番外編:恋人になって少しあと




「美味しい?」

「……うん」


 頷くと、すぐ横で、彼の綺麗な顔がこれ以上なくほころんだ。

 私の手にはフォーク。そして食べているのはパンケーキ。なんと彼が焼いたものである。


「よかった。練習したんだ。あなたに食べさせたくて」


 無理しなくてもいい、という言葉は飲みこむ。そういう気遣いは、喜ばれない気がする。何と返すべきなのか、彼の表情を窺いながら考える。


「ありがと……」


 私らしくなく、小さくぼそぼそと答えた。たぶん、声で照れているのがばれてしまう。もっと嬉しそうに答えたいのに、上手くいかない。

 いたたまれなくて一旦視線を外したあと、ちらりと彼を見る。

 彼は相変わらず甘ったるい感じの表情でこちらを見ている。喜ばれるような反応を返したいけど。


「もっと食べて」

「ええ」


 結局できるのは、言われた通りパンケーキを食べること。

 緊張する。彼は緩んだ顔をしているのに、捕食者のような油断のならない瞳でこちらを監視しているようにも感じる。食べ物を差し出されて、それを味わっているのは私のほうなのにな。




 彼がすべてを捨てて、私に攫われてもいいなんて言ってくれてからしばらくして。

 私はまだ、彼を攫えないでいた。


 すべて承知の彼に告白された私は、死ぬほど驚いて、そして完全に冷静な自分を取り戻してしまっていた。

 たぶん、慌てるようなことが起こったとき、近くに自分よりパニックになっている存在がいると、不思議と落ち着いてしまう現象に似ている。


 相変わらず、彼は頻繁に私の家を食べ物片手に訊ねてくる。そろそろ屋敷に一度戻ると言った彼を見送ったあと、私は小さくため息をつきながらソファに沈んだ。

 隣にするりと体を寄せてきたクロを、優しく撫でてやる。


「浮かない様子だな。どうした。何か不満でもあるのか?」

「不満なんてないわよ。ただ、思っていた以上のものが返ってくるの、慣れなさすぎて、どうすればいいかわかんないっていうか」


 彼がやたらと食べ物を用意してくれるのもそうだ。ただただこちらが喜ぶのを期待するようにして、好きそうなお菓子やお酒を持ってくる。それどころか、自ら作って振る舞ってくれる。

 差し入れを持ってくるのは前からだけど、渡すとき、私が食べるとき、感想を訊くとき……すべてにおいて前と様子が違う。あまりに嬉しそうで楽しそう。わざと見せつけているのではないかとさえ疑いたくなるほど、あからさまだ。

 好きだという気持ちをそんな風にぶつけられた経験がなくて、正解の反応に迷う。


 ただ素直に、彼がそうしたいと思っているんだな、で終われたら可愛いんだろうけど。普段のくせで隠された真意がないか探ろうとしてしまうし、自分はどう行動するのが正解か、とか考えてしまう。

 それにあの目。彼の優しい表情の中に鋭いものを感じることがある。敵意だとは感じない。でも一体、私のどういう反応を期待しているんだろう。


 間違った対応をしてがっかりさせたくない。

 だけどこういう考えを持つこと自体、だめなんじゃないかと思ったりもする。

 冷静に自分の行動と相手の反応を考えながら付き合うのって、本当の恋人同士とはちょっと違うんじゃないだろうか。本当の恋人って、もっとこう、互いに好きって気持ちだけで成立する不思議な関係っていうか――よく知らないけど。


 恋愛って、成就するまでが一番難しいゲームのようなものな感覚だった。それなのに、好意を確認しあえた今の方が思い悩んでいる。なんでだ。


「あいつの好意が煩わしいか?」

「そんなわけないでしょうが」

「なら問題ない。さっさと海のある国とやらに旅行に行こう。美味い魚介類を食べたい。……あいつだって、自分を攫ってくれって言っただろ」

「クロまでそういうこと言う」

「お前が妙なところで常識ぶるのは、予想外だったぞ」


 彼を攫えないでいるのを、からかわれる。

 でも仕方ない。攫ってくれていいなんて笑顔で言われた衝撃で、抱えていた悩みがどこかへ吹っ飛んでしまったのだ。そのせいか、そのまま二人で消えました、なんて物語の結末は作れず、周囲への根回しをそれなりにしてから旅に出ましょうって結論になってしまった。

 互いの気持ちが落ち着いたあと、そう提案した私に、彼は相当に複雑な顔をしていた。それでも同意してくれて、今に至る。


「一人で過ごした時間が長すぎるのも問題なんだな」

「どうしてよ」

「変な悟り方してるからだよ。勢いのまま突っ走ると思ったのに。これはこれで、拗らせてんのかね」


 後半はぶつぶつと独り言のように文句を言っている。


「冷静って言ってくれない? 一周回って落ち着いちゃった感じなの」


 文句を言ったら、クロは納得いかない様子でにゃあと鳴く。


「冷静。冷静ね」

「なによ、違うって言うの?」

「一周回ってるんだから、一周回ってない状態とはやっぱり違うと思うぞ」

「意味わからないんだけど」


 疑問符を浮かべてクロを見るけど、それ以上は答えてくれなかった。


     ***


 いつものように森にある彼女の家を訪ねたら、珍しく留守だった。用事で家を空けているが、すぐに帰ると書置きがある。

 恋人同士になってからは、自分がいなくても勝手に家に入っていいと言われていて、俺のほうも慣れていた。


 今日持ち込んだのは、彼女が好きだといっていた酒とチーズ。テーブルにグラスを並べて準備をしていたら、クロが声をかけてくる。


「楽しそうだな」

「これ以上なくね」

「ロクなこと考えてなさそうだけどな」


 笑うようにクロがにゃあと鳴く。俺は否定せずに用意を続けた。


 自分の用意したものを彼女が食べる。俺の捧げたもので彼女が構成されていく。それが嬉しい。自分でもどうしようもない独占欲を発散させる、一つの方法だった。

 言ったら引かれるかもしれないので口にはしない。彼女には。クロに関しては、言わなくてもばれている気がする。


「箍が外れた自分が、こんなに厄介だとは思わなかった。クロ、俺がやりすぎそうなときは指摘してくれよ」

「指摘したら反省して改めるのか? 無理だろ。まあ、無理なほうがあいつにはお似合いだがな」


 そうだろうか。

 俺は手を止めて、ふと物思いにふける。

 ここのところ、自分の思考は危ないんじゃないかと感じることがある。


「例えば――例えばの話なんだけどさ。俺がもし毒を差し出したら、彼女は食べるのかどうかとか……そんなことを考えていても、お似合いか?」


 もしも、の話だ。もし、俺が食べ物じゃなく毒を用意したら、いつもと変わらず笑顔で渡したら、どんな反応をするんだろう――?

 冷めた目ではねのけるのか。それとも、内心では引いていても、俺のためにと一度は受け取ってくれたりするのか。さすがに口にはしないだろうけど。


 なぜそんな物騒なことを考えてしまうのか、自分でもわからない。

 無理やり理由づけるとしたら、たぶん俺の抱える彼女への気持ちが大きすぎて、どうぶつけていいのか、迷っているせいだろうか。

 俺の面倒な感情を、どこまで受け入れてくれるのか、まだ完全には読み切れないところがある。だから探り探りなところもあって、今の自分は、気持ちを全部ぶつけて満たされた状態とはいえない。

 攫っていいと言ったのに、結局はある程度の根回しが必要だとか落ち着いたことを言うし。

 だから極端なことを考えて気を紛らわせているのだ。相当やばい方向性だけど。こんなことを考える自分自身が、彼女をむしばむ毒になってしまったらどうしようか……。


「毒、盛る気なのか?」


 威嚇されるかと思ったら、案外クロは普通だった。


「まさか。ただそういう想像をしてしまうだけだ」


 俺の方はちょっと落ち込んで返事をする。想像でも、彼女を傷つけるようなことを考えるなんて情けない。


「お前のほうが見た目と同じ年齢な分、勢いで突っ走れそうだ。頑張れよ」

「どういうことだ?」


 聞き返しても、クロはにゃあとしか答えてくれなかった。




 ソファに並んで座り、持ってきた酒を味わう。彼女に感想を聞くと、いつも通り満足そうな答えが返ってきた。


「あなたの用意してくれるものは、すべて美味しいわ」


 彼女の笑う顔は、ほんのちょっと不自然に強張っていた。最近気付いたが、これは彼女が照れて自分のペースを掴み損ねている証だ。

 いつも冷静そうな彼女が、ペースを乱すほど自分を意識してくれていて、なおかつ俺のために笑顔を作ってくれているのだと思うと、言葉にできない感情が湧いてくる。愛しいとか、嬉しいとか、あとはよくわからない焦りとか。とりあえず、嫌な気持ちはまったくない。

 強張った笑顔に喜ぶなんて、我ながら悪趣味だと思う。彼女と恋人になるまで、自分にこんな一面があるとは思わなかった。


 脳裏に、さっきクロと交わした会話がよぎる。

 酔っていたせいもあるだろう。もう少し踏み込んでみようと思った。


「いつか、俺が毒を盛ったらどうする?」


 彼女はきょとんとした顔をした。当然だ。俺が毒を盛るなんて状況、考えてもみないだろう。

 失敗したかな、と思いつつ「冗談だよ」と誤魔化すけど、彼女はなんてことないように笑った。むしろその目に、どこか楽しげな色が乗った気がする。


「残念ながら、私、生半可な毒じゃ死ねないの」

「え?」

「人とは違う体だもの。苦しむかもしれないけど、簡単に死んだりしないのよ。その間に解毒剤を作っちゃうだろうから――」


 まるで挑発するような凄みのある笑顔だった。直前まで照れて強張った笑顔を見せていた存在と、同じだとは思えない。


「毒でも食べるから、安心して」


 毒を盛りたければ盛ってみろと凄まれた気がした。そんなことくらいで、怯みはしないと。


 どうしようもない衝動のようなものが湧いてきて、俺は気付けば彼女にそっと口づけていた。


「あなたの喜ぶ部分がわかんないんだけど……」


 触れるだけの短いキスのあと、彼女が小さく呟く。どこか途方にくれた声だった。顔は近づけたまま、離れていく様子はない。


「毒でも食べるなんて言うから」


 迷うような沈黙のあと、不安そうに彼女が問いかけてきた。


「それくらいじゃ、私からは逃げられないからねって意味なんだけど……怖くない?」


 彼女は俺の心臓を止める気なのかもしれない。


「嬉しすぎて死にそう」


 彼女を優しく抱きしめる。彼女は一瞬驚いた様子だったけど、背中にその細い腕を回してくれた。


 視界の端で、クロがあくびをしながら去って行くのが見える。


 抱きしめていた腕を緩めると、俺はもう一度彼女に口づけた。



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俺をあなたの恋人にしてくれませんか? 宮崎 @miyazaki_928

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