでいえば、嘘ではないよ」


「そう、なんだ」


 缶を開けるとき、僕は少し爪を痛める。

 彼女がさらに九十度変えた話の矛先は、少し浮かれていた僕の顔を曇らせるのに十分だった。


「“今日から僕に話しかけないでください。僕に関わらないでください。僕のことを忘れてください”、だっけ? なんでそんなこと言ったの?」


 彼女の瞳には強い光が宿っていて、僕は思わず目を伏せる。

 そうだ。僕はたしかにそう言った。今年の一月に、授業中突然立ち上がり、僕はクラスメイトたちにそう宣言したんだ。

 冗談だと思われるのが嫌で、次の日もまったく同じことを繰り返した。

 頭が変になったと思われたかもしれない。でもそれでよかった。僕に誰も触れようとしなくなれば、それで。

 そしてことは僕の思い通りに運び、噂はすぐに学校中に広がった。望み通りの孤独を手に入れ、期待した通りの腫れ物扱い。

 僕の消化試合は、ちょうど一日前に、世間知らずで好奇心旺盛な転入生が現れるまで、ずっと続いていた。


「なんでも、去年まではそれなりに友人もいて、それなりの人望もあったらしいじゃない。なのに、なんで? 先生方も貴方には少し距離を置いているらしいし。なに? 精神病かなにか?」


「ははっ!  君って本当に凄いね。本気で尊敬する。それで、まあ、けっこういい線いってるけど……べつに精神錯乱状態になってるわけじゃないよ」


「じゃあなんで?」


 彼女の声に明確な意志が乗る。適当な言い訳では納得してくれなさそうだ。

 その場しのぎに喉を潤す。彼女の買った缶コーヒーはまだ未開封で、昼休みらしい騒めきがやけに遠くに感じた。


「そうだな……もし、僕とデートしてくれるなら、理由を教えてあげてもいいよ」


「茶化さないで」


「茶化してなんかいないさ。僕にだって知りたいことくらいあるんだ」


「どういう意味?  やっぱり私を混乱させて誤魔化すつもりでしょ」


「鋭いね。あと容赦がない」


「よく言われる。どっちも」


 僕の想定とは違う会話の流れに、呼吸が少し荒くなる。きっと彼女は僕のことがわからないだろう。

 でも、これまで僕のことをわかろうとした人なんて、ほとんどいなかった。

 僕は少し迷う。

 思いつきの計画なんて放り投げて、珍しく僕を追い詰める彼女に全てを話してしまおうかと。


「それとも、ここじゃ言いにくい話なの?」


「……まあ、そんなところかな」


「そう、なんだ」


 彼女の細くて白い指が缶コーヒーにかかる。

 小気味のいい音がしたかと思えば、彼女は小さな口でその黒く澄んだ液体を口に含んだ。


「……じゃあ、してあげてもいいわよ」


「え? なにを?」


「だ、だから、その、デート」


 しかし、コーヒーを飲み終わった彼女の顔がやや赤らんでいることに気づくと、僕は思わずあっけにとられてしまう。

 両の指をもじもじとさせ、彼女は伏し目がちに僕を見つめる。

 いつもなら回転の滑らかな僕の頭は、この瞬間はたしかに錆びついていた。


「え、え、いいの?」


「だって学校じゃ話づらいことなんでしょ? じゃあ、仕方ないじゃない」


「あ、そ、そうだね。……えーと、その、ありがとう」


「感謝とかしないで。なんか気持ち悪い」


「ご、ごめんなさい」


「素直に謝らないで。なんか調子狂う」


「あ、え、うん……」


 慣れない無言が広がる。

 酷い言われようだが、絶不調に陥った僕は上手い反撃を思いつけない。

 彼女は夏の暑さに辟易したのだろうか。額の汗をハンカチで拭くと、いつの間にやら飲み終えた空き缶をゴミ箱に捨てて、そのまま階段の方へ何も言わずに行ってしまった。

 またもや取り残された僕は、知らない間に計画が第一段階を突破したことに気づいていたが、喜びもミルクティーの味も感じられない。

 その後、数分かけて飲み干した缶を捨てて初めて、僕は自動販売機からおつりを取り忘れていることを思い出した。




 彼女とデートの約束を交わしてから一週間が経った。

 実際のところ、あれを約束と言っていいのかはなはだ疑問だが、とりあえず僕は夏休みの予定を一日分塗り潰している。

  高校三年生前期の最終日。僕は配られたペーパーを口でなぞるだけという、教師本人すら面倒だと自覚していそうな説明を受けているところだ。

 すでに紙面に書かれた僕にまったく関与しない内容は一読していて、ボールペンを指の間で往復させることくらいしかやることがない。

 明日からとうとう夏休みが始まる。それにも関わらず、僕はあれからまだ彼女と話をしていなかった。

 校内を変質者のごとく歩き回ったが、偶然という名の必然は一度もおこせない。

 むろん、彼女の所属する三組の教室に足を運べば、まず間違いなく僕の望みは叶うのだが、元来の臆病な性質にくわえ、学内における現在の立場上そんな大それたことはできなかった。

 つまり今日が最後のチャンスだ。今日を逃せば、おそらく僕の計画は一生実行できない。彼女の方から僕にコンタクトをとってくれない限り、連絡先も、住所も知らない彼女と夏休み中に会うためには、今日行動を起こすしかないのだ。

 左手からボールペンが転げ落ちる。勢いそのままに机からも飛び出してしまう前に、僕はなんとかそれを掴んだ。

 すると僕は、あることに気がつく。なぜか周囲のクラスメイトたちが全員立ち上がっていたのだ。そして号令係なる役職にたしか就いていたクラスメイトの一人が大きく一声かけると、皆はいっせいにこうべを垂れた。

 どうやら集中のし過ぎでわからなかったが、帰りのホームルームはもう終わってしまっていたらしい。唯一座ったままの僕を誰も注意することなく、弾けるような騒めきが教室中に広がる。

 僕はしまったと思った。

 なぜなら彼女に出会うための上手い作戦を思いつく前に、最後の下校時間が来てしまったからだ。

 急いで学業にまるで関係ないもので大部分を占める荷物をまとめると、僕は慌てて走り出す。最終手段をもう使わざるをえない。

 最終手段とは、当然待ち伏せのことだ。本格的にストーカー扱いされても否定できないためあまり実行したくはなかったが、僕の創造性に欠如した脳ではこれが限界。校門で待ち伏せするのはさすがに厳しいものがあるので、駅のホームで待つことにしよう。

 彼女のクラスが僕のクラスより早くホームルームを終わらせていた場合はきっと間に合わないが、そうであるかどうかを確認するために時間を割くのは無意味に思えた。

 階段を数段飛ばしで駆け下り、僕は乱暴に内履きと外履きを履き替える。ローファーに中々踵が入らず、無性に苛立つ。

 それにしても、どうしてこんなに僕は焦っているのだろうか。

 考えてみるとよくわからない。

 もしこのまま彼女に会えなかったとして、それがなんだという。

 もともと彼女はイレギュラーで、僕の物語には必要のない存在。

 そう考えると、一人で勝手に盛り上がっていた自分が急に道化すら眉を顰める間抜けに思えてきた。


「そんなに急いで、どこ行くの?」


「え?  あ、君は……」


 しかしその時、僕の背中に呆れを多分に含んだ声がぶつけられる。

 振り返った僕の顔がよほど面白かったのか、癖のない黒髪を揺らして声の主は笑う。

 僕は急ぐ理由がなくなったことに胸を撫で下ろしながらも、肝心のこの先を考えていなかったことに気づく。


「どうも、こんにちは。私のこと、知ってる?」


「知ってる、というよりはむしろ覚えてるよ。僕って、記憶力がいいんだ」


 手を靴べら代わりにして、僕はゆっくりと外履きに足を押し込む。

 僕の横に並ぶようにする彼女が、僕と同じように登下校に電車を使うことはすでに知っていた。





 蝉の死骸を踏まないよう気をつけながら、僕は学校から駅までの並木道を歩いている。

 空には飛行機雲が見え、ちょっとだけ得した気持ちにさせた。


「それで、君がどうしても僕としたいデートについてだけど、どこに行きたい?」


「そうね、貴方がどうしても私としたいデートは、できれば静かな場所がいいな」


 僕は彼女の横顔を眺めながら、偶然持っていたガムを一つ口に放り込む。

 味はシトラスミントで、少しだけしけた舌触りがした。


「あ、ガム、食べる?」


「貴方のガムって、しけてそうだからいらない。というか、場所より先にいつ行くのかを決めましょうよ」


「それはたしかに。じゃあ、いつがいい?」


「八月二日は?」


「ごめん。その日は僕、用事がある」


「なによ用事って。友達も恋人もいない暇人のくせに」


「僕はこう見えて忙しい人間なんだ。あと、友達はともかく、恋人もいないって決めつけるのはよくないんじゃない?」


「でもいないでしょ? というか恋人とかいたことあるの?」


「失礼な。一度だけ惜しいところまでいったことあるんだぞ。それじゃあ、八月七日は?」


「やっぱり私の想像通りじゃない。あとその日は予備校だから無理」


 ミントの爽やかな香りが鼻を突き抜けていく感覚がとても気持ちがいい。

 湿度と温度が無駄に高い外気とは正反対だった。


「予備校なんてサボっちゃえばいいよ。僕と過ごす時間の方が大切でしょ。だいたいそういう君は、恋人とかいるの?」


「今はいない。というか貴方の連絡先教えてよ。そこに私の都合のつきそうな日をリスト化して送るから、そっちが合わせて」


「でたよ。今は、いない。あたかも前はいたかのような口ぶり。ちなみに僕、スマホとか持ってないよ。マイパソコンならあるけど」


「は?  高校三年生にもなってスマホも持ってないの? 信じられない。じゃあそのマイパソコンとやらのメールアドレスでいい。あと中学の頃と、前の高校にいた頃、それぞれ一人ずつ彼氏はいたわよ」


「はいはい、自慢はもういいです。僕の魅力に気づけない世の中の女性サイドに問題があるのさ」


「勝手にそう思っとけば。空想の世界で生きるのも貴方の自由だし」


「まあ、僕はロマンチストだからね」


「ナルシストの間違いでしょ。あとパソコンのメールアドレス早く」



 僕は胸ポケットにしまっていた手帳に角ばった字体でアルファベットを書き綴ると、そこのページを破り彼女に渡した。

 しかし彼女はその紙切れを僕の持っていない電子機器で写真を撮ると、何食わぬ顔で返却してくる。

 どうにも彼女はゴミを持ち歩かない主義らしい。


「へえ、貴方って左利きだったのね。左利きにしては文字綺麗じゃない」


「左利きにしては、は余計だよ。僕の知ってる字が汚い人の九割は右利きなんだから」


「そう?  私の知ってる字が綺麗な人の九割も右利きだけど」


 僕が手帳に書き込む様子を見て気になったのか、彼女はとても失礼な褒め方をしてくる。

 まず間違いなく、彼女は右利きだろう。


「でも、日本語の書き順って右利きが書きやすいようにできてるんでしょ?  なら普通、左利きの人の方が字が下手になりやすいんじゃない?」


「そんなことないよ。僕は生まれてこの方、左手じゃ文字が書きにくいなんて思ったことは一度もないし。まあ、たまに不便さを感じることはあるけどね。習字とか」


「なんか、左利きと関西弁話者って似てると思わない?」


「え?  どこらへんが?」


「明らかなデメリットのあるマイノリティーなのに、どこか誇らしげなとこ」


「ははっ、ちょっとわかるかも。なんというか、選ばれし者?  みたいな雰囲気は出してる自覚あるよ。関西弁を喋る人も、たしかにそんなイメージだ。あと血液型がAB型の人とかもね」


「AB型は違うわよ。明確なデメリットがないから」


  貴方と一緒にしないで、みたいな目で彼女は僕を見やる。

 もしかしたら彼女の血液型もAB型なのかもしれない。


「でも左利きとAB型ってどっちが珍しいんだろうね。世の中には、両利きのボンベイ型の人とかもいるんだろうな。どんな気分なんだろう」


「ボンベイ型?  なにそれ」


「たしかそんな名前の珍しい血液型があった気がする。よく覚えていないけど」


「記憶力がいいんじゃなかったの?」


「じゃあボンベイ型であってるよ」


 僕と彼女の歩みがほぼ同時に止まる。さっきまで青色で点滅していた信号機が赤に変わったからだ。

だけど彼女は足を止めるだけでは飽き足らず、なぜか僕に真剣な面持ちで向き直った。

 ひ弱な僕の心臓は瞬間脈打ち、夏の暑さとは違った理由が喉を乾かす。


「やっぱり、貴方、変」


「な、なに。どうしたの突然?  僕は両利きでもボンベイ型でもないよ?」


「違う。そういうことじゃない」


「じゃあ、どうしたのさ?  僕が変なことなんていまさら過ぎて、冬眠から目覚めたばかりの熊でも目をつぶるよ」


「面白い例えを使うのね」


「君を参考にしたんだ」


 前触れのない空気の変化に僕は準備不足の冗談をぶつけるが、彼女の表情筋はぴくりともしない。

 頭上から鳥の鳴く声が聞こえたが、彼女には届いていないように思える


「貴方って、他人と関わり合うのが苦手そうなわけでもないし、口もよく回るほう。顔つきはちょっと地味目だけど、清潔感がないわけでもない。どっからどう見ても、好き好んで他人を拒絶するタイプじゃない。むしろ気がきくし、人の輪の中にいることを苦にしない人。なのになんで? なんで貴方は皆から距離を置いたの?」


「……気がきくってのは、買い被りだよ」


「そうね。それはたしかに言い過ぎかも」


 彼女は正直な人だ。

 僕は嘘つきではないけど、正直者でもない。

 どちらかといえば僕の方がこの世界の多数派だろう。

 これほど真っ直ぐにぶつかってこられると、僕は困る。

 和紙ほどの厚さしかない僕の心の壁には、簡単にひびが入り、容易く崩れ去ってしまうから。


「僕に言わせれば、君だって変だよ」


「どこらへんが?」


「なんで僕なんかに構ってくれるの?  学校で僕が腫れ物扱いされていると知って、なお僕なんかと関わり合おうとするのはなんで?」


「私、嫌いなの。曖昧で、理由のわからないものが。私は知りたい。消したいの。貴方っていう違和感を。肌が痒くなるのよ、貴方を見てると、話を聞いてると」


「まるでアレルギー症状だね」


「そうね。早く私を治療してよ。貴方だけが特効薬を持ってるんだから」


 信号機の光が青色に変わる。

 彼女は顔の向きを変え、周囲の人たちと同じようにまた歩き出す。

 それなのに僕だけは動けないままで、彼女の残香をシトラスミントで打ち消すばかり。


「私には言わなくていいの? 話しかけないで、関わらないで、忘れてください、って」


「なんで僕がその台詞を君に言わないのか、実はそれが僕の知りたいことなんだ」


「やっぱり貴方って、変」


「よく言われるけど、それは君も同じでしょ?」


「私にそんな台詞を言うのは、貴方ただ一人」


 青の光が点滅を始め、彼女は小走りで道路の向こう側へ渡っていく。

 相変わらず僕は不恰好な姿勢で立ち尽くしたままで、口の中のガムはもう味も匂いもしない。

 そして彼女はそんな僕を待ってはくれず、その後結局一人で帰路につくことになった。

 音の種類の少ない電車に揺られて、混雑したホームを通り抜け、少しだけ遠回りして家に帰る。

 そのせいか、僕は残っていたガムを家につく頃には全て食べ尽くしてしまう。

 ふと脳裏をちらつくのは、今はもう僕以外誰も知らない君との思い出。

 僕がわざわざ思い出をなぞって繰り返すなんて面倒な解法を使おうとしてるなんて知ったら、学年一位の君はなんて言うだろう。

 もっと賢いやり方を教えてくれるかな。

 夜に届いた見覚えのないメールアドレスからの連絡を確認するまで、僕はくしゃくしゃになった手帳の切れ端に書き間違えがないかずっと見直し続けていた。




 やかましい蝉の鳴き声。燦々と照りつける陽の光。

 おそらくこの街の出身者ではない人々が大勢通り過ぎていく様を眺めながら、僕は約束の時間を一人静かに待っていた。

 右手の腕時計を一瞥すれば、今日の日付と現在の時刻が目に入る。

 八月一日、十一時零分。時計盤のないデジタルな情報から、僕は彼女の遅刻を確認した。

  最後の夏が始まってから、一週間ほどが経つ。

 メールのやりとりを通して、僕は今日この日に彼女と会う約束をしている。

 待ち合わせは現地集合で、それは彼女の要求だった。

 僕としてはこの辺りの特色の一つでもあるレトロな電車に乗りながら、一緒に湘南の海を眺望したかったのだが、どうもそれは帰り道になりそうだ。


「こんにちは。時間ぴったりね」


「二分遅刻だよ。君は時計とかしないタイプ?」


 すると好天の暑さに汗を流す僕に、彼女が横から声をかけてくる。

 膝下の長さを際立たせるショートパンツに、ボーダーのTシャツを一枚羽織っただけの身軽な服装。

 生まれ持ったルックスのおかげか、僕が彼女の活発な内面を知っているせいか、実に似合っているように思えた。


「この街自体には一時間前から来てたわよ。時間は携帯があるからいいの」


「一時間前から?  なに?  僕と会うのが楽しみ過ぎて我慢できなかったってこと?」


「そんなわけないでしょ。私、待ち合わせ場所に早めに来て、辺りを一人で散策するのが好きなの。貴方との約束だから特別早くきたわけじゃない」


「なにそれ。面白い趣味してるね。つまりということは、先に色々見てきちゃったの?  うわ。なんか寂しいな」


「なにがよ。先に見てきたって言っても、遠くには行けてないし、ほんと散歩程度だから」

 僕はあらかじめ買っておいたミネラルウオーターを少し飲むと、彼女にも勧めるが、それはすげなく断られる。

 観光客の波に僕らも乗り込み、夏の日差しの下を歩き出す。

 すぐそこには海辺が見えたが、不思議とまだ潮の匂いはしなかった。


「それでどうする?  先に島に渡って、洞窟観光とかしちゃう?  それとも水族館の方に行く?  できれば僕はまず、昼食をすましたいんだけど」


「昼食なら島の方に行った方がいいんじゃない?  たしかここってシラスが有名なのよね? というか今日、水族館にも行くの?」


「当然。僕、新しくなってから来たことないんだ。君はあるの?」


「いいえ、ないわ。新旧通して一度も。えー、初めてが貴方となの? なんか凄い嫌」


「わお。相変わらず震えるほどにストレートだね」


 彼女はわざとらしく舌を出すと、すぐに破顔した。

 制服を着ていない彼女はいつもより大人びて見え、僕は軽く胸に動悸を覚える。


「それにしても、本当に人が多いわね。でもこの中で、地元の人なんてほとんどいないんだろうな」


「お!  それさっき僕も同じこと考えたよ。やっぱり僕たちって相性抜群以心伝心。心が繋がってるんだね」


「やめてよ、縁起でもない。水着で歩いてる人もいるし。本当、夏って感じ」


「君はちゃんと水着持ってきた?」


「なにがちゃんとなのよ。持ってきてるわけないでしょ?  なに?  貴方泳ぐつもりなの?」


「いや。僕も水着持ってきてないよ。激しい運動は禁止されてるからね」


「誰に禁止されてるのよ。でも海水浴なんて、もう何年もしてないなぁ」


 駅前から通りに出ると、海の街に相応しい格好をした人が何人も見つけられた。

 中にはサーフボードを担いでいる人もいて、僕もこういう街で生まれ育ったら少しは違う人間になっていただろうかなんて考えてしまう。


「君って出身はどこなの?  普通に関東?」


「ううん、東北。小学校低学年の頃まではそっちで過ごしてた。いつかはまた東北に遊びに行ったりしてみたいわね。けっこう先になるとは思うけど」


「そうなんだ。僕は生まれも育ちもずっと同じ場所だから、つまらないものさ。狭い世界で生きてきたなと我ながら思うよ」


「べつにいいじゃない。井の中の蛙。貴方にぴったり」


「それって慰めてないし、むしろ貶してるよね?」


「前半で慰めて、後半で貶したのよ」


 そうか。彼女は東北出身だったのか。彼女の肌が人に比べて白いのも、それが理由かもしれない。他に東北出身の知り合いがいないので、実際のところはどうかわからないが。


「貴方はこの夏、なにをして過ごしてたの?」


「そうだねぇ、特になにもしてないけど。しいていうなら、君のこと考えてた」


「気持ち悪い」


「大丈夫?  どこかで休もうか?」


「気持ち悪いのは私じゃなくて、貴方の方よ」


「え?  僕は全然元気だけど?」


「はぁ……貴方って兄弟とかいる? いなさそう」


「なにがどうなってその台詞に繋がったのかわからないけど、僕には妹が一人いるよ」


「嘘でしょ?  絶対一人っ子だと思ってた」


 心外な発言に僕は眉を顰める。

 しかし彼女は本気で驚いているようで、ただでさえ大きい瞳がいつもよりも倍開いていた。


「そういう君は兄弟いるの?  なんか上に男兄弟とかいそうなイメージあるけど」


「え? よくわかったわね。私は兄が一人いるわ」


「やっぱり絶対そうだと思った。もう両親、兄両方から散々甘やかされたんだろうなってすぐわかったよ」


「そんなことないわよ」


「そんなことあるさ。僕も妹をよく可愛がってるからわかるんだ」


「私の兄と貴方を同じにしないで」


 橋の上をしばらく歩き続けると、お目当ての島の方に辿り着く。人の密度が一層上がったようで、僕は少しだけ苦しくなる。


「先に食べるのよね?」


「そうだね、あそこなんかどう? 大きな字でシラスって書いてある」


「どこでもいいわよ。私はそんなにお腹空いてないし」


「今のうちにちゃんと食べておかないと後で困るよ? ここを舐めちゃいけないんだから。たぶん反対側まで行って、こっちに戻ってくる頃にはもうへとへとになってるよ」


「そうなの? ふーん。じゃあ、私もしっかり食べておこうっと」

 

 偶然目に入った店へ、僕らはぶらりと入っていく。適当な席を選び、僕と彼女は向か合って座る。

 楽しそうな歓談が周りからは聞こえてきて、この場で陰鬱な表情を見せる人は誰一人としていない。

 自らの幸せをまるで疑っていない人たちに混じり、僕はメニュー表も見ずに注文を決めた。


「貴方はなににするの?」


「シラス丼」


「すいません、注文いいですか?」


 彼女は一切の恥ずかしげも躊躇もなく声を張り上げ、店員を呼びつける。

 僕はこういった時に手を挙げたりして人を呼ぶのが苦手だったため、彼女のそんな大胆な行動に少し感動した。

 彼女は迷わない。僕はそれを得難い美点だと思う。いや。むしろ僕の方がおかしいのかもしれない。


「シラス丼を一つと、シラスピザを一つ」


「はい。かしこまりました」


 僕らのテーブルに二つ水を置いてから彼女の注文をメモした店員は、きびきびとした動きでまた店の奥へと消えていく。

 店内は盛況の一言で言い表せられ、この仕事量でどれくらいの給料なのだろうかと現金なことを思わず考えてしまう。

 冷房器具はなく、昔ながらの羽根がある扇風機だけが快適さを演出していた。


「シラスピザなんてあるんだね。美味しいの?」


「さあ? 知らない。食べたことないし」


「え? 食べたことないのに頼んだの?」


「せっかくなんだから、挑戦してみようと思って。だいたい、貴方だってこれまで何度も食べたことのないもの食べてきたでしょ?」


「それはそうだけど。それは選択肢のない時だけだよ。給食とか、家で出るご飯とか。自分で選べるなら、美味しいと知ってるものしか頼まない」


「変なところで慎重派なのね。授業中いきなり立ち上がって、意味不明な発言をすることはできるくせに」


 彼女の挑戦的な視線に、気弱な僕は目を逸らす。上手い言い訳が思いつかなかったからだ。

 手元の水でそれなりに渇いていた喉を潤すと、僕はいまさらメニュー表を広げる。


「あ、飲み物を頼むの忘れてた。君はこういうところじゃ、食べ物しか注文しないタイプ?」


「ちょっと話を変えないでよ。それで、結局なんで例の事件を起こしたの? 元々、今日はそれを聞きたくてこんな遠くまで来たんだから」


「例の事件とかそんな言い方やめてよ。まるで前科持ちみたいじゃん」


「似たようなものでしょ」


 僕はどうやって彼女の追撃を躱そうか悩む。今ここでその話をすると、そこで僕の計画は終わってしまう。

 もう一度水を飲み時間を稼ぐ。良案は一向に思い浮かばない。


「まあまあ、そういうメインイベントは後にとっておこうよ。まだまだ僕と君との旅は始まったばかりなんだし」


「旅なんて大袈裟なものじゃないけどね。でも、そうね。貴方がまだ話したくないっていうなら、まだいい。でも、最後には絶対教えてもらうから」


「わかってるよ。だからそんな怖い顔しないで。せっかくの可愛い顔が台無しだ。化粧が崩れちゃうよ」


「私、化粧なんてしてない」


「あ、否定するのはそっちなんだね」


「私、心のない言葉はわざわざ否定しないって決めてるの」


 彼女はふんと鼻を鳴らすが、それすらも可憐な仕草に思えた。美人は得だな。

 僕は自分の外見に不満を持ったことがないが、彼女の長い睫毛を眺めていると、どうしても自己憐憫に苛まれる。


「お待たせいたしました」


 すると僕たちのテーブルに二つの品が置かれた。その瞬間、彼女の表情が目に見えて明るくなり、口角も自然と吊り上がる。家で普段使用するものより太い箸が、僕はやけに気になった。


「ご注文は以上でお揃いでしょうか?」


 彼女が微笑みながら一度頷くと、二十代半ばほどに見える女性店員は別のテーブルへと移っていく。

 また他の客から注文を取り、休む暇はなさそうだ。


「凄い。このピザ、本当にシラスが乗ってる。というかシラス以外何も乗ってないんじゃない? 貴方のシラス丼はなんか予想通りの見た目ね」


「君のピザだって名前通りじゃないか。だいたい想像のつく見た目だよ」


「まあ、それもそうね」


 僕の言葉を彼女にしては珍しく素直に受け入れる。しかしそのライトブラウンの瞳は下に向けられたままで、僕の方は一切見ようとしない。

 食欲旺盛なのか、好奇心旺盛なのか、僕には判断がつかなかった。だけどたぶん、後者だろうと思う。


「いただきます。貴方もいる?」


「くれるなら、貰うよ」


「はい。じゃあ、先に取って」


「あーんはしてくれないの?」


「本当にやったところで、貴方って照れちゃって食べてくれなそう」


「お? やっと僕のことわかってきたじゃん。正解だよ。僕って照れ屋さんだから」


「自分で言わないで。食欲がなくなる」


 彼女の手元のピザから一枚貰う。シラスがこぼれないように気をつけながら一口にすると、思った以上の塩気に舌が驚いた。


「どう? 美味しい?」


「まさか僕に毒見をさせたの? 少ししょっぱいけど、まあ美味しいよ」


「ふーん。じゃあ、夏にはちょうどいいわね」


「というと?」


「ほら、夏って汗をかくから、体内の塩分が奪われるでしょ?」


「へぇ、君も汗なんてかくんだね」


「貴方、私をなんだと思ってるのよ。というか、見ればわかるでしょ」


 彼女もピザを一切れ食べようとするが、口が小さいのか、僕と同じように一口ではその全てを押し込めない。シラスが零れ、彼女はちょっと悔しそうな顔をする。

 その様子がなぜか少しだけ面白くて、僕は思わず笑ってしまった。


「なに。なに笑ってるのよ」


「ごめん、なんでもないんだ。笑った理由は君だけど、なにが面白かったのかは僕も説明できない」


「なにそれ。なんかムカつく」


 もう一度彼女はピザを口に運ぶが、またもやシラスを落とし、さっきと同じように眉を曲げる。

 今度はなんとか笑うことを耐えたのだが、彼女は実に不機嫌そうに僕を睨みつけた。


「さっきからなんなの? 私のことばっかり見て。早く貴方も食べなさいよ、シラス丼。ピザはもうあげないわよ」


「僕は君と違って食い地が張ってないからね。もういらないよ」


「ちょっとそれ、どういう意味?」


「他意はない。言葉通りの意味さ。そんな恨めしそうにこぼしたシラスを見ないでよ。シラスなら僕の分をわけられるけど? お返ししようか?」


「な!? み、見てないわよ。恨めしそうになんて」


 鋭い眼光は一転して、挙動不審げに揺らめき出す。彼女の顔がほんのり赤みを帯びたのは、たぶん夏の暑さのせいではない。

 表情が目まぐるしく変化する彼女は実に愉快で、見事なまでに美しい。

 くすんだ僕にはそんな彼女が眩しく思えた。そしてこんな感想を抱く自分が妙に気恥ずかしく、馬鹿みたいに思えて仕方がない。

 彼女のピザを持つ手とは反対の手で箸を持ち、僕は自分の品にやっと手をつける。思っていたよりご飯は暖かく、僕の舌は二度目の驚きを迎えた。




 昼食を終えた僕らは、店に入る前よりも増えたように思える行楽客に辟易しながらも、島の頂部目指して階段に足を重ね始める。

 照らしつける太陽は憎いくらいで、気温はここ最近で一番高いのではないかと僕に思わせるほどだ。


「はぁ、疲れた。もう無理。暑すぎる。僕の毛穴からさっき食べたシラスが出てきちゃうよ」


「ちょっと気色悪いこと言わないで。想像しちゃったじゃない」


 露骨に顔をしかめる彼女の隣りで、病弱な僕は息を切らしている。

 島の階段は果てしなく、食後の身体にはまったく優しくない。

 涼しい顔をしている彼女が羨ましく、朗らかな顔で僕を追い抜いていく老人たちに戸惑いを覚えた。


「貴方がここに来ようって言ったのに。まだ半分も登ってないわよ? だらしないわね。男のくせに」


「君こそ女のくせに少し丈夫過ぎるんじゃない? 少しは可愛らしくつまづいたりしてもいいんだよ?」


「なに? 男女差別するの? 女々しい男ね」


「君の言ってることはむちゃくちゃだ。焼肉好きのベジタリアンみたいだよ」


「なにそのつまんないし下手糞な例え。貴方にしては珍しいわね」


「疲れてるんだ。大目に見てくれ」


 額から汗が流れ落ち、睫毛を濡らす。

 僕の眉毛は機能を果たしていないらしい。背負っていたリュックサックから厚手のタオルを取り出し顔を拭くと、少しだけ気分はましになった。


「貴方はここ来たことあるんじゃなかったの?」


「前に来たときはエスカレーターを使ったんだ。ほら、エスカーだよ、エスカー。階段を使うのは今回が初めてかな」


「そうなの? なんで今日は階段?」


「君が疲れて僕におんぶされるシチュエーションを作り出したかったから」


「ふーん。今、貴方の願いを叶えてあげてもいいけど?」


「ごめんなさい。調子に乗りました」


「素直でよろしい」


 彼女はけらけらと笑う。跳ねるように軽やかに階段を昇っていくその様は、まるで彼女だけ別の重力下にあるかのよう。

 もしかしたら彼女は地球ではなく、月で生まれたのかもしれない。

 月で生まれた月星人は、僕ら地球人の六分の一の重力で生きている。


「ねぇ、君って、体重どれくらい?」


「四捨五入すれば五十だけど、いきなりなに? そんなこと知ってどうするの?」


「六倍したら三百か。けっこう重いね」


「意味わかんないけどムカつく。代わりに荷物を増やしてあげる」


「うわ。止めて止めて。僕の骨密度じゃ、これ以上の重量には耐えきれないんだから」


 僕の背後に回って、彼女はリュックサックに思い切り体重を乗せる。柑橘系の香りが鼻腔をくすぐり、僕は根本的な前提条件のおかしさにやっと気づく。

 彼女は今、生まれたときの六倍の重力下で生きているのか。それはとても生き苦しそうだ。


「でも階段を登ってると、よくエスカレーターなんてものを考えつくなって思うわよね。エレベーターはわかるけど、エスカレーターなんて普通思いつかないでしょ」


「そう? 僕はエレベーターの方が凄い発想だと思うけどね。エスカレーターはほら、この階段が勝手に動いてくれればな、とか思うじゃん」


 そして彼女は無駄な動きに少し疲れたのか、僕の横に戻る。

 やや乱れた息を整えながら、彼女は変わった思考回路を僕に示す。


「思わないわよ、そんなこと普通。だって階段は自分の足で昇るものじゃない。でもエレベーターはわかる。エレベーターとエスカレーターって、どっちが先に発明されたのかな」


「そりゃエスカレーターでしょ」


「私はエレベーターだと思うけど」


「じゃあ家に帰ったら調べてみるよ」


 しばらくすると、目の前に神社の赤い鳥居が見えてくる。というよりもだいぶ前から視界には入っていたのだが、ここにきて初めてその情報を脳が処理できるくらいに回復してきたようだ。


「どうする、お参りとかしてく? せっかく僕がいるんだし」


「せっかくの意味はわからないけど、そうね、一応しておいた方がいいかも」


 僕は財布から五円玉を一つ手に取る。

 別に彼女とのご縁にかこつけたわけじゃない。一円玉では軽すぎるし、十円玉では重すぎる気がしただけだ。


「まあ、僕は神様なんて信じてないけどね。ほら、僕が神みたいなもんだし」


「私は半分くらい信じてる。なにか悪いことが起きたら神様のせい。なにか良いことが起きたら私のおかげ。みたいな感じに。つまりこれから先何か私を不愉快にさせる出来事が起きたら全部貴方のせいってこと」


「それで良いことは全部自分の手柄なの? そんな都合の良い考え方をする人初めてみたよ。僕が神ならまず間違いなくばちをあてるね」


「やっぱり悪いことは全部、貴方のせいじゃない」


 僕と彼女はばらばらのタイミングでお賽銭を投げ入れる。

 小銭を失ってから僕は願い事を考えていなかったことに気づいたが、適当なものが思いつかなかったので、世界平和でも願っておいた。 彼女はまだ瞳を強くつぶったままで、中々顔を上げない。

 その横顔は僕なんかよりよっぽど神秘的だった。


「なにをお願いしてたの? 半分しか信じてないわりには熱心に見えたけど」


「秘密。そっちは?」


「けちだな。僕は世界平和だよ」


「嘘つき。どうせろくでもないことでしょ」


「嘘じゃないよ。でも僕はこれまで色々お願いしてきたけど、まともに叶ったことなんて一度もないからなぁ。平和の定義もわからないし。というか秘密にしなくちゃいけないようなお願い事なの? 秘密とか言われると逆に気になる。教えてよ」


「うーん、どうしよっかなー」


 再び瞳を開いた彼女は、僕の言葉を信じてくれない。そして彼女の願い事も結局教えてくれなかった。

 まだ先のある階段に目を向けると、肉体的なものとは別の疲労がのしかかってくる。

 しかしそれでも気力を振り絞り、僕は彼女の少し前を歩いた。


「そうだ。恋人の丘とかあるけど、行く? 僕らの愛の不変を誓えるらしいけど」


「行かない。誓うための愛がないから」


 ぴしゃりと断られる僕の提案。足取りは重く、元々受け入れられるとは思っていない。


「たしか鐘を鳴らして、その後に二人の名前を書いた南京錠をかけるんだ。そうすると永遠の愛が約束されるって」


「その話続けるの? でも、ちょっと素敵。ロマンチック」


「あ、いい話を思いついた。君は婚約者と結婚前に恋人の丘にやってくる。しかし、初めて来るはずなのに、そこにはすでに君とその婚約者の名前が書いてある南京錠。そして婚約者は言うんだ。あとは鐘を鳴らすだけだよって。どう?」


「なにがどうなのよ。ストーリーの練り込みが甘いし、そもそも鐘を鳴らした後に南京錠をかけるんじゃなかったの?」


「うえ。厳しい。順番は反対だと駄目なのかなぁ」


 なんとか階段を登り切り、島の最頂に辿り着く。景色は想像通りの絶景で、すっと息を深く吸い込むと、不思議と疲れが軽くなる気がした。

 するとふいに視界を一匹の猫が横切り、隣りの彼女から可愛い声が漏れる。


「あ、猫ちゃん! 見て! 猫ちゃんよ!」


「うわ。なにいきなりはしゃいで? 見えてるし、猫なんて日本全国どこにだっているでしょ? 猫なんて見てないで、景色を見なよ」


「私、猫に目がないの。あぁ、行っちゃった」


「僕はどちらかといえば犬派だからね。まったく共感できないよ」


「えー、犬もたしかに可愛いけど、やっぱり猫ちゃんじゃない?」


「猫は自己中心的だから嫌だ。素直な犬の方がよっぽど可愛らしい」


「なに? 同族嫌悪? あ、ちょっと待って。やっぱ今のなし。前言撤回。貴方と猫ちゃんは全然同族じゃない」


「僕だってあんな生意気そうな目つきをした獣と一緒にして欲しくはないね。あとその猫ちゃんていうのやめて。なんか腹立たしい」


「もしかして妬いてんの? 貴方のこともちゃんづけで呼んであげようか?」


「そんなことを本当にしたら、僕は君の顔を舐めてやる」


「最悪。可愛い猫ちゃんで和んだ私の気持ちが一気に霧散した」


 美しい景色の写真を一枚も撮らずに、僕らは先へ進む。彼女は猫の走り去って行った場所を名残惜しそうに見つめていたが、結局その猫畜生が戻ってくることはなかった。

 今度は下方へと続く階段を、僕を先頭にして降りていく。今回は重力に逆らっていないのにも関わらず、足へとかかる負担は小さくなかった。


「この階段を下りていく人たちは皆、洞窟に行く人たちなの? この先に、洞窟以外になにかあるの?」


「うん? さあ、わかんない。たしか洞窟以外には特に何もなかったと思うけど。でもまあ、ただ単に島を一周したいって人はいるかもね」


「その洞窟ってどんな感じ?」


「なんか変な仏像みたいなのがあって、涼しくて、あと暗い。そんな感じ」


「……どれくらい広い?」


「道幅はけっこう狭かったけど、奥行きは大したことなかったよ」


「……ふーん、そう」


「え、なに、え、もしかして暗いところとか苦手なの?」


「べつにそんなことはないけど、ただどんな場所なのかなって」

 

 斜め後ろを歩く彼女の顔を窺ってみるが、ポーカーフェイスは完璧で、その真意を計れない。

 これまで洞窟に行くことに対する反応もほとんどなかったため、なおさら彼女が今なにを考えているのかわからなかった。


「というか、貴方はもう洞窟行ったことあるんでしょ? そんな何回も行って面白いの?」


「面白いよ。雰囲気が好きなんだ。といっても、僕も行くの今日で二回目だけど」


 やがて目的の洞窟が見えてくる。降りるのはさすがに登りに比べれば幾分か楽だったが、戻るときを想像すると気が落ちる。

 記憶では船も使うことができたため、その利用を僕は本気で見当し始めた。


「ほら、着いたよ。入場料があるので、財布のご準備を」


「あ、いい匂いがする。なんか貝でも焼いてるのかな?」


  波の音が聞こえ、水飛沫が海と岩の狭間で弾けている。

 繁盛してそうな売店を無視して、僕は彼女を洞窟の入り口へと連れて行く。

 これまでより人気が少なく、ちょうどいい時間に来れたと僕は嬉しくなった。


「じゃあ早速入ろう。おお、やっぱりいい。こう、なんか、身が引き締まる感じ」


「あ、本当に涼しい。それに静か」


 洞窟に入ってすぐに、顕著な気温の変化を感じる。

 夏の日差しを忘れ、僕はどんどん洞窟の奥へ進んでいった。


「え? なにあれ? 蝋燭?」


「そうだよ。ここから先は蝋燭を頼りに進むんだ。どう? 凄いでしょ? 昂らない?」


「え、暗い。本当に大丈夫なの? 迷ったりしない?」


「そんな迷路じゃないんだから。一本道だよ」


 僕は係の人から蝋燭を受け取ると、軽く会釈を返しておく。

 彼女はといえば、なぜか妙に緊張した面持ちをしている。

 もう確定だろう。どうやら彼女はこういった場所が苦手らしい。


「全然気づかなかったよ。君がこういう場所が得意じゃないなんて。だってそんな素振りをここに来るまでまるで見せないからさ」


「だからべつに苦手じゃないわよ。ただ、思ってたより、ちゃんとした洞窟だから、ちょっと驚いてるだけ」


「へぇ? じゃあ君が蝋燭持つ? 君が先導してもいいよ? むしろそっちの方がいいか。僕は一度来たことあるし」


「うるさい。早く歩いてよ」


 彼女は僕の背中を少し強めに押す。調子の出てきた僕がにやけ面をすると、今度は二の腕あたりをつねられた。

 静かな暗路では基本的に僕ら以外誰の姿も見えず、まるで世界から切り離されたような気分にさせる。

 静けさは疲れた身体に心地良く染み込み、彼女の息遣いがいつもより鮮明に感じられた。


「……おっと、ここで分かれ道だ。どうする? どっちがいい?」


「どっちがいいって、知らないわよ。どういう違いがあるの?」


 やがて僕らの前に、儚い光で下から照らされた仏像が一つ現れる。

 透明の箱に入れられ胡坐をかいて座っている形で、その両脇に別々の道が続いている。


「さあて? どうだろうねぇ? もし間違った道を選ぶと……」


「……間違った道ってなに。正解、不正解があるの?」


「いやぁ、これ以上は言えませんなぁ。ほら、早く選んでよ」


「本当貴方って捻くれてる……じゃあ、左」


「お! いいねぇ……じゃあ行こうか」


「もう! 本当になんなの!」


 実際はどちらの道を選んでも行き止まりでさほど差異はないが、僕はあえて彼女に選ばせる。

 彼女は僕の着ているよれよれのワイシャツの裾を掴む。

 すると僕の腕が軽く震え始めたが、僕はそれをすぐに押し込んだ。


「仏像が沢山……一つだけだとそうでもないけど、こうも一杯あると不気味ね」


「数が増えればなんだって不気味だよ。特にこういう暗くて狭い場所だとなおさら。ほら、想像してごらん? もしこの仏像が全部君の大好きな猫ちゃんだったらどう?」


「……それも不気味」


「でしょ? そんなもんさ」


 この狭い洞窟に、猫が大量にいたら鳴き声がうるさそうだ。そんなことを考えながら歩き続けていると、そのうち行き止まりに到達する。


「え? 行き止まりじゃない。でもまだ奥がありそう」


「伝説によれば、なんでもこの先は富士に続いてるらしいよ」


「富士って、富士山のこと? 嘘。そんなわけないでしょ。いくらなんでも遠すぎる」


「僕に文句を言われても」


 来た道を引き返し、何度か他の客とすれ違いながら僕らは分かれ道のところまで戻ってくる。

 右の道も行こうかと思ったが、性格の捻くれている僕はそれをやめておくことにした。


「こっちの道は、今度君がまた一人で来て、確かめてみるといい。今回は正解を引けてよかったね」


「なによそれ。私が気になるとでも思ってるの? ……たしかにちょっと気になるけど、どうせまたただの行き止まりでしょ」


「…………」


「そのムカつく顔やめて」


 彼女にまた二の腕をつねられながらも、僕は彼女がもうほとんど洞窟に慣れたらしいことに気づく。それでもまだ僕の裾から手を離そうとはしなかったが。


「はあ、疲れた。なんか凄い疲れた。って嘘? もう一つ洞窟あるの?」


「そう? 僕はとても癒されたけどね。それと、こっちの洞窟には竜がいるんだよ」


「は? 竜って、あの竜?」


「うん。ワイバーンの方じゃなくて、ドラゴンの方ね」


 そして蝋燭を返却し、陽光と海風に煽られる通路まで帰ってくると、彼女は深い溜め息を吐く。だが僕はそんな彼女を連れて、さらに先へ足を進める。個人的に、僕は二つ目の洞窟の方が好きだった。


「こっちは蝋燭とかないのね」


「まあね。それにあっちより広くないし……お、あったあった」


「あ、凄い。本当に竜がいる」


「だから言ったじゃん」


 二つ目の洞窟を進んでいくと、最奥に竜が待ち構えていた。もちろん本物ではない、作り物。

 近くには太鼓が置いてあり、僕は彼女に叩いてみるよう勧める。


「なんなの? その太鼓?」


「これは龍神の雷太鼓。これを二回叩いて、二回とも光ると願い事が叶うんだって」


「光る? 二回叩くの? もし一回しか光らなかったら?」


「知らない。半分願い事が叶うんじゃない? ほら、叩いてみなよ」


「やだ。なんか怖い。光るとかよくわからないし」


 しかし彼女は太鼓から距離を置き、首を横に振る。

 そういえばいつの間に僕の裾から手を離したんだろう。

 せっかくここまで来たということで、今度はまともな願い事をしようと考えを巡らせて、僕はゆっくりと太鼓を二度叩く。

 間をおいて叩いた一回目、二回目。

 どちらとも光らなかった。




 洞窟を堪能し尽くした僕らは、途中で小休憩を挟みながらも島の入り口まで戻ってきた。

 僕は彼女に船の利用を提案したのだが、意地悪な彼女は上機嫌で来た道を引き返す方を選んだので、僕の身体の水分という水分はすでに全部蒸発してしまっている。

 正午をとっくに過ぎた夏の日差しはむしろ強さを増していて、日焼け止めクリームを塗っていない僕の肌がひりひりと痛む。

 蓄積した疲労も許容範囲をとうに超えていて、つちふまずがやけに熱を帯びていた。


「ふー、さすがに疲れたわね。久し振りにいい運動したって感じ。最近こんな風に身体を動かす機会があんまりなかったから」


「もう足が棒というか鉄屑みたいになってるよ。なのに君はむしろ来るときより元気になってない? 本当に人間? 実はアンドロイドなんじゃない?」


「アンドロイドね、でもちょっと憧れちゃうな。もし疲れを感じないで色々できたら楽しいでしょうね。あ、そういえば、アンドロイドっとサイボーグってなにが違うの?」


「え? たしかサイボーグは改造人間で、アンドロイドは人造人間じゃなかった? 元々人間か、そもそも最初から機械かの違いだった気がする」


「おー、さっすが理系。詳しいのね」


「その褒められ方はあんまり嬉しくないな。むしろ馬鹿にされてる気がする」


「深読みのしすぎ。素直に感心してるのに。そうだ、将来アンドロイドつくってよ。私専用の」


「僕には無理だよ。そんなにロボット工学に興味があるなら自分でつくったら? だいたいなんで君は文系に行ったの? なんか僕より君の方が理系っぽい気がするけど」


 僕がそう言うと、彼女は声なく笑ったあと、少しだけ寂しそうな表情をする。その顔を見せられた瞬間、胸をちくりと刺されたような感覚がした。

 人通りはまだ多く、水族館のある方向に僅かな逡巡を抱えながら、僕は歩くペースをやや落とす。


「ううん、私は根っからの文系脳だから。でも本当は私、お医者さんになりたかったんだ」


「医学部に進みたかったってこと?」


「そう。だけどもう、諦めちゃった。文系にしたのは、医学部への未練を断ち切るってのも理由の一つかな」


「なんで諦めちゃったの? まだ若いのに」


「ふふっ、それ同い年に言う台詞じゃないと思うけど。でもまあ、べつに大した理由があるわけでもないの。ただ怖くなったのよ」


「怖くなった?」


 僕は間をおかず追及する。彼女の整った顔を覆う影の理由が知りたい一心で。

 やがて次の目的地の水族館が見えてくる。チケット売り場はそれなりの混雑を見せていて、客入りは上々そうだ。


「誰かの死に触れるのが怖くなったの。そういう意味じゃ、アンドロイド研究も私にはきっと無理ね」


 彼女の瞳が僕を貫く。

 呼吸の仕方を忘れた僕は、咄嗟に目を逸らすことでなんとか息を取り戻す。

 普段あまり見ない種類の鳥が群れをなして空を飛んでいて、ずいぶん遠くまで来たものだとふと感じる。


「そういうのに直接関係ない医者じゃ駄目なの? ほら小児科医とか歯医者とか」


「それじゃ意味ない。だって私は誰かの命を直接助けたくて医者に憧れてたんだから。でも当たり前だけど、誰かの命を助けるためには、失う覚悟もいる。私にはなかったの。リスクを背負うだけの力が、私にはなかった」


 僕は意外だと思った。彼女は強い人だとずっと思っていたから。

 入場券を買うための列に加わりながら、僕は彼女を改めてじっと見つめてみる。

 不思議と今は、彼女の顔がいつもより幼く見えた。


「貴方は怖くない? もし私が明日にはもうこの世界にいないとしたら、貴方はどう思う?」


「そうだな……たぶん、とても悲しいと思うんじゃないかな。一応」


「月並みな感想。面白くない。だけどありがと。悲しいとは思ってくれるのね。一応」


「まあね。僕もそこまで薄情な人間じゃないさ。知り合いが死んだら、悲しむよ。涙は流さないかもしれないけど」


「なにそれ。私のためには泣いてくれないの?」


 彼女は微笑む。まるで僕を試すかのように。最後に涙を流したのがいつだったのか、どんなときだったのか、僕はさっぱり思い出せない。


「わからないよ。そのときにならないと。でも、君は明日も生きてるでしょ?」


「それこそわからないわよ。そのときにならないと」


 受付の順番が僕たちまで回ってきた。

 安くはない料金を支払い、僕らは水族館の入り口に向かう。施設の内部は冷房が効いていて、汗を拭いておかないと風邪を引いてしまいそうだ。

 幻想的なライトアップで照らされた通路を進んでいけば、優雅に水中を漂う魚たちが僕らを迎える。

 心を穏やかにさせる館内の音楽は耳に優しく、僕は展示されている生き物の説明を逐一読む。


「僕、生まれ変わったら、ペンギンになりたいんだ」


「なによいきなり。寒いところが好きなの?」


 遊泳魚を眺めながら、僕はまったく別種の生物の話題を出す。

 僕も彼女も互いに顔は合わせず、二人とも蒼色の世界に視線は奪われたままだ。


「鳥なのに空は飛べず、代わりに泳ぐのが得意って、なんか格好いいと思わない?」


「まったく思わない」


「それに南極にはペンギンの天敵がいないんだよ。まさに無敵。ペンギンの独壇場だ」


「今だって天敵なんていないでしょ」


「隣りにいるじゃん」


「せいぜい祈りなさい。次はペンギンに生まれ変われるように」


 彼女が急に僕のわき腹を突く。油断していた僕は変な声を上げて飛び上がり、それを見た彼女は満足そうに肩を揺らして笑った。

 さらに順路に沿って進むと、また少し趣向の変わったコーナーに辿り着く。

 どうも深海をテーマにしているらしい。同じ地球出身とは思えない奇妙な生き物たちが、多種多様に並べられている。


「本当に色々な生き物がいるわ。変わった形をしてるけど、この形にもきっと意味があるのよね。面白い」


「生命の始まり? へぇ。僕のご先祖様の出身地はこんな感じなんだ。けっこう田舎だね」

 僕と彼女はそれぞれ自分の興味がある展示を見て回る。そこらの女の子だったら気味悪がりそうな形状と色をした生物にも目を輝かせる彼女を見て、やはり彼女は理系向きだなと思った。


「あ、今度はクラゲがいる。凄い。綺麗。とても気持ちよさそう」


「たしかクラゲって海の月って書くよね。月生まれの君としてはどう? 故郷に似てると思う?」


「は? 意味わかんない。私は地球生まれ地球育ちよ」


 球の形をした水槽の中を宇宙空間にいるかのようにクラゲが漂っている。

 照明演出のおかげか、クラゲがやたらと魅力的に見えた。

 口角を上げる彼女は目を細め半透明の向こう側を覗いている。

 無邪気に感嘆の声を上げては、僕に昔クラゲに刺されたことがあるというエピソードを得意気に語った。


「ペンギンコーナーはまだかな。僕はそろそろ肺呼吸をする生き物が見たい」


「なに? 転生後の予習でもするの? ペンギンよりクラゲの方が貴方向きな気がするけど」


「どこらへんがクラゲ向き? 僕のぴちぴちお肌がクラゲっぽいところ?」


「違うわよ。大人しそうな見た目をしてるのに、案外毒があるってところ」


 僕は早く次の場所に行きたいのに、彼女は中々動かない。

 よほどクラゲが気に入ったのかと思ったが、どうもそういうわけではなさそうだ。

 またもや彼女は僕に向き直り、心臓の鼓動を乱れさせる。

 すっかり引いていた汗が、じわり浮かび上がった。


「ねえ、そろそろいいんじゃない? 教えてよ。なんで貴方が、例の事件を起こしたのか」


「だからその例の事件って言い方やめてよ。人聞きが悪い」


 緩やかに流れていく時間が、僕をまどろみに誘う。

 だけど彼女の目はしっかりと覚めていて、僕が顔を俯かせるまで瞬き一つしなかった。


「そんなに言いにくいことなの?」


「帰りの電車じゃ駄目かな?」


「私、帰りはお兄ちゃんに迎えに来てもらうから、それは無理」


「あ、そうなの? わざわざ迎えに来てくれるなんて、いいお兄さんだね」


「まあ、そうね。実は朝もお兄ちゃんにここまで送って貰ったんだ」


「それはちょっと過保護が過ぎるな。やっぱり君は甘やかされてる。僕の想像通りだ」


「そんなことないわよ。今日はたまたまお兄ちゃんが暇なの」


「そのお兄さんには、今日のことなんて?」


「普通に友達と遊んでくるって」


「へぇ、友達、ねぇ」


「なによその顔。貴方その顔するの好きね」


 友達、か。彼女は僕のことを友達と思っているのか。それとも、適当に言った方便か。

 臆病な僕はそのことを尋ねる勇気を持ち合わせていないが、もっと考えるべきことがあるのは明らかだった。

 それは、僕の方。

 僕は彼女のことを、どう思っているのだろう。

 友達、それは違う気がする。赤の他人、これはさすがにない。知り合い、これが一番近い気がするが、ただの知人と出かけたときに、僕はこんな悩みを抱いたりするだろうか。


「それで、まだ話してくれないの?」


「うーん、本当はもう話してもいいかなって思ってるんだけど……」


「だけど?」

 

 彼女の視線を頬に受けながらも、僕は海の月なんて大層な名前を持った生き物の触手の数を数える。

 視力が落ちてきているのか、計算には思ったより時間がかかりそうだった。


「……そうだね。わかったよ。今度君も招待してあげる。はぁ、やっぱり僕には結局わからなかったなぁ」


「え? 招待? どういうこと?」


「知りたいんでしょ? 僕がなんで全米を震わせた例の問題発言をしたのか」


「それはそうだけど、招待するってなんなの? 理由を知るのに、どこかまた別の場所に行く必要があるってこと?」


「言葉だけで説明してもいいんだけど、君は信じてくれなそうだからね。実際に見せた方がいいと思って」


「もう、ぜっんぜん言ってる意味がわからないんだけど」


「つまりは、次会うときまでネタばらしはお預けってことだよ」


 僕がそう言うと下唇を突き出し、彼女らしくない不細工な顔になる。僕はそれが心底おかしくて、声を上げて笑ってしまった。

 そんな僕の要領を得ない説明と不誠実な態度に苛立ったのか、彼女は踵を返して通路の奥へ歩いて行く。

 僕は慌てて彼女を追いかけたが存外歩く速度が速く、もう一度隣りに立てる頃にはペンギンが視界に入り込んでいた。

 その後は水族館を一通り見て、お土産をいくらか買うとそこで彼女とは別れる。

行きと同様に独りぼっちで帰りの電車に揺られながら、僕はまずいなぁと思った。

 計画はほとんど成功したと言っていいだろう。当初の目的はほとんど達成できたはず。

 だけど僕の知りたかったことは結局わからないまま。しかも余計な土産を手に入れ過ぎた。

  悩める僕が瞳を閉じると、彼女の顔が、声が、言葉が、匂いが思い浮かぶ。

 友達でもなく、赤の他人でもなく、きっとこれはただの知り合いでもない。

 夏の日差しから隠れているのに熱くなる顔に手を当て、僕はまずいなぁと思う。

 どうせ僕はまた失うのに。今年もまた雪はきっと降らないのに、どうしてまた夏に夢を見てしまうのか。

 そして数時間かけて家に戻ると、僕はエレベーターとエスカレーターの歴史について調べることにした。

 しかし先にエレベーターの歴史をネットで検索し、紀元前、アルキメデスという単語が出てきたところで、僕はそれ以上を調べようとすることをやめた。




 目が覚めると、まず始めに一杯の水を飲むのが僕の習慣だった。

 なんでも人というのは眠っている間に大量の水分を失うらしい。そんな話を聞いたのがこの習慣の始まりだったような気がする。

 カーテンの開けられた窓からは暖かな光が差し込んでいて、部屋の時計を見れば針はちょうど十のところを過ぎた辺り。いつもよりやや遅めの起床みたいだ。

 自動で切られていた冷房のスイッチを入れ直すと、僕はのそのそと毛布から這い出る。昨日遠出した疲れが少し残っていたが、倦怠感は特になく思考は実に明瞭だった。

 普段の習慣をこなすべく廊下へと続く扉を開ける。部屋の外側に音はなく、僕が床を踏んで初めて聴覚が役に立つ。

 共働きの両親はどちらもすでに会社だろう。

 中学三年生の妹は僕と同じように夏休みに入っているはずだが、この様子だと部活にでも行ったみたいだ。

 僕と違って運動も得意な妹はたしか陸上部だったはず。部活動の引退時期も近いとは思うが、その日がいつなのか僕は知らない。

 リビングにつくと食器棚を開け、僕専用のコップを取り出す。冷たすぎない水道水を並々と注ぎ、僕は一気に飲み干した。

 このまま朝食も済ましてしまおうかと思ったが、この時間帯に食事をすると中途半端な時間にお腹が空いてしまいそうなので、昼食まで数時間我慢することにした。

 暇を持て余した僕はなんとなしにテレビをつけ、適当にチャンネルを回す。

 似たような情報番組をいくつか巡ったところで、一番顔が好みだった女性アナウンサーが出ている画面で手を止めておいた。名前は知らないが、唇の色が綺麗な人だった。

 次々に紹介される話題は、何一つ僕の頭の中に入ってこない。

 ぼんやりと浮かぶのは仄かに桃色をした唇だけで、僕の耳は滑舌の良い声を環境音として捉えている。

 彼女は今、何をしているのだろう。

 頭をよぎる、新鮮な記憶。

 クラゲの海を泳いでいるようなまどろみの中で、僕はつい昨日の出来事を思い返す。

 特別なことなど、何一つなかった。

 高校の同級生と外に遊びに行って、それなりの会話をしただけ。劇的なことなどなかったし、別にこのような経験も初めてではない。

 それにも関わらず、僕はずっと彼女の余韻に包まれたままだ。

 これはどうしたことだろう。僕はいよいよ危惧していた感情の芽生えに気づきながらも、それを意識的な溜め息で誤魔化そうとする。

 するとその時、玄関の方から聞こえる物音が僕のまどろみを打ち消した。

 こんな時間に誰だろうか。僕は段々と近づいてくる音に意識を向けながら、リビングと廊下を繋ぐ扉に霞んだ視線を送り待つ。


「あ、兄さん。起きてたんだ」


「カナ? 部活に行ったんじゃなかったの?」


 廊下からひょっこり顔を出して僕にアルトの声をかけるのは、紛れもない僕の妹だった。

 制服は着ておらず、ジーパンに無地のTシャツというラフな私服姿で、どう見ても学校に行った帰りには見えない。


「部活って……兄さん、私はもうとっくのとうに部活は引退してる」


「え? そうだったの? 初耳だな」


「言わなかったっけ」


「言ってないよ。僕は記憶力がいいからね。もし言われてたら絶対覚えてる」


「まあ普通は言わなくても気づくものだと思うけど」


 カナは食器棚から自分用のコップを出すと、水道水を半分ほど注ぎ何回か小分けにして飲む。

 僕の妹はいつも外から家に帰ると、まず最初に水を飲むのが常だった。


「それじゃあ、どこに行ってたの?」


「コンビニ。朝ご飯を買いに」


「朝ご飯? でも何も持っていないように見えるんだけど。結局買わなかったの?」


「違う。帰ってくるまでに全部食べたの」


「ああ、なるほど」


 チャンネルを変えていいか訊いてくるカナに僕は頷きを返す。

 僕の座るソファーにカナも腰掛け、まったく興味をそそられない教育番組に画面が変化した。


「兄さんは朝ご飯食べたの?」


「いや、食べてない。さっき起きたばかりだし、今食べると中途半端かなって思って」


「でも私、お昼ご飯も食べるつもりだけど」


「カナはいいんだよ。僕と違って普段から運動してるからね。食べたいだけ食べればいい」


「だから部活は引退したんだって。もう最近は運動してない」


「それでもお腹が空くなら食べればいい。カナは何も我慢しなくていいんだ。太ったカナもどうせ可愛いんだから」


「食事の時間がバラバラでも、食べる量は毎日だいたい同じだからべつに太らないと思うけど」


「ああ、そう言われるとたしかにそうかもね。というかさっきから微妙に会話噛み合ってない気がしない?」


「わざとだから大丈夫」


「なんだわざとか。なら安心だ」


 ふいにカナは立ち上がると、冷蔵庫に近づきアイスクリームを取り出す。僕の分も必要かと訊かれたが、僕はいらないと答えた。


「兄さん。なんで冷房つけないの?」


「あ、その言葉で思い出したよ。僕、自分の部屋の冷房つけっぱなしだ」


 リビングの冷房のスイッチがオンにされる機械音を聞きながら、僕はすぐ戻るつもりだった自室で電気代が浪費されていることに気づく。

 水も飲み終わったし、食事をとるつもりもないのに、なぜ僕はソファーなんかに座ってしまったのだろう。


「アイス美味しい。兄さんも食べればいいのに」


「それなに味? ミルクだったら僕も食べようかな」


「バニラ」


「ならいいや。僕はバニラ味苦手だから」


「私、兄さん以外にバニラ味が嫌いな人知らない。変なの」


「べつに嫌いなわけじゃないよ。ただ苦手なだけ。なんかバニラって気取った味がするから苦手なんだよ」


「もっと変」


「というか誰が買ってきたのそれ? 僕がバニラは苦手だってみんな知ってるよね?」


「私が買ってきた。私バニラ味好きだから」


「なんだカナか。じゃあ仕方ないね」


 僕の好みを知っているのに、僕もアイスクリームを食べるかどうかカナが尋ねてきたことを一瞬不思議に思う。しかしその理由はいくら考えてもわからなかった。

 冷房が効いてきたのか、若干の肌寒さを覚える。

 温度を上げようかと腰を浮かしかけたが、実に美味しそうにバニラ味のアイスを頬張る妹の可愛い横顔を見ると、僕はソファーに深く腰掛け直さざるを得ない。


「そういえば兄さんから借りてた本、読み終わった」


「あ、そうなの? どうだった? 面白かった?」


「腹が立った」


「あははっ。それはよかった。あれはそういう作品だからね。その感想が出るなら貸したかいがあるよ」


「なによりお勧めの本を貸してって言った私に、あれを渡した兄さんに腹が立った」


 じっとりとした目で睨まれながら、僕は笑って視線をやり過ごす。

 しばらく前に突然本を貸して欲しいと頼まれたときに僕が選んだ本がよっぽど気に入ったらしい。渡した本のジャンルはミステリ。オチがなんというか反則、掟破りといった内容の推理小説だ。僕はこの作品を純粋に評価していて、作者に感激すらしているのだが、ネットで調べたところ世間の評価はどちらかといえば妹よりみたいだ。


「まるで兄さんを読んでるみたいだった」


「変わった比喩だね。褒めてくれてる?」


「そんなわけない」


「どうする? あの作者の小説は他にも持ってるけど、読んでみる?」


「……他のも似たような感じ?」


「さぁ? それは言えないよ。読んでみてからのお楽しみ」


「……一応読む」


 僕の妹は普段あまり本を読まない。

 だから本を貸してくれと頼まれたときは嬉しかった。

 なぜ急にそんなことを言い出したのか、独特の思考回路を持つカナの考えを予想することは難しかったが、大事なことはそこではないのでそれはよしとする。

 僕は妹と会話する種が増えるだけで満足だ。


「そうだ。カナも僕になにか貸してよ。僕が一方的に貸すだけじゃ面白くないでしょ?」


「貸し借りの行為自体に面白さは必要ないと思うけど」


「でもカナは読書とかあんまりしないんだよね? 人に貸せるような趣味ないの? ほら映画のDVDとか、音楽のCDとか、漫画とか」


「映画も見ない。音楽も聞かない。漫画も読まない」


「わお。麗らかな若い女性とは思えない無趣味っぷりだね。いつもカナは自分の部屋でなにしてるの?」


「勉強とか。あとはたまに絵を描いたりする」


「なるほど。カナはクリエイター側なんだね。たしかにカナの絵は上手だった記憶があるよ」


「そう言われると聞こえがいい」


「じゃあその絵を見せてよ」


「それは絶対嫌」


「えー、それじゃあギブアンドテイクが成り立たないじゃん」


「なら無理に本も貸してくれなくていい」


「いやいや貸すけどさ」


 せっかくなのでさらに種を増やそうと思ったが、そう簡単にはいかなかった。

 僕が思い出せるカナの絵の一番新しいものは、たぶん小学生の頃に書いたものだと思う。

 その年齢の時点で、はるかに今の僕より画力があったはずだ。

 僕より運動が得意で、芸術の才能もあり、学力も僕と同程度。我が妹ながら優秀過ぎて、自分が情けない気分になってしまう。

 そんな僕の妹は二つ目のアイスクリームを食べ始める。


「はぁ……僕って本当に駄目な兄だよね」


「突然どしたの」


「僕はカナの兄に相応しくない。欠点だらけの粗悪品だ」


「そんなことない。兄さんのいいところ私は沢山知ってる」


「……本当に?」


「本当」


「うわぁ! 愛してるよカナぁっ! カナが僕の妹で本当によかったっ!」


「……やめて。離して。暑い。恥ずかしい」


 僕は思い切り隣りの妹に抱きつく。

 カナは避けることこそしなかったが、少し身をよじり抗議の言葉を一定間隔で口にし続けていた。

 そして僕はひとしきり兄妹愛を確認するとカナを解放し、ソファーから腰を上げる。


「カナは今日暇? なにか予定ある?」


「特にない」


「じゃあ、ちょっと外にお昼ご飯食べに行かない? もちろん僕が驕るよ」


「行く」

 

 間髪入れずに返された言葉でご機嫌な僕は、もう一度水を一杯飲むと寝間着を着替えるために一旦自室に戻る。

 今日の僕は実にアクティブだ。妹と一緒に外出するなんていつ以来かわからない。

 いつもの白と黒で色味のない普段着を着こむと、まったく意味のなかった冷房を消す。換気のため窓も開けておいた。

 リビングに戻ると僕の妹は二つ目のアイスクリームを食べ終えていて、こちらの部屋の冷房もオフにされていた。




 天気はいわゆる憎いくらいの快晴というやつで、平日らしい閑散とした街並みは僕の気分を高揚させる。

 しかしゆったりとした歩幅で街路樹の横を通り過ぎていく際に、アブラゼミの喧しい鳴き声が起床から間もない僕の頭を執拗に揺らすのだけは不愉快極まりない。

 セミの死骸を踏みつけないよう気をつけながら僕は歩く。

 べつに僕が人類の枠組みを超えた博愛主義者というわけではない。単にあのくしゃっとした空潰しな感覚が僕の足裏には合わないというだけだ。


「私、夏は嫌い」


「お、奇遇だね。僕も夏は好きじゃない」


 ふいに隣りのカナが呟くように言葉を発し、敏感な僕はそれに反応する。


「冬の方がいい。汗かかないから」


「なんとも元運動部とは思えない発言だ。まあ、僕は冬も好きじゃないけど。だって寒いから」


「夏も冬も嫌いだなんてわがまま。私だって寒いのが好きなわけじゃない。でも冬は服を何枚も着込めばなんとかなる。でも夏はだめ。脱ぐのには限界があるから」


「たしかにそう言われると、夏より冬の方がましに聞こえるね。だけどやっぱりできれば夏も冬もごめんだなぁ。やっぱり秋が一番」


「なんで秋? 春はだめなの?」


「ほら、僕花粉症だから。スギの」


「なるほど」


 カナと一緒に並んで歩くなんていつ振りだろうか。

 知らない間に身長の差が縮まってきていることに気づき、僕は兄の威厳的な意味でこれはよろしくないと感じる。

 見慣れた街。見慣れた景色。見たことのない人々。

 僕の住む街は決して都会とは言えないが、別段田舎というわけでもない。

 この国の首都機能のある都市に行くのに電車で一時間もかからないことだし、これで田舎などと自称したら本当の地方民に怒られてしまうはず。

 だからだろうか。住み慣れたはずの街ですれ違う人々の顔に、僕は誰一人見覚えがなかった。

 ご近所付き合いに僕が特別疎いわけでもないだろう。僕は彼らを知らないし、彼らも僕を知らない。

 僕は自ら孤独を選んだと驕っていたが、実際のところ始めから一人ぼっちだったのかもしれない。


「それでカナはなに食べたい?」


「甘い物」


「え? お昼ご飯の話だよ?」


「知ってる」


「お昼に甘い物食べるの? へえ、女の子って本当に不思議な生き物だね」


「兄さんほどじゃない」


 何の気なしにお口の気分を尋ねてみると、存外すぐに返事は戻ってくる。

 しかし昼食で甘い物を選ぶという発想が僕にはどうしても解せなかった。

 僕個人としては、甘い物はどちらかといえば好物に入るが、食事のメインに据えようとは思わない。女性特有の嗜好だろうか。

 ふとつい昨日のことを思い出す。そういえば彼女は昼食に頼んでいたのはシラスピザだったな。

 すると理由はわからないが、なんとなく愉快な気分になった。たぶん今の僕の口角は上がり切っている。


「兄さん、なに笑ってるの?」


「ごめんごめん。思い出し笑い」


「変なの」


「僕が変だなんて、そんなのいつもことでしょ?」


「ちょっとそれ私の台詞」


 僕の不細工なにやけ面に腹が立ったのか、カナは少し不機嫌そうに眉を傾ける。

 なんだか僕はピザが食べたい気分になってきた。

 甘い物とピザがどちらとも頼める場所といえばどこか。家を出てから数十分、やっと目的地が定まりそうだ。


「じゃあ、ファミレスでいい?」


「うん」


 この辺りにはファミリーレストランがいくつかあったが、僕は特に考えることなく一番近い店舗を目指すことにする。

 昔は家族揃ってよく行ったものだ。僕はこういった店のドリンクバーという制度が大のお気に入りで、喉も渇いていないくせに何度も往復し、挙句の果てには趣味の悪いミックスジュースを自作し始めるのが癖だった。

 そう考えると、僕にも子供の頃があったのだと感慨深くなる。

 もちろん今の自分を大人だとは思わないが、子供だとも言えない気がする。ずいぶんと中途半端な時期だ。まさに大人と子供の道すがら。どこか不恰好な宙ぶらりん状態。いつからこんな不安定な存在になってしまったのか、僕にはわからない。


「ねぇ、カナは今の自分を子供だと思う?」


「なにいきなり」


「いやさ、いつから僕は子供じゃなくなったのかなって思って」


「大人きどり?」


「違う違う。そうじゃなくてさ。僕は今、子供と大人のちょうど中間くらいにいると思ってるんだけど、いつからこんな風になったのかなって」


「モラトリアム?」


「あ、いい言葉を知ってるね。そうそうそんな感じ」


 カナは瞳をやや伏せがちにすると、考え込むような雰囲気を纏う。

 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。

 なぜかフランスのゴーギャンが描いた絵画が脳裏をよぎった。

 中学生の頃の美術の先生がよくこの作品のことを話題に出していたため、芸術に造詣の深くない僕でもよく覚えている。


「……子供と大人の違いは、自分になにができて、なにができないかを知っているかどうかだと私は思う。子供は自分に不可能はないと思ってて、大人は自分ではできないことを知ってる。たぶんモラトリアムはその中途。不可能があると知っているけど、なにができてなにができないのかわからない状態」


「中学三年生とは思えないしっかりとした考えを持ってるね。さすが僕の妹だ」


「そういう意味じゃ私はもう大人。私は知ってる。自分になにができて、なにができないのか」


「でもその基準だと、カナはともかく、世の中には案外大人とちゃんと言い切れる人はあんまりいないのかもしれないね。僕も下手すれば、まだ子供だよ」


「そんなことない。兄さんだって知ってるでしょ。自分になにができて、なにができないのか」


「買いかぶり過ぎだよ。僕はそこまで大人じゃない」


 黄色の看板に塗られた赤い英字が目に入り、僕は財布の位置を再確認する。

 もしも今がモラトリアムの真っ最中だとしたら、僕が大人を経験することはないだろう。

 永遠の子供といえば、申し訳程度には聞こえが良くなるけれど。




「いらっしゃいませ。二名様ですね」


 若干急な階段を登り切り、人気もまばらな店内へと踏み入れる。

 当然禁煙席を選び、窓側の席に連れて行かれた僕らは対面に座った。


「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」


 僕らの案内を終えると年季の入った業務用スマイルを残して、パートらしき店員はまた別の席の方へ足早に去って行く。

 メニューを開きながら特に意味もなく周囲の客を見回してみると、どちらかといえば年配の客が目立ったが、一人二人この暑い中きっちりとしたスーツの会社員の姿も見えた。


「ねぇ、僕たちって周りからはどう見えてると思う?」


「兄妹」


「うっわ。即答だね。他の可能性とか思い浮かばない?」


「思い浮かばない」


 熱心に品々を眺めるカナにちょっかいを出してみるが、すげなくそれは撥ねつけられてしまう。しかしこれまた興味深い。先に甘い物を食べると決めていたはずなのに、なぜ料理を一つ一つそれほどしっかり吟味しているのだろう。付け合わせくらいしか違わないハンバーグステーキのページを見る必要がどこにあるのか僕には理解できない。


「兄さんはなに食べるの?」


「僕はピザ。種類はまだ考え中。カナこそ結局なに食べるの? なんか迷ってるみたいだけど」


「べつに迷ってない。私はもう注文決まってるよ」


「あ、そうなの? いろんなページを見てるから、まだ決まってないのかと思った」


「これはただ見てるだけ」


 今度はサラダの写真を注視するカナにオーダーを確認すると、ジャンボショコラパフェなるものをご希望とのこと。やはり現在目を通しているコンソメスープはまったく関係なかった。


「よし、決まった。じゃあ僕はアンチョビのピザにするよ。名前がいいよね。アンチョビ。思わず口ずさみたくなる」


「アンチョビ」


「たしかカナはジャンボショコラパフェだよね。もうコードレスチャイム鳴らしちゃうよ?」


「コードレスチャイム? 呼び鈴のこと? これそんな名前なんだ。チャイムって鈴って意味だっけ。ベルじゃないんだ」


「いや、チャイムは直訳だと鐘って意味だった気がする。まあ僕的にはこれは鈴でも鐘でもなく、ピンポンって感じだけど」


「じゃあノートルダムの鐘は、ベルズオブノートルダムじゃなくてチャイムズオブノートルダム?」


「あー、懐かしいね、それ。だけどたしか、ノートルダムの鐘の原題はハンチバックオブノートルダムだったような」


「ハンチバック? なにそれ」


「せむしとか猫背とか、そんな意味」


 円盤型とも球形ともいえない独特の形状の機器を押すと、なんとも小気味の良い電子音が店内に響き渡る。

 先ほど同じ店員がすぐに席にやってきて、僕は二人分の注文を伝えた。 そして僕は待ちきれないとばかりにドリンクバーコーナーへと足を運ぶ。

 普段はまるで飲む機会のないメロンソーダをグラスの半分ほど注ぐと僕は満足し、ストローを忘れずにカナの下へ戻る。

 より多くの種類を楽しむために、こういったときは飲み物をグラス一杯に注がないのがコツだ。

 だが再び席につく前に、僕は我が愛しの妹からなんともいえない視線を向けられていることに気づく。その非難染みた黒目がちの瞳の理由はすぐわかった。僕としたことが、カナの分のドリンクを取ってくることを忘れてしまったのだ。

 苦笑いで僕はもう一度ドリンクバーの機器の前に引き返し、烏龍茶で満たされたグラスを急いで手配した。


「ごめんごめん。カナはこれでよかったよね?」


「うん、これでいい。兄さんありがとう」


 カナの機嫌を損ねていないことに安心しながら僕は腰を下ろす。料理はまだ届いていないらしい。

 対面で烏龍茶を飲むカナを見ながら、甘い物にこの飲み物の組み合わせは正解なのか今更ながら疑問に思った。


「そういえばこの前、矢沢先輩に会った」


「矢沢? 矢沢ってあの矢沢? でもどっちの矢沢?」


「お兄さんの方」


「ああ、間抜けの方ね」


 僕も合わせるようにメロンソーダを喉に流し込むと、炭酸の心地良い刺激が身体を突き抜ける。

 すると、僕の頭の中に記憶の泡がぶくぶくと弾け、懐かしい瓢箪顔が思い出としてよみがえった。

 矢沢。その名前から想起できるのは二人の知り合いだ。

 一人は矢沢雄大やざわゆうだいという中学時代の同級生で、もう一人はその矢沢雄大の弟にあたる矢沢誠やざわまこと。誠は僕から見て二つ下の学年、カナから見れば一つ上だった。


「どうだった? あいつはまだ元気そうだったか?」


「顔色は良かった」


「僕のことは何か言ってた?」


「ううん。なにも」


「あっそう。友達がいのない奴だな」


 同級生だった矢沢雄大と僕は、控えめに言っても仲が良かった。

 幼稚園や小学校が同じというわけでもなく、特別互いの家が近かったわけでもなかったにも関わらず、出席番号が近いというだけで不思議と馬が合いよく一緒に時間を過ごした。

 しかし中学校を卒業した後は、全く連絡を取っていない。

 喧嘩別れしたわけでもなく、卒業証書をそれぞれ持ちながら帰路につくその日も、最後まで僕らは心底下らない会話で馬鹿笑いをしていたはず。

 だけど、僕らはあの日から一度たりとも顔を合わせていない。そしてきっと、これから先も二度と再び笑いあう日もこないのだろう。


「兄さんは矢沢先輩と仲良かったよね。よくうちにも来てたし」


「まあ、あいつに友達がいなくて可哀想だったから僕が構ってあげてただけさ」

「逆でしょ」


「というかあいつに先輩なんて仰々しいものつけなくていいよ。馬鹿雄大でいいって」


「私は矢沢先輩とそんな呼び方できるほど仲良くないから」


「当たり前だ。あいつとカナが仲良くなってたまるか」


 僕は偏差値でいえばこの付近で一番の公立高校に進学したが、あいつは僕と違って勉強が不得意だったので第一志望の公立校に落ち、少し離れた私立学校に進学したと聞いている。

 自分が高校受験に合格したときより、あいつの受験合格の知らせを聞いたときの方が嬉しかったことをふと思い出し、少しだけ気恥ずかしくなった。


「中学から高校一年生の冬頃までは、兄さん本当に毎日が楽しそうだった」


「なに急に? 僕はいつだってハッピーライフをエンジョイしてるじゃん」


「嘘。兄さん、この夏くらいまでずっと自分一人の世界に閉じこもってた。私や、お父さん、お母さんのこともどこか避けてるみたいだった」


「ま、まさか。僕がカナたちを避けるわけないよ」


「じゃあ、最後にこうやって私と一緒に外に出た日を覚えてる?」


「え? そ、それは……」


 前触れなく、突如責めるような口調になったカナに僕は戸惑いを隠せない。狼狽える僕は、言われた通りぼやけた記憶をまさぐってみる。

 最後にカナと二人で外に出かけた日がいつだったか、それはたしかに思い出せない。

 そういえば僕は今日、家を出る時に久し振りだと感じた。僕とカナは仲がよかったはずなのに、こうして二人で外出することに懐かしさを覚えるのはたしかに不自然だ。

 さらにいえば、僕はカナが部活をいつ引退したのかも、カナの趣味に関することも何も知らなかった。

 カナの言う通り、僕は無意識の内に家族を避けていたのかもしれない。

 でも、それはなぜだろう。


「だけど最近、また兄さんは毎日が楽しそうになった。前の兄さんに戻り始めた。またこうやって、私と一緒に時間を過ごしてくれるようになった。兄さん昨日、どこかに遠出してたよね? 誰と行ったの?」


「え? ああ、昨日のこと? べつに……普通に友達だよ。というか、どこに行ったかじゃなくて誰と行ったかを訊くんだね」


「うん。だってどこに行ったかなんて大して重要じゃないから」


 どこに行ったのかは大して重要ではない。

 僕はカナの言葉を心の中で反芻しながら、昨日僕の隣りにいた人の顔をメロンソーダの海に投影する。

 八つ当たりのようにストローでグラスをかき混ぜると、いくつもの泡が弾けて消えていった。


「それで、その普通の友達さんは知ってるの?」


「知ってる? なにを?」


 カナは一瞬瞳の中心に影を落とし口を噤みながらも、それでも静かに問い掛けを続ける。



「病気のこと。兄さんが今年の春の時点で余命半年を宣告されてて、この夏が終わったらいつ死んでもおかしくないってこと、その人は知ってるの?」



 僕がゆっくりと首を横に振ると、カナは悲しいような、憤っているような、喜怒哀楽のうち半分だけを使った表情をする。

 僕はどこから来たのか、僕は何者か、僕はどこへ行くのか。

 逃げるように視線を店内に向ければ、注文した料理が厨房から僕らのテーブルにやって来るのが見える。

 運ばれてきた品はアンチョビピザとジャンボショコラパフェ。そして僕の会話を打ち止めにする格好の口実となったピザは、すぐに僕の胃袋の中に旅立って行った。




 僕がもう長くは生きられないとわかったのは、中学三年生の頃だった。

 理解したくないというよりは、理解できないというのがその時の正直な感想で、僕より両親やカナの方が取り乱していたことを記憶力の良い僕は今でも覚えている。

 そしてそれは今も同じ。

 僕は自分が死ぬという逃れようのない事実に対していまだ実感を持てていない。だが個人的にはそれも当然のことだと思っている。達観したことを言うつもりはないが、人に限らず、生き物はいつか必ず死ぬもの。

 僕だって病気が原因で死ぬとは限らない。

 もしかしたら交通事故やら通り魔によって今日死んでしまう可能性もあるし、至って健康体な家族、知人が僕より早く死んでしまうことだって無きにしも非ずだ。

 呼吸のテンポを意図的に遅めて、僕は言いようのない孤独感をうやむやにしようとする。

 僕の病気のことを知っているのは家族以外には高校の先生達くらいしかいない。

 病気が発覚した中学時代は、もう卒業も近いということで周囲の友人や学校自体には知らせなかったが、今通う高校では、在学中にぽっくり逝ってしまう確率が高いのでさすがに学校には知らせてある。

 しかし高校の同級生たちには教えていないし、僕からも先生達には内密にするようお願いしてあった。


“今日から僕に話しかけないでください。僕に関わらないでください。僕のことを忘れてください”


 今年の一月、いよいよ命日が近づいてきたなと感じ始めた頃、僕はこんな台詞を自分の教室で言い放った。僕がこのような明らかに頭のネジが完全に外れている発言をした理由は至って単純明快。

 ただ怖かっただけ。死ぬことが怖くなるのが怖かっただけだ。

 こんな僕にも一応友人関係というものが築けていたが、それを保ったまま身体が思うように動かなくなる時が来て、その時も僕は死に対して無関心を貫けるのかが不安で仕方なかった。

 そういうわけで僕は、いつか失うならば自分の方からと、精一杯の強がり染みた拒絶を皆に示したということになる。

 僕と仲良くしてくれていた皆には当然申し訳なく思っている。

 できれば遺書か何かでも一つ書いて、詫びの文言を残した方がいいかもしれない。つい前日まで普通だったのに、いきなり発狂に近い言動を起こした僕を心配してくれた人もいたのに、それすら僕は突き放したのだから。


「……そろそろ準備するか」


 自室のベッド上で仰向けになっている僕は、おもむろに壁際のカレンダーに目を向ける。

 八月八日。夏真っ盛りの今日、こうして冷房の効いた部屋で寝転がる僕にも用事があった。

 それは行きたいような行きたくないような、なんとも言えないものだ。

 僕の病気、しかも現在に限っては余命あと数か月という秘密を知っているのは、これまで高校の先生方と医者を除けば家族だけだったのに、それはあと数時間後には崩れてしまっているだろう。

 何度も確認したメールの内容を再確認するために、僕は机の上にあるパソコンのスリープを解く。

 この数週間、電子上で僕の文通相手になってくれている唯一の名前が受信欄にずらりと並んでいて、僕はなんとも奇妙な気持ちになる。

 開封済みの一番新しいメールをクリックすれば、そこには今日の午後を待ち合わせ時間とした約束を取り付ける内容が記されていた。

 すでに目を通してある文字の羅列を見て安心した僕は、今度はシャットダウンを選択する。

 指定された時間まであと二時間ほどだ。

 待ち合わせ場所に着くまで三十分もかからないくせに、やけに落ち着かない僕は早くも部屋着から外着に着替え始める。

 どうしてこんなことになったのだろうか。

 僕のことを知りたいと言ってきた一人の同級生に、今から僕のことを教えに行く。

 彼女の圧に押されたのかはさだがではないが、とにかく僕はそう約束してしまった。

 素直にありのまま話しても信じてくれないかもしれないので、例外として僕の死期を家族、学校以外で知っている人がいる場所に連れて行くつもりだ。

 さすがに僕の名前が記された病室を見せれば、頑なな彼女も信じてくれるはず。

 僕があと少しで死ぬということをそこまでして信じさせるというのも、よく考えると滑稽な気がするが今はそれは考えないようにしておこう。




 カラン、とロイヤルミルクティーの中に浮かぶ氷が音を立てる。

 僕はその音に誘われるようにストローへと口を運び、それほど渇いていない喉を潤した。

 右腕につけられた時計を見てみると、先ほど確認した時から二分も経っていない。

 それなりに混雑した喫茶店を見回してみると、夏に浮かれている男女や、夏に疲れている老人たちの姿が目に入った。

 僕は鼻で溜め息を吐きながら、もう一度時計に視線を落とす。今度は一分も経っていなかった。

 また遅刻だ。待ち合わせ場所は間違いなくここで合っているが、どうも待ち合わせ時間を正確に把握していたのは僕の方だけだったらしい。

  騒然な店内の音を耳にしていると、まるで僕の周囲だけ時間がゆっくりと流れているような感覚になってくる。

 これが相対性理論というものなのだろうか。適当に思いついた言葉を宙に漂わせてみたが、どうも不適切な気がした。

 しかし遅刻をする人というのは一体どういうつもりなのかさっぱり理解できない。  指定された時間に、指定された場所へ来る。これほど簡単なことがなぜできないのだろう。

 もし慣れない土地で方向感覚に自信がないのなら、早めに来ればいい。

 事前に間に合わないとわかっているのならば、そもそも待ち合わせの時刻を変更したい旨を伝えてくれればいい。

 それとも何か不測の事態が起きたとでもいうのか。事故か、あるいは何かしらの事件に巻き込まれたか。

 不毛な思考を続けていると、段々と僕は胃と左胸の辺りが痛くなってきた。

 僕のお気に入りのロイヤルミルクティーは味が薄くなり始めている。これも全て彼女のせいだ。


「こんちには」


「遅いよ。あともう少しでこれにミルクとシュガーを足すところだったよ」


「もうどっちも十分入ってるじゃない。糖尿になるわよ」


 カラン、とアイスコーヒーが目の前に置かれて中の氷がグラスにぶつかる音がする。

 僕がその音に惹きつけられるように顔を上げれば、額に薄らと汗を滲ませた彼女の姿が見えた。


「それで、早速だけど教えてくれるんでしょ? なんで貴方があんな事件を起こしたのか」


「まったく君はのんびり屋さんなんだかせっかちなんだかわからないね」


 彼女は見慣れているはずの制服姿にも関わらず、なぜかやたらと新鮮に思えた。

 きっと賑やかな背景がその理由だろう。

 僕は無意味に視線を窓の外に向けると、手元で使う予定のないシュガースティックを遊ばせた。


「なんで今日は制服着てるの? もしかして僕が知らない間に夏休み終わっちゃった?」


「午前中は夏期講習だったの。貴方は知らないようだけど、受験生に夏休みなんて存在しないのよ」


 彼女は少し疲れた様子で、ぐったりと椅子に背をもたれかけさせている。肩が凝っているのか自分の手で揉みほぐしていた。

 その仕草があまりに老骨染みていておかしかったが、口にすれば若さに満ち溢れた拳骨が飛んでくる可能性があったので大人しくしておく。


「はい。それじゃあ本題。教えよ。そういう約束でしょ。たしかどこかに連れて行ってくれるんだっけ?」


「そうだね。一応最後に確認しておくけど、本当に知りたいの? 僕が言うのもなんだけど、あんまりお勧めしない」


「しつこい。私は知りたいの」


「たぶん後悔するよ」


「きっとしないわ」


「なんでそう思うの?」


「私のことは、私が一番わかってる」


 真っ直ぐに向けられる力強い瞳からはいよいよ逃げられなさそうだ。

 私のことは、私が一番わかってる、か。

 僕は、僕のことを一番わかっているのかどうか、あまり自信がない。

 だけどでは僕以上に僕のことをわかっている人がいるかと尋ねられれば、たしかに答えられない。

 でもおそらく彼女はわざわざ消去法を使わずとも、今の台詞を確信を持って口にすることができるのだろう。

 それは羨ましいことだ。僕には真似できない。


「僕、中学の頃から結構大きめの病気に罹っててさ。この夏が終われば、いつ死んでもおかしくないんだ。春の時点で余命半年」


 そして僕はついにその言葉を紡いでしまった。

 すると彼女のただでさえ大きな瞳がさらに大きく見開かれる。

 瞬きもなく、言葉は失われたまま。

 先ほどまでは露ほども気にならなかった換気扇の音がやけに耳障りだ。

 客層が良いのか、店員の勤務態度が良いのか、指紋一つない窓から射し込む光も実に鬱陶しい。

 それからどれほどの時間が経っただろう。

 数秒だったかもしれないし、数時間だったかもしれない。きっと答えを知っているのはアインシュタインだけだ。


「冗談、じゃないのよね?」


「言ったでしょ? 後悔するって」


「後悔はしてない。ただ、その、少し、驚いただけ」


 やっと彼女は息の詰まる世界から抜け出し、僕は思いついたようにグラスの残りを飲み干した。

 宇宙のように暗いアイスコーヒーはまだ半分以上残されたままで、あれほど迷いのなかった僕を見つめる黒い瞳は、今は所在なさげに虚ろっていた。


「疑い深い君は、僕の言葉だけじゃ信じてくれないかもしれないから、僕の病室に連れて行こうと思ってたんだけど、どうする?」


「え? あ、いや、私、信じる。だって貴方は変わった人だけど、そういう嘘は吐かない人だから」


「わお。急に信頼を得られて嬉しいよ。寿命を分刻みにした甲斐があったね」


「私……」


 僕の予想とは違い、あっさり僕の言葉を信じてくれた彼女は言葉を苦しそうに詰まらせる。

 とりあえず飲み物でも、と僕が勧めると素直に従い、僕はそのことに落胆を覚えた。


「その、ごめんなさい」


「なんで謝るの?」


「だって……」


「だって何だよ」


「……ごめん」


「だからなんで謝るんだよ!」


 思っていたより大きな声が出てしまい、僕はそんな自分に驚きを隠せない。

 いつの間にこれほど苛立っていたのか。そもそもこの憤りの原因が何なのかわからない。

 彼女は下唇を噛んで俯いている。気づけば周囲の客から僕の得意ではない種類の視線が注がれていた。

 これは予定外だ。まさかこの僕が他人を怒鳴りつけることになるとは。

死期が近づいて情緒が不安定になっているのかもしれない。

 いつも僕の予定を狂わせる彼女にどう弁明すればいいか、居心地の悪い沈黙の中で頭を悩ませる。


「私、帰るね。……本当にごめん」


 だけど僕が謝罪の言葉を見つけ出す前に、彼女はまた謝る。

 静かに椅子を立った彼女を見送る僕の顔は、どれだけ情けないものだっただろう。

 目の前には僕の嫌いな苦味に満ちたアイスコーヒーだけが残っていて、僕の好きな甘いミルクティーは空っぽだ。

 やっぱり後悔した。

 僕はしばらくそのまま座り続け、氷が溶けて苦味が薄まるのを待った。




 喫茶店を出ると僕は真っ直ぐ家に帰り、何かに怯えるように自室に逃げ込むと、小学生の頃から愛用しているベッドに身を投げ出した。

 無地のシャツは汗でべたついていてとても不愉快だったので、別のものに着替える。

 冷房のスイッチも当然入れて、僕は冷風が顔に直接当たるよう体勢を整えた。

汗はすぐに引き始め、涼し気な空気が頬を少しだけ乱暴に撫でつけていく。

 それなのに僕の気分は一向に快方には向かわず、悶々とした痼りが皮膚の下を這いずり回っているようだった。

 目を瞑っても眠気はまるでやって来ない。何度か寝返りを打ってみても、どれもしっくりこない。

 僕は粘っこい口腔を唾液で洗い流しながら、床に無造作に転がっていた黄緑色のヘッドホンを手に取る。

 プラグは数世代程前のモデルの音楽再生プレイヤーに繋がれていて、僕は手元を見ずに曲を適当にかけた。

 両耳を蛍光グリーンで覆えば、そこでは僕より年上のミュージックが跳ねるように鳴り響いていた。歌詞は英語でよく聞き取れない。僕は歌詞よりメロディーを重視するタイプの人種だったので、それでも構わなかった。

 僕は決して熱心に音楽を聴く方ではないと思う。わざわざ購入したアルバムは数える程度で、ほとんどはレンタルショップで借りたものだ。だけど僕はたしかに音楽を聴くのが好きだった。どちらかといえば落ち着いた曲調のフォークソングをよく聴くが、エモショーナルロックのようなアップテンポな曲も嫌いではない。

 ヘッドホンが頭からずれないよう気をつけながら、僕はまた寝返りを打つ。

 音の雨に全身を濡らし、僕は気怠そうなボーカルの声に耳を澄ます。繰り返されるフレーズを口ずさむことができても、やはり意味は理解できないし、自分で何を言っているのかも曖昧だった。

 でもたぶんこれは愛の歌だ。それも失恋を嘆く歌のような気配がする。

 それでもセピア色の旋律は優しく僕を包み込んでいて、誰かの哀しみを糊にして自分の傷を癒しているような背徳感を覚えさせた。

 するとふいに僕の喪失感を誤魔化していた音が途絶える。音量はそこまで大きくしていない。鼓膜が破れたわけではないだろう。

 仕方なく上体を起こし、何も聞こえなくなってしまった原因を探る。

 何度か指でホイールを擦るとすぐに理由はわかった。充電切れだった。

 軽量タイプのヘッドホンを頭から外し、机の上に置く。充電器が中々見つからないことから、これほど早く音楽鑑賞の時間が終わってしまったことにも納得がいった。

僕はベッドに腰をかけ、ポスター類の一つもない殺風景な白壁をぼんやりと見つめる。

 特別人嫌いというわけでもないが、僕はあまり他人の部屋に遊びに行った経験がなかった。そのため自分以外の人の部屋がどんな風なのかあまり想像がつかない。皆のカーテンは一体何色をしているのだろう。


「兄さん。いる?」


「カナ? いるよ」


 その時控えめなノックの音が二回響き、僕のとりとめない思考遊泳を中断させた。

 鍵のかかっていない扉は開かれ、スウェット姿の妹が神妙な面持ちで入ってくる。手元には白いアイスバーが握られていたが、ミルク味かバニラ味か判断がつかなかった。


「もう帰って来てたんだ」


「まあね。夏の暑さにちょっと耐えきれなくて」


 カナは机の前の椅子に座ると、物珍しそうに僕の部屋を見回した。そういえば僕の部屋にカナはよく遊びにくるが、僕がカナの部屋に遊びに行くことはほとんどない。

 というよりは入れてくれない。でも昔は入れてくれたはずだ。いつから僕は出入り禁止になったのか思い出せなかった。


「フラれたの?」


「なんだよいきなり」


「だって兄さん、毛を全て刈り取られた柴犬みたいな顔してるから」


「どんな顔だよそれは」


 唐突に失礼な言葉を投げつけてくるカナに、僕は困惑する。率直に言えば、自分の妹に比べ想像力の劣る僕は、それが失礼な言葉だったのかどうかすらもよくわからなかった。


「だいたいいつ僕が告白なんて旧時代の儀礼をしてくるなんて言ったんだ。現代の若者はもっとナチュラルに、まさになんとなくで交際を始めるんだぞ」


「そうなの?」


「そうだよ。カナは遅れてるな。そんなことも知らないなんて」


「でも私の知ってる男子たちは、みんなまだその兄さんが言う旧時代の儀礼を使ってるよ」


「そうなの?」


「うん。でも成功例を見たことないから、たしかに古いのかも」


 今の時代、恋人というのはそれほど崇高な関係ではなく、あくまで友人関係の延長線上にあるというのが僕の持論だった。しかし思い込みが強く、俯瞰的な視点を持つのが苦手な傾向にある僕はまた間違った理論を打ち立ててしまったようだ。


「あれ。でもちょっと待って。カナは何でそんなに誰かが告白したところを見たことがあるの?」


「当事者だから当たり前」


「え。え、え、え。ちょっと待って理解が追いつかない。当事者ってなにが? もしかしてカナって誰かに告白されたりしてるの?」


「そう言ってる」


 僕はこの日最大の衝撃に言葉を失う。信じられない。動悸で息苦しい。

 しかしよく考えてみればこれは当然予期すべき事態だった。

 僕の妹は顔も良いし、もちろん性格だって完璧だ。身体つきに関していえばたしかにまだ未発達な部分もあるが、年齢を考慮すれば何も問題とはならない。冷静に考えてこれほどの女性が、愚かなオスガキ共に言い寄られないわけがなかった。


「ああ、もう嫌だ。なんてこの世界は残酷なんだ。僕の命だけでは飽き足らず、可愛い妹までも奪い去って行くなんて」


「落ち着いて。まだどっちも奪われてない」


「でも僕は認めないぞ。まだ年端もいかない子供の分際でカナと恋人関係になろうだなんて絶対に認めない。カナの知り合いの男子どもに片っ端から話をつけてきてやる」


「だから落ち着いて。知り合いの男子全員に告白されたわけじゃない」


「なに言ってるんだカナ。カナと知り合いになって好きにならない奴が一人でもいるもんか。まだ告白されてなくても、その内絶対告白してくる。だからその前に僕が話をつけるんだ」


「はあ。兄さんはその自信を少しでも自分に向けるべき」


 頭に血が上った僕は勢いのままに立ち上がろうとするが、それをカナが肩に手を乗せ押し留める。その力は可憐な顔には不釣り合いなほど強かった。引退したとは言ってもさすが元運動部だ。


「話を戻す。それでなにがあったの? 兄さん、出かける前はあんなに楽しそうだったのに」


「べつになにもないよ。というか出かける前の僕はそんなにソワソワしてた?」


「遠足前の兄さんくらいには」


「その例えだと結局僕にはわからないよ」


 僕はもう一度ベッドに深く腰掛け直す。僕の部屋には鏡がないので、外に出る前の僕の顔がどんなだったかも知らないし、今の僕がどんな顔をしているのかも確認する術はない。


「例の普通の友達さん?」


「例の普通の友達さんがなに?」


「会ってきたんでしょ」


「あー、そうだね。まあ、会ってきたか会ってきてないかでいえば、会ってきたと言った方が正確かな」


「それでフラれたの?」


「だからそれは違うって」


 カナは僕の目を覗き込むような姿勢を取ると、やがて小さく笑った。

 兄をからかうとは、中々豪胆な妹だ。これが巷で聞く小悪魔系というやつなのだろうか。そういった方面の知識に疎い僕には詳しいことはわからないが、どちらかというと小天使系だろう。


「じゃあ喧嘩?」


「まさか。誰かに怒りをぶつけられることはあっても、アンドロメダ銀河系よりも心が広い僕が誰かに怒りをぶつけることなんてないよ」


「なら怒らせたの?」


「……いや、怒ってはいなかった、と思う」


 焙煎の香ばしい匂いが記憶として鼻腔をくすぐる。でもあの喫茶店でどんなバックグラウンドミュージックがかかっていたかはよく覚えていない。

 記憶力がいいはずの僕は、ここ最近思い出せないことが増えてきていることに不安を感じた。


「その人はどんな人なの」


「その人って?」


「とぼけない。その普通の友達」


「ごめんごめん。そうだな。一言で言い表すなら、素直な人って感じ。あと諦めが悪くて、負けず嫌い。これは想像だけど、たぶん授業中も積極手に手を挙げるタイプだよ」


「ふーん。よく見てるんだね、その人のこと」


「べつに彼女が特別なわけじゃない。僕は基本的に他人のことをよく見てるよ」


「彼女。やっぱり女の人なんだ」


 カナは前髪を手でいじりながら、少しだけ唇を尖らせる。

 その仕草はとても愛らしく、これはやはり知り合いの男子共には機会があれば、勘違いはしないよう忠告した方がいいかもしれない。


「まあいいじゃん、僕のことは。だいたいカナはなんで僕の部屋に? 何か用事があったんじゃないの?」


「……本、借りようと思って」


「ああ、あの作者のやつか。待って。たしかそこら辺にある」


 今更ながらに訪ねてきた要件を訊けば、新しく別の小説を貸す約束についてだった。

 ここ最近手を付けていない本棚には埃が溜まっていて、それを息で吹き飛ばしつつ何冊か手頃な本を手に取った。


「どれがいい?」


「兄さんが好きなやつ」


「僕の好きなやつ? どれもだいたい好きだけど、順位をつけるなら、こうかなあ」


 机の上に並べた小説はどれもミステリジャンルだ。

 他にも歴史物や恋愛小説、数は少ないが純文学なんかも読んでみたりはするが、やはり一番多く、好んで読むのは推理小説だった。

 中でもハウダニットやワイダニットではなく、僕はフーダニットに主体を置いた作品を嗜好していた。叙述的なトリックが趣向されていればなお良いが、どうもミステリ界ではあまりこの類の小細工は歓迎されていないとのこと。読む側に繊細な人が多いのか、プライドの高い人が多いのかは不明だが、とにかくそういうことらしい。


「じゃあ、これ。読み終わったら感想聞かせてね」


「うん。ありがとう」


 わざわざ僕の部屋まで本を借りるためにやってきたということは、前回貸した作品がカナはお気に召したということなので、今回も雰囲気こそ違うが試みの似たような小説を見繕った。

 コメディ調で進んでいくストーリーに段々と増えていく不穏で不気味な描写。初め主人公が面白味のない常識人だと思っていたら、物語や他のキャラクター達の方が奇奇怪怪な様相を呈し始め、それでも平凡を保つ主人公が反対に非凡な存在に変わっていくという作品だ。きっとカナも気に入ってくれることだろう。


「でも小説なんて読む暇あるの? 受験勉強の方は大丈夫?」


 しかしカナが中学三年生という忙しい時期に差し掛かっていることに気づき、僕は心配の声をかける。


「たぶん大丈夫。息抜きも必要でしょ」


「そう? ならいいけどさ」


「それにもし大丈夫じゃなかったら、兄さんに教えてもらうから」


「お? いいよ。なんでも訊いて。僕は勉強だけは得意だからね」


 たしかに小説を二、三冊読む程度では大した支障にはならない。

 さらに努めてメリットを考えるならば、現代文の勉強の一環と言えなくもない。


「そういえば僕はまだ知らないんだけど、カナの志望校ってどこなの」


「兄さんと同じとこ」


「え? 本当に? それは嬉しいな。だけど同時に凄く悔しいよ。僕があと三年遅く生まれてればカナと同じ学校に通えて、もしかしたらクラスメイトになれたかもしれないのに」


「私が中学に入る時も同じこと言ってた」


 まさか僕の通う高校をカナが志望していたなんて。僕の行っている高校はこの辺りの公立では偏差値が最も高いが、カナならば余裕で合格するはず。

 落ちる事なんて想像すらできない。むしろ校長の方から感謝の粗品を持って迎え入れるべきだ。


「私、兄さんほどじゃないけど成績悪くないから、受かる可能性はあると思う」


「受かるに決まってる。受かる可能性しかないよ。だって僕の妹なんだから。もしカナが不合格ならその年の合格者はきっとゼロだよ」


「そこまで言われるとプレッシャー」


「あ、本当に? ならカナに重圧をかけるこのお馬鹿な口には封をしておくよ」


 僕が薄っぺらな唇を指で摘まむと、カナは口元を本で隠して笑ってくれる。

 中学時代の僕も今と同じように、ペーパーテストに無類の強さを発揮していたため、定期試験に関して言えばいつも学年トップだった。高校に入ってからは永遠の二番手になってしまったが。

 とにかくそういうわけでカナは、中学校の先生達に成績だけはやたら良かった僕と比べられることが多かったらしい。

 だが流石は我が優秀なる妹ということで、カナも勉強はかなり得意でむしろ褒められる場面がほとんどだったという。

 事実、紙の試験では僕の方が若干カナより上位の成績だったが、純粋な頭の良さでいえば僕よりカナが勝る。そのことに先生方が気づいてくれてよかった。


「それじゃあ、私戻る」


「またいつでも来てよ。特に用がなくても、カナなら大歓迎だから」


「……次に私が来る時には、ちゃんと毛を生やしておいて」


「え?」


 そしてカナは少しだけ謎めいた言葉を残すと、僕の部屋から颯爽と出ていった。

頭頂部を軽く触ってみても、特に普段と変わりはなく、黒色が薄まっていそうな場所は見つからない。

 何の比喩だろうか。僕には現代文の勉強が足りないようだ。

 僕は理由もなく、暇潰し代わりにパーソナルコンピューターを起動させる。

 まだ少し温もりの残る椅子に腰かけ、ここ最近の癖でメールボックスを開くと、そこには新着のメールが一通届いていた。

 差出人は知っている名前で、僕は利き手とは反対の手でマウスを動かすと唯一未開封になっているそのメールをクリックする。

 内容は拍子抜けするほどシンプルで、ある日時と場所が記されているだけだった。

 僕はペンを取り、座ったままカレンダーに利き手を伸ばすと、細めの字体でメモをする。

 暗記に特化した僕の脳ならば忘れることはないとわかっていたが、そうすると心が落ち着いた。

  開封済みになったメールを閉じ、ついでにとネットサーフィンでもしようかと思ったが結局はせず、僕は電源を落とす。

 光が抜け、真っ暗になるモニター。

 この部屋では希少な鏡の役割を手に入れた画面に目を向けてみれば、そこでは毛を全て刈り取られた柴犬みたいな顔が僕を見つめ返していた。




 ここ数日間ずっと屋内に引きこもり、適温に調整された空気の中で過ごしてきた僕を責めるような日射。

 噴き出す汗を止める術はなく、時折り思い出したように額を手の甲で拭ってみてもやはり効果はない。

昨日自室で横になっていた夕方頃に雨の走る音を聞いた気がしたが、その足跡をこの街で見つけることはできなかった。

 軽快に道路を飛ばしていく自動車の数は、たしかに僕の住む街に比べて幾分か多いかもしれない。

 坂の数と傾斜に関していえば間違いなくこの街の方が上だ。

 それにしても僕はいったいなぜこんなところを歩かされているのだろうか。

 今のところ体内の水分の無駄遣いをしているだけだと思う。

 内心文句を垂れながら歩き続ける僕の足に、都会の洗礼を浴びせるように急坂が疲労を蓄積させていく。

 そんな僕の隣りを見知らぬ制服を来た少年二人組が談笑をしながら追い抜いていく。

 高校生か中学生か見た目だけでは判断はつかなかった。

 そしてやっとのことで僕は面白味のない坂を登り切り、久し振りの平坦な道に安堵すると、すぐ傍の街路樹の日陰に見慣れた制服を来た少女を見つける。

 どうやら待ち合わせ場所を間違えてはいないようだ。

 僕は慌てて右腕の時計を確認する。

 待ち合わせ時間に遅れているわけでもなかった。

 僕より彼女の方が先に約束の場所に辿り着いたのはこれが初めてだ。


「おはよう。来てくれないかと思った」


 少し乱れた息を整えながら彼女の方に近づいていくと、木の根に愉快な模様でも見出していたのか俯き気味だった彼女が顔を上げる。

 緑葉の影に隠れた彼女の視線は僕の知っているものより控えめで、そのことが僕を少し得意気にさせるのと同時に、いくらかの罪悪感を抱かせた。


「おはよう。まあ僕はこう見えて暇人だからね。時間はいくらでも余ってる」


 普段はあまり使わない自虐を交えてそう言えば、彼女はどこか困ったように顔を笑わせる。

 その後、なぜか溜め息を大きく一つ吐くと、彼女はやっと木の影から出てくる。


「本当貴方には負けるわ。なんだか勝てる気がしない」


「そんなことないさ。諦めないで。諦めたらそこで試合終了だよ」


「うるさい。そんなに元気が有り余ってるなら休憩は要らないわね? じゃあ行きましょ

うか」


 自分から話しかけておいて最後は僕を突き放す。

 なんとも我が儘なお嬢さんだ。

  だが紳士的態度で有名な僕はそれを咎めることなく、いつものように僕の先を歩き始めた彼女の背中を追う。


「それで行くって、どこに行くのさ」


「あれ。まだ言ってなかったっけ?」


「聞いてないよ」


 さすがに行き先を知らないままこの疲れ切った身体に鞭を打つのは嫌なので、彼女が僕をここに呼び出した理由を尋ねておく。

 とある日付けと場所だけが記された電子メール。素直な僕は詳細を聞くために返信することもなく、馬鹿正直にここまでやってきた。

 その見返りを貰ってもいいはずだ。

 しかしそんな僕の望みは虚しく、示された報酬は僕をどこまでも嘲笑うものだった。


「これから行くのはオープンキャンパスよ。やっぱり受験生の夏といえば大学見学でしょ」


 きっと彼女は僕のことが嫌いになってしまったのだろう。そうとしか考えられない。

 嫌われる理由にもいくらか思い当たるふしもある。

 何もおかしなことではない。

 それにしても中々にセンスのある嫌がらせだ。

 夏が終われば寿命を迎え、大学受験の酸いも甘いも味わうことのできない僕を、この真夏の炎天下の中オープンキャンパスに誘う。

 もはや鬼の所業だ。思いついたとしても実行できる人はそれほどいない。

 夢も希望もない僕に、前途溢れる若者たちの輝強い笑顔を見せつける。

 これは精神力に定評のある僕にも大きな効果があるはずだ。


「もう。いい加減にしてよ。いつまでその嫌がらせを私に続けるつもりなの。そんなに私のことが嫌い?」


 彼女は拗ねたような目つきで僕を睨みつける。僕はそれにいやらしいと自覚できる笑みを返し、やれやれといった調子で首を振った。


「ごめん。ちょっと君がなにを言っているのかよくわからないな。この場合相手のことを嫌っていて、嫌がらせをしているのはどう見たって君の方じゃないか」


「だから私はそんなつもりまったくないってさっきから何度も言っているじゃない。隣りであからさまにそんな顔する方がよっぽど嫌がらせよ」


「そんな顔ってどんな顔さ」


「その顔よ」


 心底嫌そうな顔で彼女は僕を見やる。

 やはり僕にあまり好感情は抱いていないらしい。


「でも実際のところ僕をオープンキャンパスに誘うなんてけっこうハードな仕打ちだと思わない?」

「それはごめんなさい。私はそうは思わなかったの。ただ単純に、少しでも本来なら体験するはずだった未来に触れることができたらって。でも言われてみたらそうよね。ちょっと酷なことだったかもしれない。ごめんなさい。考えがそこまで及ばなかった」


 二度のごめんなさいを口にする彼女の表情は、僕の同情心を誘うには十分で、これ以上のからかいをすることを躊躇わせた。

 彼女は僕のことを嫌ってしまったわけではない。

 むしろ僕のことを慮ってこの場所に誘ってくれた。

 それがわかっただけで僕は思わず頬が緩むほどの満足を覚えていたが、そんな自分の感情を素直に伝えることをからかいの言葉以上に躊躇してしまう。


「まったく勘弁して欲しいな。君は文系でしょ。現代文で作者の気持ちを読み取ることはできるのに、僕の気持ちは考えられないの?」


「言っておくけど、私の覚えている限り現代文の問題で作者の気持ちを答えよなんて問いが出てきたことは一度もないから」


「なんてこった。それは本当なの? なら仕方がないね。僕の気持ちを読み取れないのも不思議じゃない」


「むしろ貴方の気持ちを正確に読み取れたらどんな現代文の問題も解けそうよ」


 口の中から自然に零れる余計な皮肉。

 こんな面倒な僕に律儀で優しい彼女は文句を言いつつも付き合ってくれる。

 そんな彼女に僕は感謝の気持ちを抱いているが、そのことは読み取ってくれているのだろうか。


「だいたい、私、まだ教えてもらってないんだけど」


「うん? 教えてもらってないってなにを?」


「貴方がなんで学校で例の事件を引き起こしたのか」


「だからその例の事件って言い方やめてよ。人聞きが悪い」


「大丈夫よ。人聞きを気にする人はクラスメイトにあんなこと言わないし」


 段々と声に力が戻り始めてきた彼女に、僕は徐々についていけなくなっていく。

 彼女は僕に敵わないなんて妄言を先ほど口にしていたが、それは確実にこっちの台詞だった。

 

「貴方はその、病気でもう長くないのよね? それはたしかにこの前教えてもらって、聞いたときは取り乱して逃げ出しちゃったけど、よくよく考えたらそのことが他人を突き放すことにはつながらない」


 僕は回想する。

 言われてみれば僕が延命困難な重病に罹っていることしか伝えられていない気がした。

 だが僕はそんなことより彼女が今しがた使った逃げ出したという表現がやけに気になった。

 彼女はいったい何から逃げ出したのか、何に向き合うことができないほど怯えたのだろう。


「だって死ぬのって怖いじゃない。だったら普通、他者を自分から遠ざけるんじゃなくて、少しでも恐怖を和らげるため、依存とまでは言わないけど、誰かにすがりつくんじゃない?」


 そして僕は彼女がそう続けた言葉に衝撃を受けた。

 ずっと探していた答えに辿り着けたのかもしれない。

 今年のクリスマスは雪が降るのだろうか。


「……なるほどね。前提条件から違ってたんだ」


「どういう意味?」


「いや、こっちの話さ。それで君の質問に答えるけど、それは前提条件から間違ってるよ」


「なにそれ。こっちの話で合ってるじゃない」 不満そうに彼女は口を尖らせる。


 僕がいくら考えても一人で理解できなかったように、彼女もまた皆目見当がつかないようだ。

 他者の考えていることを読み取るなんて、僕らが思っている以上に困難なことらしい。

 自分が文系ではなく理系で本当に良かった。


「まず大前提として、今の僕は死ぬことをこれっぽっちも怖れてなんかいないんだよ。先に言っておくけど、これはべつに僕が精一杯の強がりをしてるわけじゃない」


「じゃあなに? 可憐な乙女に対するなけなしの格好つけ?」


「自分で可憐な乙女とか言わないでよ。あえて否定はしないでおくけど」


「ちょ、ちょっとそこは否定してよ。なんだか恥ずかしいじゃない」


 白雲不足の青空から降り注ぐ熱い日差し。

 きっとそれとはまた別の理由から頬を赤らめる彼女を横目にしながら、僕は彼女がこれまで人生で鏡を見たことがないのかと疑問に思った。


「とにかく僕は本当に死ぬのが怖くないんだ。今のところはね。でも、僕は怖れてる。この先死ぬのが怖くなることを怖れてる。だから突き放した。わけのわからない病魔に強制的に没収されるくらいなら、自分の方から放り捨ててやるって」


「……なにそれ。やっぱり格好つけてるだけじゃない。なんでそっちを否定するのよ」


 僕が彼女との考えの指向性の違いを丁寧に説明しても、あまり納得はしてくれていないみたいだ。彼女は控えめに言っても堅物だ。説き伏せるのは骨が折れるだろう。

 でも彼女のためなら何本でも骨を折れるし、冷静に考えてみれば僕のことを無理に理解する必要はないようにも思えた。


「じゃあ、誰も知らないのね。貴方がいつ死んでもおかしくないってこと」


「誰もじゃないさ。家族はもちろん知ってるし、学校の先生たちだって知ってる。それに、今は可憐な乙女も一人」


「茶化さないで。貴方の悪い癖よ」


 咎められた僕は、大人しく口を噤む。

 真っ直ぐと迷いなく注がれるライトブラウンの瞳。

 油断すれば吸い込まれてしまいそうだ。でもそれも悪くないかもしれない。


「寂しくないの?」


「寂しくないさ」


 僕は寂しいのだろうか。

 すぐに否定の言葉を返したが、正直なところはわからなかった。

 たしかに僕は特別人が嫌いなわけではない。むしろどちらかといえば好んでる。

 気が合う友人とのやり取りは心地良いし、僕の言動で誰かを笑わせるのは中々に気分の良かったものだとよく覚えている。


「私は寂しい。寂し過ぎるよ、そんなの」


 どこからともなく流れてきた薄雲に遮られたのか、彼女の顔に影がかかった。

 また少し道に傾きが生まれ、僕は足腰に負担がかかるのを感じる。

 会話が途切れ、雑多な談笑が辺りに満ちていることに今さら気づく。

 気づけば周囲に学生の数が増えていた。きっと目的地は僕たちと同じだろう。

 彼らも来年になったら大学生になるのだろうか。

 いや、それは視野が狭すぎる想像だな。

 たぶん彼らの中には今から一年後、社会人になっている人もいるだろうし、大学受験に失敗して浪人生活を送っている人もいるだろう。

 そもそも、現時点で高校二年生か一年生で、来年受験というわけでない人もいるはずだ。

 僕は、ふと隣りを眺めてみる。

 そこにはどこか遠くを見つめる彼女の端正な横顔があった。

 今から一年後、彼女の隣りに僕はもういない。

 そのことを、彼女は寂しいと思ってくれるだろうか。

 もし思ってくれなかったとしたら、それは少しだけ寂しい気がした。




 淡泊な色合いの道に沿って歩き続けていると、やがてIT系の上場企業のような大きな建造物が目に入ってくる。

 どこか近未来を感じさせるデザイン性だと僕は思ったが、彼女に同意を求めても頷いてはくれなかった。


「ついたわね」


「これは凄い。僕の地元のお祭りでもこんなに人は集まらないよ」


  辺り一面人で埋め尽くされている。

 しかもそのほとんどが僕らと同世代の少年少女だった。どこかで配られているのか、大学名がプリントされたプラスチックの袋を皆手から下げている。


「僕、大学に来るのは初めてだけど、これはちょっと感動するレベルだね。これまで通っていた学術機関がいかに貧弱なものだったのかを思い知ったよ。もう小学校も、中学校も高校も要らないんじゃないかな。義務教育とかも全部大学でやろうよ。いや、小学生にこの規模の校舎はさすがに身に余るか」


「大学に来るのは初めてって。映像かなにかで見たことくらいあったでしょ」


「なんとなく視界には入ってたかもしれないけど、ちゃんと意識して見るのは今日が初めてだよ。しかもこうやって直接足を運ぶことなんて」


「そうなの? 私は中学生の頃も一度オープンキャンパスに来たことあるわよ。ここじゃないけど」


「嘘でしょ? なんて身の程知らずで大胆不敵な女子中学生なんだ」


「なにがよ。大袈裟過ぎ。大胆不敵なんて言葉久し振りに聞いた」


 なんと驚くべきことに彼女は今から三年前の時点でこの感動をすでに味わっていたらしい。どこか大人びた印象を僕に与えるのはそれが原因だったのかもしれない。

 大学の敷地内にいざ入ってみると、案内係なのか明らかに僕より年上の人達が多く目についた。

 その中には僕の知人には一人もいない茶髪の人もいた。

 実際は僕とは一つ程度しか年齢が違わない可能性もあるが、身に纏う雰囲気は不思議と僕と全く違ったものに思えた。


「それにしても綺麗なところだね。学校というより、オフィスビルって感じ」


「まあ特にここは有名私立校だから。他の大学に比べればそうかもね」


「私立か。僕、小中高と公立だからあんまりよくわからないけど、もしかして私立高校とかもこんな無駄にお金のかかった施設設備なの?」


「べつに無駄ではないと思うけど、高校でもだいたいこんな感じじゃない? 私も私立校に通ったことはないけど」


「通ったことないのになんでわかるのさ」


「なんでって。街でも歩いてみればいやでも目に入るじゃない。それに高校受験の時に私立校も併願で受けたりしなかったの?」


「しなかったね。どうせ行かないのに受けるなんて時間と受験料の無駄じゃないか。というか街を適当に歩いても目に入った記憶がないんだけど。君、どんなところに住んでたの」


「嘘でしょ? 滑り止めとか受けなかったってこと? 凄いを通り越して呆れるわね。自信家にもほどがある」


 僕が併願受験をしなかった理由は確実に第一志望に受かる自信があったからというわけではない。

 中学三年生の冬頃にはすでに自分の運命を知っていたから、そこまで高校に通うことに必死になれなかっただけだ

 僕はどちらかといえば臆病な性格をしている。

 どんなに学力的に余裕があっても、そこに胡坐をかくことはなかった。

 でも彼女は僕がいつから自らの余命を知ったのか知らない。

 だから彼女が僕のことを自信家だと称するのもそこまで不思議なことではないし、僕もことさら否定するつもりはなかった。

 僕は彼女に臆病者と思われるよりは、自信家だと勘違いされる方が嬉しかった。


「それで君はどんなところに住んでたのさ」


「ここから二駅くらい離れたところよ」


「え。知らなかった。君ってシティーガールだったの? なんてこった。裏切られた気分だ。他県から来たっていうのは聞いたけど、それって厳密にいえば他県じゃないじゃん。まんまと騙されたよ。僕をずっとこの田舎者めって馬鹿にしてたんだね」


「それは被害妄想。裏切っても騙してもいないし、厳密に言わなければ他県で通じるでしょ。だいたい隣りの県じゃない。そんなに差はないわよ」


「そんなに差はない、ね。なんだか無自覚に多少の差が存在する、しかも僕の方が劣ってる前提で話してるのが気に食わないなぁ」


「貴方って本当に面倒な性格してるわね。しかもその言い方だとニュアンスが変わってきてるし」


 乾燥した風に髪を揺らされていると、大学生らしき紺のワイシャツを来た男の人に思ったより重量感のある袋を渡される。

 中身は簡単なパンフレット類と使い時に困りそうな特製ボールペンだった。

 大学構内の自動販売機で僕はミネラルウオーターを一つ購入する。

 酷く喉が渇いていたからだ。

 季節の熱と風のせいか、彼女との綱渡りのような会話のせいか理由はわからない。

 だけど飲み物を買ったのは僕だけだったので、少なくとも前者の影響は小さいようだ。


「ちょうど講義体験が始まるみたいよ」


「講義内容は?」


「そのくらい自分で見てよ。えーと、宇宙と人間原理、って書いてある」


 根がお節介な彼女は、口では気の強さを前面に押し出しながらも、結局は講義が行われる大部屋までの道案内すら担ってくれる。

 見通しの良い階段を上がっていく。坂を上るよりずっと楽だ。

 室内は当然というべきか冷房が効いていて、あれほど際限なく思えた発汗もまるでなくなった。

 彼女の滞りのない案内に導かれて、僕は大講義室に辿り着いた。

 時間帯の問題か、講義内容の問題か、窮屈を覚えるほど人入りは多くない。

 だからといって僕の存在が目立つほど空席が沢山あるわけでもなく、まさに理想的なコンディションだった。


「どうする? 前の方に座る?」


「僕は目が良いから後ろで大丈夫だよ」


「視力の程度を理由に訊いたわけじゃないけど、まあいいわ」


 僕らは後ろから三列目の席に隣り合って座る。

 講義室の前の方にはすでに教授だか准教授だか講師だか知らないが、清潔感のある四十代ほどの男性がプロジェクターを準備していた。

 もう一度パンフレットに目を落とす。あの白髪がいくらか見える男性は崎山さきやまという名のようで、肩書は教授だった。

 専門は物理学とのことだ。横で真面目にもノートと貰いたてのボールペンを用意している彼女に物理は好きかと尋ねてみれば、答えは即答でイエス。

 ちなみに僕はそこまで物理系の学問に強く興味を持っているわけではない。

 やはり僕より彼女の方が理系向きだと改めて思った。


「それでは時間になりましたので、講義を始めます」


 ふと講義室の電灯が消され、辺りが薄暗くなる。

 前方のスクリーンに映し出されたのは広大な宇宙にぽつりと地球が浮かぶ風景。

 平坦な崎山教授の声も相まって、すでに気分は無重力空間にあった。


「どうも皆さん、こんにちは。私は崎山と言います。物理学をもう三十年近く勉強し続けているしがない学徒です。ここにいらっしゃる皆さんのほとんどは高校生ですかね。もうずいぶん昔になりますが、私が高校生の頃は物理なんて全然面白いと思わなかったし、まさか大人になってから馬鹿みたいに物理一筋で生活していくことになるなんて思いませんでしたよ。ええ。少しだけ面白いかな、と思い始めたのは二、三年前くらいからです」


 抑揚のない声調子とは裏腹に、崎山教授の話はユーモアに富んでいた。

 それが意識的な長年の学者生活で培った話術なのか、彼本来の性格に起因するものなのか判断はつかない。


「それではまず今回の講義のテーマでもある、人間原理について説明していきましょうかね。皆さんの中で人間原理という言葉を耳にしたことのある方はいますか?」


 手を挙げるような動作をしながら講義室を見渡すが、彼の問い掛けに応える者は誰一人いなかった。

 人間原理。

 実際僕はそんな言葉はこれまで一度も聞いたことがない。


「そうですか。いませんか。それはありがたいですね。私は今日のスライドを皆さんが人間原理を知らないことを前提につくってきているので、その方がありがたいです。ではさっそく人間原理とはなんなのかという説明から始めましょう」


 スクリーンに投影されていた映像が切り替わり、宇宙という暗い海に浮かぶ小さな地球船は掻き消され、林檎を手にした彫りの深い外国人が椅子に座っている映像に変化した。


「宇宙を支配する物理法則について考えると、この自然界には四つの基本的な力があります。重力、電磁気力、強い力、弱い力です。この力のうち、重力と電磁気力についてはたぶん聞いたことがあると思います。もしなかったらそれは勉強不足ですね。そして強い力と弱い力に関しては聞いたことのない人の方が多いかもしれません。でもここでは特別詳しく説明はしません。自然界には強い力と弱い力なんていう、なんだか今いちピンとこない名称の力があるんだととりあえず思っておいてください。気になる人はどうぞ勝手に自分で調べてください」


 大学名が白文字で記載されたボールペンを癖で指の上で踊らせる。

 しかし人を惹きつける類まれな才能を持つ崎山教授のせいで、僕は何度もペンを落としてしまう。

 そのたびに真横から鋭い視線が向けられていることに気づいてはいたが、あえて僕はそれに気づかない振りをしていた。

 それでも四度目の落筆の際、とうとう僕のボールペンは苛立ちを募らせた彼女に没収された。


「そしてこの四つの力がもし今よりほんの少しでも大きかったり小さかったりすると、炭素がつくられなくなります。炭素は有機物質をつくるので、炭素がなければ当然私たちのような生命体は生まれません。つまり何が言いたいかと言うと、宇宙に存在する四つの力は、なぜか生命体を創り出すのにぴったりな値に寸分の違いもなく調整されているわけです」


 話の行き先が見えてきた僕は、再び切り替わったスクリーンに目を凝らす。

 次に示されたのは何かしらの設計図をせっせと書いている東欧系の女性の姿だった。

 どことなく隣りで真剣な面持ちで話を聞く彼女に似ている気がした。


「それだけじゃないですよ。この世界が三つの次元で構成されていることも、じつは私たち生命体にとって都合が良い。これは想像しやすいかと思いますが、もしこの世界が二次元以下ならば、シンプルな構造物しか創造されず、私たちのような知的生命体はほぼ間違いなく生み出されません。さらにもしこの世界が四次元以上だった場合、先ほどいった四つの力の性質が変化してしまい、やはり私たちが生まれるには不都合な環境になってしまう。そう。まさにこの宇宙は私たち人間を生み出すように絶妙に計算し尽くされていると

いうわけです」


 崎山教授はそこまで言い切ると、挑戦的な笑みを浮かべた。

 静まり返った講義室内で、彼は自分で作り上げたはずのスライドを数秒じっくりと眺め、感心したように頷く。


「ではなぜこのように世界は人間を創り出せるように上手くできているのか。この問いに対する簡単な答えは二通りあります。一つは神の見えざる手、そしてもう一つが人間原理

です」


 僕はその問い掛けの答えを一つ思いつく。

 思い浮かんだアイデアはおそらく神の見えざる手とやらではない。なら今僕が想像した答えが人間原理なのだろうか。


「神の見えざる手は、ぺらぺらとくどく説明しなくてもわかりますね。神とかいうなんだかよくわからない奴がいて、そいつが私たち人間を創り出すために、あれやこれやと苦労をしてくれたというあれです。こちらの考え方に関しては、物理学というよりは宗教学、哲学に近い思想だと私は考えているので、あえてこの場では言及しません」


 僕は神を信じていない。

 もし本当に存在したとしても、どうせ実際に会うことなどないだろう。

 存在しているかどうかを確かめられないのなら、存在していないのと同じだ。


「では人間原理とは何か。もしかすると、皆さんの中には同じ考え方をしている人がいるかもしれない。つまりは、実は他に四つの力がまったくべつの値を持つ世界もあったり、二次元や、四次元の世界も存在するが、私たちにはそれが知覚できていないだけという考え方のことです。様々な条件が偶然揃ってできた宇宙こそが私たちの生きる世界で、その偶然に支配された世界しか知らない私たちからすると、まるで世界が自分たちを中心に構成されているように錯覚するという考え方こそが、人間原理ということになります」


 僕は軽い驚きを覚える。

 まさに僕が思いついたアイデアが、人間原理と呼ばれるものそのものだった。

 もしこの世界が人間を創り出せるようにできていなければ、人間が実際に生まれ自然界の法則に疑問を抱くこともない。

 だから人間が生まれるように宇宙のルールが定まっているように感じても何もおかしくはないということだ。


「私も初めて人間原理を知ったときは、それなりに感銘を受けました。なるほどな、と。上手い説明だなと思いましたよ。ええ。でも私の立場からすると、人間原理は敵なんです。いやはや、まったく面倒な立場になってしまったと自分でも思います。なぜ私にとって人間原理が敵なのかわかる人はいますかね」


 人間原理が敵。僕には崎山教授の言っている意味がよくわからなかった。

 特別矛盾も見当たらないし、理想的、それこそ真実に近い考え方だと思う。

 真実の探求こそが学者の役目ではないのだろうか。


「それはですね。人間原理の適用は、原因究明の放棄に繋がるからです。少し言い方が堅苦しいかもしれない。つまり人間原理は、すなわちこの世界に存在するあらゆる事象に理由がないと言っているのと同じなんですよ。全てただの偶然。ありとあらゆる可能性が存在する中で、たまたま条件が揃っただけ。私がここに立っているのも、皆さんがここに来たのも、全ては偶然。そこに理由も、原因も、論理もない。それではあまりにつまらない」


 崎山教授は少しだけ悲しそうな表情みせる。

 その表情にはたしかに明確な理由があるはずだと思った。


「自然界に存在する四つの力には、その値にならなければならない理由があった。私たちが生み出されたことには理由があった。その理由を解き明かすこと、それこそが物理学だと私は思っています」


 僕がこの世界に生み出されことに、はたして理由はあったのか。

 どうにも僕にはたいした意味がないように思えて仕方がない。


「残念ながら、この人間原理に同意する物理学者も数多くいるんですよね。私のような人間原理懐疑派は、もしかしたらその内時代遅れの知恵遅れになってしまうかもしれません。だけどそうでも思ってないとやってられませんよ。これだけ苦労して何十年もわけのわからない記号と数字の羅列とにらめっこをしてきて、全部ただの偶然だよ、なんて。あまりに酷い。そう思いませんか?」


 屈託のない笑みに表情を変え、崎山教授が聴講者たちに笑いかけると、講義室のいたるところから控えめだが、この日初めての笑い声が上がった。

 体験講義を終えた僕らはそそくさと大講義室から出て、適当に学内を歩き回っていた。

 特に目的もなく彷徨っているだけでも、博物館見学をしているようでそれなりに愉快だった。


「まあだいたいこんなもんかしらね。どうする? 他に行きたいところある?」


「いや、特にないよ」


「そう。じゃあ、そろそろ引き揚げましょうか」


「君はもういいの? 君は僕と違って本物の受験生だしもう少しよく見ておいた方がいいんじゃない?」


「雰囲気とかはわかったから、もう大丈夫。それにたぶんここ受けないと思うし」


 あっさりとそう断言し、彼女は構内の外へつたつたと向かって行く。

 わざわざ僕を引き連れてオープンキャンパスにまで来たくせに、ここの大学を受験する気はないとは驚きだ。


「せっかく来たのに受けないの? もったいない。崎山先生は面白い人だったじゃん」


「たしかにあの人、かなり優秀そうな先生だったわね。できればああいう先生の下で学びたい」


「ならなんで? ああいう先生とかぼかしてないで、あの先生のところに行けばいいんじゃないの?」


「できればそうしたいけど、貴方忘れてない? 私、文系よ。ここの大学に受かっても、多分あの先生とは話す機会もないと思うわ。教養科目とかでならあるかもしれないけど」


「ああ、そういえばそうだったね」


 大学構内から外に出て、久し振りに太陽光と再会する。

 まだそこまで遅い時間帯じゃないせいか、そこら中にいる学生達の数は行きとあまり変わらなかった。


「この夏に何回くらいオープンキャンパス行ったの?」


「そんなに行ってないわよ。三回くらいかな」


「まあまあ行ってるね」


 彼女が他に行ったオープンキャンパスの話を聞かせてもらうと、ここの大学の様に当日自由参加のところ以外に、事前申し込みが必要な大学もあるみたいだ。早いところだと七月の内にやってしまうという。

 まだ少しの残りのあったミネラルウオーターを飲み干すが、近くに捨てる場所を見つけることができず、僕は仕方なく空のペットボトルを持ち歩く。


「君って志望校どこなんだっけ」


「夏休みに入る前は違ったんだけど、今は一応京都」


「これまたずいぶんと遠いところを狙うね」


「それってどういう意味? 遠いっていうのは学力的に? 物理的な距離的に?」


「後者に決まってるじゃん。もし君で不合格だったら、単純計算をすればうちの学校からこの学年で京都に行ける奴はいないことになる」


「……まあ、そうね」


「わお。否定しないんだね」


「なによ。褒めてくれたんじゃないの?」


「そうだよ。その認識で合ってる」


 僕にとって関東の外というのは結構な距離がある場所だったが、彼女にとってはそうでもないらしい。

 それに実際僕の高校からは毎年結構様々なところへ進学している人がいる。北は北海道から、南は、どこだろう。

 真面目に調べたことはないので詳しいことは知らないが、とにかく彼女の志望校にも毎年少ないが何人か進学しているし、きっと僕のような狭い人生観の人間の方が少数派なのだろう。


「でもなんで? 関東圏に大学はたくさんあるのに、わざわざそっちに行く理由はなにかあるの?」


「私、なるべく色んなところに行ってみたいのよね。東北地方には住んでたことあるし、関東には今住んでるから、できれば関西か九州に大学は行こうってずっと思ってた。あ、今思うと、北海道もありね」


「凄いね。その考え方は尊敬するよ。僕とは真逆の思考回路だ」


「なにそれ。馬鹿にしてるの?」


「まさか。本気で言ってる。僕には真似できない。これは僕の病気のこととか関係なしに、君の生き方、考え方は真似できないし、憧れるよ」


「憧れる? 貴方が、私に?」


「うん。憧れる」


「そ、そう」


 眩しい。彼女はやっぱり眩しい人だ。

 知り合いも、土地勘もまったくないところに、自ら進んでいくなんて僕ならおそらく選択肢にすら入れないだろう。

 関東圏ならまだしも、その外となると、間違いなく一人暮らしになると思うが、それさえ彼女は不安よりも期待の方が大きいみたいだ。

 それに付け加え、彼女の話しぶりを聞く限り、関西に行ってそこで終わりというわけでもなさそうだ。

 九州、北海道、あともしかしたら沖縄も彼女は渡り鳥のように巡っていき、そしてまず間違いなくそのうち日本という小さな島国は飛び出してしまうはず。


「君って、英語は喋れるの?」


「なによいきなり。京都は日本よ。英語が話せる必要なんてないじゃない」


「でも、君はそこで止まるつもりはないんでしょ? いつか海外に行くなら、英語は必須だよ」


「え? 私、将来は海外で働いてみたいって話貴方にしたっけ?」


「してないよ。でもわかるよそのくらい。君はそういう人だ」


「なんか悔しい。貴方に私の将来設計を言い当てられるの」


 驚きに目を見開いた後、彼女は本気で悔しそうな表情をする。

 感情表現が得意なところも、海外で彼女が上手くやるだろうことを僕に予想させた。


「でもまずは京都でへましないことを意識するべきかな。関西なんてほとんど外国だからね。言葉も違うし」


「ちょっと。それ関西の人が聞いたら怒るわよ」


「大丈夫さ。関西人も自覚済みだよ」


「そうなの? 知り合いに関西の人でもいるの?」


「いや、いないけど」


「やっぱり貴方一度怒られた方がいいわね」


 言葉とは裏腹に、彼女は僕の言葉の何かが琴線に触れたのか、珍しく声を出して笑った。

 対照的に臆病な僕は、近くに僕の言葉で不愉快になった人がいないかさりげなく確認していた。


「でも私、実は京都のオープンキャンパスには行ってないのよね」


「なにそれ。なんで第一志望の大学だけそんな手抜きしてるの」


「行くことを決めたのつい先日だったんだけど、その時にはもう終わっちゃってて」 帰り道は緩やかな下り坂なので、いくぶんか足取りは軽かった。気温も気持ち下がったような感じがしないでもない。


「じゃあ、京都、行こうよ」


「突然観光キャッチコピーみたいなこと言い出してどうしたの?」


「そんなつもりはないよ。ただ普通に誘ってるんだ」


 ふと彼女は足を止め、僕もそれに合わせる。

 少し傾いた道で動きを止めることは普段中々ないので、慣れない感覚に僕はややふらついた。


「本気なの?」


「べつに今から行こうって言ってるわけじゃない。京都くらいなら日帰りで行けるし、なんか予定合わせてさ」


「日帰りで行けるって……まあ、行けないこともないけど。でもオープンキャンパスはもう終わってるのよ?」


「いいじゃんべつにそんなの。雰囲気だけでもわかれば。君って京都、というか関西行ったことある?」


「ううん。ない」


「なら決まりだね。物件探しついでに大学見学しようよ」


「物件探しって、そんなの普通合格した後するものじゃない?」


「わかったよ。なら大学見学ついでに物件探しに言い直すよ」


 僕の唐突過ぎる誘いの言葉に、彼女は瞳を揺らし迷う。

 率直に言って、僕自身驚きに鼓動が早まっている。

 会話の勢いでわけのわからないことを口走ってしまった。

 僕はわりと保守的で、なるべく内に留まろうとするタイプの人間だったはずだ。それなのに、僕は今、同じ高校の女子生徒を京都旅行に誘っている。こんなバイタリティ溢れる人間にいつの間になったのだろう。

 僕に変化をもたらした影響源は、頭を悩ませる必要なくすでにわかっていた。「たしかに一度くらい行っておきたいけど、貴方も一緒に来てくれるの?」


「君が嫌じゃないならね」


「嫌じゃない。嫌じゃない、けど、その、貴方にメリットがあるように思えなくて」


「なんだよ。今日は僕を君が受けるわけでもない大学のオープンキャンパスに連れてきておいて、いざ君の第一志望の見学に付き合うって言ったら乗り気じゃないなんて。きっと君みたいな人を小悪魔系女子っていうんだね」


「こ、小悪魔系女子ってなによ。その恥ずかしい呼び名やめて」


 耳だけ赤くした彼女はまた歩き出す。

 いつもより大きく揺れ動く彼女の髪を隣りで眺めながら、僕も坂を下っていく。


「……その、私、本当は今日、後悔してたの。申し訳ないなって。貴方に、嫌な思いさせちゃったんじゃないかって」


「どういうこと?」


「ほら、貴方最初の方怒ってたじゃない。大学に行くことのできない自分をこんなところに誘うなんてって。あの時、私、はっとして。たしかに凄い嫌がらせみたいなことしちゃってるって思ったの」


 ぽつり、といった様子で彼女は言葉を紡ぐ。

 僕は意外に思った。まさか彼女があの軽口をここまで気にしているなんて。

 気の強い彼女なら、自分のことを正しいと信じられる強さを持つ彼女ならとっくに忘れていると思っていたけど、どうもそんなことはなかったらしい。

 これは悪いことをした。

 僕は自分の死期を知る友人がこれまで他にいなかったせいか、そういう人との接し方に慣れていない。


「だから、私、一緒に京都に行ってくれるって貴方に言われて、なんというか、びっくりしたっていうか、安心しちゃったみたいな。なんて言えばいいのかな」


「嬉し過ぎて、反応に困った?」


「反応に困ったっていうのは合ってるけど、嬉し過ぎてって言い方は語弊がありそう」


 僕がまた余計な軽口を挟めば、今度は穏やかな笑みを見せてくれる。

 やがて道が余計な傾斜のない平坦なものに戻り、駅が目を細めなくても見えるようになった。

 都会の空は噂に聞く通り、若干狭く感じる。


「それで、どうする。行くの、京都?」


「うん。行く。貴方と一緒なら、どこにだって行けそう」


 悪戯っぽい微笑みで、彼女は僕に誘いの返事をする。

 彼女の返した言葉の後半の意味がいまいちよく掴めなかったけど、意味を訊き返そうとすると頬がなぜか熱くなって、どうしても口が開かなった。

 僕は彼女を追い越し、いつもよりほんの少し早歩きで駅に向かって行く。

 それでもすぐに彼女は僕の横に追いつき、上目遣いで顔を覗き込んでくる。

 涼やかで仄かに甘い香りが鼻頭をこそばゆくさせ、反射的に顔を逸らしてしまう。

 ふいにここでは蝉の鳴き声が聞こえないことに気づき、僕は迫りくる夏の終わりに怯えを感じた。


「私、ちょっとチャージしてくる。……今日は、本当にありがとね」


 彼女は宛先の読めない感謝の言葉を残すと、駅改札横の券売機へ小走りで向かっていった。

 残高に余裕のある僕は、帰り道が途中まで同じ彼女を大人しく待つ。

 改札の向こう側をぼんやりと眺めながら、僕は重力と電磁気力と強い力と弱い力に感謝していた。

 もしこの四つの力の内一つでも、今とは違う値、性質を持てば、僕はここからどこにも行けない。


「お待たせ。じゃあ、行こっか」


「うん。行こう」


 改札を通り抜け、やっとペットボトルを捨てる場所を見つけた僕は、とっくのとうに空になっていたミネラルウオーターを手放す。

 人類史上屈指の発明であるエスカレーターに運ばれてホームに辿り着き、ちょうどいいタイミングでやってきた電車にそのまま乗り込み、僕と彼女は帰路につく。

 雨雲が遠い空に覗いた気がしたけれど、僕はそれに気づかないふりをする。

 彼女と一緒なら、どこにだって行ける気がしていた。




 耳障りな蝉の声が鳴りやまない夕暮れ。

 夏がまだ終わっていないことを確認できて僕は安堵していた。

 ほとんど衝動的な思いつきに近い京都旅行の二日前。

 ふと久し振りに氷菓を食べたくなった僕は、熱の残る街をどこか新鮮な気持ちで歩いていた。

 僕の家は別段不便なところにあるわけではないけど、不思議とコンビニエンスストアだけは青いのも緑色のも近くに見当たらないので、行きたいのならば少し歩く必要がある。

 本当なら小さなスーパーなら家のすぐ傍にあり、アイスクリームを買う程度ならそこで済むが、僕自身の性格的にそれっぽっちの用件でスーパーに入るのがなんとなく嫌だった。

 それに加え、僕はどうも落ち着かないというか、できるだけ遠くまで行きたい気分でもあった。

 氷菓を買うためにコンビニに向かうなんていうのも、実際のところはほとんど言い訳みたいなものだ。ただじっと自室で大人しくしていることに僕は耐えられなかった。

 この浮足立った感覚はだいたい三日前くらいからずっと続いている。原因は容易に想像がついたが、それを素直に認めるのはやや気恥ずかしい。

 見覚えはあっても、見慣れた印象のない景色。水溜まりを避けて足を進める。僕が見過ごした雨の名残り。

 意識的に遠回りしながら、僕は昼と夜の狭間を彷徨い続ける。

 そういえば荷造りをしていない。

 今の今まで、気休めの薬類さえ持って行かず、財布一つで新幹線に乗り込もうとしていた。

 でもどうなのだろう。

 他に持ち物は何か要るのだろうか。あまりぱっとは思いつかなかった。

 しばらくそうやってとりとめのない考え事をしていると、そのうち青のコンビニが見えてきた。

 もう少し夏夜の散歩を楽しみたいところだけど、それは帰り道でいいだろう。

 しかし、そのまま店の方に近づいていくと、道の反対側から一人の青年がこちらに向かってきているのがわかった。

 背が僕よりも頭一つ分高い。骨格から考えるに僕と同年代だ。既視感のある制服を着ているのだが、どこで見たものなのかは思い出せない。

 また思い出せないことが増えた。

 僕は自分の記憶力に衰えを感じ、夏の終わりが近いことを思い知る。


「あれ。もしかして先輩っすか?」


「え?」


 すると意外なことにその背の高い青年は僕の前で立ち止まると、喜色を前面に押し出した声を上げた。

 先輩なんて呼び方をされることなんてずいぶんと珍しい。

 僕はろくに部活もやってこなかったし、何かの委員会に属することもなかった。

 そんな僕を先輩呼びするような人間は非常に限られている。


「もしかして、誠か?」


「そうっすよ。お久し振りです。先輩」


 見上げるような形で顔を覗き込んでみれば、僕はそこに懐かしい瓢箪顔の面影を見つけた。

 矢沢誠。

 中学時代の友人の弟は、知らない間に僕の身長を追い抜いていたらしい。

 年齢は僕より二つ下だったはず。ということは今は高校一年生か。


「コンビニすか?」


「あ、うん」


「じゃ、入りましょうよ」


 誠は嬉しそうな表情で店内に入っていく。

 僕もそれを追い、いらっしゃいませという歓迎の言葉を受ける。

 中は冷房が効いていて、汗がすっと引いていくのがわかった。


「なに買いにきたんすか?」


「なんかアイスを適当に」


「あー、暑いっすもんね」


 普段はあまりコンビニには立ち寄らないため、一瞬アイスが置いてある場所がわからずあたふたしてしまう。

 それでもそこまで広い店内ではない。

 すぐに目当てのものを見つけ、僕はモナカを二つ手に取った。

 誠の方はドリンクコーナーで立ち止まり悩ましそうにしていた。

 だが結局ペットボトルが整頓されているそこからは移動し、紙パックのコーヒーを一つ買うことにしたみたいだ。

 まだ他にも何かを見あさっている誠を置いて、僕は先にアイスを購入して外で待つ。

 すぐに誠も店から出てきて、さっそくとばかりに肉まんを袋から取り出す。

 こんな季節にそもそも肉まんが売られていることに驚いたが、それを買って食べている誠にも信じられない気持ちを抱いた。


「どうでした?」


「ん? なにが?」


「ここの店員、めっちゃ可愛くないすか?」


「は? いや、ちゃんと見てないからわかんない」


「あー、もったいないっすね、それは。今度もしここに来ることがあったら、しっかり見ないと駄目っすよ。俺はいつもあの子目当てで来るんですから」


「了解。今度来たら毛穴の奥まで見定めるよ」


「そこまではしなくて大丈夫っす」


 けらけらと誠は笑い、薄ら湯気の出ているように見える肉まんを頬張った。

 僕も対抗するわけではないが、アイスを袋から出し口に運ぶ。

 誠は見た目こそ垢抜け身長もだいぶ伸びていたが、中身は昔とまったく変わっていない。前からこいつはどこか飄々としていて、人懐っこく、そして何より女好きな奴だった。女っ気がまるでなかった兄とは大違いだ。


「それにしても背、伸びたね。今どれくらいあるの?」


「百八十ちょいすかね。中三らへんで一気に伸びたんすよ」


「へえ。じゃあ、もう雄大よりもでかい?」


「余裕で俺の方がでかいっすね。兄貴は先輩より気持ち低めぐらいな感じっす」


 かつての友人は俺とそれほど身長も変わらないと聞き、僕はほっと胸を撫で下ろす。

 ミルクとチョコの冷たい甘さが口に広がり、僕と誠はそれとなく揃って歩き始めた。


「でもマジで久し振りっすよね。先輩が卒業した日以来っすか? 俺は先輩たちの卒業式見に行ったのに、先輩は来てくれませんでしたね。薄情ですよ」


「いやいや、お前が僕たちの卒業式来たのは雄大がいたからでしょ? 僕だって、妹の卒業式は出たからね」


「あー、そういえば先輩って可愛い妹さんいましたね」


「は? なに? お前僕の妹に手出すつもり?」


「ちょ、俺一言もそんなこと言ってないっすよ。てか目怖すぎなんすけど」


「お前、もしかして僕の妹には手を出す価値すらないとか思ってる? ふざけてるの?」


「うわ。面倒くせぇ。だからそんなこと全然言ってないじゃないっすか。だいたい俺、彼女いますし」


「そうか。なら安心だ」


「はぁ、変わらないっすね。先輩も」


 大袈裟に溜め息を吐く誠を見ながら、僕は意外に思う。

 変わらない、誠には僕のことも昔と同じように見えるのか。

 あの頃と、雄大と二人でくだらないことで笑い合い、たまに誠を交えて馬鹿なことをした頃と、僕は変わらないままでいられている。

 そう言われると、少しだけアイスクリームで冷えた心が暖かくなった。


「というか誠はどこの高校行ったの?」


「兄貴が落ちたとこっすよ」


「ああ、それでなんかその制服に見覚えがあると思ったんだ。というか嫌味なことするね。自分の兄が落っこちたとこ行くなんて」


「それ、兄貴も同じこと言ってました。俺はそういうつもりじゃなくて、なんつうか、リベンジ? 的な感じで受験したんすけどね。でもなぜか、兄貴とか先輩とか、捻くれた人種の方にはそういう風に受け取られるんすよね。不思議ですねぇ。やっぱり似た者同士なんすねぇ」


「おい、僕をあの馬鹿雄大と一緒にするな。不愉快だ」


「ははっ、実の弟の前で兄貴をそんな大っぴらに侮辱しないでくださいよ。でもそれも懐かしいっす。たしかに頭の出来は先輩と兄貴とじゃ大違いっすね」


 若干成績に不安を見せる雄大とは違い、誠はそれなりに勉強ができる奴だった。たしかに僕ほど図抜けて成績が良いというわけではないけど、クラスで上から五人には入る程度にはよかったと聞いている。


「先輩はあの名門、ですもんね。まじ凄いっす。尊敬しますよ。俺の代であそこ受かったの一人もいないっすよ」


「まあ、一応その名門、だね。僕は勉強だけが取り柄で、他には何もできなかったけど」


「それでも凄いことには変わりないっすよ。俺の兄貴なんて勉強以外も大してできないっすから」


「おいおい、僕の数少ない友人を目の前でそんな大っぴらに小馬鹿にしないでくれよ。残念ながら否定はできないけどさ」


 僕と誠は目を合わせて笑う。

 事実、僕の友人は器用貧乏の典型で、得意なことなんて何一つ持ってなかった。

 それでも僕はあいつを面白い奴だと思っていたし、僕よりよっぽど魅力的な人間だとわかっていた。


「今でも覚えてますよ。兄貴、先輩が合格したって話を聞いた日の夜、馬鹿みたいに泣いてました。俺に向かって、どうだ、すげぇだろって。俺の親友は凄いんだぞって。自分は第一志望落っこちてるくせに、めちゃくちゃ嬉しそうに笑ってました。大泣きしながら」


「……へえ。まったくお気楽な奴だなあいつは」


 茜色が暗くなり始めた空を見仰ぎながら、誠は僕の親友の口真似をする。実の弟のくせにあまり似ていなかった。


「先輩はどうですか。高校入ってからも、秀才っぷり見せつけてるんすか?」


「うーん、どうだろう。一応入学してから、総合順位は学年二位くらいを基本キープしてたかな。たまに三位とか四、五位になったりしたこともあったような気がするけど。でも中学の時みたいに学年一位を取ったことは……まあ、ないと言っていいかな。永遠の二番手さ」


「えぇ! それまじすか!? 超凄いじゃないっすか。高校でもそんな頭いいんすね。もうそれは天才っす。俺なんか高校入ってからは、クラスじゃ最下位争いっすよ」


「最下位争い? 誠なにやってんだよ。お前ってけっこう成績よくなかったっけ?」


「先輩がおかしいんすよ。そこら中から似たような成績の奴が集まるんすから、中学と同じようには行かないのが普通です」


 誠がクラスですら下の方の成績と聞いて、僕は軽く衝撃を受ける。僕の方は学業に関してはそこまで中学時代と変わらなかったが、どうもそれは人によって大きく異なるらしい。 それでも赤点を取ったりなどはしていないと誠は言うので、相変わらず要領よくやっているようだ。


「いやー、先輩は本当さすがっすね。俺も頑張らないとなぁ」


「雄大はどうなの? あいつ成績悪すぎて高校中退とかなってないよね?」


「ははっ、大丈夫っすよ。むしろ兄貴は中学の時より成績良いっすから。なんか数学だけなら学年一位とったことあるって言ってました」


「あ、そうなの? へえ。そうなんだ。あの雄大がね。あいつそんな数学得意だったっけ」

 

 誠の話を聞いて僕の親友の現状が気にかかったが、どうもそれは杞憂だったみたいだ。

 僕は中学の頃と成績がほとんど変わらず、誠は大きく落とし、雄大はかなりの成長を見せた。

 本当に十人十色だ。

 皆それぞれ異なる高校生活を送っている。

 まあ僕の場合はほとんど成績の伸びしろがないのだけど。


「先輩はなんか部活とかやってるんすか?」


「僕? いや、やってないよ。誠はバスケだっけ? まだ続けてるの?」


「はい。高校でもバスケやってます。これが無駄に練習きつくて、俺の成績が落ちた原因の九割は部活っす」


「残り一割は?」


「彼女ですね」


「なんだか、誠の成績が落ちたことが嬉しくなってきたよ」


「ちょ、先輩酷いっすよ」


 アイスを食べ終わり、うっかりもう一つに手を伸ばしそうになったが、これはカナのため買ったものだと思い出し、手の行き先をポケットに変更する。


「そうだ。兄貴、軽音部に入ったんすよ」


「軽音? あいつ楽器とか弾けないでしょ」


「なんか叔父さんから譲ってもらったギターにハマっちゃったらしくって。最初は家でがちゃがちゃやってたんすけど、親にうるせぇって怒られて、それから軽音部に入ったんす。部室でならいくらやっても怒られないからって」


「そうなんだ。まだ続けてるの?」


「今は受験生ですからね。さすがに最近はあんまり顔を出してないみたいっすけど、とりあえず部活はまだ止めてないっぽいすね」


 言われてみれば、雄大は手先が器用だった。それが何か特技に繋がることはこれまでなかったが、ついにその才能を生かせる場所を見つけたようだ。

 数学が得意で、軽音部に入ったかつて親友。中学を卒業してからというものの、一切の交流がないことも相まって、少しだけ雄大が遠くに行ってしまったような気分になった。


「そっか。あいつ、変わったな」


「そうすか? 俺からするとそんなに変わってない感じしますけど」


 僕とは違い、誠は兄弟である雄大とずっと一緒にいる。あまりに近くにいすぎて、その変化がわかりにくいのかもしれない。

 誠は僕のことを変わらないと言ってくれた。でも雄大はどうだろう。今の僕を見て、どんな風に思うのか。そんなことを考えると、なぜか怖くなった。


「じゃあ、久々に、うち来ます? 今なら、兄貴たぶんいると思いますよ」


「え? いや、いいよ。もう時間も遅いし。迷惑でしょ」


「そんなことないと思いますけど」


「本当に、大丈夫だから」


「そうすか」


 誠がじっと僕の顔を見つめているのがわかる。そこにどのような表情を浮かべているのか知るのが怖くて、必死で前を向き続ける。

 僕はどうしようもない臆病者だった。

 高校での友人は自ら突き放し、中学時代の親友からは逃げ回っている。全部覚えているのに。僕は無理に忘れた振りをしているだけ。

 いつか忘れられてしまうのが嫌で、自分の方から忘れてしまおうとしている。

 でも、僕は記憶力がよかった。良すぎていた。


「じゃ、俺、こっちなんで」


「あ、そうだね。じゃあ、またね」


 気づけば辺りは真っ暗になっていた。

 いつの間に日が沈んだのかはわからない。

 またね、そんな言葉をかけながら思う、きっともう二度と誠に会うことはないだろうと。

 夏が終われば、僕の人生も終わる。

 あとは皆に忘れられて、そして僕は本当の意味でいなくなる。


「あ、そうだ。もし先輩に会うことがあったらって、伝言を頼まれてました」


「伝言? 雄大から?」


「はい、そうっす」


 分かれ道を数歩分いくと、誠はふと立ち止まり、僕に雄大の言葉を伝えようとする。

 僕がいなくなることにも気づかず、忘れていくであろうかつての親友からの言葉に、僕は耳を澄ます。


「葬式をやる日取りが決まったら、招待状よこせよ。顔くらいは出してやるから。だそうですよ。それじゃ、また近いうちに」


 また近いうちに、そんな言葉を残して誠は去って行く。

 彼女より前に僕のことを知ってくれていた人がいたことを初めて知った僕は、もう一つのアイスがとけてしまうまで、ずっと一人立ち尽くしていた。




 僕の親友である矢沢雄大の弟、矢沢誠と偶然再会を果たした日の二日後の朝。僕は目覚まし時計が鳴り響く前に目を覚ました。

 タイマー機能を使い忘れ、冷房を付けっぱなしで寝床についたせいか、喉がからからに渇いている。

 カーテンを開ければ眩しい日光が差し込み、僕の霞んだ視界を無理矢理明瞭にさせた。

 変わり映えのしない部屋を無意味に見渡すと、愚鈍な動きでベッドから降りる。

 冷房のスイッチをオフにし、窓の外から風が通るようにすると、気持ちの良さそうな小鳥の囀りと快活な蝉声がはっきりと聞こえるようになった。

 廊下に出ると、家の中の静謐な空気が身に染みる。

 そそくさとリビングに向かい、蛇口をひねり、水をコップ一杯分つぐ。

ソファーにゆっくりと腰掛けると、僕は前方のテレビ画面を特に理由もなく眺めていた。

 リモコンに手を伸ばすことすら億劫だ。

 鏡の代わりに、僕の顔をおぼろげに映し出す真っ暗なモニター。

 少し痩せたかもしれない。

 視力もやはり若干落ちている気がした。これまでに比べて色々なものが曖昧に見える。


「兄さん、おはよう」


「あ、カナ。おはよう」


 その時、僕の後ろの方から清廉とした鈴の音を思わせる声がした。

 短パンにTシャツ一枚を羽織っただけという、相も変わらずラフが過ぎる寝間着姿をした僕の妹はリビングのカーテンに手をかけ、辺りを明るく照らす。


「早起きだね」


「まあね。でもカナだってそうじゃん」


「今日だっけ。京都行くの」


「そうだよ」


「そっか」


 さすがに関東の外に黙って行くのは気が引けるので、前もってカナや両親には伝えておいてある。

 僕の行動を咎めるようなことを言う人は誰もいなかった。

 それが優しさなのか、それとも別の感情からか。僕は訊こうとは思わなかった。


「私、見送りに行っていい? 新幹線に乗るところまで」


「え? 見送り? べつにいいけど。なんで?」


「前は見れなかったから、今回は見ておきたいの、兄さんの普通の友達さん」


「まあ、構わないけど。あれ、でもちょっと待って。僕、京都に一人で行くんじゃないって話したっけ?」


「してない。でもわかるそのくらい。兄さんは一人で京都に旅行なんてしない。兄さんはそういう人」


「さすが我が妹。僕のことを誰よりもよくわかってるね」


「それほどでも」


 カナは僕のことなら何でもお見通しだ。だけど特に悪い気分はしなかった。理解されないよりは、見透かされるくらいの方がいい。

 コップを口元で傾けると、すぐに中身が空になった。

 まだ潤いが足りない気がした僕は、もう一度水を注ぐ。


「そういえば一昨日、誠に会ったよ」


「矢沢先輩に? しかも弟さんの方?」


「そうだよ。間抜けじゃない方にね」


 僕がまたソファーに身体を預けると、カナもその横に同じように座った。


「どうだった? 変わらない?」


「中身は全然。見た目は結構変わってたけど」


「見た目?」


「うん。身長が凄い伸びてて。まだ高一なのに、もう百八十ちょいあるんだってさ」


「百八十ちょい。それは大きい」


 誠に会うのはそれこそ三年振りくらいだったはずだが、今思えばそんなに時間が空いていたとは感じられないほど自然に会話することができた。

 きっとそれは誠の人柄や性格のおかげによるところが大きいのだろう。

 僕と雄大が今会ったとしても、あそこまで普通に喋ることができるかは中々に怪しいところだ。


「それでさ。なんでかわからないけど……誠、僕の病気のこと知ってた。たぶん、雄大も」


「……そうなんだ」


「カナこの前、雄大に会ったって言ってたよね? もしかしてその時、言った?」


「言ってない」


「そっか。じゃあ、なんで知ってたんだろ」


「さあ。でも矢沢先輩、ああ見えて結構鋭いから」


「矢沢ってどっちの? 誠の方?」


「ううん。お兄さんの方」


「カナにそんな高評価されるなんて。あいつきっと泣いて喜ぶな。もし泣いて喜ばなかったら僕が泣かす」


 僕は隣りで膝を抱えて座るカナの顔を見てみる。

 その一見無愛想に見える表情はいつも通りで、変わりがあるようには思えなかった。

 視線を前方に向き直せば、また黒いモニター画面に映る僕がこちらを見つめ返している。

 思い出したように水を飲んでみれば、向こう側の僕は右手でコップを同じ様に扱う。

 隣りのカナも、僕と同様に音を出さないテレビ画面を眺めていた。


「毛、生えたね」


「カナって、柴犬が好きなの?」


「ううん。私はボーダーコリーが好き」


「わお。奇遇だね。僕はペンギンが好きなんだ」


「どこも奇遇じゃない」


 くせで右手首に視線を落としてみても、そこに求めていたものは見つからない。  顔を二、三度動かしてやっと、僕は壁にかかっているアナログの時計盤を視界に捉え、知りたかったことを瞳に映した。


「そろそろ時間? じゃあ私、着替えてくる」


「あ、うん。玄関で待ってるよ」


 僕が時間を確認すると、カナはソファーから腰を上げ廊下に姿を消す。

 静寂の戻った居間を一人見渡し、僕は普段より少しだけ重たい身体をなんとか持ち上げる。

 そして空になったコップをキッチンに置くと、僕もまた旅の準備を整えに自室に戻った。


 カナと一緒に家を出た僕は、その後一時間と少しほど電車に揺られ、待ち合わせの駅までやってきた。

 時間こそいくらかかかったが、乗り換えなどはなかったので楽と言えば楽だった。

 ここから新幹線に乗ってしまえば、当然目的地まで乗り換えはない。そう考えると不思議と京都がそこまで遠くに感じなくなってくる。

 ここまで来る間はカナととりとめのない会話をして過ごした。

 僕の妹はなぜか、旅の同行者である彼女に興味津々で、名前や学年などという基本的なこと以外にも、色々なことを尋ねてきたのは予想外だったけど、旅の前に僕が彼女について知っていることを整理できてよかった気もした。

 待ち合わせ場所には無事到着したが、約束の時間まではあと三十分ほどある。僕とカナはどうやって時間を潰そうか悩む。


「どうする? 城の方にでも行ってみる?」


「それはもっと時間があるときがいい」


「でも他にここら辺になんかあったっけ」


「普通にお弁当でも見てたら?」


「ああ、それがいいね。僕、朝ご飯まだ食べてないし」


「私も食べてない」

 

 歴史を感じさせる赤い煉瓦の駅舎を外側から眺めながら、僕たちはとりあえず食べ物を確保することにした。

 駅周辺では気難しそうな大人たちが何人も早歩きをしていて、僕らの様に景色の美しさに見惚れる人は誰もいなかった。

 都会に慣れた代償に、失ったものが少なからずあるのだろう。

 たしかここは夜になったら綺麗にライトアップされるはず。その光景もきっと今日の帰り道で見ることができる。

 行きとは違ってカナと共に見ることはできなくても、代わりに一緒にいてくれる人がいる。楽しみだと思った。


「ほら兄さん、行こう」


 カナが服を引っ張るので、僕はしぶしぶ荘厳な建物から視線を外し、駅の中へとまた入っていく。

 独特の忙しない喧騒。

 僕はここでは蝉の声が聞こえないことに不安を感じつつも、多種多様に用意された駅弁を一つずつじっくりと見て回る。


「帆立、美味しそう。釜飯もいい」


「というかカナも買うの? カナは見送りだけだよね?」


「お腹空いたから買う。家に帰ったら食べる」


 僕より真剣に商品を吟味するカナがどこか面白く、僕は思わず笑みを零す。

 しかし僕の凛々しい妹に睨みつけられ、僕はその笑みをすぐにしまい込んだ。


「海鮮もありだなぁ。あ、でも牛タンとかめったに食べないし、こっちも悪くない。さすがにカルビとかはきついけど、タンくらいならいけそう」


「全然京都っぽくない」


「いいんだよ。京都っぽいのは向こうで食べるから」


 まだ迷い続けるカナをしり目に、僕は先に弁当を一つ購入してしまう。

 僕の最近若干調子の悪い記憶が間違っていなければ、この駅弁は東北地方の名物だったはずだ。

 でもこういう食べ物に限って彼女は苦手だったりしそうだなと、僕は勝手な予想をした。


「決めた。どっちも買う」


「うそでしょ? カナの成長期は目を見張るものがあるね」


 散々迷った挙句、弁当を二つ買うことにしたようだ。

 これから関東を飛び出し、日帰り関西旅行に行くわけでもないのに、凄い食欲だ。


「お土産、楽しみにしてる」


「うん。楽しみにしてて。生八つ橋いっぱい買ってくるよ」


「一つの種類のお土産を沢山買うんじゃなくて、色んな種類のお土産買ってきてほしい」


「そっちの方がいいならそうするよ。生八つ橋にも色んな味があるからね」


「兄さん」


「わかってるって。冗談だよ」


 浮かれてでもいるのか、いつも以上に余計なことばかり口にする僕をカナが諌めてくれる。

 腕時計を見てみれば、そろそろ丁度いい頃合いだった。

 僕はカナにアイコンタクトを取ると、待ち合わせの改札口に向かうことにする。 時折り電子的な快音がこだまする通路。

 都会の人混みに慣れない僕らは、はぐれないよう気をつけながら歩いて行く。

都から都へ。

 一瞬なんとも粋な旅行だと一人得意げな気分になったが、何も洒落たことは言えてないと自分で気づく。

 やはり今日の僕は少しばかりおかしいようだ。


「兄さん、もしかしてあの人?」


「また先を越されちゃったな。今回は僕の方が先に着いてたと思うんだけど」


 約束の時間の十分前。

 膝下の長さを強調するホットパンツに、シンプルにVネックのトップスを合わせた爽やかな格好の少女が、ワンショルダータイプのリュックを背負い立っている姿が見える。

 僕らがそのまま近づいていくと、彼女はやがてこちらに気づいたのか小さく手を振る。

 だけどそのふわりと揺れる手は宙空で不自然に止まり、茶色の強い瞳がカナの方に真っ直ぐと向けられた。


「おはよう。また君の方が早かった。これで二勝二敗。接戦だね」


「ねえ、その子は知り合い?」


「ちょっと僕の挨拶は無視? まあいいけどさ。というか知り合いって。そんな浅はかな言葉じゃ僕とカナの関係性は言い表せないよ」


「え? それってどういう……」


「兄さん。少し黙ってて。兄さんが喋るとややこしくなる」


「うそ。今、兄さんって呼んだ? こんな可愛い子が? これのことを?」


 これまで困惑に染まっていた彼女の表情が、今度は瞬く間に驚愕へと変わる。

 僕とカナはお世辞にもそこまで似ているとはいえない。

だから見ただけで兄妹だとすぐに理解するのは難しいとは思うが、それにしても彼女は失礼な態度が目立つ。

 いくらなんでも人様のことをこれ呼ばわりはないだろう。

 と色々、文句紛いの軽口をほろりほろりと漏らしてしまいそうになるが、僕はすんでのところで我慢する。

 僕の可愛らしい妹の前で、あまり美しくない口を回すのはよくないと思ったからだ。

 もっとも、それは今更という気にもなるけれど。

 そして礼儀正しい僕の妹は、僕が何か言うまでもなく丁寧に頭を下げ、彼女に簡単な自己紹介をするのだった。



「どうも初めまして、私は米倉奏よねくらかなです。いつも兄がご迷惑をかけているようですみません、有村薫ありむらかおるさん」




「これ、なにかわかる?」


「なにって、牛タンじゃないの? それがどうしたのよ」


「君の故郷の食べ物でしょ。一口あげようか?」


「いらない。そんなに好きじゃないし、そもそも私の故郷の食べ物でもないから」


「やっぱりね。君はこういうの苦手だと思った。故郷の料理じゃないってのは予想外だったけど」


「やっぱりってなによ。なんかムカつく。というか苦手だと思ったから勧めたわけ? その捻くれた性格本当にどうにかならないの?」


「ならないよ。慣れるしかない」


 新幹線の中は思っていたより空いていた。今回は少しだけ奮発して指定席の券を購入してみたが、これだけ空席が目立つなら自由席にしてもよかったかもしれない。

 飛ぶように過ぎていく窓からの景色にも、段々と緑が増えてきていた。

 僕の買った駅弁に箸を伸ばすと、香ばしい旨味が咀嚼の度に広がる。僕の知っているタンというものに比べてずいぶんと分厚い肉の食感は癖になりそうだ。


「でも貴方にあんな可愛らしい妹さんがいるなんてね。貴方にはもったいないくらいの」


「あれ。君にも前に、僕には世界で一番の妹がいるって言ったような気がするけど」


「世界で一番とまでは言ってなかったかも」


 通路側の席の彼女はサンドイッチを頬張っている。僕とは違って、わざわざ弁当を買いはしなかったらしい。きっと僕より世界を身近に感じる彼女にとって、新幹線で片道三時間もかからない程度の旅ならそれで十分なのだ。


「でもお見送りまで来てくれるなんて。仲が良いのね」


「まあね。だけど正直言って、僕を見送ってくれた理由はたぶんそこじゃないと思う」


「そうなの? じゃあなんで?」


「君だよ。カナは君を一目見ておきたいって言ってついてきたんだ」


「私を? 貴方、奏ちゃんになにか変なこと吹き込んでないでしょうね」


「まさか。僕の妹に悪い影響でも起きたら嫌だからね。君のことを僕の方から積極的に話すことなんてまずないよ」


「それはそれで少し腹が立つ」


 気分屋の彼女は、反射神経の鈍い僕の隙をついて、貴重な特厚牛タンを一切れ奪い去って行く。

  勝ち誇った表情で僕からくすねとった牛タンをひょいと口に運ぶと、彼女はあんまり美味しくないと悪びれることもなくそう言った。


「奏ちゃんって何年生?」


「今、中学三年生。僕たちと同じ受験生だよ」


「そうなんだ。志望校は?」


「嬉しいことにそれも僕たちと同じ」


「へえ。じゃあ、奏ちゃんも頭は良いのね。そこだけは唯一血の繋がりを感じる」


「当然。ポテンシャルでいえば、僕なんかよりよっぽどカナの方が上さ。つまり単純計算でいえば、君よりもカナの方が頭が良いってことになる」


「貴方って単純計算が好きなのね。学年一位のくせに」


「逆だよ逆。賢いからこそ物事がシンプルに捉えられるんだ。そういうところだよ。だから君はテストの総合順位で僕より下のところに名前が載る」


「うるさい。次は勝つ」


 勝気な彼女は唇を尖らせる。よく唇を尖らせる人だ。そのうちキツツキにでもなってしまうかもしれない。

 それにしても僕にはもうだぶん次はないであろうことを、どうやら彼女は綺麗さっぱり忘れてしまっているみたいだ。

 それに本当のところは、僕は自分のことを人より賢いだなんて思ったことは一度も、いや一度くらいならあるかもしれないけど、とにかく今は思っていない。ただ少しだけ記憶力が良いだけ。

 それに学年一位の肩書だって実際はなんの意味も持たないぺらっぺらのハリボテだ。


「でも奏ちゃん、本当に良い子だったなぁ。貴方の妹だっていうから、どんな気難しい子かと思ったけど、全然そんなことなかった。頭の良さも貴方と同じくらいっていうなら、まさに完璧美少女ね。憧れちゃう」


「まあそんなに落ち込まないでよ。比べる相手が悪い。カナは宇宙創成史の中で生まれた知的生命体の頂点だからね」


「……それ、本人にも言ってるのよね? どんな反応をするの?」


「とても嫌そうな顔をするよ」


「よかった。それを聞いて安心したわ」


 わざとらしく胸を撫で下ろす仕草をしながら、彼女はからからと笑う。

 僕もつられて頬を緩ませ、もう一度窓の外に視線を逃がした。


「そうだ。私たちが新幹線に乗り込むとき、貴方が先に入って、私が少し遅れて乗り込んだじゃない?」


「たしかに僕が先の順で乗ったけど、時間差なんてほとんどなかったでしょ。ほんの数秒の違いじゃん」


「まあそうなんだけど。私、その時、奏ちゃんに言われたの」


 想像以上に満足のいく仕上がりだった駅弁を食べ終えた頃、隣りの彼女が思い出したように喋りかけてくる。

 山が遠くに顔を出し始めた景色を視界の外に追いやり、彼女に向き直る。

 見えたのは思案気に揺れるライトブラウンの瞳。

 この透き通るような瞳に、僕はどんな風に映っているのだろうか。


「ありがとうございます、って。そう言われたの。私、なにか感謝されるようなことあの子にしたっけ?」


「……さあ。なんだろうね。もしかしたら、誰かの代わりに感謝の言葉を伝えたのかも」


「誰かの代わり? どういう意味?」


 僕は彼女の問い掛けに答えることなく瞳を閉じる。今日はやけに瞼が重い。

 隣りから不満そうな鼻息が聞こえた気がしたが、それにも僕は返事をしなかった。




 いつの間にか眠り込んでしまったことに気づいたのは、彼女に肩を優しく揺さぶられたときだった。

 どこか霞んでいる視界を、目頭を擦って鮮明にする。どうやら目的地に到着したようだ。

 けっこうな間寝ていたらしい。かすかに倦怠感を覚える身体をなんとか動かし、僕は彼女に続き駅のホームに出る。

 外に降り出た瞬間、僕は上手く言い表すことはできないが、なんとなくちぐはぐな雰囲気を感じた。

 音か、匂いか、光景か、どこにその微妙な不一致感を覚えているのかはわからない。

 熱のこもったごった返しを抜け、僕たちは真っ直ぐと街へ出る。こちらの都でもまた、観光客らしい外国人を少なからず見つけられた。

 雨の降り出しそうな匂いがしたけれど、鼻を擦って僕はそれを誤魔化す。


「ここが京都か。やっぱりなんか独特な感じがする街だね」


「そう? この辺りはべつに関東とそこまで変わらないでしょ」


  辺りをざっと見回した彼女の感想は実にそっけない。感受性に乏しい人だ。


「それで? どこに大学はあるの? 歩いて何分くらい?」


「徒歩じゃ一時間あっても足りないわよ。ここから地下鉄に数十分乗って、そこからまた数十分くらい歩くつもり」


「そんなに遠いの? というか最寄り駅ここじゃないんだね。京都駅なのに」


 彼女は自慢の電子機器で何やら指をぺたぺたとやると、また歩き出す。

 とくに事前に何も調べてきていない土地勘も情報もない僕は、そんな彼女に黙ってついていくだけだ。

 やがて美味しい炭火焼鳥を出す居酒屋みたいな名前の地下鉄を見つけると、僕たちは関東とまるで変わらない電車に潜り込んだ。


「駅名はやっぱり京都っぽくて面白いね。何条まであるんだろ。一から十まで全部あるのかな」


 混んでも空いてもいない地下鉄に揺られながら、僕は路線図を眺めてみる。土地の色が出た独創的なネーミングに、僕は少しだけ心が躍った。


「ねえ、貴方は大学を訪問した後はどうするか決めてるの?」


「いや、まったく」


「はあ、どうせそんなことだと思った。今のうちに考えておいて」


「行くところなんて腐るほどあるでしょ。大丈夫さ。行くところには困らない」


「逆よ逆。観光名所が沢山あるから迷って困るかもしれないの」


 有名な観光スポットはたしかに、僕の地元と違っていくらでも思いついた。羨ましい限りだ。全部回ろうとすると今度は時間が足りなくなってしまう。

 しばらくそうやって頭を悩ませていると、目的の駅に電車が止まる。彼女が言うにはここからも若干の距離を歩くらしい。

 乗り換えやバスを駆使すれば、もう少し大学近辺のところまでいけるらしいが、それは面倒なのでしなかったという。

 彼女は交通機関を効率的に組み合わせて利用することよりも、体力、時間が幾らかかかってしまったとしても、なるべくシンプルな方法を選ぶことの方が楽だと考える人だった。

 そしてそれは、僕と彼女の数少ない共通の嗜好でもあった。




 地下鉄から降り街へ出てまず目についたのは、庭園のように見える大きな建物だった。

 街並みも京都駅に比べて、語彙の貧困な僕にはあまりいい言葉が思いつかないが、まさしく京都らしいといったものだった。

 歴史、風情を思わせる情景に僕はここでやっと旅の雰囲気を実感する。素朴ながら情緒が溢れる街だ。

 こういった町通りを草履をはいて、袴でも着て歩けばそれは実に清々しい気分になるに違いない。


「これは京都御所ね。あとで行ってみる?」


「一般の人に公開されてるんだ、ここ。御所ってことは、昔天皇でも住んでたのかな」


「そうなんじゃない? あまり詳しくないけど」


 敷地内から濃すぎるほど緑々しい

 木々が飛び出している京都御所の脇に沿って、僕たちは歩いて行く。この辺りでは明らかに観光客だという人も若干少なく、誰がぶらりと京の街に遊びに来た人で、誰が僕らとは違った生粋の京都人なのかはまるでわからない。


「まさに古き良きを知るって感じだね。空気から違う感じがするよ」


「そうね。ここら辺まで来ると、やっぱり独特な雰囲気はする。でも住みやすさはどうなんだろう。この辺に日用品とか食品を買える場所あるのかしら」


「さすがにあるでしょ。京都は学生の街ともよく言われるし。住まなくても都なんだ。住んでも都に決まってる」


 物珍しそうに周囲を眺めながら、僕と彼女は通り沿いにひたすら進んでいく。このまま行けばそのうち川が見えてくるらしい。

 その川を越え、しばらく行った後左折すればもうキャンパスが現れてくるはずらしかった。


「京都ってなんとなく道が狭いイメージだったけど、案外広々としているんだね」


「石段みたいなのもけっこうあるって聞いてたけど、あんまり見当たらないわね。盆地だから、もう少し山側に行けばまた違った街並みが見られるのかもね」


 幅のある信号を何度か渡っていくと、彼女が言っていたとおり大きな川が見えてきた。

 彼女に訊けば川の名は鴨川というようだ。きっと有名な川だ。どこかで聞き覚えがある。

 河原で気持ちよさそうに寝そべる人々の中には、僕ら同世代のような若者もいた。こちらに下宿している大学生かもしれない。

 夏の京都は今のところ、関東に負けず劣らず暑い。

 というよりも勝っている気がしてならない。山に囲まれているせいで、熱がこもりやすいのだ。


「これだけ気温が高いと、ああやって水気のある場所で昼間は過ごすのがいいのかしらね」


「夏は暑く、冬は寒い。昼は暑く、夜は寒い。京都というよりかは、盆地の特徴だけど、どう考えても人が住むのに適した環境じゃないと思う」


「夏が暑くて、冬が寒いのも、昼間は暑くて、夜間は冷えるのも、そんなの当たり前のことじゃない。盆地、私はけっこう好きよ。日本の四季がよく感じられて」


「よく感じられる四季は半分だけじゃないか。僕はもう残り半分の四季をできれば感じたいね。特に秋がいい。僕は一年中秋でいいよ」


「なんで秋なの? 春は嫌なの?」


「僕、花粉症なんだ。スギの」


「そうなんだ。奇遇ね。実は私もよ。でも私は秋より春の方が好き。なんだか暖かい感じがするから」


「それは気のせいだよ。春も秋も同じさ」


「私はそうは思わない」


 僕の言葉に彼女はまったく同意してくれない。

 しずしずと流れていく鴨川の上を歩いていると、たしかにさっきまでより若干涼しい気がしないこともなかった。だけどたぶんこれも気のせいだろう。


「うわ。あれなに?」


 それからしばらく歩き続けると、何やらカビ臭そうな古い建物が視界に入り、僕は好奇心に目を止める。

 雑多に散らかった印象を与える門構え。漆に近い黒茶の外観から木造であることがわかる。


「これはたぶん、学生寮じゃないかしら」


「学生寮? へえ。僕の想像通り汚らしいところだな。お風呂とかトイレとかあるの? あってもここのはあんまり入りたくない」


「貴方ってたまに、驚くほど軽率で失礼な発言をするわよね」


「君だって同感でしょ? 絶対建築以来掃除してないよ。賭けてもいい。もし掃除してるかしてないかだったら、君もしてない方に賭けるんじゃない?」


「……まあ、私もその二択ならしてない方に賭けるけど」


 そこまで言うと、僕と彼女は少し間を置いてから噴き出すように笑った。なんて失礼な高校生だろうか。寮に住まざるを得ない立場の大学生からしたら、とても不愉快な存在なのは間違いない。もっとも、それが掃除をしなくていい言い訳にはならないと個人的には思うけれど。


「大学病院が見えてきたわね。そろそろつきそう」


 彼女の言うがままのタイミングで左折し、進んでいくとそれなりの規模を誇る医療施設が現れる。

 僕はふと思い出す。彼女は医学系に興味があったが、今はすでに諦め、文系へと進路を変えていることを。彼女のようなタイプの文系は、いったいどんな専攻を選ぶのか少し気になった。


「そういえばまだ聞いてなかったけど、君って学部はどこを目指してるの? 文学部とか外国語学部とか?」


「京都だったら総合人間学部を受けてみようかなって考えてる。文学部も悪くないけどね。あと、外国語学部はなかったと思う」


「総合人間学部? なんなのそのインチキくさい学部は?」


「インチキ言うな。べつに普通の学部よ。ほら、私って根っからの文系のくせに、理科系の科目にけっこう興味があるでしょ? この学部は文理の垣根を払ってるっていうか、文理に囚われず色んな学問を教えてもらえるらしいの。だから、なんかそういうのいいなって」


「へえ。それはけっこう面白そうだね。君に似合ってる」


「本当? ありがと」


「べつに褒めてないよ」


「最低。捻くれ者。人の心がない人モドキ」


「そこまで言う? 貶したわけでもないのに」


 初めて耳にする蔑称を僕にぶつけて、彼女は口元を抑えて無駄に上品に笑う。

 中々に彼女も口が悪く、人格者とはいえない素質を持っていると思ったが、それを実際に口にする勇気は僕にはなかった。


「それで、どうするのよ。ここまで来たはいいけど、夏休みだし、本当になにも見られないんじゃない?」


「とりあえず構内に入ってみようよ。なんか面白いことあるかも」


「なんか面白いことって。なにそれ。ずいぶんざっくりとしてるわね。キャンパス内には入れても、学棟には入れないと思うんだけど」


 長期休業中とは言っても、学生たちの中には忙しい人もいるらしく、ぽつぽつと道も埋まっていて、隣接したグラウンドからは歓声のような悲鳴のようなよくわからないものが聞こえてくる。

 大学キャンパス内にはいとも簡単に、何の支障もなく潜り込めた。

 ここも数あるキャンパスの一つにしか過ぎないということで、さすがに規模の大きさは感じるが、やはり国公立、この前オープンキャンパスで行った私立大学に比べると建物自体はオンボロでみすぼらしい印象を受けた。


「京都っていうからけっこう派手なのかと思ったけど、案外地味なんだね」


「京都って聞いて派手だと思う方がおかしいのよ。だいたいこんなもんでしょ」


 僕の思考回路と感想にケチをつけながら、彼女は辺りをきょろきょろとしている。なんだかんだで興味はあるらしい。

 時期も相まって実に落ち着いた雰囲気だ。学問を追及するにはこれくらいでちょうどいいのかもしれない。もちろん、大学生の全員が、勉学のためだけに進学したとは思っていないが。


「外はだいたい見て回ったね。次は中に入ってみる?」


「勝手に入っていいの? 私たち部外者よ? そもそも入れるのかもよくわからないし」


「部外者っていっても高校生三年生。しかも君にいたってはここを受験するんだし、半分関係者みたいなもんでしょ」


「まだ受験するって完全に決めたわけじゃないから。それに受験するからってべつに半分関係者になるわけでもないと思う。だいたい中に入ったって講義とかやってないんだったら、あんまり意味ないわよ」


 普段はぐいぐいとひとり前に突き進んでいき、僕を力強く引っ張ってくれる彼女は、なぜかここに来て尻込みをする。変なところで気弱な一面を見せる人だ。

 ただ口では消極的なことを言って、半分僕の背中に隠れておきながら、微妙に僕のことを前の方に押している。暗にとりあえず僕に行けと言っている。

 結局彼女は好奇心を抑えられていないのだ。そのくせ自分では一歩踏み出す勇気がない。

 しかし彼女はどちらかというと、誰か他人に頼ろうとしたり、人任せにすることをしないタイプの人だとわかっていたので、背中を押されるのが少し嬉しかったりもした。


「あ、ちょっと、米倉君」


 その時、彼女が僕の名前を突然呼ぶので、ノミサイズの心臓が大きく跳ね上がる。

彼女は僕のことをめったに名前で呼ばないので、不意打ちのような感じで驚かされてしまったのだ。

 ちなみに僕の方も彼女のことを、有村さん、なんて名前で呼ぶことはほとんどない。それに関しては意識的に、なんとなしに恥ずかしいからという、小学生みたいな理由でそうしているのだが、彼女の方はおそらく違う理由でそうしているのか、そもそも意識すらしていないのだと思う。


「どうしたの?」


「ま、前」


「前?」


 僕は意味もなく顔を火照らせながら彼女の方に振り返ると、彼女は慌てて首を横に振って、顎を前に押し出すようにしゃくる。


「……君たち、ここになんか用?」


 頭に降りかかってくるのはどんよりとした重い声。

 前に向き直ると、そこには蒼白な顔をした見知らぬ青年がいた。

 死んだような目をして、僕と彼女をじっとりと眺めている。

 どうやらこの男の人は学棟から出てきて、そして怪しげに立ち止まって見覚えのない顔を挙動不審に揺さぶる僕たちに目をつけたようだ。


「す、すいません。僕たち高校生で、その、今日、ちょっと見学しにきてて」「……高校生? 受験生ってこと?」


「はい。オープンキャンパスに行きそびれちゃって、だから今日、雰囲気だけでも知れたらいいな、みたいな感じで来たんですけど……」


 ゾンビのようにげっそりとした顔は、眼光だけがやたらと爛々としていて気味が悪い。

 僕は自分の声が尻すぼみになるのを自覚しながら、面倒な人に捕まってしまったかもしれないと危惧していた。


「じぶん、名前は?」


「米倉です。米倉華です」


「あ、私は有村薫です」


 いきなり青年はかっと目を見開き、僕の名前を関西弁で訊く。

 助け船のつもりか、彼女も横から顔を出し自分の名を名乗った。

 すると無精髭の目立つ青年はこれまで青ざめ感情の抜け落ちていた顔を突如満面の笑みに変え、今度は馴れ馴れしく肩を組んできた。


「いやぁ、めっちゃいいタイミングで来たやん、米倉くん、有村くん。えんもたけなわ。ぼくが君たちを案内してあげよう。安心したまえ、ぼくは怪しい者じゃない。こう見えて一応大学院生だからね」


 えんもたけなわという言葉をまったく意味も使う場面も間違って使う青年は、心の底から嬉しそうな表情をしている。

 方向性こそ違うが、どうも面倒な人に捕まったかもしれないという危惧は現実のものになってしまったようだ。




 とりあえず不審者ではないだろうという自らの感覚を信じ、僕らはやたら歩くのが早い青年についていく。

 学棟に入ると造られたのが最近なのか、思っていたより新しく綺麗なエントランスに出迎えられた。そしてすぐ傍のエレベーターに乗り込み、青年は四階に到着した 一足先に廊下に出ると、嬉しそうに手招きをする。

 節電中なのか薄暗がりで静かな廊下に並ぶいくつかの部屋。その中で、扉の外に大小様々なパッケージをされた石が壁のように積もっている場所があった。僕はまさかと思ったが、案の定先ほどの青年はその壁の向こうに消える。


「ほら、入って入って」


 僕と彼女は一度顔を見合わせると、覚悟を決めたようにお互い頷き合い、灰色っぽい部屋の中へ足を踏み入れていった。部屋の表札には菱川研究室院生部屋とあった。


「お邪魔します」


「失礼します」


 外部とは違って、やや乾燥した空気。冷房が入っているのだろう。夏を忘れることができる涼しさだ。

 おそるおそる奥へ進んでいく。壁側は大量の書物で埋め尽くされた本棚で覆われていて、ところどころ珍妙なアイテムが置いてある。

 部屋の中央付近にはしきりのようにホワイトボードがたてられていて、そこには上質な紙を使ったカラフルな世界地図が広げられていた。


「あー、そこら辺に適当に座っていいよ」


「あ、はい」


「ありがとうございます」


 ホワイトボードの前にはプラスチックのテーブルと背もたれのない丸椅子が置いてあり、僕らは隣り合って座る。ボードの裏に回った青年はごそごそと何やらやっていて、その慌ただしい音が止まると今度は麦茶を二人分ついでくれた。


「さてと、君たちは高校三年生だったっけ? うちの大学を受験するつもり?」

自分の分の麦茶は用意しなかった青年も僕たちと反対側の椅子に座ると、にこにこと機嫌良さそうに喋り始める。第一印象で厄介な性格をした人間だと決めつけていたが、案外フレンドリーな性格をしているようだ。


 さっきの様子から想像するに、この人は今からどこかに向かおうとしていた途中に思えたが、きっとそれは大した用事ではなかったのだろう。


「はい。私は一応第一志望です」


「はあーん。そうかそうか。いいね。嬉しいね。学部は? どこ受けるん?」


「総合人間学部を受けようと思っています」


「ほーん、それは本当に? ぼくに気ぃ遣わんでええよ?」


「そんなことないですよ」


「あっそう。変わりもんやね」


 目尻の皺を濃くして青年は微笑む。院生と言っていたので年齢は二十代くらいのはずだけど、かなり頬が痩せこけているせいか実年齢より老けて見えているよう気がする。


「米倉くんの方は? 君もここを?」


「いや、僕は今のところここを受けるつもりはないです。今日は彼女の付き添いで来ました」


「へえ。残念。でも付き添いか。君たちは同級生? それともなんか、恋人とか、幼馴染とかそういう関係?」


「ただの同級生です。私たち同じくクラスになったこともないですよ」


「ほお。そうなんや。それは意外。いやはや、なんとなく仲が良さそうな感じしたから。べつに変な意味ではなくてね。ほら、なんというかなぁ、熟年夫婦みたいな雰囲気というか」


「そうですか? ねえ、どう思う?」


「どう思うって……僕に聞かないでよ」


 彼女はもうすっかり青年を警戒しなくなったのか、僕をからかう余裕まで取り戻している。いまだこの空気に慣れない僕は、最近無性に渇く喉を冷えた麦茶で潤すことしかできない。


「あー、忘れてた。ぼくの紹介がまだやった。ぼくは吉田晋平よしだしんぺい。総合人間学部なんちゃら研究科の院生で、専門は大雑把にいえば、そうやな、地球科学になるかな。君たちの学校では地学とか教わる?」


「地学ですか? いえ、必修科目にはなかったと思います。でも私は文系クラスなので、もしかしたら理系クラスの人はやってるのかも。やってる?」


「いや、理系クラスにも地学はなかったと思うよ」


「ほーん。あっそう。まあぼくも高校の時は地学なんて習わなかったけどね」


「そうなんですか? じゃあなんで吉田さんは地球科学分野の研究を?」


「晋平でええよ。うーん、そうだなぁ。なんでやったっけ。もう忘れたわ」


 就職をせずわざわざ大学院進学を選んだにも関わらず、あっさりとした態度で吉田さんは進路を決めた理由を思い出せないと言う。大切なことだからといって、覚えていられるとは限らないのだろう。


「まあぼく自身の紹介はこんなもんでいいか。もし大学院進学を考えている大学四年生の受験志願者が相手だったら、もうちょっと本気でぼくの研究室のことをセールスするんやけど、君たちはまだ高校生だからね。できるだけ色々な学問に触れた方がいい。なるべく視野は広くね」


 吉田さんは一度ぱんと手を叩くと、腰を上げる。なんでもガイドよろしく大学構内の様々な場所を説明して回ってくれるらしい。

 大学院生なんて多忙なイメージしかないが、吉田さんは例外的に暇なのだろうか。こんなに僕たちに親切にしてくれるなんて。


「大学といえばやっぱり研究だからね。実験室を見せて差し上げよう。物珍しくて面白いかもしれんし」


「ありがとうございます。でもいいんですか?」


「大丈夫大丈夫。問題があっても困るのはぼくだけだよ。なんの心配も要らない」


 心配がまったく解消されない言葉を残し、吉田さんはまた先に廊下へ出る。彼女は急いで出された麦茶を飲み干すとそれに続く。夏バテのせいか、少し眩暈のする僕も、二人にやや遅れて部屋を後にした。


「これ、なんの石なんですか?」


「ん? あー、それね。それはこの前、南極に行ってきて取ってきた石だね。ぼくの研究は岩石を対象にして進めることがほとんどなんや」


「南極ですか。私もいつか行ってみたいです」


「へえ。本当に? ならうちの研究室に来るといいよ。運が良ければ派遣してもらえるから。まあ、運が良ければ、だけど」


「考えておきます。まずは入学できたらの話ですけど」


「大丈夫大丈夫。ぼくにはわかるよ。有村くんは受かる。まあ、ぼくの研究室に来てくれるかはわからんけど」


 朗らかに吉田さんは笑う。笑顔の絶えない人だ。それにしても彼女は凄い。もう初めて会う大学の人とそれなりに仲良くなったみたいだ。

 少し置いていかれている気分の僕は、はるばる地球の南端からやってきた黒鼠色の石をぼんやりと眺め、ちょっとした仲間意識を持った。


「実験室はこっち。土足厳禁だから、スリッパ履いてな」


 廊下の向かい側の、思っていたより近くに実験室はあった。靴を脱ぎ中に入ると、何か精密機械工場のような景色に僕は小さく驚いた。


「ここでは岩石の中に記録された磁気を測ったりするんや。岩石に磁気が記録されているのは知ってる?」


「はい。なんとなく聞いたことはあります。たしか、昔は今とN極とS極が反対だったりとか、そういうのですよね?」


「はあ。地磁気逆転を知ってるんや。いやはや嬉しいね。そうそう。そういうのだよ。有村くんはそっちの方面にも関心があるの?」


「はい。私、頭は文系なんですけど、理系科目にもけっこう興味があって」


「そうなんや。まあ、ぼくは文系脳とか理系脳、とかそんなもんはないと思ってるけどね。もし自分が何に関心があるのかはっきりとわかってるなら、真剣にその方向を学んでみるのも面白いと思うよ。今ぼくが言った、学ぶっていうのは、受験勉強とかそういったものではなくて、知識を増やすっていう意味な。知識は理解を助ける。そして理解は君を助ける」


 談笑に盛り上がる二人から少し離れて、僕は一人で勝手に実験室を見回していた。白を基調とした清潔な部屋だ。

 ふと照明が眩しく感じ、僕は目を細める。先ほど麦茶をご馳走になったばかりなのに、僕はもう喉が渇き始めていた。


「こういった学問は狭義的な言い方をすれば、岩石磁気学とでもいうのかな。米倉くん、じぶんはどう? こういうの興味ある?」


「……いや、すいません。あんまり詳しくないです」


「あっそう。それは残念。でも君みたいな子の方が多数派なんだよねぇ」


 ふいに投げかけられた吉田さんの言葉を適当に受け流しながら、僕は自分がやけに気乗りしない気分になっていることに気づく。理由はわからない。僕は不機嫌だった。


「まあだいたいこんなもんかな。じゃあ次行こか」


「はい」


「あ、その前にちょっと煙草吸って来てもいい?」


「え? あ、はい。大丈夫です」


「すまんね。というか君たちは二人とも吸わんの?」


「私たち、未成年ですよ?」


「あー、そうやった。忘れてたわ」


 一通り実験装置を説明し終わると、吉田さんは言うが早いか部屋の外へ出て行ってしまう。彼女は気になることがあるのか、まだ少し名残惜しそうにしていたが、特に何も言わずその背中を追った。

 そんな二人を眺めながら、僕は不思議な光景を幻視した。それは今より幾分か伸びた髪をポニーテールにまとめ、白衣を着こんだ彼女が吉田さんと隣り合う光景だった。

 心臓に鈍い痛みが走る。僕はやっと自分が不機嫌になった理由を理解した。

 僕は、たぶん嫉妬しているんだ。

 今から一年後、彼女の隣りに僕はもういなくて、代わりに吉田さんがそこに立っているであろうことを、そこに特別な関係性が存在しないとわかっていても、僕は羨み、そして妬んでいた。




 実験室を出て、そのまま学棟を出た後も、吉田さんは色々な場所を紹介してくれた。

 どうやら僕らの想像以上に優しく、親切な人に運よく出会えたらしい。他のキャンパスまで軽くではあっても、一緒に回ってくれるとは思わなかった。

 やがてだいたいの説明が終わった頃、吉田さんのスマホが頻繁に鳴り響くようになった。それを意図的に無視していたが、そのうち限界が来たのか、吉田さんは心底残念そうな顔で僕たちを見送ると言ってくれた。

 なんでも用事が実はあったのだが、あまり気乗りしないものなので、行かなくて済む言い訳を探していたらしい。

 つまりその言い訳こそがあてなく敷地内をうろつく関東からやってきた高校生、もとい僕たちのことだ。

 もっとも、僕たちがその用事とやらをネグレクトする言い訳になるのかどうかは怪しいところだったけれど。


「すまないね。できればもうちょっと普通の人は知らない、ディープなところを紹介したかったんやけど」


「いえ。今日は本当にありがとうございました。そのディープなところは、入学した後の楽しみにとっておきたいと思います」


「せやな。そうしよう。来年の四月を楽しみにしておくわ」


 僕と彼女は揃って頭を深く下げる。実際のところ、感謝してもしきれない。言い訳に使われるのだとしても、僕たちが助けられたことには変わりなかった。この大学の学生は変人ばかりという偏見を持っていたが、それは間違いかもしれない。

 もちろん、電話がひっきりなしにかかってくるほどの用事より、高校生の大学見学を手伝うことの方を優先させるという判断に疑問符はつくけど、僕はそれを美徳と思うことにした。


「米倉くん。米倉華くん」


「はい。なんですか?」


 別れの挨拶もそこそこに、立ち去ろうとする僕に、吉田さんは真剣な表情で呼びかける。一番最初の感情の抜け落ちた顔でもなく、これまでずっと保たれていた明朗快活な微笑みでもない。今日初めて見る表情だった。


「じぶんもうちの大学に来なさいな。そんでできれば、ぼくの研究室に入ってくれないかな。ぼくにはなんとなくわかるんよ。君とぼくは仲良くなれる。君のその、米倉華っていうかっこええ名前は、ぼく、忘れへんから」


「……わかりました。考えておきます」


 僕がそう言うと、吉田さんは安心したように笑った。この人のもっとも得意な表情だ。

  隣りの彼女は、そんな僕らをどこか切なそうに、泣きそうな目で見やる。でもそれもすぐに掻き消して、彼女もまた輝くような笑みを浮かべた。


「晋平さん、私のことは勧誘してくれないんですか?」


「ごめんごめん。でもこっちもなんとなくわかるんよ。たぶん有村くんは、もしぼくのところに来ても、すぐにまたどこかへ行ってしまう人や。もちろん来てくれたら嬉しいけど、その分ぼくを寂しくさせる」


「さすがですね。当たってますよ」


「そ、そんなことないわよ。適当なこと言わないで」


 僕と吉田さんは目を合わせて笑う。

 それが恥ずかしかったのか、彼女は口をへの字に曲げて頬を赤くしていた。

 そしてまた吉田さんのスマホがぴこぴこと音を鳴らし、今度こそ僕たちは見た目こそ風変りだが世話好きの大学院生に別れを告げる。




 喧しい蝉の鳴き声はまだ聞こえていた。気温はゆっくりと、それでも確かに下がってきていて、また日が一つ落ちていっているのがわかった。

 その後僕たちは食べ損ねていた昼食を取ろうと近くの定食屋に入り、あまり京都らしくない食べ物を二人して注文した。

 食事が終わった後も、僕たちは満腹の余韻からか動く気がせず、だらだらととりとめのない会話をして長い時間を過ごした。

 そのうち、さすがにそろそろ店を出ようと彼女が言うので、僕は筋肉痛のように重い身体を持ち上げた。そして先にお土産を買っておこうと今度は僕が提案し、いくつか店を巡り、それぞれ少なくない量の土産を購入した。

 するといつの間にか日はすっかり暮れてしまい、空を見上げると絹織物の染料に使えそうなほど鮮やかな茜色が広がっていた。


「すっかり時間が経っちゃったわね。もうそろそろ京都駅の方に行かないと」


「全然京都を観光できなかったなぁ。大学をうろちょろして、ご飯を食べて、お土産買っただけだよ。清水も金閣銀閣も稲荷も見れてない。君の物件探しも収穫なしだ」


「仕方ないじゃない。また来ればいいわ」


「また、ね。もう僕にここに来る機会なんて思うけど」


 僕の不用意な発言に傷ついたのか、彼女は痛みを我慢するような表情で立ち止まる。

 これから地下鉄に乗り、京都駅に戻り、そこから新幹線に乗ってしまえば旅は終わってしまう。きっと僕と彼女が一緒にこの街に戻ることは二度とない。

 それは彼女もわかっているはずだ。でもたしかに、それを改めて口にする必要はなかったかもしれない。

 僕は、この夏が終わればいつ死んでもおかしくない。

 本当はわかっていた。最近やたら喉が渇くのも、疲れがたまりやすいのも、全部夏の暑さのせいじゃない。むしろ反対だ。夏の終わりが近づいているのがその原因だろう。

 その事実を再認識させる言葉は、もうすでに彼女だけでなく、僕自身も傷つけるようになってしまっていた。


「ねえ、少し、休まない? 私、ちょっと歩き疲れたの」


「奇遇だね。僕も疲労困憊で倒れ込みそうになっていたところだよ」


  鴨川まで戻ってきたところで、僕と彼女は休憩を取ることにする。

 夕暮れの匂いがする河川敷で、なるべく人がいないところを選んで二人で座り込む。

  少しだけ肌寒い。

 川から吹いてくる風が冷たいせいだろうか。僕はまた体調の悪さの理由がわからないふりをした。


「晋平さん、いい人だったね。貴方のことも気に入ってたみたいだし」


「そうかな。君の方が仲良さそうに見えたけど」


「そんなことないわよ。貴方のこと、自分の研究室に誘ってたじゃない」


「まあ、そうだね。僕を誘っても意味ないのに」


 会話がそこで途切れる。きっと僕のせいだろう。

 でもそうでもしないと、もう僕は自分をコントロールできなくなってしまいそうだったんだ。

 彼女と言葉を交わしていると、隣りにいると、時々、自分がこの先もなんてことなく普通に生きて、これから先もずっと変わらずに過ごして行けるように錯覚してしまう。


 でも、それは違う。


 僕は死ぬ。

 もうすぐ、死んでしまう。

 夏は終わる。

 これ以上、彼女と一緒に先へはいけない。


「私、来年の四月も、貴方と一緒にいたい。来年の夏も、貴方と一緒に過ごしたい。私、まだ貴方と離れたくない」


「それは無理だよ。僕は死ぬんだ」


 僕は残酷な言葉で、彼女を突き放す。

 呼吸をする度に、左胸の奥がひしひしと痛んだ。


「なんでそんなこと言うの。死ぬなんて言わないでよ」


「だって本当のことだろう。君は僕に嘘をついて欲しいの?」


 茜色の空には灰雲一つない。

 それにも関わらず、ぽつり、ぽつりと水滴が僕の頬を打ち始めている。

 夏に相応しい、晴天のままの驟雨。

 雨が、振り出しそうとしていた。


「……私、夏が終わったら貴方がいつ死んでもおかしくないと知ってから、毎日が息苦しい。夜が寝付けなくなった。朝が来るのが怖くなった。毎日貴方のことばかり考えて、その度に胸が痛んだ。貴方の顔を見ると、貴方と喋ると、貴方の声を聞くと、全身を掻きむしって叫びたくなってくる!」


 雨の予兆はなかった。

 いや本当はあったはずだが、きっと僕は気づかないふりをしていたのだろう。

そんなにわか雨は、どんどんと勢いを増していく。


「でも、貴方の前じゃ私はそれを隠してきた! 必死で何も気にしてない振りをしてきた! 貴方の前では、これまでと変わらないように振る舞ってきた! それなのになんでよ!? なんで貴方は簡単に死ぬなんて言うのっ!? 私が舌を噛み締めて、むりやり忘れようとしてることを当たり前みたいに口にしないでっ! 本当はわかってるくせにっ! 私がどんな気持ちで貴方の傍にいるのか! 本当は全部気づいてるくせにっ! なんで全部知らないふりして私の前で楽しそうに笑うのよ!」


 雨の猛威は加速度的に増していき、僕の頬へ殴りつけるように打ちつけてくる。

 僕は傘を持っていないから、雨を避ける術を知らなかったし、今はびしょ濡れになりたい気分だった。


「こんな気持ちになるなら貴方のことなんて知らなければよかった! なんで私のこともっと強く拒絶してくれなかったのよ! どうして私のことを受け入れたの!? いつまで私は貴方の痛みを知らない振りをすればいいのっ!? 貴方はいつまで私の痛みに気づかない振りをするつもりなのっ!?」


 重い雨粒は容赦なく僕に降り注いでくる。

 水滴が弾け、身体中の熱が奪われていく。


「私、貴方が嫌い! 大嫌い! 貴方の顔が嫌い! 貴方の声が嫌い! 貴方の優しいところが嫌い! 貴方のいつも私を笑わせるところが嫌い! 貴方の一緒にいると心が落ち着くところが嫌い! 貴方とならどこへだって行けそうな気がして嫌い! 貴方が、貴方が、私は貴方が、嫌い、なのよ……」


 彼女の言葉が、僕に痛みを与える。

 ナイフより鋭く、深く、僕の心に突き刺さる。

 だけど、僕はそれでよかった。

 きっと僕はずっと、痛みを欲していたんだ。

 僕は長い間、自分の運命を否定してくれる人を待っていた。



「……ううん、嘘。全部、嘘。私、貴方が好き。米倉華が好き。大好き。だから貴方がいなくなるのが嫌なの。お願い、死なないでよ」



 僕はずっと、長い間、首を長くして待っていた、僕がかつて選べなかった物語の結末を選んでくれる人を。

 夏の終わりがもう目の前でやってきてしまったのだと気づいてしまった僕は、そして彼女に、僕にまつわる物語の全てを伝えることにする。




 水面に沈めていた顔を上に傾ければ、緋色の空の片隅に月がみえた。

 綺麗な満月だった。

 通り雨は通り雨らしく、嵐のようにやってきて、また嵐のように去って行った。

 すでに天候は回復していて、さっきまでの豪雨が嘘のように空は静かだった。

 そして僕は調子のいまいちな頭を必死にこねくり回し、僕にまつわる物語について正確に伝えられるようまとめていく。

 よくある話でもないし、多少傲慢で、もしかしたら彼女を不愉快にさせる話かもしれない。

 だから僕は悔いがないように、なけなしの言語能力を精一杯稼働させた。


「君は、僕たちの高校に有名なジンクスがあるのを知ってる?」


「いえ、知らないわ。貴方が私は転入生だってことは知ってると思うけど」


「そっか。知らないか。まあ、でもそれは君が転入生だってことを差し引いても仕方がないことだよ。だってそのジンクスを知ってるのは今のところ僕だけで、他の学生たちの間で有名になるのはもう少し先になるはずだからね」


「なにそれ。意味わかんない。それは有名って言わないでしょ」


「これから有名になるんだ。言葉のあやだよ」


「はいはい。それで? どんなジンクスなの?」


 彼女の、おそらく僕が想像できないような勇敢さを持って口にされた告白の言葉を無視して、話題をまったく別のものにする。

 それでも彼女は期待通り、何の不服もなく僕についてきてくれた。彼女は優しい人だった。


「それはね、僕らの高校の学力試験で総合順位一位を取ると死んでしまうっていう、ちょっとホラーチックなジンクスなんだ」


 はっとした表情で、彼女が息を飲む。

 僕はたしかに彼女からの告白の言葉を意図的に無視したけど、それは聞こえなかったわけでも、返事に困ったわけでもない。

 これが僕なりの返答で、感謝の言葉で、謝りたかった想いだった。


「君は、橘咲たちばなさき、っていう名前を聞いたことある?」


「……ないわ」


「やっぱりないんだね。もしかしたらタブーになってるのかもしれない。名前以外は目立つ子でもなかったし」


「誰なの? その、橘咲って子は?」


「彼女は僕たちの同級生さ。それも頭の良い同級生だった。彼女にペーパーテストで敵うやつは、僕も含めて誰もいなかった。まあ、元、同級生なんだけどね」


「それって……」


「そうだよ。その子も死んじゃったんだ。高校一年の冬、目障りなくらいの快晴が広がったクリスマスの日に、彼女は病気で亡くなった」


 橘咲。

 僕は今から二年前、偶然仲良くなった一人の少女のことを思い出す。

 初めて出会った場所は病院だった。今思えば、あの時点で病魔に侵されていたのだろう。想像力が貧困な僕は気づけなかった。

 どっかの誰かに橘咲が亡くなったという知らせを受けるまで、僕はずっと知らないままだった。


「……仲、良かったの? その子と」


「悪くはなかったよ。むしろ世間一般的な基準からいえば、仲の良い方だったと思う。彼女と僕は沢山の会話をしたし、一緒に様々な場所に行ったし、長い時間を共に過ごしたからね」


「……なにそれ。自慢?」


「べつにそんなんじゃないよ。だいたい君が訊いてきたんでしょ?」


 僕と橘咲はクラスが違ったということもあって、頻繁に会って話す機会はなかった。

 それでも不思議と馬が合った僕たちは、たまに会うとどこかに遊ぶ予定を立て、もっぱら外で一緒に過ごしていた。

 後から知った話だが、橘咲は元々身体が弱く、学校も休みがちだったようだ。

 だからもしクラスが同じでも、学校内で話す機会はどっちみちあまりなかったかもしれない。


「……その子のこと、好きだったの?」


「そうだね。あの頃はよくわからなかったけど、たぶん、好きだったんだと思う。あと、彼女の方も、僕のことが好きだったんじゃないかな」


「……自信過剰じゃない?」


「その自信の源は君だよ」


「……うるさい」


 僕と橘咲の関係性は、非常に曖昧で不明瞭なものだった。

 だけどきっと、互いにそれを望んでいたのだろう。僕は自分の命が長くないことをもう知っていたし、橘咲も偶然にも僕とまったく同じ状況だった。

 互いの気持ちを確かめ合ってしまえば、実感が生まれ、痛みを知ってしまう。

 あの頃の僕たちは、ずっと気づかないふり、知らないふりをしていた。そうすれば何も怖くなかったから。


「でもさ、彼女は最後まで僕に教えてくれなかったんだ、病気のこと。彼女が死んだと知ったのも、しばらく後のことで、本人の口からじゃない」


「……でもそれ、貴方もでしょ?」


「うん。そうだよ。僕も教えなかった。彼女には何も伝えなかった」


 橘咲が死んだと知らされたとき、僕は涙こそ流さなかったが、とても悲しいなと思ったことをよく覚えている。こんな月並みな感想だと、まるで僕が感情に乏しい冷徹な人間のように思うかもしれないけど、そういうわけじゃない。

 僕はただ、実感がわかなかっただけなんだ。そして、それは今も同じで、それだけが唯一の心残りだった。


「いつも僕のことを遊びに誘うのは彼女の方だった。その時は何も疑問に思わなかったけど、彼女が死んだと聞かされたあと、僕はそれを不思議に思ったよ。なんで死ぬ直前になって、僕なんかと遊んでくれてたのかなって。前に言ったでしょ? 死ぬのが怖くなるから、人を遠ざけるべきだと僕は考えてるって」


「その子はそう思わなかったんでしょ。死ぬのが怖いから、貴方を心のよりどころにしたのよ」


「うん。そうだね。今ならわかる。たぶん君の言う通りだ。もしかしたら彼女は僕と違って、猶予の少ない病気だったのかもしれない。だから最初から怖かった。だから、僕を、隣りにいる誰かを必要とした」


 夏休みが始まる少し前、僕が彼女を、有村薫にデートの約束を取り付けたのは、橘咲との関係性を再現するためだった。

 死の直前に気の合う同級生と一緒に時間を過ごす、橘咲が何を考えてその選択肢を選んだのか、それが僕は知りたかった。

 きっといい迷惑だっただろう。傲慢が過ぎる計画だ。だけどおかげで僕は真実に辿り着けることができた。感謝の言葉しかない。


「ありがとう。君のおかげだ。君のおかげで、僕はやっと彼女の気持ちを理解できた。いや、それだけじゃない。君がいなかったら、僕は自分の気持ちにも気づけないままだった」


「……どういたしまして。あんまり嬉しくないけどね」


 彼女は困ったように笑う。僕はそんな彼女を真っ直ぐと見つめ返す。すると困惑に羞恥が混じり、彼女の頬が夕日と同じ色に染まった。

 今度は気づけたんだ、知れたんだ。

 だからもう怖れることを怖れない。

 実感に気づきたい。

 痛みを知りたい。

 橘さん。やっと君がどうして僕に手を差し伸ばしたのか、わかったよ。

 最初から一人ぼっちなら、失うものなんて何もない。だから僕は全てを遠ざけたし、そうすれば何も怖くなくなると思っていた。

 なのに死を目前にした君は、どうしてか僕が傍にいることを望んだ。

 とても不思議だった。理解できなかった。

 だってどうせ失うのに。最後は一人ぼっちになるのに。

 でも僕はやっと気づけたよ。君には悪いかもしれないけれど、本当の意味で好きな人ができたんだ。


「……なに?」


「……なんでもないよ」


 よく考えてみれば、早いか遅いかの違いがあるだけで、どうせ最後はみんな死んでしまう。

 心のどこかで、僕は自分や君が特別な人間だと思っていた。

 不幸な運命に見舞われた、生きることを許されない悲劇のヒロインだと思い込んでいた。

 だけど、きっと違うんだ。

 僕らは悲劇のヒロインじゃない。僕らはちゃんと生きることを許されていた。

 君はきっと、幸せだった。

 決して悲劇なんかじゃない。ハッピーエンドを迎えていた。

 橘さんは、僕と一緒に笑うことで、その瞬間はたしかに生きていた。

 反対に僕は、君がいなくなってから、彼女に会うまでずっと、死んでいた。

 たぶん君は自分が死ぬことは受け入れていたけれど、僕が死ぬ日のことなんて夢にも思わなかったはずだ。

 そして、それは今の僕も同じ。

 だから僕は、きちんと伝えるよ。

 僕にとっての生きるということを。ジンクスはこれで終わりだ。


「……だからなに?」


「わかったよ。今、伝えるさ」


 僕にまつわる物語の全てを伝え終えた僕は、もっとも大切で、これまで伝えそびれていた言葉を幕引きとして紡ぐ。

 過去も、未来も、今だけは忘れて、僕にしては珍しく、夏が終わる前に、蝉の鳴き声が聞こえなくなる前に、素直に自分の想いをそのままに言葉にした。



「僕、君が好きだ。有村薫が好きだ。大好きだ。これは全部僕の本当の気持ちだ。嘘は何一つない。だから君はジンクスに負けないで欲しい。頼むから、君は死なないでくれ」


 ジンクスにしては前例が少なすぎるし、彼女が死ぬなんて微塵も思っていない。

 僕は、彼女に、彼女の命を案ずる言葉をかけた。

 生きていて欲しいと想う人の、隣りに寄り添う。

 それが僕にとっての、生きるってことだ。手に入れる必要も、失う必要もない。

 ただ、寄り添い、願うだけ。

 これまで自分の命さえどうでもいいと思っていた僕が、他人の命を案じている。

 これは驚くべきことだ。僕はずいぶんと久し振りに自分のことが好きになれた気がしていた。



エピローグ



 彼が死んでから、だいたい一年が経った。

 窓越しに山を明るく染める紅葉を眺めながら、去年も似たような景色を彼と一緒に見たことを思い出す。


 そういえば私と違って、彼は紅葉が見えるこの季節が一番好きだったっけ。


 だけどそんな彼はもういない。耳障りなくらいだった蝉の鳴き声が聞こえなくなった秋の日に、彼は病死してしまったからだ。

 夏休みが終わった後、彼の容態は急激に悪化して、学校にもまったく来れなくなってしまった。

 病名だって教えてもらっていたし、彼自身そうなると言っていたから、驚きはそこまで大きくなかった。

 私はやはりそんな彼を見るのがつらくて、何度も泣いたし、胸が痛かった。

 当時の私は受験生だったから、彼にも毎日会うわけにはいかなくて、その距離が私を苦しめた。


 でも彼はいつも笑っていた。本当は誰よりも怖くて、痛くて、寂しいはずなのに、優しく笑っていた。


 たしか初めて彼に興味を持った理由は、単純な筆記試験だけには自信があった私が試験で二番の順位を取り、一番目にいる人がどんな人なのか気になったというものだったはず。

  だけどそんな彼と何度も顔を合わせるうちに、私の興味は段々と内的な部分に引き寄せられていった。ただの目の上のたんこぶから、彼は私の目をくらませる存在へと変わっていったのだ。

 彼が死んだと知ったとき、私は周囲の目もはばからず泣き喚き、悲しさと、痛みと、寂しさで胸が張り裂けそうになったことをよく覚えている。大袈裟かと思うかもしれないけど、それだけ私は彼のことが大好きだったし、彼もまた私のことを大切にしてくれた。


 無事大学生になった私は、今京都駅で彼の妹さんを待っているところだ。休みの度によく、私が一人暮らししている家に遊びに来る。彼女は私と彼と同じ高校に入学したので、私はもう卒業してしまっているけど、一応後輩でもあった。

 彼女を待っている間、私は自動販売機で購入した缶コーヒーを飲んで時間を潰す。隣りで甘いミルクティーを美味しそうに飲む彼がいないせいか、彼がいなくなってしまったのだと私は改めて実感する。

 でも、それは今だけだ。彼が望んでいた通り、悲しさも、痛みも、寂しさも、この口に広がるほろ苦さと同じように、じきに薄まって消える。

 そうだ。来年の夏は、去年彼と一緒にいったあの竜がいる洞窟に行こう。この前は選べなかった道を、今度は選んでみよう。もう彼はいないけど、それでもまた夏が来る。それこそ、今年も来たように。

 結局最後まで私に、彼は――米倉華はサヨナラをいわなかった。だけど私にはその理由がわかっていたから、べつに寂しいとは思わなかった。


 ……ううん、嘘。本当は、それでもやっぱり寂しいと思ったかな。




(了)

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米倉華はサヨナラをいわなかった 谷川人鳥 @penguindaisuki

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