もし君と結ばれなければ(短編)

三村小稲

第1話もし君と結ばれなければ(全編)

 昔からどうしても決めていたことがあった。町を出たら、恋をする。誰かを好きになったり、誰かから愛されたりする。町を出たら絶対に恋をしよう。その決意だけが私を突き動かしていた。恋がどういうのかも知らずに。


 私の名前はサラ。南部の小さな町で生まれ育った。家庭環境は劣悪。母親はとっくの昔に蒸発。父親は飲んだくれで暴力をふるい、兄弟も似たようなもので揃いも揃ってクソ野郎。職を転々とし、バーで女をひっかけ、すぐにその女のところに転がり込み、でもクソ野郎だからやっぱりすぐに叩きだされてまた家に戻ってくる。その繰り返し。


 そんな生活の中でたった一つ救いだったのが、高校で音楽教師をしていたレイ先生との出会い。正確にはレイ先生の奥さんとの出会いだった。


 週末、レイ先生は町で唯一の社交場といっても過言ではないB&Bみたいな宿付きの食堂「マリーズゲストハウス」でピアノを弾いていた。ろくに娯楽のない田舎町でレイ先生とマリーズゲストハウスの主人ジェイミーは町の人たちの為のエンターテイナーだった。彼らの歌とピアノなしにこの町の週末は成り立たない。リクエストすればどんな曲でも弾いてくれる。カラオケだってさせてくれる。レイ先生とジェイミーのコンビは町の伝説だった。


 レイ先生が素晴らしいのは週末の演奏だけではない。高校で音楽を教え、グリークラブを指導し、熱血教師の名に相応しく生徒にも慕われていた。そして放課後になるとレイ先生はろくに月謝も払えないような生徒に自宅で個人レッスンをしていた。


 個人レッスンを受けていたのは子供だけではない。高校を出ていないような大人にも希望者があればレッスンをし、習いたくても習えなかった今ではすっかり年をとった老人達にもタダ同然でレッスンをしていた。


 レイ先生が教えるのはピアノと歌。楽譜の読み方や聴音。作曲。本格的なレッスンだった。


 私が初めてレイ先生と……いや、その前に、レイ先生の奥さんに会ったのは、ハウスキーピングの仕事に出かける母親にくっついて行った時だった。


 その頃母は家政婦をしていて、裕福な家の掃除や雑用の為に一日に何軒か車で回っていた。


 母が私を連れて行くのは幼い私を家に置いていくことが心配だったせいだ。その心配というのは兄弟の意地悪に晒されなければいけないということだし、家の中とはいえ「事故」にあうのを避ける為でもあった。父の機嫌が悪い時などは決まって母親の仕事場に連れて行かれた。


 私は母が大きな家の贅沢な家具の埃を払ったりバスルームを掃除している間、玄関ホールにちんまりとおとなしく座っているか、庭のベンチに腰かけているか、でなければ車の助手席に座ってただじっと母を待っていた。待つことは苦痛ではなかった。むしろテレビや隣近所の騒音や、食器を粉砕する音と罵詈雑言の応酬のない静けさが好きだった。寂しいとも思わなかった。誰にも構われないということは、そのまま私には安心と安全を意味していたから。


 仕事をしている母はエプロンをかけ、時には両手にゴム手袋を嵌め、怒ったような顔をしていた。しかし、カールした金髪はもちろん美容院で染めたものだが、その年齢の割には少々明るすぎる髪の色が母を色っぽく見せていて、汗を拭う仕草もどことなくしどけなかった。


 どういう経緯で父と母が結婚したのかは知らないが、母は美人で女の色気をふんだんに持っている人だった。なんと言ったらいいのだろう。あの艶やかな感じは。皿を洗っていても、料理をしていていも、母にはエロチックな香りがしていた。胸が大きくて、さすがに子供を三人も産んでいるのだから腰の線は崩れていたけれど豊かな肉付きがますます女っぽく見え、子供心にも私は母を綺麗な人だと思っていた。


 ……だから、と言ってはいけないのだろうけれど、母は身持ちの固いタイプではなかった。


 両親の離婚の原因、いや、そもそもの不仲の原因が母の浮気にあったのか、父の女遊びや稼ぎの悪さや暴力のせいだったのか、今となっては分からない。この事を考える度に「ヒヨコが先か、卵が先か」という気持ちになる。


 そんな生活の中で母が時々訪れたのがレイ先生の家だった。


 レイ先生の奥さんはバラ作りの名人で、庭には見事なバラを咲かせていて、玄関から出てくる姿はいつもツバ広の帽子をかぶりエプロンをかけて泥汚れをつけた格好だった。


 私はこの家の前庭に植えられたピンクのバラがとても好きだった。大ぶりの花はころんとして丸く、花びらはふさふさとたっぷりしていて華やかで可憐だった。


 レイ先生のうちには男の子が二人いて、奥さんは彼らの世話とバラの世話で忙しいのか時々母に買い物や掃除の手伝いを頼むことがあった。


 男の子二人はいつも騒々しく、オモチャのマシンガンを撃ち合ったり、サッカーボールを蹴ったりしていて、だから私はこの家に来るとポーチや玄関で待つのではなく母の車の助手席から絶対に下りないことにしていた。兄たちも同じように家で大騒ぎして戦争ごっこをしたり、ヒーローごっこをしたりしていたから分かるのだが、そういう場面で私のように一番小さくて弱い者は「やっつけられる」立場でしかないのだ。私は男の子が大嫌いだった。


 彼らが発する意味のない言葉も、嬌声も、腕力にものを言わせるところも大嫌いで、近くによるのも嫌だった。だから私は母の車の助手席から奥さんと母が玄関のポーチのところで立ち話するのをいつも眺めていた。すると、ある時奥さんが車で待っている私に手招きをした。


 母はポケットから煙草を取り出し、火をつけていた。


 私は困惑していた。私は周りの人に心を開かない子供だったから、知らない人から笑顔で呼び寄せられるなんてどうしていいのか見当もつかなかった。ただ車に乗ったままの格好で目を逸らすこともできずにレイ先生の奥さんを見つめ返していた。

 私が一向に車から出てくる様子がないのを悟ると、奥さんはにこにこ笑いながらこちらへやって来て車の窓をこつこつとノックした。


 叱られる。反射的に私はそう思い、慌てて車の窓を開けた。レイ先生の奥さんは腰をかがめ窓につかまりながら、びくびくして上目づかいに自分を見上げている痩せっぽちの少女に言った。


「こんにちは」

「……」

「名前はなんていうの?」

「……サラ」

「サラ、いつもママを待ってるのね。えらいわね」


 奥さんはポケットからキャンディを取り出すと私に差し出した。


「でも、ずっと一人で待ってるの退屈じゃない? ママと一緒に他のおうちにも行くんでしょう? その間ずっと待ってるの?」


 私はこくりと頷いた。


「ね、それじゃあね、もしあなたがよければママがお仕事してる間うちで過ごさない?」

「……」


 幼い私には咄嗟に奥さんの申し出の意味が分からなかった。ママが仕事に行っている間この家にいるってことは、この人がナニーの役目をしてくれるってこと? どうして? そんなの私には必要ない。だって一人でママを待っていることができるんだもの。そう思った。


 母が煙草の煙を吐きながらこちらにちらりと視線をやったのが分かった。私はびくびくしながら、言った。


「……ママは……」

「ママと一緒にいたい?」

「……」


 私は答えなかった。ママと一緒にいたいというよりは一人でいたかったのだから。でもそれは口にしてはいけないことだと私は幼いなりに知っていた。


「ママに聞いてみないと……」

「ああ、そうね! いいわ、それじゃあママと相談してみて? でね、もしよかったらママがお仕事している間にうちでお話相手になってほしいわ。うちには男の子しかいないから、つまらないのよ」


 この時、なぜレイ先生の奥さんが私に声をかけたのか。それは子供の私が知るはずもなかったことなのだけれど、恐らくこの頃からすでに両親の不仲や家庭内の荒廃した様子、母の奔放な生き方が田舎町で噂になりつつあったのだろう。奥さんは私の存在を、私が彼女を知るよりもずっと前から知っていて憐れに思っていたのかもしれない。


 私は緊張していた。家では何か一言口を開くたびにからかわれたり、叱られたり、怒鳴られたりしていたから、自分の言葉の一つ一つに自分で怯えていた。失敗しないように、何か間違ったことを口にしないように。叱られないように。


 母が煙草を咥えたまま車の方へやって来るのを私はどきどきしながら見ていた。


「じゃあ、また来週ね」


 レイ先生の奥さんは私と母に手を振った。運転席に乗り込んでエンジンをかけながら、母も愛想よく手を振った。が、車が走りだすと眉間に皺を寄せて新しい煙草に火をつけた。


 ママはレイ先生の奥さんが好きではないらしい。私はそう思い、さっきの話しはしない方がいいのだと判断しラジオのスイッチに手を伸ばした。地元のローカル局が地域の情報を喋っている。この町にはニュースがない。あるのは地元の商店の特売のお知らせと不動産売買の情報、釣りのポイントにチャリティパーティー、ファーマーズマーケットやイベントのお知らせ。それだけ。


「サラ」


 母が煙草の吸殻を窓から投げ捨てた。


「来週から、ママが仕事している間ミセス・ブラックウィングのうちで待っててちょうだい。ミセス・ブラックウィングが何か手伝って欲しいと言ったら、その通りにしてね。庭の手入れとか、お皿を拭くとか」

「……」

「サラ?」


 私が黙っていると母がハンドルを握ったまま私を見やった。私はこの時どんな顔をしていたのだろう。思い出せない。ただ言えるのは、この時私は心のどこかでいずれ母が私を捨てるだろうと悟ったことだった。


「はい、ママ」

 私は返事をした。


「ミセス・ブラックウィングは優しい人だから、何も心配しなくていいのよ」


 母がいずれ私を捨てるように、私もまた家族を捨てるだろう。たぶん、母もそのことを悟っていただろう。母の手が伸びてきて私の頭を撫でた。母の手は指が細く、長く、ひどく冷たくて固かった。


 翌週から私はレイ先生の奥さんと過ごすようになった。レイ先生の二人の悪童は大抵近所でサッカーや野球に興じるか、子供部屋でゲームに熱中しているかで私に注意をはらうことはなかった。それでも二人の兄弟が時折あげる嬌声や喧嘩腰の怒鳴り合いなどを聞くと、びくっと体が震えた。


 レイ先生の家で私はバラの手入れを手伝ったり、ブラウニーを一緒に焼いたりして過ごした。まるでその家の子供のように。たぶん、女の子がいたらそんな風にしたであろうことのすべてを、レイ先生の奥さんは私に実践した。そういった意味で彼女が「男の子しかいないから、つまらない」というのはあながち嘘ではないようだった。


 家の用をすませるとレイ先生の奥さんはピアノのある広い部屋で過ごすことが多かった。そこはレイ先生の仕事場であると同時に、奥さんにとってのレッスン場でもあった。


 レイ先生のピアノが町で有名なのはなんとなく知っていたが、奥さんがチェロをやるのを私は初めて知った。


 部屋の壁には先生の若い頃の写真やコンクールのトロフィーに混じって、この家の二人の子供の写真、それもやっぱりコンテストの出場写真がかけてあり、この一家がこの町ではちょっと珍しい知的階級な家であることを物語っていた。


 私はこの家と自分のうちとがあまりにかけ離れていることに少し戸惑っていた。ここに来るのは楽しかったけれど、楽器をたしなむ余裕もなければ本一冊読むことのない自分のうちのことを考えると、その差異が子供心にもみじめに思えた。丁寧な言葉を話すレイ先生の奥さんと、四文字言葉を連発する自分の家族とを比べないわけにはいかない。何がこんなにもこの家の人々と自分たちとを隔てているのだろうか。


 思えば私がここで過ごすことが私の身の安全の為であったことを疑う余地はないのだけれど、彼らが善意で行ったことは私を自分の家族と切り離すことでもあった。


 努力しなければ、勉強して、目標をもって生きなければ「あんな風に」なってしまうのだということ。即ち、高校も卒業しないで、ろくに働きもしないで、貧乏で、そのくせ酒浸りで、趣味もなければ生きがいもない、他人に対する憎しみばかりを溢れさせ、満足することを知らない人間に。それを悟ると私はますます無口な子供になっていった。


 が、かといって親切にしてくれるレイ先生の奥さんに心を開いていないわけではなかった。


 ある時奥さんは私をピアノの椅子に座らせ、弾き方を教えてくれた。いつも見ていたせいか私はすぐにコツをつかみ簡単な曲をそらんじた。


「あら、上手じゃないの! すごいわ! サラ、才能があるのね」


 レイ先生の奥さんは手を叩いてはしゃいだように言い、「それじゃあねえ」と短い曲をさらに手ほどきしてくれた。それは練習曲のひとつだったのだけれど、奥さんは私にそれを教え込むと自分はチェロを抱えてピアノの横に置いた椅子に腰かけた。


「さあ一緒に弾きましょう」


 私はこの瞬間を生涯忘れないだろう。二人でのささやかな合奏。それは演奏するというだけでなく、音楽を作りだすということ。私が生まれて初めて音楽の本質に触れた瞬間。私は緊張してミスのないように注意深く鍵盤を叩いた。その音にチェロのふくよかなメロディがのる。


 胸がどきどきして、そのどきどきの中からさらに高揚した熱いものが溢れてくるのを感じた。音楽が指先から出て二人の間を満たすような感覚だった。


 私はほんのわずかなフレーズを弾いただけにすぎないのに、とても満ち足りて溜息をついた。そんな私をレイ先生の奥さんは目を見開いてまじまじと見つめていた。


 レイ先生の奥さんは今までに聞いたこともないほどシリアスな声で静かに言った。


「サラ、あなた、今晩は夕食をうちで食べてらっしゃい。主人が帰ってきたら、私たちの演奏を聴いてもらいましょう」

「……でも、ママが……」

「ママには電話しておくわ。帰りも送ってあげる」


 奥さんの調子には有無を言わさぬものがあった。いつもなら「あなたはどうしたい?」と聞いてくれるのに。私は何かは分からないけれども叱られるのだと思い、椅子に座ったままでしくしく泣き出した。


 驚いたのは奥さんで、慌てて楽器を置くと私の傍に来て肩を抱いた。


「どうしたの? どこか痛いの?」


 私は歯を食いしばって、溢れて来る涙を何度も自分で拭った。うちでは私が泣くと父や兄たちが余計に苛立ち、怒るから、私は泣き声を出さずに泣くことを常とし、涙はこぼれるそばから必死で拭い去る癖がついていた。


 あんまりひっきりなしに顔をこするから目の周りはすぐに赤くなり、声を立てまいとする分だけ呼吸が苦しくなった。


「ねえ、サラ、どうしたの? どうして泣くの?」

「……帰る」

 私は嗚咽を漏らさぬよう言った。


「どうして? そんなにここにいるのがいや? ねえ、サラ、私ね、あなたの演奏を主人に聴いてほしいのよ。だって、あなたは天才なんだもの。知ってるでしょう? 私の旦那さんが音楽の先生だってこと。あなたみたいな天才を放っておくなんて、そんな罪なことできないわ」

「……罪?」

「そうよ。サラ、あなたの才能は神様がくれた贈り物なのよ。それを放っておいて枯らしてしまうなんて、神様がお許しにならないわ。あなたの才能を育てなければ」


 枯れるとか育てるとか、幼い私には才能というものが一体なんなのか分らなかったけれど、まるで植物のようだなと思った。そう、レイ先生の奥さんが丹精するバラみたいだ、と。


「ね、もう一度一緒に弾いてみましょう?」

 奥さんは私の背中を優しく撫でた。私はこくりと頷いた。そして言った。


「あの……」

「なあに」

「……あの……さっき弾いた音……」

「なあに? どの音?」


 私はチェロの弦を指した。

「ピアノと合ってなかったみたい……」


 ほんのわずかな違和感。奥さんの弾く音とピアノとの間の微かなズレ。私はそれをなんと言い表わすのか分からなかったのでそのまま口ごもった。


 レイ先生の奥さんはまた驚いた顔で私を見つめていた。絶対音感。それが、その夜帰宅したレイ先生が私に教えてくれたもう一つの「神様からの贈り物」だった。


 私は翌日からもう奥さんのお相手としてブラックウィング家を訪れることはなかった。私がブラックウィング家に行くのは、レイ先生のレッスンを受けるためになり、そして、大きくなってからはピアノではなくチェロの指導を受けるためになった。


 ピアノよりチェロを望んだのは、単純にレイ先生の奥さんを好きだったからだ。彼女の優しさに救われ、また、自分を見出してくれたことに感謝していた。その彼女の弾く楽器なら自分も弾きたい。そう思ったのだ。


 レイ先生はピアノを勧めたけれど、私はどうしてもチェロをやりたかった。その時も説得してくれたのは、奥さんだった。


 実際問題チェロをやるにはお金がかかる。レイ先生はピアノの方がまだ比較的続けやすい楽器だと考えていた。だからピアノを勧めたのだ。即ち、私のうちの経済状態も慮って。後になって分かったことだけれど、奥さんはレイ先生にこう言ったそうだ。「あの子が自分の望みを口にしたのは初めてよ。いつだってあの子は自分の感情を押し殺して、人の顔色ばかりうかがってる。そんなあの子が初めて自分から望んだことなのよ。それを叶えないなんて、ありえないわ」と。


 今でも思い出すと涙が出そうになる。レイ先生はその言葉でとうとう折れた。奥さんが自分が子供の頃に使った分数の楽器を実家から取り寄せるなどしてくれ、とにかくできる限りの援助をすると約束してくれた。


 この頃、飲んだくれの父親は前にもまして仕事をしておらず、兄たちはモールで万引きをして捕まったりする日々で、母はますます疲れた顔をし、それでも色気だけは色褪せず、心はもう家族のもとにはなかった。


 私がレイ先生のレッスンを受けることについて、うち中の誰も関心を持っていなかった。いや、私そのものに興味がなかったのだ。私が生きて、同じ空間に住み、食べ、寝ていること自体に。彼らが私に目を向けるのは私にかかるなにがしかの費用が発生する時だけで、その度に日頃は眼中にない私が苛立ちの対象になる。レイ先生夫妻はそのこともちゃんと知っていた。


 レイ先生は自らうちに赴き、飲んだくれの父とあばずれの母を前にして「サラの才能を伸ばすのが教師としての役割だと思っている」と言い、「うちの楽器で練習させるから、お金はかからない」とも話してくれた。お金。ただその一点のみにおいて彼らは納得した。


 レイ先生は両親に対して内心憤りを感じていたらしいが、逆に私にとっても彼らはどうでもよいものになりつつあった。私から音楽を取りあげない限りは。


 後々まで私は裕福な子たちに比べてお粗末な楽器を使うことになるのだが、レイ先生夫妻は自分たちにできる限りのことをしてくれた。私の家族が私に何もしてくれないだけに、彼らの愛情は身にしみて有難かった。


 高価なドレスを着て高価な楽器を持っていても、神様がくれた贈り物に勝るものはない。先生の教えはいつだって音楽の本質にせまっていた。音を楽しみ、聴くものに喜びを与えるもの。魂で弾け。心をこめろ。その指導は母が家を出て行き、兄が刑務所に入り、父親がアルコール中毒で施設に入るようになっても変わらず続いた。


 そして、その結果として奨学金を得てボストンの大学で学ぶことが決まったのだった。


 その頃すでに教師というよりは親代わりのようになっていたレイ先生夫妻は、私が町を出て行く時、それまで私が人生で一度も聞いたことのなかった「愛しているよ」という言葉をくれた。私は初めて耳にする言葉にひどく動揺していた。町を出ることの不安と興奮で頭がいっぱいだった。


 レイ先生の奥さんが私を抱きしめ、目に涙をいっぱい溜めて「休暇には帰ってきてね」と言った。私はただ頷くより他なかった。


 この時私はもうこの町に帰ってくることはないと思っていたのだけれど、それを彼らに言うことはできるはずもなかったし、愛することも愛されることもいつだって自分からは遠い幻みたいで、彼らに向って「愛している」と言い返すことはできなかった。たった一言、言えたのは「ありがとう」だった。



 私は「町を出る」という願いを叶えたわけだが、恋の方に関してはそう簡単にはいかなかった。


 私は寮に入り、そこから授業に通い、近所のカフェでアルバイトをしてお小遣いを稼ぐ毎日だった。


 時々レイ先生の奥さんが私を心配してチョコレートや新しいTシャツにまぎれてこっそりお小遣いを送ってくれた。レイ先生からもメールを貰い、私は授業のことなどを返信した。自分の「本当の家族」のことはもう考えることもなくなっていた。


 金銭的にずいぶん苦労したけれど、私には恵まれた環境で育ってきた他の学生たちを羨む気持ちもなかった。休暇になるとそれぞれ帰省していく学生達を見ても孤独を感じることはなかった。


 そもそも孤独は自分にとって親しい友のようだった。思えば私には孤独ではない瞬間はなかった。孤独であることが当たり前で、だから私はそれを特別な感情だとは思わない。一人きりでいることは寂しくなかったし、誰かに傷つけられるぐらいならば一人がいかに安心か。その考え方は子供時代の防衛本能が培ったものだったが、それが恋というものを遠ざけているとはまだその時は考えていなかった。


 他人の存在を必要としないのは、恋が必要ではないのと同じだ。そして、これが最も重要なことなのだけれど、私は異性に対する性的関心を持つことのない自分をすでに知っていた。


 自分がいつからそうなのかは分からない。ただ、高校の時も男の子に関心を持つことはなかった。女の子たちから人気のあるのは背が高くて顔立ちの整った子や成績の優秀な子、野球やアメフトのレギュラー選手になるような子。明るくて、面白い子。彼らの格好良さや女の子にモテることを認めないわけではないが、私は彼らに微塵も心惹かれなかった。


 私はそういう自分を「冷めているだけ」だとも思っていなかった。むしろはっきりと自分を理解していて、好きか嫌いかで言えば男の子のことは「嫌い」だった。


 たぶん精神科医にでもかかればこういうのは幼児期のトラウマのせいだってことになるんだろう。父親の虐待、意地悪な兄たち。性的な暴力は受けなかったけれど、いつだって心閉ざして怯えていた子供時代だったから。男性を好意的に見ることの芽はあらかじめ摘まれていた。


 最初に同性を意識したのは、高校で二つ上の女の子だった。グリークラブに入っていて、綺麗な横顔をした上品な人だった。レイ先生の生徒で、やっぱりレイ先生のうちにレッスンに来ていた。会うとにこやかに近寄ってきて声をかけてくれる。私はその優しい物腰に感動していた。彼女のなめらかな頬やすらりとした手足を見るにつけ、息が苦しくなり、まともに彼女の目を見て話すのが困難になるほどだった。緊張は狂おしいほど胸を締め付けた。


 その時はその感情に恋という名がつくとは考えなかった。彼女が素敵で、好きだと思いはしたが、彼女に触れたいだとか性的関心は萌していなかった。彼女といるとどきどきしたし、何でもない話をしているだけで嬉しくてたまらなかった。ただそれだけだった。


 同級生たちが次々とボーイフレンドを作りセックスを経験していたが、私には恋とセックスが結び付かなかったし、秘かに彼女に憧れる気持ちとセックスはもっと結び付かなかった。


 異性に対する嫌悪感があるからセックスについて考えたくないとか、それを避けようとしているのではなく、ただ単純に想像できなかったのだ。


 ネットでいくらでも情報を収集することはできても、それらはポルノムービーのようなもので「嘘」に思えた。現実はこんなんじゃないだろうという猜疑心。いや、それ以前に、相手が異性だろうと同性だろうと自分の肉体を他人と接触させること自体に、私は消極的な感情しか持っていなかった。私は冗談にも美しいとは言い難かったから。


 私は醜かった。厚いレンズの眼鏡をかけていて、太っていた。レイ先生の奥さんはいつも「太ってるってほどじゃないわよ。近頃の女の子たちが痩せすぎなだけ。みんながみんなモデル並みに痩せてないと美しくないなんて、異常よ。サラは健康的でチャーミングよ」と慰めてくれたけれど、私には鏡というものを客観的に見る目があったので、彼女の言葉を信じなかった。


 その証拠に学校の男の子たちは私を醜い脂肪の塊としか認識していなかったし、わざとらしいひそひそ話、くすくす笑いに紛れていつだって蔑む言葉は私の耳にちゃんと注がれていた。その度に私はまた胸の中にある決意を新たにしていた。いつか必ずこの町を出る、と。


 新たな土地で生き直し、恋をしたい。けれど美しくなければ誰からも愛されないのだとしたら。


 容姿の美醜について考えた時、いつも思い出すのは母親のことだ。美しい人だった。なぜ彼女に似なかったのだろう。もし似ていたら違う人生があったはずなのに。しかし母があの美しさを備えていても幸せではなかったことを思うと、私には美しくなりたいだとか痩せたいだとかいう考えは意味のないものだった。知りたいのは、どうすれば恋をすることができるのかということだけだった。


 

 大学に入って三年目になろうとしていた。

 恋は依然として訪れない代わりに、私にはシリルというフランス人とアメリカ人のハーフというゲイの友人ができた。


 シリルは美しい顔をした男の子で、背が高く、物腰は柔らかで上品で、裕福な家庭の子弟であり、才能ある学生の一人だった。


 私はシリルを自分と違う人種のように考えていたけれど、シリルは外見や育ちとはうらはらに多くの苦悩を抱えていた。


 両親から求められる「成功」という結果、期待が大きいだけにカミングアウトは難しいということ……。それらの悩みを告白するのに、なぜ私が選ばれたのかは分からない。シリルには大勢の友人がいて、周囲はいつも光を集めるように眩しい。けれど、彼は自分の影を決してその光の中に落としたりしない。彼が心に潜む闇を解放するのは私にだけだ。私は彼の言葉を静かに聞くだけでなんの役にも立たないというのに。


 私がそう言うとシリルはいつも「いいんだ。聞いてくれればそれでいいんだ」と微笑んだ。「サラといると心が落ち着くから」と。


 もしかしたらシリルには分かったのかもしれない。私が孤独の苦い味を知っているということを。傷つくことを知っている者は同じく傷ついた者の匂いを本能的に察知する。何不自由ない人生のシリルはいずれ必ず訪れる困難に今から秘かに怯え、すでに傷ついているようだった。


 その日、私はシリルと会って今シーズンも一緒に学内のコンサートに出るべくオーディションを受けようと話していた。


 感謝祭やクリスマスのコンサートは大学が主催するものと、教授陣がプロデュースするものとある。いずれも学生には大きなチャンスだ。業界関係者も大勢見に来るし、そこで目にとまればデビューの可能性もある。出演だって誰でもできるわけではない。授業の中でテストがあり、またそれとは別にオーディションがある。そこに出演できることは成功の足がかりであり、才能の証でもあるのだ。幸運なことに私とシリルはコンサートに何度か出演していた。


 今年は何をやろうかとシリルがあれこれ話す間、私はぼんやりと相槌を打ちながら今日やってくる予定の新しいルームメイトのことを考えて少し気が重くなっていた。


 それまで同室だったアマンダは私より一年上で、卒業して部屋を出て行った。新たな人間関係は面倒で、いつも気まずい。人見知りなのだ。初めて会う人とうまく話すことができないし、うまく笑うこともできない。だから相手はもっと気づまりになる。


 シリルは深く考えることない、ただにっこりすればいいんだと言うけれど、私は子供の頃から周囲の人に対して「にっこり」する習慣がなかったのでますますどうやったらいいのか分からなくて混乱してしまう。


 私は母のことを思い出してみる。母の笑ったところもあまり見たことがなかった。あんなに美しい人だったのにも関わらず。


 大学の近くのカフェでコーヒーを飲みながら、

「伴奏をしてくれる奴が少なくて困るな」

 と、シリルはカップを長い指先で弄ぶようにしながら言った。


「みんな自分の課題やレッスンで忙しいからね」

 私もカップのコーヒーをスプーンでかきまわしながら答える。


「誰かいないかな。心あたりない?」

「ないわ」

「そんなあっさり言うなよ」

「だって知らないもの」

「そういえば、君の新しいルームメイトは? ピアノ弾きがくるって話しじゃなかった?」

「そうだった? 覚えてないわ」

「興味ない?」


 シリルの目がいたずらっぽく笑う。こんな時のシリルは子供みたいでかわいい。私は肩をすくめて見せた。


「別にそういうわけではないわ。……興味があるのはあなたでしょう?」

「だって、サラのルームメイトだろ。変な奴がきたら嫌だろ。アマンダだって親切だったってわけじゃなかったし」

「アマンダはストイックな人だっただけ。別に親切じゃないとかではないわ。いい人だったわよ」


 私はそう言ったが半分ぐらいは嘘だった。ルームメイトのアマンダは新入りの下級生に取り立てて優しい人ではなく、「普通程度」の優しさしか持ちあわせていなかった。でも、それだって彼女を見ていると仕方がないと思えた。ここではみんな自分たちの練習に必死なのだ。そして、みんながみんなライバルなのだ。油断するとすぐに追い抜かれ、出し抜かれることもある。多くを学び、才能を磨き、チャンスをつかむこと。右も左も分からないような新入生にかまってやるほどの暇もなければ余裕もない。それを一体誰が責められるだろう。人より努力しなければ、人より秀でることはできない。


 そんな競争社会の中で私がいつも思い出すのは「レッスンは裏切らない」というレイ先生の言葉だ。レッスンだけが自分を支えてくれる。私自身もそれを拠り所にしているところがある。不安も焦りも練習することだけで癒されるのだ。それが音楽の持つ力でもあると思う。


「もう帰らなくちゃ」

「もう? うちで晩飯でも一緒にと思ってたのに」

「ありがとう。でも、今日は帰るわ」

「やっぱりルームメイトが気になるんだろ」


 私はそれには答えずに立ち上がった。シリルも楽器と伝票を取り上げ、さっさと、当然のように会計をすませた。シリルには御馳走になりっぱなしだ。


「それじゃあ、また」


 私が片手をあげるとシリルはいつもそうであるように、彼の習慣として私を軽く抱きよせ背中を叩いた。最初のうちは彼の抱擁の習慣に慣れなくて、いつもびくっと体を緊張させたものだった。私の反応にシリルはひどく驚き、同時に傷ついた顔で「僕のこと嫌いなの?」と言った。親愛の情や肉体の接触に不慣れな私は、自分の生い立ちのせいで他人を傷つけていると思うと慌てて彼に詫び、言い訳のように自分の子供時代を告白しなければならなかった。それを聞くとシリルは再び私を抱きしめて「僕は君を傷つけたりしないよ」と囁いた。私はそれを憐れみだと感じた。


 シリルはなんでも持っている。才能も美貌も、お金も、友人や恋人も。だから他人に優しくなれるのだ。彼はそれを認めないだろうけれど、私は卑屈であるが故にあらかじめ恵まれた者の持つ無意識の優越感を感じることができるのだ。無論、彼に悪意がないのでそれは罪ではない。むしろ天使のように純粋で無垢な魂だと言える。私はシリルの優しさを感じる時、いつも自分の存在が少し悲しくなった。


 シリルが地下鉄の駅へ向かうのを見送ると私は寮への道をとぼとぼと歩いた。


 私が住んでいる寮は2ベッドルームに小さなキッチンとバスルーム付きで近くにはスーパーなどもあり便利だが、すこぶる狭い。それに壁が薄くて音漏れがすごい。今まで同室だったアマンダはよくボーイフレンドを部屋に連れて来ていたが、彼らの出す物音……有態に言えばセックスの時の声と音…にはずいぶん悩まされた。でももっと嫌だったのは、アマンダと彼氏の喧嘩だ。うまくいっている時はいいけれど、彼女たちの痴話喧嘩ときたら強烈だった。罵詈雑言の嵐。ありがたいことに暴力はなかったようだが、物にあたるのか壁やドアを蹴ったり、何かがしゃんと叩き壊す音。それは夜中に突然巻き起こることもあり、私は怖くてたまらなかった。喧嘩がもたらす騒音が私に忌わしい記憶を呼び起こす。


 父と母の喧嘩。台所で食器が砕け散る音。父が母に暴力をふるい始めると母の悲鳴や泣き声が響き渡った。私が怖かったのは、その矛先が自分に向くことだった。心臓が縮みあがり、全身が震えた。


 ルームメイトに関するトラブルは寮ではよくあることだ。育った環境の違う者同士がある日を境に一緒に暮らそうというのだから、スムーズにいかないことの方が多くて当然だ。生活習慣の違いはもちろん、価値観の違いも受け入れられないことは多々ある。ルームメイトとウマが合わなくて寮を出る学生もいるし、ルームメイトの交換を申し出る子もいる。


 アマンダは私の前に二人ほどルームメイトがいて、そのどちらとも彼女の言葉を借りると「合わなかった」らしく、ルームメイトの交換を経験していた。交換は学生同士の話し合いで決められる。それぞれが「合わない」と感じたら、やはり同じく「合わない」と思っている他の学生を探し、相互に相談しあった上でルームメイトを交換する。それでも合わなかったらどうするのかは聞かなかったけれど、私はその「合う」とか「合わない」という考えに少し驚いていた。彼らには「合せる」という発想はないらしい。


 私とアマンダが取り立てて問題なく一緒に暮らせたことについて、アマンダは最後にこう言った。「ルームメイトがサラみたいに静かな子でよかったわ」と。


 彼女にしてみれば、使った後の食器をそのままにしておいても文句を言わない、バスルームを占領しても文句を言わない、ボーイフレンドを連れ込んでさんざんな騒ぎを巻き起こしても文句を言わない「静かな」私が都合がよかったのだろう。でも、アマンダは知らない。私が決して彼女を好きで、彼女の気ままさを許していたわけではないということを。静かにしていれば平和に暮らしていける。幼い頃からの習慣は今も私の中に生き続けている。


 部屋で私はマキネッタでコーヒーを沸かした。このシンプルで原始的なイタリアのエスプレッソメーカーはレイ先生が誕生日に贈ってくれたものだった。レイ先生は真面目で練習には厳しかったけれど、ただ厳しいだけではなく、人生には多くの喜びや楽しみがなければならないと考えている人で、娯楽や嗜好品というものをとても大切にしていた。すべてにおいてストイックである必要はないというのが先生の考えだった。


 マキネッタはコーヒー好きのレイ先生のお気に入りの道具で、自身もそれでよくエスプレッソを飲んでいた。奥さんはあまりいい顔をしなかったけれど、砂糖をたっぷりいれてカップの底にたまった砂糖を舐めるのも先生の楽しみの一つだった。


 私は今レイ先生の真似をしてエスプレッソに砂糖をごっそり入れ、かき混ぜもしないで飲む。そしてカップの底にたまった砂糖をスプーンで舐める。痺れるほど甘く、コーヒーの風味が鼻先をくすぐる。脳が刺激される。なにかひどく贅沢で、やってはいけないことをしているような僅かな罪の意識が胸をちくちくと刺す。


 そうやって小さなソファに座ってコーヒーを飲んでいる時だった。部屋のベルが控え目に鳴った。


 私は「来たな」と思い、立ち上がってドアを開けた。そこには痩せたアジア系の女の子が大きな旅行鞄を携えて、立っていた。


「こんにちは。あの、私、ここに住むことになりました」

「……ええと……?」


 緊張しているのか、おどおどした英語で彼女は続けた。


「私の名前はナツ・ワタナベです、よろしく」

「……サラ・コナーズです。よろしく……」


 彼女があんまり頼りない様子だったので、私の方こそどうしていいか分からなくなった。新しいルームメイトが外国人だとは考えていなかったからだ。


 が、しかし、すぐに気を取り直して扉を大きく開けてやり「どうぞ」と中へ促してやった。


「あなたの部屋はそっちよ。バスルームはここ。キッチンも好きに使っていいのよ」


 旅行鞄をごろごろ押して入ってきた彼女は室内を見回していた。


「……あの、英語、分かる……?」


 彼女が黙っているので私はその端正な横顔をそっと覗き見た。


 黒い髪は長く艶やかで、同じく黒い瞳は冷たく沈んだ色なのに底光りするような輝きを宿している。小柄だが、背筋が伸びていて清廉な雰囲気を漂わせていた。


「ええと、あまり得意ではないけど分かります」

「ピアノをやるって聞いたけど」

「ええ。あなたは?」

「チェロ」

「何年生ですか?」

「三年。あなたは……日本人、よね?」

「そうです」


 私は彼女とのやりとりにふと前年度に受けた日本文化の講義で聞いた「禅」というものを連想し、少しおかしかった。これが「禅問答」ってやつ? 一問一答の愛想のない彼女は緊張しているのか、こちらの様子を窺うように黙っている。それでも彼女が私の子供の頃とは違って決して怯えた様子ではないのが好もしかった。彼女が立つ姿には凛とした意思の力が備わっているようだった。


 綺麗な子だな。それが私がこれから寝食を共にすることになったルームメイト「ナツ」の第一印象だった。


 ナツは自室にスーツケースを運びこむとしばらくの間ごそごそと荷ほどきをしているようだった。私はリビングでテレビを眺めていたが、ふと彼女が食事をしていないのではと心付きドアをノックした。


「はい」


 ナツは返事と共にドアを開け顔を出した。ドアから覗く室内はスーツケース一つ分の荷物しかないせいか散らかっている様子もなく、備え付けの机にパソコンや本をいくつか置き、衣類が数枚ベッドに広げられているだけだった。


「片付け中、ごめんね。夕食はもう食べたのかなと思って……」

「いいえ。私、今日こっちに着いたばかりで、まだ何がなんだか」

「それじゃあ疲れたでしょう」

「うーん、ちょっと時差ボケっていうか……。変な感じがするわ」

「もしよかったら、私も今から何か食べようと思うから一緒にどう?」


 私はいつもこんな風に積極的に親切なわけではない。出すぎないように、目立たないようにひっそりしているのが自分の性格であり、処世術だと思っている。なのに、彼女にはどうしてこんなに気を配るのか自分でも不思議だった。


 外国人だからだろうか。ナツのぎこちない、考えながら慎重に話すような感じはいたいけない生き物のようで無視することはできない。アジア系特有の幼い顔立ちや痩せたところも、庇護しなければならないような気にさせられる。


 最初ぐらいは。私は自分の言い訳のように呟く。来たばかりなんだもの。最初ぐらい親切にしてあげるのは普通のことだろう。


 私はキッチンに立ちナツに嫌いなものはないか尋ねると「ありがとう。大丈夫、なんでも食べられるわ」と答えた。


 料理は嫌いではなかった。前のルームメイトのアマンダは料理らしい料理をほとんどしなかったので、キッチンは私の独壇場だった。料理はミセス・ブラックウィングが教えてくれた。でも、その彼女の料理もマリーズゲストハウスのマリーに教わったものだとかで、白人らしからぬソウルフード風やクレオール風のものが多かった。オクラのガンボやポークビーンズ、キャンディヤム、ジョージアピーチコブラ。私がそれらのものを作るとアマンダは不思議そうな顔をしたものだ。南部の料理には差別はないのね、と。私は彼女の言葉にこう答えた。「人は人を差別しても、料理は食べる人を差別しない」それはミセス・ブラックウィングの言葉でもあった。


 私はキドニービーンズと豚肉を煮込み、じゃがいもを茹でた。難しい料理じゃない。秘密はスパイスの使い方。ミセス・ブラックウィングが教えてくれた色々な種類のハーブやスパイスをミックスして使う。なんとも言えないいい匂いが部屋中に溢れる。


 荷物を片づけていたナツが鼻をひくつかせながら、キッチンに来て鍋の中を覗きこんだ。


「美味しそう」

 そう言ってにっこり笑う。


「もうできるから」

「何か手伝うことはある?」

「じゃあ、そっちにお皿があるから並べておいてくれる?」


 なんだろう、この緊張感は。私は妙にどぎまぎしている自分に気がついた。目の前を行き来する女の子は無機質で、なんだか中性的だ。色気もなければ、女らしさも感じない。と言っては失礼だろうか。綺麗な顔をしているし、体の丸みや胸の膨らみはちゃんと確認できるけれども。


 こんな女の子は見たことがない。今まで自分の周りにいたのは、いや、概ねこの国の女の子達はある一定の年齢になると女という性別を忠実に体現するようになる。性的嗜好はさておき。自分たちの外見が「女性」という特徴を持つ以上、それを最大限に活かすような服装や化粧を選ぶのだ。脚を出し、胸元を広げ、細い腰や大きな胸を強調するような。


 私は、着飾る女の子達を綺麗だと思うよりも先に「女くさい」と感じていた。それはつけすぎた香水のようにぷんぷんと辺りにまき散らされるもので、過剰なフェロモンだかホルモンだかはうんざりするほど濃厚で、却って気持ちを萎えさせる。私には彼女達のお洒落は女の業のように恐ろしいもののように見えていた。


 ナツはジーンズにチェックのシャツという格好で化粧っけはなかったけれど、シャツのボタンを二つはずして華奢な鎖骨を覗かせている。屈むと紺色の下着がちらと垣間見える程度には女性的なところもあるけれど、それが却って未成熟な印象を与える。


 私は冷蔵庫から白ワインの瓶を取り出し、鍋を直接テーブルに運んだ。グラスにワインを注ぎ、ふと思いついて手を止めた。


「ナツ、何歳?」

「え?」

「飲んでも大丈夫? というか、飲める?」

「飲めるわ。もちろん。私、二十三よ」

「年上なの?」


 私は驚いて彼女の顔をまじまじと見つめた。ナツは笑いながら椅子に腰掛け、ワインのグラスを受け取った。


「年下だと思ってた」

「新入生だから? でも、そうよね。そう思うわよね。私、日本で大学を出てるの」


 皿に料理を盛ってやるとナツは続けた。


「コンテンポラリー……とりわけジャズをやるにはアメリカに来ないといけないと思って」

「……なるほどね」

「サラは出身はどこ?」

「南部」

「ジャズの本場ね」


 ナツは感嘆の声をあげた。確かに、南部はジャズやブルースの本場だ。でも私は彼女の言うところのジャズが都会的な洗練されたもののことなのか、それとも南部の泥臭くて熱い本物の音楽なのかは分からなかった。自分が知っているジャズは、マリーズゲストハウスの食堂で週末に開かれていたジェイミーとマリー、それからレイ先生のセッションだ。温かく、時に激しく、人生そのもののようなグルーヴ。私は急に故郷が懐かしくなった。町を出て以来一度も帰ったことのない故郷、帰りたいとも思わなかった場所。


 私とナツはグラスをかちりと合わせた。料理を口に運ぶとナツは「美味しい!」と声をあげ、目を見開いた。


「すごいわ。お料理上手なのね。こんなの食べたことない」

「南部の家庭料理よ。別になんてことないものだけどね」

「私、料理なんて何にもできないわ」


 こうして見ると無邪気だな。私はナツが料理を食べるのを眺めながら、その生気に満ちていく表情の変化に安堵した。人間らしい顔だ。美味しいを連発しながらどんどん料理をたいらげていく。外見とは裏腹に旺盛な食欲を見せるのが、いい。お人形ではないのだ。当たり前だけれど。私はナツの鮮やかでいきいきとした瞳の輝きを美しいと思った。この子は美しい。


 食事をしながら私はアマンダがかつて私にそうしたように同居のルールについて話した。


 各自の部屋に無断で入らないこと。共有のスペースの掃除は交替で行うこと。バスルームについて。シャンプーなどの消耗品を無断で使わないこと。台所を使ったら片付けること。食器も各自で洗うこと。冷蔵庫は互いの所有区分を決め、人のものを食べたりしないこと。


 ナツはそれらを神妙な顔つきで聞き、ひとつひとつ生真面目に頷いた。


「細かいと思うかもしれないけど、はじめにちゃんとルールを決めておいた方がトラブルにならないから」

「練習は?」

「え?」

「練習は何時まで大丈夫?」

「ええと、楽器の練習ってこと?」

 ナツはこくりと頷く。


「私は九時以降は弾かないことにしてるけど……。でも、他の部屋の子は遅くまで弾いてることもあるわ。人それぞれね。もちろんあんまり遅いと怒鳴りこまれるけど」

「九時ね。分かった」

「でも、あなた、楽器がないじゃない」

「だって日本からピアノ持ってこれないもの。こっちで中古かなんか買うつもりだから」


 そうか。私は不意に合点がいった。すでに日本で大学を卒業していて、まだ尚、進学しようなんていうのは余裕がなければできない。彼女もシリルと同様に裕福で幸福な子なのだ。


 私のチェロはレイ先生の奥さんが譲ってくれた練習用のものだ。彼女の楽器を弾けることは私にとって人生で最大の幸運であり、誇りでもある。レイ先生の奥さんに見出されなければ私はチェロなど弾いていないし、それどころか今頃は地元のスーパーでレジでも打っていただろう。貧しさに翻弄されながら。そう考えると私は苦学生ではあるけれども、自分を幸運だと思う。


「そういうお店、知ってる?」

「お店? ああ、ピアノ? そうね、ダウンタウンにいくつか中古ピアノ専門の店があるわ。良心的だって話よ」

「もしよかったら地図書いてもらえる? 明日にでも行きたいんだけど……」

「いいけど……。他にも買い物がたくさんあるんじゃない? 荷物少ないみたいだけど……。後から送ってくるの?」

「いいえ。私の物はあの旅行鞄一つ分だけ。私、何にも持ってないのよ」


 ナッシング? そんなわけないだろう。確かにここには何も持って来なかっただろうけれど、それは買えば済むからであって、なんでも手に入れることができるものを「何も持ってない」とは言わないのではないか。


 私の考えていたことが顔に出てしまっていたのか、それとも繊細でミステリアスな黒い瞳の持ち主は人の心が読めるとでもいうのか、ナツはワインのボトルを取り上げそれぞれのグラスに注ぎ足した。


「あまり物欲がないの。着替えが少しと、本と、身の回りのものがあればそれでいいの。ただピアノが弾ければ」

「欲がない? それは……信仰のせい?」

「信仰?」

「仏教徒はストイックだっていうから」


 私がそう言うとナツは一瞬意味が分からなかったのかきょとんとした顔で私を見つめ、それから頭の中で私の言葉がトランスレーションされたのだろうのけぞって大きな声で笑い出した。


 そんなにおかしなことを言っただろうか。彼女がなぜそんなにも笑うのか見当もつかなかった。でも、食事をすすめていくほどに生気を帯びていった表情の鮮やかさ同様に、大きな口を開けて声をあげて笑う屈託のない顔も彼女をとても魅力的に見せている。私は彼女がこれから始まる学生生活ですごくモテるだろうと思った。そして、そう考えながら笑う彼女の半ば見惚れている自分に驚いていた。


 ひとしきり笑ったナツは、

「ごめんなさい、あんまり突拍子もないこと言うから。仏教徒はストイックなイメージなの? 確かにそういう側面もあるかもしれないけど、私は僧侶じゃないから」

 と、眼尻に滲んだ涙を指で拭った。


「日本人のイメージよ。日本人は勤勉でおとなしくて、ストイックな感じがするんだもの。あと、保守的な感じも」

「私がそう見えるってこと?」

「分らないわ」

「そうよね。私もアメリカ人のイメージは陽気で、大雑把で、個人主義なイメージだわ。でも、あなたがそうかどうかは分からない」


 気がつくとワインのボトルは空になっており、料理もあらかた食べつくされていた。私は本当に驚いていた。一体いつから自分はこんな風に初対面の人間と気軽に話し、笑い、打ち解けたりできるようになったのだろう? 人を見れば尻ごみし、極力言葉を交わさないですむようにひっそりと生きていたはずなのに、今はどうだろう。目の前の黒髪の女の子は外国人で、時々ちょっと変な英語や発音をするけれど、相手に何かを伝えようとする意思ははっきりとあって、そのひたむきな感じはこちらに自然と受け皿を用意させる。


 自分の言葉を真面目な顔で聞き、理解しようとする態度も、外国人であるが故に注意深く言葉を拾おうとしているのだろうけれど、それ以上に向き合ってくれていると思わせる。純真さは隠せはしない。育ちや素性を隠せないのと同じだ。


 食事を終えるとナツは作ってもらったから後の片付けは自分がやると言った。私は頷いてそれに任せ、自分はマキネッタをコンロにかけた。シンクの前に立ち食器を洗う手は使い込まれたもので、不似合いなほど節くれだっていた。いかにも力強そうな指だ。この手でどんな音楽を奏でるのだろう。ナツの隣りで彼女が「ルームメイトがあなたみたいな人でよかったわ」と言うのを聞きながら、私は自分の胸が痛みにも似た感覚で波立つのを感じていた。窓の外で車のクラクションが一度鳴る。コーヒーの香りが漂い始めた。恋の始まりがこんな風だとは一体誰が予測しただろうか。それとも恋とはこういうものなのだろうか。これが一目惚れというやつ? そんな現象が自分に訪れるなんて想像もしなかった。


「いい匂い」


 ナツがこちらを見上げてにっこり笑った。私も微笑み返した。ようやく訪れた恋にむかって。



 最初の晩は私のシャンプーや石鹸を使うよう告げ、タオルも新しいものを用意した。彼女の部屋を覗くと、クローゼットには「洋服は全部でこれだけ」と言うだけあってほとんどのスペースが空いていた。私はアマンダがいた頃、このクローゼットが衣類やその他の物で溢れていたのを思い出し苦笑いした。


 べッドにはシーツも枕もないので、洗い替えの予備のシーツを渡すとナツはそれを広げて、

「必要なものがたくさんありすぎてメモを取らないとだめね」

 と妙に神妙な面持ちで言った。


「とにかく練習の用意をしないと」

「真面目なのね」

「……私、才能ないから」

「え?」


 私は彼女の言葉の意味が一瞬飲み込めなくて、ベッドを整えてそこにちょこんと腰かける姿をじいっと見詰めた。どういう意味だろう。才能がないって? 彼女は何か違う言葉と言い違えているのだろうか? ここでは自らをそのように評する学生はいない。競争心に燃える分だけ自惚れが強く、愚かなほどひたむきに自分を信じている。無論、他者を認めることはするが、それと自分の才能の有無は別だ。


 確かに才能なんてものを全員が持っているわけではない。でも、だからこそ信じたいのだ。でなければ、果てしなく続くようなレッスンやいくつもの課題、オーディションなど到底やっていけない。信じることだけを頼りに進まなければならないのだから。


 夏は立ち上がり本棚に数冊の本を並べている。どれも日本語でどんな内容かは分からない。楽譜の束を置き、その横に写真立てを置く。近寄って見るとナツを真ん中にして恐らくは友人だろう人々が彼女を囲んでいる。


「明日、ピアノを探してくるわ。とにかくピアノがないと始まらない」

 独り言のようにナツが言う。


「……よかったら一緒に行こうか?」

「本当? 迷惑じゃない?」

「全然。他にも買い物するなら付き合うわ」

「いいの?」

「いいのよ。私はまだ授業も始まらないし」

「ありがとう。助かるわ。本当は一人でどうしたらいいか分からないし、不安だったの」


 何時に出かけるかを決めると私はナツの部屋を後にした。才能についてはもう触れることはできなかった。それは彼女の言葉の選択ミスではなく、何かもっと固く閉ざした追及すべきではないもののように思えたから。


 翌朝、私が起きるより早くナツは起き出して台所で不思議な匂いのするお茶を入れていた。


「おはよう」

「おはよう、夕べはよく眠れた?」

「ええ」

「それ、なに?」


 ナツは葉っぱや木の実のようなものの入った茶色い液体を濾している。


「これね、お茶。なんて言ったらいいのかな……。色んなハーブや木の実をブレンドした……薬草茶? みたいなもの。体にいいの」

「美味しいの?」

「飲んでみる?」


 すすめられてカップを取り匂いを嗅いでみる。香ばしくて、焚き火を思わせるような匂いだ。一口啜ると苦くもなければ甘くもない。むしろ何の味もしないような気がする。私がそう感想を述べると、ナツは「カフェインが入ってないから物足りないのかもしれない」と言った。


「まずくはないわ」

「でも美味しくもないでしょ? 私もこれが特別美味しいと思ってるわけじゃないの。もっと美味しいお茶他にあるもの」


 私はマキネッタで自分のコーヒーをいれる。


「そっちの方がだんぜん美味しそうね」


 ナツはテーブルにつき、自分のお茶をゆっくりと飲みながら地図を広げている。よく旅行者が持っているボストン市内の地図だ。


「私、方向音痴なの」

 言いながら、真剣な顔つきで地図を睨む。


「迷子になるほど複雑なところじゃないから大丈夫よ」

「だといいけど。でも地図は手放せないわ」


 ナツの指先が大学の位置をなぞり、それから今いる寮への道筋を辿る。見れば見るほど力強い手をしている。私は早く彼女のピアノを聴いてみたいと思った。


 私たちは朝食もそこそこに部屋を出た。陽射しはまだ夏の名残りで通りを照りつけている。レンガの建物が多い区域で、それらが干からびたように見える。


 地下鉄の駅へ向かいながらナツはきょろきょろと通りに面した店を見ていた。その姿は自分が初めてここへ来た時と同じだった。未知との遭遇のような気持ち。こぢんまりした食糧品店、本屋、雑貨屋、カフェ。どれも自分の育った町とは違って都会の雰囲気を醸し出している。見れば見るほど自分が田舎者だと思い知らされるような、それでいてわくわくするような冒険にも似た気持ち。彼女もそうだろうか、私はそっと尋ねてみた。


「ボストンは気に入りそう?」

「そうね、公園が多くて緑があって素敵だと思うわ。綺麗なところよね。建物も素敵だし、お店もお洒落だし。やっぱり外国だなあって思う。サラの故郷はどんなところ?」

「……暑いところよ」

「ああ、南部だから?」

「そう。とにかく暑くて……何もない、田舎町よ」

「私の育ったところもそうよ。田舎よ。何にもないところよ」

「イメージわかないわ」

「でしょうね。東京と京都だけでしょ。テレビで見るのって」


 ナツはパン屋のウィンドーをじいっと凝視してから、すっとこちらを見上げた。パン屋の前には小さなベンチが置かれており、そこには老夫婦が座って買ったばかりのクロワッサンを楽しんでいるところだった。


「海の近くの、小さな町よ。いいところだけど、あそこにずっといることはできないわ」


 私はナツの言葉にぎくりとした。自分のことを言われているのかと思ったのだ。あそこにずっといることはできない。あのままあそこに居続けるのは、人生の終わりを意味していたから。


 地下鉄のホームへと続く階段を下りながら、ナツは続けた。地下鉄の駅は換気が悪いせいかむうっとした淀んだ空気に満ちている。


「田舎にはチャンスがないから」


 彼女の言わんとすることはよく分かった。彼女の故郷がどんなところかは分からないけれど、都会にいる方がチャンスは多いのはどこの国でも同じだろう。それにチャンスというものは目的の明確な者にのみ見えるものであり、掴みうるものだ。きっぱりと言い切るぐらいだからナツには目標がはっきりとしているのだろう。


 私たちは地下鉄でダウンタウンへやって来ると、中古ピアノを求めて何軒かお店を見てまわった。チャンスという言葉を使うだけあってナツのピアノ選びは実に熱心で、真剣だった。


 ピアノを前にするとナツの表情は俄然厳しいものになり、おっとりした話し方とは打って変わって口調は別人のように強いものになった。ピアノに関する質問を店員にする時も、言葉には針金でも通すかのようなぴんとした緊張感があった。


 しかしそれらの交渉の間にもナツは私を省みては、

「つき合わせてごめんなさい」

 と申し訳なさそうな顔をした。


 四軒目の店でナツは古いアップライトピアノに目を留めた。その店はビルの一階にあり、白髪の老人が一人で店番をしているきりのどこかひなびた雰囲気で、私は思わずナツの肘をひいてそっと耳打ちをした。


「ここはちょっと違うんじゃない?」


 同じ中古とはいえ、他のピアノより明らかに古いそれは私のように専門外の者でもプロを目指そうかという人間の練習にはどうだろうと思うようなものだった。


 けれど、ナツは私の言わんとするところの意味は分かったらしいが、

「でも、これが気になるのよ……」

 と呟いた。


 最初の店で見たものはいいピアノだったが、その分だけなかなかの値段だった。ナツは悩んでいたようだったけれど、悩む余地があるということはそれは恐らく彼女に買えないものではないということなのだろう。四年間の学生生活を左右するのだから、少しでもいい物を買った方がいいのではないか。私はそうアドバイスしたりもした。自分のことは棚に上げて。


「古いけど、いいピアノだよ」


 私たちがこそこそやり取りしているのを見ていた老人がデスクを離れてこつこつと靴音をさせながら、こちらへやって来た。


 老人はブルーのボタンダウンシャツの襟元をきっちり留め、袖口をロールアップした格好で、

「メンテナンスは行き届いているから、弾くのに何の問題もない」

 と言いながらピアノの蓋を開けた。傍らのナツをそっと窺うと、真剣な顔で老人の手もとを見つめていた。


「君たち、学生だね」

「ええ、そうです」


 老人はぽんと鍵盤を一つ叩いた。瞬間、奇しくも私とナツは同時に「あ」と声を漏らした。


 この音。マリーズゲストハウスのピアノの音だ。どこかくぐもったような、奥底に秘めた力強さと温かさがある音。私には懐かしい音だ。


 ナツがなぜ声を漏らしたのかは分からなかった。何か心の琴線に触れるものがあったのだろうか。私はまたナツの顔色を窺った。


「あの、弾いてみてもいいですか」

「もちろん」


 私はナツの咽喉がごくりと隆起するのを見逃さなかった。声は震えていた。


 ピアノの前に腰かけるナツを見つめるうちに、なぜかこちらまで胸がどきどきして息が苦しくなった。そのぐらい真剣な顔だった。


 ナツはまるで恐ろしいものに触れるような、または大切なものに触れるような怖々とした動作で鍵盤の上に両手を置くと「バードランドの子守歌」を弾き始めた。


 なぜその曲を選んだのかは分からないけれど、ずいぶん古い曲を弾くんだなと思い、それと共に彼女がボストンへやってきて何を学ぼうとしているのか、その理由が目の前で「音楽」という形になって浮かび上がってくるようだった。


 確かに彼女はコンテンポラリーを学びたいと言った。とりわけ、ジャズを。その言葉が真実であるのが分かる演奏だった。日本で誰かに師事したのだろうか、それともこのアレンジは独学? ナツのタッチは軽快で滑らかで、奏でる旋律は正確でただひたすら美しかった。相当練習しているのが分かる音だった。テクニックも。


 さすがだわ。私は単純に彼女の演奏を素晴らしいと思った。努力の賜物であるのは誰が見ても分かるだろう。けれど、正直なところ「それだけ」だと思ったのも事実だった。


 ジャズに詳しいわけではないけれど、彼女の演奏は私が故郷のあの田舎町で聴いていたものとは違っていた。ジャズやブルースの盛んな町。無論、誰もが音楽をきちんと学んだわけではない。マリーズゲストハウスのジェイミーもピアノは独学だと言っていた。しかし、彼のピアノから放出される熱量。スイング。ジェイミーのピアノは歌っていた。ピアノそのものが、歌っていた。力の抜けた自由な感じも素晴らしかった。今聴いたナツのピアノよりも、格段に。


 下手ではない。でも、自然じゃないし自由じゃない。正確で完璧だけれど、歌っていない。即ち、それはジャズじゃない。


「……ずいぶん古い曲が好きなんだね」


 傍らに立っていた老人が言った。弾き終えたナツは右手で胸を押さえ、心を落ち着かせようとするかのように深呼吸をしていた。


「好きな曲なんです」

「いいアレンジだ。弾き方を心得てるじゃないか」

「……私のうちにもこんなピアノがあったから」


 そうか。それでか。彼女の中の何か懐かしいもの。ピアノの音に思い出が呼応したのだろう。私はそっと尋ねた。


「大丈夫?」

「ええ。大丈夫。ちょっと、いろいろ思い出しちゃって。私のピアノもこんな古いピアノだったの。古くて、くもった音のするピアノ……」

「こういうのはレッスンには向かないんじゃない? 個性的すぎると思うんだけど……」

「……でも、完璧な調律で、クリアな音で、完成された音で弾くのは……もういいような気がするの……。そういうのならさんざんやったもの……」


 私はまたしても「あ」と思った。彼女は自分に何が足りないかをちゃんと知っているのだ。自分の演奏が「ジャズ」になっていないということを。上手いけれど、魅力的ではないということを……。


 私は悲しいような嬉しいような、なんともいえない気持に胸の中がすうっと冷たくなるのを感じた。彼女の努力と苦悩に触れたような気がして。それはまっさらな手つかずの新雪のようで、手を伸ばせば届くのに、触れてはいけないような気にさせられる処女性のようなものだった。


「これにします」


 ナツは立ち上がり、はっきりとした口調で言った。背筋のぴんと伸びた美しい立ち姿で、口元にはうっすらと微笑さえ浮かべていた。


「頑張って練習するといい」


 老人はナツにそう言うと肩をぽんと叩いた。


 私は彼らが購入の手続きをする間、ただナツの横顔を見つめていた。強い意志の表れる横顔を。



 部屋にピアノが運び込まれるまで一週間ほどかかると言われ、ナツは落胆している様子だった。新学期の開始は目前だった。


 ナツは練習しなければという焦りがあるのか、キッチンのテーブルでお茶を飲みながらくつろいでいるような時でさえも楽譜を広げ、真面目な顔で音符を目で追い、テーブルの上で指を動かしたりしていた。


 私はというと、昼間はカフェのアルバイトに行き、夕方に部屋に戻って練習をするという相変わらずの毎日だった。


 自分の部屋で練習する間、ナツは部屋で聴いているジャズを止めこちらに耳を傾けているらしかった。気配を消すように静かにしているけれど、そうされればされるほどナツの存在を感じずにはいられなかった。


 それはある種の緊張感。ステージに立って聴衆を前にするのと同じだ。彼女が私の音楽を聴いていると思うと必要以上に胸がどきどきした。


 こんな風に他人の存在を意識するのは初めてだった。高校の時に初めて上級生の女の子を意識したのとはまた違った感触だった。私はレイ先生に頼んで録音してもらったピアノ伴奏に合わせて何度も繰り返し練習する。弓を動かし、左手でビブラートをかけ、納得できるまで何度も繰り返す。それをナツが聴いていると思うとますます緊張する。


 未完成であるからこそ練習するのだけれど、私は不完全な自分の演奏を不様だと思った。ナツがこんな演奏を聴いていると思うと恥ずかしくてたまらない。彼女はあきれているかもしれない。下手だと思っているかも。


 そうなるとネガティブな考えは坂を転がるようにいくらでも転落していく。下手くそな上、太っていて、醜い女だと思っているかもしれない。貧しくて、育ちが悪いと軽蔑しているかも。私の生い立ちなど彼女が知るはずもないのに。


 私はナツに良い印象だけを与えたかった。いい人だと思われたかったし、他の学生よりも才能があると思われたかった。


 不思議なことにこれまで他者と争うことに積極的ではなかった私が自ら進んで競争に身を投じようとしている。それもナツの為に。私はナツに好かれたいと思っている自分をはっきりと自覚していた。そして、そんなこと考えても決して私の願いは成就されないこともすでに知っていた。


 私の目にはナツは到底レズビアンには見えなかったし、そんな片鱗もない。それを証拠づけるものが彼女の部屋のベッドの横の壁に貼られているのも知っている。


 べッドの横の壁にアマンダがピンであけた無数の穴の後に、ナツもたくさんの絵や写真を貼っていた。絵はスケッチブックから破り取ったものや、広告の裏の落書きみたいなものまであり、木炭のデッサンだったりマーカーだったり、絵の具だったり様々だった。私がそれらについて尋ねると、ナツは同じく壁に貼った一枚の写真を指差し「彼が描いたの」と教えてくれた。


 写真には日本家屋のポーチのようなところに座って煙草を吸っている髪を肩まで伸ばした男の子が写っていた。


「絵を描く人なの。今は世界を旅行中」

「旅行?」

「放浪の画家なのよ」

「それで、最後はあなたのところに戻ってくるのね」

「私のところ? そんなことは、ないわ」

「どうして?」

「だって私、恋人じゃないもの。彼は友達。親友」

「……そうなの?」

「そうよ」


 ナツは嘘が下手らしい。写真の彼を本当に純然たる友達だと思っているとは信じられなかった。そんなことは目を見れば分かる。


 放浪の画家からの絵葉書はフランス、イタリア、ドイツなど様々な所から送られていて、いかにも観光地らしい土産物屋で売っているような絵柄で、書かれた文面は日本語で私には読めなかったけれど、ナツには特別な意味のあることだけは分かった。大切そうに、愛しそうに、それらを見つめる視線。それは、恋だ。今や恋する者の仲間入りを果たした私には同じく恋する者の視線はすぐに分かるし、見逃さない。


 彼女が写真や葉書を眺める時、私は自分の中に生まれて初めての感情を見出す。嫉妬だ。どんな人か知る由もないが、あんな風に見つめられるなんて。

 嫉妬はどす黒い感情だ。私はそれに飲みこまれないよう、抗うようにして練習に熱をいれる。彼女が聴いていると思えば、余計に。写真の男を頭から追い出さんと必死で。でも、彼女の心から彼を追い出すことは私にはできないと、これもやはり私はすでに知っていた。


 ナツは私が留守にしている昼間に近所を探検してみたり、大学を探検しに出かけていたが、ある日その帰りに私がバイトしているカフェに顔を出した。

 カフェの入口にナツが立った時、店内には同じ大学の学生たちがたむろっていて、その中にはシリルも混じっていて楽器のケースを傍らに置いてコーヒーを飲んでいた。


 ナツに目を留めた学生の一人が不意にテーブルの脇を通った私の腕を捕まえると、

「サラ、あの子、君のルームメイト? ピアノを弾く子だろ? 日本から来た」

 と尋ねてきた。


 折しもすうっと滑るように店へ入ってきたナツを指差す。


「……そうよ。どうして知ってるの?」

「やっぱりな」

「やっぱりってどういう意味?」


 私はたぶん動揺していたのだろう。ナツが突然現れたことと、シリルと一緒にいた仲間たちが彼女に目を留めたことに。シリルはそんな私の様子を黙って見ていたが、ナツがにっこり笑ってこちらに片手を挙げると、小さく口笛を吹いて言った。


「きれいな子じゃないか」


 ナツは臆することもなくこちらへつかつかとやって来ると、あの特徴的な澄んだ瞳でこちらを見上げ、

「忙しそうね」

 と言った。


「そうでもないわ。どうしたの、一体」

「どうって、別にどうもしないわ。コーヒーを飲みに来ただけよ」

「どこか出かけてたの?」

「大学のレッスンルームが使えるって聞いたからちょっと練習してきたの」


 私はナツにカウンターの席を案内しようとした。が、それを素早く察知したのか口を挟んだのはシリルだった。


「こんにちは。君がサラのルームメイト?」

「はい、そうです」

「そうじゃないかと思ったんだ」


 シリルは満足そうに一人で頷いた。


 私はシリルに日本人のルームメイトの事をすでに話していた。長い黒髪と細い手足、大きな目をしていて綺麗な子だ、と。英語も悪くないし、真面目そうだとも。日本の大学を卒業していることや、恐らく裕福だろうことも。それから、素直そうな性格で、暮らしぶりも几帳面であることも。


 シリルは感心したように「君がそんなに褒めるなんて、よっぽどいい子なんだな」とか「いい子が来てよかったね」と言い、「早く会ってみたいな」とも言っていた。まさかこういうタイミングだとは想像もしなかったけれど。


 さっき私にナツのことを尋ねた男の子がシリルの肩に自分のそれをぶつけ、嬉しそうに、何かのゴシップを興味津津で吹聴するように話し始めた。


「噂の彼女だよ!」

「噂?」


 思わず私もオウム返しに繰り返す。シリルのテーブルにいる連中が皆ナツの顔を見ている。


 ナツは困惑したような顔で私に助けを求めるような視線をよこした。私にも彼らが何を言っているのかさっぱり分からなかった。


 シリルの仲間が興奮気味に口を切った。


「今年の一年生にすごい日本人がいるって、大変な噂だよ。君のこと、みんな知ってるよ」

「そんなの嘘よ、ただの噂よ」


 ナツは困ったように手を体の前で振って言下に否定した。が、誰もそれを信じないらしく、隣にいた他の男の子までが身を乗り出すようにして、

「嘘なもんか。だって、君、もうマエストロ・グレインのレッスンに選ばれたらしいじゃないか。彼のレッスンを受けられるなんて限られた学生だけだ。彼が優秀な生徒しか教えないのは有名だからね。まだまともに授業も始まってないのに、ご指名だそうじゃないか。皆が噂するのも当たり前だよ」


 ナツはますます困った顔をして言葉を探しているようだったが、私は彼らの話にただただ驚くばかりだった。そんなに彼女が優秀だなんて、知らなかった。彼女はそんなこと一言も言わなかった。ニューヨークから来た新進気鋭の音楽家のマエストロ・グレインの個人レッスンを受けるなんて。それがどれだけ凄くて、羨ましいことかは私にも分かる。


「……それは、日本から推薦があったから……私の先生とマエストロが親しいとかで……コネってわけでもないんだけど……」


 ナツはもごもごと口の中で小さく呟いた。謙遜というよりひたすら困惑しているような様子だった。でも、彼女だってマエストロのレッスンを受けるのがどれほどのことかは理解しているはずだ。彼の名声が日本に届いていないはずがないのだから。それに、彼が昨年からここの大学に教えに来ることになって以来、彼のレッスンや講義を受けたい者で入試の倍率があがったぐらいなのだ。


「ほら、だから、君は優秀だってことだろう」


 ひとしきり騒がれて、すっかり委縮してしまったらしいナツは自分の座る場所を見つけようと視線を店内に走らせた。


 その様子に気づいたのはシリルで、慌てたように立ち上がると右手を差し出した。


「ごめんごめん。自己紹介が遅れたね。僕はシリル。サラの同級生。彼らも同じ授業をとってる友達だよ」

 と、仲間たちを省みて一人一人の名前を紹介した。


 ナツはまだ少し固い顔をしていたけれど、かろうじて一人一人に対して挨拶を返した。


「ナツ・ワタナベです。はじめまして」

「……ナツ、コーヒーでいいのよね?」


 私は握手を交わす二人に割って入ると、ナツにシリルの隣に座るように言ってから彼女のコーヒーを入れるべく自分の仕事に戻った。


 ナツはその美しさと聡明さですぐに彼らの仲間入りを果たしたようだったけれど、私には彼女の微笑の端に垣間見えるどこか暗い、不安のようなものを見逃さなかった。


 緊張しているのだろうか。それともそんな風にあれこれ詮索されるのが苦手なのだろうか。そういえば彼女は自分のことはあまり話さない。それは私自身もそうだから分かるのだが、他人を警戒するあまり控え目にしたり、人当たりよくしたりするのは自分を固い殻で鎧っているようなものなのだ。誰にも心に踏み込んでほしくなくて。


 そうするだけの理由が彼女にもあるのだろうか。ナツに対して抱いていた淡い恋情に親近感のような色合いが備わっていく。


 私はカウンターでカフェ特有の厚ぼったくて大きなマグになみなみとコーヒーを注いだ。薄くて熱いアメリカ式のコーヒーだ。


 シリルは彼女に向きなおり、何事か熱心に話しかけている。ナツは神妙な面持ちで相槌を打っている。ふと私はシリルとナツの並ぶ姿にちくりと胸が痛んだ。


 シリルのような整った顔立ちと才能、裕福な生活があれば、大抵の女の子は彼に恋をする。無論、その恋は不毛に終わるのだけれど、それでも果敢に挑戦する者は後を絶たない。私は有り得ないと思いつつも、彼らの並ぶ姿が絵に描いたようにお似合いだと思い、思う自分自身に傷ついていた。


 ナツにコーヒーを運ぶと、シリルは美しい金髪をかきあげ高揚した目で私を見た。


「サラ、感謝祭のコンサートだけど、彼女と三人でトリオを組むのはどうかな」

「えっ」


 シリルは素晴らしいことを思いついたかのように急き込んで続けた。


「もう彼女の演奏は聴いたんだろ?」

「聴いたことは、聴いたけど……」

「彼女が素晴らしいってことはすでに分かってるんだから、問題ないだろ?」

「なんのこと?」


 ナツが私を見上げて尋ねた。その黒い瞳に私の胸は再びざわめく。


「私とシリルは毎年一緒に弦楽四重奏とか、色々な合奏をするの。感謝祭やクリスマスのコンサートにも出るから……。それには伴奏者がいるから……」

「それを私に?」


 ナツは驚いて私とシリルを交互に見た。


「それは無理よ。二人の邪魔しちゃうわ」

「冗談だろ? 君がすごい才能の持ち主だってことはもう知ってるんだから。今年は何か新しいことをやろうってサラと話してたんだ。ジャズでもいいし、ラテンでもいい。新しいアレンジで、新しい音楽に挑戦しようって。君が一緒にやってくれると絶対素晴らしい演奏ができるよ」


 シリルは今にもナツの手を取らんばかりに熱弁を揮った。


「一年生がオーディションを受けるのは、ちょっと準備が難しいんじゃない?」


 私はナツを否定する気はさらさらなかった。彼女が上手いのは分かるし、学内で噂になるほど優秀であることの前評判があるなら恐らく一年生といえどもオーディションに通る確率は大だ。でも、彼女と三人で組むというのには素直に賛成できなかった。


 嫉妬。私は嫉妬していた。シリルの魅力に。彼と自分を比べるなんて馬鹿げたことだけれど、それでも嫉妬せずにはおけない。私はナツとシリルを並べて見たくなどないのだ。音楽性だとか、新しいことへの挑戦だとかよりもただ単純にそれだけの理由で彼女と組むことをしたくなかった。


「サラの言う通りだわ。私、まだ来たばかりで練習もできてないし、あなた達の邪魔はできないわ」


 ナツは自分への援護射撃だと思ったのだろう。安堵したような顔で私を見た。


 私は自分をますます醜く、ずるい人間だと思った。嘘だらけの、腹黒い人間だと。ナツは邪気のない黒い瞳で微笑んでいる。私はそっと視線を逸らす。


 ナツはまだしつこくかき口説くシリルをよそにカップに口をつけた。そして「サラのコーヒーの方が美味しいわね、やっぱり」と言った。


 カフェのそっけないテーブル、シナモンロールの匂い、BGMにボサノヴァ。黒髪の女の子。


 ナツと一緒に演奏してみたい気持ちがまったくないわけではなかった。でも、そうすることが正しいのかどうか分からなかった。それは恋が自分から冷静さを奪い、正常な判断力を失ってしまうことを恐れるからでもあり、今がすでにそうなっているのだと思うと心は嵐のように乱れた。ただ彼女を遠くから大切に見つめていたい気持ちと、独占したい気持ちとが幾度も入れ替わり立ち替わり吹き荒れる。


 ナツが私のいれるマキネッタのコーヒーについてシリルに説明している間、私はもう上手く笑うことができなかった。



 ナツの部屋にピアノが運び込まれると共に大学の授業がそれぞれ始まろうとしていた。


 ピアノが部屋に備え付けられるとナツは大学はみんな才能のある子ばかりで授業についていけるか不安だとか、課題が多くて大変だとかいつになく饒舌になった。その様子から口では不安や心配ばかりを言うけれど、刺激的な授業に興奮していることが見てとれた。


 ナツはピアノが到着する前にここの学生としてはほとんど奇異なほどの気配りで、ピアノを置く場所に固くて厚地のマットを敷いた。理由を聞くとそれは「こうしておくと少しでも音を吸収せることができるから」と言った。「私、下手だから、弾けば弾くほど苦情がきたらいけないから」とも。


 私はナツのピアノは決して下手ではないと何度も言ったが、ナツは首を振って笑うだけだった。


 そうしてナツはピアノがきっちりと納まると、その日のうちからすぐに弾いて弾いて、弾きまくり始めた。部屋のドアを閉め切り、食事もしないで、こちらが驚くほどの集中力と情熱で鍵盤を叩いた。まるで飢えていたかのように。


 指の運動をはじめ、ショパンやモーツァルトといったクラシックを弾き、それからバードランドの子守歌、アイガットリズム、ボディアンドソウルといったナンバー。私はナツのピアノを台所のテーブルで聞きながら、彼女が評価されている「才能」というものについて考えていた。


 彼女はピアノが好きなのだ。本当に。心から愛しているのだ。それは練習する様子で分かる。いや、ピアノを選んでいた時から分かっていた。彼女が評価されているのはその情熱。ピアノにかける情熱。魂をこめようとしている姿。それこそが、才能なのだ。


 気がつくと私はナツの弾く懐かしい曲を口ずさんでいた。マリーズゲストハウスで何度も聴いた曲ばかりだった。それはいかに彼女がジャズやソウルやブルースといった音楽に心を傾けているかがよく分かる選曲だった。


 大学でのナツは著名な音楽家の授業を受けることを許された限られた生徒として、シリル達が言ったようにすでに有名だったけれど、私はそれだけが理由ではないことをすぐに悟った。


 皆が言っていた「噂」というのは彼女の才能を指しているだけではなかったのだ。他の学生たちが振り向き、彼女に注意を払う様を見れば分かる。ナツは一年生の中でも目立って美しかった。それがどういう事態を招くかは考えなくても分かる。私は自分のとっている授業でも男の子たちがナツの噂をしているのを耳にしたし、私が彼女のルームメイトと知るや質問を雨のように浴びせられた。


 彼女の性格について、暮らしぶりについて、才能について、そして恋人の有無。今のところ彼女に恋愛の兆しは見当たらない。大学と寮を行き来し、ピアノを弾く生活だ。週末になればデートの誘いもあるようだけれど、ナツがそれをOKしたということはない。私がバイトに出かけている間も部屋でピアノを弾いている。


 男の子たちは誰が最初に彼女をデートに誘うことができるかあちこちで盛り上がっていた。


 私はナツの部屋に貼られた何枚もの葉書や絵を思い浮かべた。彼女は壁に思い出を貼っているのではなく、現在もやり取りは続いており、つい昨日もニューヨークから手紙が届き、同封されていた写真を壁にピンで留めるのを私は見逃さなかった。


 今どき手紙なんて。そう言うとナツは「ほんとにね。でもスマートフォンだのタブレットだの、そんな気の利いたもの持ってる人じゃないから」と答え、手紙の主のことを「偏屈でアナログな芸術家」だと言った。写真には髪の長い日本人の男が自由の女神を背景にこちらを睨むような顔で写っていた。


「怖い顔」


 私はわざとそう言うとナツは気分を害する風でもなく、取り立てて弁明するでもなく、さらりと「やっぱりそう思う? なんでこんな怒った顔してるのかしらね。変な人」と言った。「優しい人なんだけどね」とも。


 自家中毒。不意にそんな言葉が脳裏に浮かんだ。私は嫉妬と苦悩のあまりその毒気に自分で当たっているような気がした。彼女に届く手紙の内容は分からないけれど、彼女の様子を見ると苦いものが口中に広がり咽喉を流れ落ちて胸の中を真っ黒く染めていくようだった。


 恋がどんなものかもはや私は知らないわけではない。彼女が恋をしているだろうことは疑いようもない。一体どんな人を好きになるのだろう、彼女は。考えれば考えるほど彼女は遠くなる。そして私は絶望的な気持ちになるのだった。



 ナツと暮らし始めて一か月がたとうとしていた。ナツは引き続き男の子達から何度もデートに誘われているようだったが、すべてを断り、とにかく部屋でピアノを弾いていた。彼女は噂通りの優秀で真面目な学生だった。


 秋の気配が漂い公園の木々も枯れた色合いに染まり始めた頃、レイ先生の奥さんから久しぶりに小包が届いた。中には私の好きなお菓子やチェロの弦、ハンドクリームなどのこまごまとした優しい心遣いの品が入っていた。


 包みを開けて中を取り出している私を見ながら、ナツは例の不思議な味のするお茶を飲んでいた。


「色んな物が入ってるのね」


 ミセス・ブラックウィングの手編みのマフラーを指差して言った。スモーキーなピンクの、模様編みのマフラー。レイ先生の奥さんは今でも私をかわいい女の子だと思ってくれている稀有な存在だ。


 私には到底似合うとは思えないマフラーを手にとるとナツは「これ、かわいいね」と丹念に編まれた模様に嘆息した。


「手編みでしょ。素敵なお母さんね」

「母からじゃないの」

「そうなの?」

「私の先生の……奥さん。コンテンポラリーを勧めてくれたのも奥さんでね。先生が地元のマリーズゲストハウスってダイナーでジャズピアノを弾いたりするからそれでだと思うけど、私にも地元で弾いて欲しいと思ってるんじゃないかしら」

「そんなお店があるのね。素敵じゃない」

「田舎のゲストハウスの食堂よ。娯楽のない町だから、週末はみんなそこに集まるの。私にソウルフードを教えてくれたのもその店の夫婦。マリーのコーンブレッドは最高だったな。懐かしいわ」


 私の好きなトレーダー・ジョーのコーヒービーンズチョコレート。レイ先生の奥さんは私の好物をずっと忘れないでいてくれる。


 レイ先生夫妻が本当の両親だったら。そう考えることは何度もあった。温かい家庭の空気や優しさは幻のように煌いていた。私が彼らの実の娘だったら、彼らと呑気にハーブを摘んだり、バラの世話をしたりしていただろう。マリーのところへも一緒に行き、ジェイミーのピアノの横に立って黙って彼の奏でる旋律に耳を傾けただろう。誰憚ることなく。


 しかし現実はいつだって私に冷たい。母が蒸発してしまってから、私は自分の立場というものを真剣に考えるようになった。


 その頃父はひどく飲んだくれて正気でいる時間はほとんどなく、あったとしても母が出て行ってしまったという事実に怒りを覚えるだけで、うっかり母の名を出そうものならひどい罵詈雑言を喚き散らし、下手したら八当たりの拳を揮った。


 だから。だからこそ私はレイ先生の家に憧れつつも、彼らに迷惑がかかるから必ず一線を引いていなければならないと思った。どんなに夢見ようとも彼らは他人であり、ボランティアで私に良くしてくれているだけなのだと自分に言い聞かせて。


 幸福な世界は自分にとって夢の世界だ。私は自分の孤独をいつも噛みしめて生きている。レイ先生夫妻はありがたい存在だけれど、私は早く彼らから自立しなければいけないのだ。


「優しい人達なのね」


 はっと我に返るとナツがマフラーを手に取り、首に巻いておどけたような顔をした。


「私にはこんな風に贈り物をしてくれる人はいないわ」

「日本に家族や友達がいるでしょう」

「いることはいるけど、離婚してるから。母親と暮らしてたんだけど、母は留学に反対で、喧嘩別れみたいになっちゃったし」


 マフラーを元に戻そうとするナツを私は制した。

「あげるわ」

「駄目よ!」

 ナツが驚いて大きな声を出した。


「せっかく送ってもらったのに、そんなの駄目よ」

「いいのよ。私、こんなかわいい色似合わないもの。ナツの方がよく似合ってる。私の代わりに使ってよ」

「そんなの悪いわ」

「いいのよ。先生のところって男の子ばかりだから、娘が欲しかったってよく言ってたわ。娘を持った母親のやりたいことを、やっているのよ」

「でも、誰にでもはしないと思うわ」


 ナツは箱に入っていた品々を改めて一つずつ手にとって眺めた。


「あなたみたいな娘が欲しかったのよ、きっと。だから良くしてくれるのよ」

「どうかしらね」

「そうに決まってる。サラがいい子だからよ。私はいい子でもなければ優等生でもなかったから、こんな風にしてくれる人いないもの」

「……ニューヨークから手紙が来るじゃない」


 口にしてから私は即座に後悔した。そんなことを言って、聞いて、何になるというのだろう。


「……そうね」


 ナツは少し考えてから低い声で答えた。笑顔は失せ、固い表情で箱にマフラーを戻す。何度見てもたくましい手をしている。目が離せない。


 余計なことを言っただろうか。触れるべきではなかったか。ニューヨークから来る手紙の内容についてまでは知る由もないが、何か悲しいことでも書いてあったのだろうか。まさか、別れの言葉とか。


「……感謝祭のコンサートのことなんだけど……」

「えっ?」

「昨日、マエストロからオーディションを受けるように勧められたの」


 ナツはお茶を飲み干してしまうと、長い指先でカップの縁を弄び、言いにくそうに黙った。


「不安なの? 大丈夫よ、あなたにとっていいチャンスだと思うわよ。マエストロがオーディションを受けるよう勧めたんなら、お墨付きがあるみたいなものじゃない」

「お墨付きなんてとんでもないわ!」


 ナツは強く否定したので私はびっくりして彼女の顔を凝視した。


「絶対褒めないんだから。もう、毎回ひどいけなされっぷりなのよ。そういう人だとは聞いてたけど、予想以上」

「気にすることないわ。厳しい人で有名なんでしょ」

「あの、手紙をくれる人、あの人も言ってた。私のピアノはつまらないって」


 私は気休めを言うつもりではなかったのだが、急にぎくりとして体が強張るのを感じた。


「難しい人なのね」


 かろうじて、言葉を継ぐ。


 ナツは溜息をこぼした。


「……うん。そうね。一度も褒めてくれたことない。私のピアノは真面目すぎて退屈で、聴いていて緊張して肩が凝るし、疲れるんだって」

「ひどい言い方」

「あなたも本当はそう思ってるんでしょ」

「そんなことないわよ。テクニックは素晴らしいし、リズム感も完璧よ」

「……そういうの、本当に必要? 本当に大事なことって他にあるんじゃないの」

「……」


 私はナツを抱きしめたい衝動に駆られたが、奥歯をぎゅっと噛みしめてその希望を粉々にかみ砕いた。そんなことできるはずもないのだから。


 やむなく私は言った。


「認められたいのね? 彼に」

「……」


 ナツはもう何も言わなかった。しかしその沈黙がそのまま答えだった。


 私は大きく息を吐き出した。多くを望むまい。望みはいつも叶えられないことの方が多かった。そのことにいつも傷ついていた。ならば、望まなければ。願わなければ、傷つくことは回避できる。


 私が誰かにそばにいてほしいと思った時、それが叶えられたことは一度もなかった。子供の時分に風邪で熱を出した時だって、そばにいてほしかったのに母はいなかった。初めてコンクールに出た時も客席に母はいなかったし、高校を卒業する頃にはとっくに母の存在そのものが消えうせていた。


 だからこそ、誰かが私を望んでくれるのなら、私はそれに応えたいと思う。私の子供時代の為にも。

 私は心を決めて、言った。


「……シリルと三人で、何をやるか相談して決めましょう。早く練習しないといけないから」

「いいの? 本当に?」


 私はこくりと頷く。そしてナツが箱に戻したマフラーを再び取り出し、彼女の首に巻きつけてやった。ナツの黒い瞳が安堵と共に涙に潤んでいるように見えたが、私ももうそれ以上なにも言うことはしなかった。



 シリルと三人で会って話したのはその週末だった。


 ナツと組んでオーディションを受けようと言うとシリルはものすごく喜んだ。そして週末にミーティングがてら食事をしようということになり、私とナツは招かれて彼の瀟洒なアパートメントを訪れた。


 一人暮らしだけれどメイドが通ってきているので部屋はいつも清潔で、むしろ整いすぎていて生活感がないぐらいで、私はこの部屋が苦手だった。


 ナツはドアマンのいるエントランスや美術品のような大きな壺にふんだんに活けられた花などに感動しているようで、エレベーターの中で私に「すごいわね。映画やドラマみたいだわ」と耳打ちした。


 出迎えてくれたシリルはフランス的な挨拶をナツの頬に右・左としてから、私にも同じようにしてくれ、本当に嬉しそうに、無邪気といってもいいほどの笑顔で、

「君たちと組むって聞いたらみんな怒り狂ってたよ。僕は本当にラッキーだよ」

 と言ってナツの肩に手をまわした。


 私たちは部屋に招じいれられると、ダイニングテーブルにすでに用意されていた料理に目を見張った。


「すごい!」


 ナツは目を輝かせ、私を振り向いた。


 シリルの親の意向で、シリルのところの来るメイドはフランス人と決まっているらしく、彼女が用意したのであろう料理がいくつも皿に盛られ、ワイングラスやカトラリーがきちんとセッティングしてありディナーの用意は完璧だった。それこそ映画やドラマのように。


 そもそもシリルの生活は学生の中でも飛び抜けている。とにかく裕福なのだ。高価な楽器と個人レッスン。高級アパートメントに、メイド。多くの学生がぼろぼろのデニムを穿いたり、中華のデリバリーを食べたり、安いバーでたむろったりしているのに、彼だけは違っている。そしてそれをやっかまれたりしないのは、やはり彼に才能があるからなのだ。


 実際私は彼がいかに練習しているかを知っているし、彼の生い立ちも聞いたことがある。子供の頃からひたすら音楽だけをやらされてきたこと。友達と遊んだり、サッカーやバスケに興じることは一切禁止。テレビゲームも禁止。彼には音楽以外の道が許されていない。そんな人生は想像がつかないけれど、私は自分とシリルに共通点があるとするならばその一点であると思っていた。理由はなんであれ「音楽以外に道がない」ということ。


 将来を期待されているシリルとでは比べられないかもしれないけれど、私にも音楽以外にあの町を出る方法がなかった。あの町で自分に用意されていた人生から逃げるには、音楽をやるよりないのだ。それは今でも自分の中に楔のように打ち込まれた生き方だ。


 シリルは自らワインの栓を抜き、

「ピアノ三重奏なんて久しぶりだな」

 と楽しそうに言いながらそれぞれの皿にキッシュを取ってくれる相変わらずの紳士ぶりで私達をもてなしてくれた。


 ナツは物珍しげに部屋を見回し、料理を口にすると大きく目を見開いて「美味しい!」と声をあげた。


「すごいわ。本当に美味しい。こんなお料理を毎日食べてるの? それなのにどうしてそんなに瘠せていられるの?」

「食べた分カロリーを消費するぐらい練習してるから」

「ほ、本当?」


 まんざら嘘だと思えないのがシリルのすごいところだが、私はすぐにナツに「嘘よ」と混ぜ返した。


「そんなダイエット聞いたこともない」


 シリルはにやりと笑うと「でもジョギングぐらいはしてる」と言い、グラスにワインを注ぎ足した。ナツはさっきから美味しいを連発しながら旺盛な食欲を見せている。この子は美味しいものを食べる時にものすごく素直で、感情豊かな目をする。嬉しそうで、とても楽しそうに見える。それはピアノに向かう時の真剣さとひたむきな情熱とはまた違ったものだった。


「オーディションまであと二週間だよ。本番はともかくまずはオーディション用の曲を決めておこう」


 適当に食事がすすんだあたりでシリルが口を切った。シリルはコンサートの常連で成績優秀な学生だけれど、そうであること以上に鮮烈なインパクトを残せるパフォーマンスを常に意識していた。それはもちろんコンサートを観に来る観客の中にスカウトマンがいたり、著名な音楽家や音楽監督、プロデューサーがいるからで、彼は「成功」することに対して貪欲だった。即ち、チャンスに対して。


 彼のような才能ある学生でも、チャンスを得ることができるのは必ずしも実力だけとは限らない。運だってあると思う。才能は演奏技術を指すのではない。セルフプロデュースであり、閃きでもある。いずれにせよシリルは成功しなければならないのだ。そのように育てられ、また、それ以外の結果が許されないのだから。


 彼の両親は写真でしか見たことがないけれど、この優雅な生活だって彼らの投資ともいえるのだ。私がシリルの生活を羨ましいと思わないのは、そのプレッシャーの重さを考えるからだ。いくら潤沢に物が溢れていても、成功しない限りは借金を重ねているようなものだ。そして、この世界で成功する人間なんてほんの一握りに過ぎない。


「あと二週間なんて……やっぱり無謀かしら」

 ナツが不安げに尋ねる。


「そんなことないよ。マエストロが受けるよう言ったんなら見込みがあるってことだろう。ピアノ三重奏の経験は?」

「日本の大学で同級生と組んだことがあるわ。ブラームスとかショパンとかだったけど」

「クラシックはオーディションには無難だから、いいと思うよ」

 シリルが頷く。


 確かにクラシックの定番曲はオーディションではそれぞれの技量を見るのに一つのガイドラインと成り得るから、ある一定の評価は受けやすい。


 私も賛成するように頷き、

「ショパンなら、ナツ、この前部屋で弾いてたわね。三人で合せてみて、調整すればオーディションは問題ないと思うわ」

「サラ、私が弾く曲を覚えてるの?」


 ナツがフォークを動かす手を止めた。皿の上にはテリーヌが乗っていて、私はナツが休みなくまだ食べ続けていたことに少し驚いた。細い体の割によく食べる。そんなに食べて太らないのは自分の方だろうと私はおかしくなった。


「覚えてるというか、色んな曲弾くんだなあと思って感心してたの。レパートリーが多いのね」

「そういうわけじゃないんだけど……。日本で結婚式場とか、ジャズクラブの演奏のバイトをしてたことがあるの。なんでも弾けた方が仕事があるから」

「そんなバイトしてたの?」

「ええ、ちょっとね」

「じゃあ、歌も?」


 私が尋ねると、ナツは慌てて首を振った。


「歌はダメよ。あれは別モノ。私、下手なのよ」


 すると、シリルが首を傾げながら、言った。


「ナツ、君は自分のこといつも下手だって言うんだね。それは……日本人特有の謙遜なの?」

「え……」

「前にも言ったけど、君の才能のことはみんなが知ってるよ。下手ってことはないんじゃないかな」

「けどマエストロは私を絶対に褒めないし、日本でも私はそんなに褒められるような生徒じゃなかったから」

「マエストロは褒めないさ。そりゃあ、そうだよ。あの人、鬼だもの。悪魔だよ。ほんと。そういう指導法なんだよ、きっと。オーディションを受けるのに大事なことが一つある。なんだと思う?」

「分らないわ」

「自分に自信を持つことだ」

「……」


 珍しく厳しい物言いをするシリルにナツは少ししゅんとした様子だった。が、私にはシリルの言葉が理解できるものの、それが誰にでも適合するものだとは思わなかった。


 練習だけが自分を裏切らない。信じられるものだとレイ先生は言っていた。それは真実だと思える。でも、一体どうやって自分に自信を持てばいいのだろう? 練習を積み重ねてきた自分に? どれだけやったか胸を張って言える自分に? でも、いくら時間を費やしても練習に納得できるかどうかは自分自身が決めることだ。もしも自身が満足できていないなら、どうしてそれを信じられるだろう。


 ナツのストイックな練習態度は彼女の美貌と優秀な成績の噂と同じぐらい評判になっている。彼女は恐らく知らないだろうけれど、隙あらばレッスンルームへ引きこもり猛烈な勢いでピアノを弾く姿と、マエストロの厳しい授業に涙ひとつ見せず、泣きごと一つ洩らさず食いついていく姿勢も他の学生たちの口に上っている。それでも彼女が自分を下手だと称し、自信が持てないなら、私たちとは違う次元にいるのだと思うより他ない。彼女が自分の練習に納得できていないというのなら、そうなのだろう。


 ふと私は彼女がピアノを弾く情熱の原動力はそれなのかもしれないと思い到った。それは私が一度も母から褒められなかったのと同じだ。……愛していると言ってくれていたなら。私はもう少し自分を愛し、慰めることができただろう。そして自分を信じることができただろう。今となってはもはや幻のようなものだけれど。


「コンサートでは君の好きな曲をやろう」


 シリルがナツの肩に手を置いた。


「受かるって決まってるのね」

「そりゃあ決まってるさ。でも、これは僕に自信があるからじゃない」

「どういう意味?」

「僕は、君とサラを信じてるからさ。僕は君たちにくっついていくだけだ」


 私とナツは思わず顔を見合わせ、それからぷっと吹き出した。シリルの手がナツの肩をぽんぽんと叩き、それから頬を撫でる。まるで子供にしてやるように。私はそうやって気軽にナツに触れることのできるシリルが羨ましかった。無論、私が触れてもナツは拒みはしないだろう。でも。彼女に触れたいと願う時、私の心には彼女の部屋に貼られた無数の手紙や葉書たちがぱっと現われて私の願望を埋めてしまうのだった。


 

 三人で決めたオーディション用の曲はショパンのピアノ三重奏第一楽章で、ナツは二週間の間そればかりをひたすら練習していた。


 彼女の熱量に自然と私もシリルも引っ張られるようにして、いつも以上に真面目に練習に取り組んでいた。その様子を大学の誰もが注目していた。


 これまでのキャリアから推測するにナツはクラシックが得意らしく、楽譜通りにきっちりと弾きこなしてくる。ドラマチックなフレーズも記号通りに弾き、ミスタッチもない。その安定感にシリルは「すごく合わせやすい」と喜んだ。


 大学の授業を終え、私のバイトが終わる頃合いを見計らってナツがカフェへ現れる。私たちは連れだってシリルの部屋へ行く。そこで遅くまで三人で練習をした。


 町は急激に秋が深まり、夜になるともう上着を着ないといけないほどになりつつあった。ナツはジーンズに黒いタートルネックのセーターを着ていて、その飾り気のなさが一層彼女の魅力を引き立てていた。


 最初に部屋にトランクを携えて現れた時に言ったように、ナツの衣類持ち物は本当に少なかった。物欲がないと言ったが、それよりもシンプルなものを好むらしく暑い間はあっさりとした無地のTシャツばかり着ていたし、秋になってからもチェックのネルシャツだとかで無造作な格好ばかりしていた。


 私はそれらが彼女に似合うと思っていたけれど、コンサートのことを考えるとなると一体彼女はドレスを持っているのだろうかと心配になった。


「ナツはコンサートで何を着るの?」

「え? 着る? 何を弾くか、じゃなくて?」


 私が尋ねるとナツはきょとんとした顔でそう返した。


「コンサートでは大抵みんなドレスを着るけど」

「ドレス? どんなドレス?」

「ええと……どんなって……。日本じゃ着ないの?」

「卒業公演の時やコンクールで着たけど……。イブニングドレスってことでしょう? それなら持ってきてないわ」

「女の子はドレスで、男の子はスーツ。もちろんカルテットやクインテットのメンバーで衣装を揃えることもあるけど……。一枚ぐらい持ってないと、不便なこともあるんじゃないかしら」

「そうなの?」


 ナツは少し考え込むように黙った。


「買うと高いわよね」

「そんなこともないわ。値段は色々よ。安いのだってあるし」

「……サラはどんなドレスを着るの?」

「私はそんなに選択肢ないわ。だって、こんな体だし」

「でも着るんでしょう? 持ってるんでしょう?」


 私のドレスはレイ先生の奥さんが見立ててくれたもので、一着は高校のプロム用のもの。綺麗なブルーのサテン地でふんわりしたスカートの裾に白いレースがついている。せっかく選んでくれたのに、私はこれを着てプロムには行かなかった。誘ってくれる人などいなかったし、一人で行くのは気が引けたから。もちろん一人で行ったってよかったのだ。でも、私のように太って醜い女の子がドレスを着て出かけて行ったって、嘲笑されるだけだ。それまでの高校生活がそもそもそんな風だったのだから。


 私がプロムに行かなかったことをレイ先生は知っているけれど、奥さんは知らない。レイ先生は時々奥さんに嘘をつく。彼らの息子のうち下の男の子が学校で問題を起こしたり、兄弟喧嘩で殴り合いになったりした時も奥さんには嘘をついてそれらの事実を隠ぺいしていた。先生の嘘はいつも奥さんを傷つけるものから守る為につかれる。私は先生が奥さんに「サラはドレスがよく似合ってたよ」とわざわざプロムでの様子を話すのを聞いて、自分も先生から守られているのだと思った。レイ先生の奥さんは満足そうにそれを聞き、大学でもそのドレスを役立てるようにと言った。


 もう一着はワインカラーの裾の長いドレス。ベルベットのような素材で、黒のボレロがついている。ボレロの胸元にはドレスの共布で作ったバラのコサージュがつけられるようになっている。このドレスは大学に入ってから買ったものだ。私はコンサートに出る時、いつもこのドレスを着る。それは同じようなドレスを昔母が着ていたのを写真で見たことがあるからだ。


 あれは一体どういう場面だったのだろう。何かのパーティーだろうか。私はまだ生まれていなかった。同じように着飾った友人たちと並んで笑っている母は群を抜いて美しく、ワインカラーが白い肌によく似合っていた。写真の母はまだ自分の人生に訪れる苦難を知らないで、とても楽しげだ。その写真を見ると私は母にも幸せな時代があったのだと奇妙な安堵を覚える。そして、父や私を含め生まれてきた子供たちが母を不幸にしたのだと考える。考えざるを得ないのだ。少なくとも私は母があの写真のような無垢な笑顔を浮かべるのを見たことがない。


 どこで未来は違ってしまうのだろう。父と出会ったことが発端だったとしても、その後に続くいくつもの小さな選択のどれもが間違ったものだったのだろうか。どうして私は母を幸せにできなかったのだろう。もし私が母に似た美しい娘であったら。少しは母の心を慰めただろうか。もし私が朗らかな娘であったら、母は私を愛しただろうか。私にはもう母の人生を軌道修正するチャンスはない。思い出を塗り替えるチャンスも。


「ドレスのことはオーディションに受かってから考えるわ」

「あなたみたいに痩せてたら何でも似合うからいいわね」


 私の言葉にナツは黙って肩をそびやかして見せるだけだった。


 オーディションの日、ナツは緊張するのかほとんど食事もとらず朝からピアノを弾き、午後に大学へ向かった。


 私は彼女と並んで歩きながら、怖いような難しい顔をしているナツに「心配しなくても大丈夫よ」と何度も繰り返した。


 もし感謝祭のコンサートに出られなくてもまだ他にもチャンスはある。クリスマスだって、ニューイヤーだって。そうでなくても元々注目されている彼女なのだから、チャンスの方から歩いてきそうなものだ。


 街路樹が黄色く色づいて葉を落とし始めているのを見上げ、私は彼女の届く手紙のことを考えていた。


 昨日また新しい葉書が届いていた。ニューヨークの秋をスケッチしたもので、日本語で何か一言添えてあった。私はそれを彼女への愛のメッセージに違いないと踏んでいた。ナツは葉書をじっと見つめ、溜息を洩らし、部屋の壁にピンで留めた。


 ニューヨークの秋。セントラルパークの木々が色づく様や、行きかう人々の服装が冬めいてきている様子など、詩情あふれるスケッチだった。ボストンの秋も公園の枯れた色合いや落ち葉の積もる様がとても美しいのだが、ナツが憧れ、恋うるのはきっとニューヨークだろうと思った。


 私はナツが初めからニューヨークへ行かなかったことが不思議だった。ニューヨークにも音楽を専門に学ぶ大学はある。都会の方が刺激がある。でも私には今彼女がボストンにいることが奇跡だと感じていた。彼女に出会えたことの、奇跡。


 私は彼女の美しさに一目惚れし、それから生真面目な態度やストイックな姿勢を尊敬し、美味しい物を食べた時の嬉しそうな顔に恋をしていた。私にはナツの姿が輝いて見えた。今までそんな相手には出会ったことがなかった。


 恋とは特別な対象に対して特別な感情を抱くことなのだと初めて知り、私は彼女と友人でいられることに感謝した。ナツとルームメイトにならなければ知り合うことさえ難しかっただろう。


 しかし、私は自分の恋が永遠の片思いであるのを知っているし、伝えてはならないものだということも理解していた。それは時々激しい苦悩を運んでくる。もし彼女に触れることができたなら、どんなに幸せだろう。彼女に好きだと言えたなら、どんなにいいだろう。そう考えながら、私は自分の恋愛が禁忌である以上に、自分の感情をさらけだすのを恐れてもいた。


 私は自分の気持ちを表現することに慣れていない。自分の意思を話したり、主張したりするような家庭に育っていないのだ。いつも黙ってひっそりと部屋の片隅に身を隠すようにしていなければ平穏に生きて行くことができなかった。思えばあんなにも破壊的に自分たちの感情をぶつけあえた父と母の自由さときたらない。私は今もあの子供時代のままだ。


 オーディションの会場に充てられた教室の前にはもうシリルが来ていて、順番を待っているところだった。


 私たち二人を見るといつもの朗らかさで両腕を広げ、軽く抱擁をした。


「緊張してるんだね」


 シリルはナツの固い表情を見て、手をとった。


「手が冷たくなってる。大丈夫? 何も心配することないよ。これで人生が決まるわけじゃないんだ。僕とサラの三人で楽しく弾けばいいんだよ」


 シリルの両手がナツの手を温めるように包み込んだ。


 廊下の様子を見回してみると、他にも何組かの学生が自分たちの順番を待っていて緊張の中にもどこかお祭り騒ぎめいた明るさとやけっぱちの雰囲気が漂っていた。


「今年はどんな感じなのかしらね」


 私は廊下に並べた椅子に腰を下ろし、シリルを見上げた。


「さあね。マエストロの審査は相当厳しいって話しだけど」

「辛辣で毒舌だからね」

「そうさ、あの人がアメリカンアイドルの審査員になったら誰も受かりはしない」


 言っているそばから教室のドアが開いて女の子が、一人は泣きながら、もう一人は泣いている相手の肩を抱きながら出てきた。手に持っていたフルートがが一瞬きらりと光った。


「こりゃ相当絞られたな」


 シリルが呟く。私は女の子たちを見送りながら頷いた。が、ナツはそれまでの沈黙を破りぽつりと呟いた。


「泣くぐらいなら初めから出なきゃいい」

「え?」


 私は自分の耳を疑った。彼女からそんな厳しい言葉が出るとは思いもよらなかったのだ。


 ナツは眉間に皺を寄せ、けれど不快なのではなく、率直で真面目な見解として、

「覚悟が足りないから泣くのよ」

 と断言した。


 これにはシリルも驚いたようだった。


「確かにマエストロは厳しいわ。怖いぐらいにね。ボロクソにけなすんだもの。でも、この教室で泣くぐらいじゃあ世界は狙えない」

「……君は泣かないんだね」

「泣かないわ」


 私とシリルは顔を見合わせた。確かに彼女の言うように大学で受ける批判は何千、何万もの聴衆から受ける批判に比べれば痛くも痒くもないだろう。ましてや学内での評価はそれが良くても悪くても自分たちを成長させる為にある。彼女の望み、頭の中にある完成図、彼女の音楽。それは私たちの思う以上に高いところにあるのだ。私とシリルは、私たちが思う以上にナツの志の高さと心の強靭さに唖然とする思いだった。


 教室から顔を出した助手に名前を呼ばれるとナツは静かに返事をした。


 内心、私もシリルも幾分動揺していた。私たちは彼女を見た目で判断していたのかもしれない、と。


 教室に入ると、天才とも鬼とも謳われているマエストロと、他に数人の先生が腰かけて私たちを待ち受けていた。


 シリルが代表して私たちの名前を紹介し、演奏する曲を告げた。その間に私は椅子に座り、ナツはピアノの前に腰かけた。ナツがチューニングの為にAの音をぽんとひとつ弾く。私とシリルがそれに準じる。


「演奏の前に、ひとついいかな」


 マエストロが不意に口を挟んだ。私は目をあげ、彼の顔を見た。才能ある、ハンサムで、厳しいと評判のマエストロを。


 マエストロは腕組みをし私たち三人をじいっと眺めると、

「ナツ、どうしてソロでオーディションを受けないんだい」

 と尋ねた。


「君の得意のショパンだとか、モーツァルトとか色々あるだろ。君の無個性で退屈なクラシックが」

「……」

「シリル・マクブライドとサラ・コナーズ。君たちコンビの名前はよく聞いてるよ。いい演奏をするそうだね」

「……どうも」


 シリルがなんと返事していいのか困惑しているのがよく分かった。マエストロは笑うでもなく、淡々とした様子で私たちを見ていて、なぜそんな風にナツをこきおろそうとするのかまるで理解できなかった。


「まあ、確かにナツ・ワタナベのピアノなら伴奏にはちょうどいいだろう。彼女のピアノは君たちの個性を邪魔しない」

「……僕らはナツの才能を素晴らしいと思って、誘ったんです」

「才能ねえ」


 私はナツを振り返りたかった。今この瞬間彼女がどんな顔をしているのか確かめたかった。いつもこんな風に意地悪な言われ方をしているのなら、それは本当に気の毒で可哀そうだ。以前ならそう思っただろう。でも私はもう彼女をそんな風に弱い生き物のようには考えていなかった。彼女の視線は遥か遠くにある。ただ一人の批判などものの数としていない。それに彼女は泣かないと言ったではないか。私はこの時心からナツを信じていた。その強さを。


「始めてもいいですか」


 私はメガネを指先で押し上げ、楽譜を開きながら言った。


「どうぞ」


 マエストロが手を差し出す。馬鹿にしているのではない。彼は試しているのだ。まさにこれはオーディションなのだから。


 シリルも無言で楽譜を開いた。それぞれの神経が一つに束ねられ、シリルの弓を見つめる。いつもそうするようにナツの踵が床をひっそりと4カウント。


 ナツのピアノが無個性で退屈だって? それは彼女が自分の気持ちを閉じこめているからだ。完璧であらねばと思うあまりに自分に厳しい。人より多く練習することも、未だに男の子たちの誘いをすべて断って頑なに心許さないことも、すべてはピアノの為であり、それから、ニューヨークにいる彼女の放浪画家のせいなのだろう。私にはもうはっきりと分かってしまった。ナツは、ニューヨークにいるという彼女の大切な友人にしか心を開かないのだ。彼女の心が不自由であり、奏でる音楽が無機質で、ともすれば退屈に聞こえるのはそのせいなのだ。


 もっと自由でいいのに。泣かないって言ったけど、泣けばいいのに。私は楽譜を目で追いながらそう思った。泣けば、私は彼女を抱きしめてやるだろう。誰の為に? 自分のために。自分の恋のために。


 ショパンのピアノ三重奏は練習の成果もあって完璧だった。シリルのバイオリンはいつも以上に滑らかで美しかった。弾き終えた時、私たちは同時に充足したため息を漏らした。


 気がつくとマエストロが妙にゆったりとした、しかし大きな音で拍手をしていた。私たちは立ち上がり、審査員となっている先生たちに向って一礼をした。


 マエストロの助手が「それじゃあ結果は来週掲示板に貼りだされるから」と言い、私たちの退出を促そうとした。


 その時だった。終始無言だったナツがマエストロに向ってまっすぐに立つと、

「私は退屈なピアノしか弾けませんが、だからこそ彼らから学ぶものがあると思っています」

 と言い放った。


 マエストロは手を叩くのをやめ、机に肘をつき頬杖をついた。そんな風に見つめられてもナツは動じる様子はなく、あの、凛とした佇まいでマエストロに向って顎先を上げ背筋を伸ばして立っていた。私は成り行きを見守りつつ、胸が高鳴るのを抑えようと息を詰めた。


 マエストロにこんな風に真っ向から言い放つ学生が他にいるだろうか。否。彼女はどんなに厳しいことを言われても立ち向かうだけのものを持っているのだ。私はこんな事を言わせるマエストロこそがちゃんと彼女を認めているのだと悟った。


 マエストロはふむと少し考える気振りを見せたが、すぐに頬杖を解き、椅子の背もたれに体を預け大きく伸びをした。


「来週の発表を待たずとも、君たちは合格だ」

「えっ」

 驚いたシリルが声を漏らした。


 マエストロは続けて言った。


「君たち三人は相性がいいようだ。とてもよかったよ」

「ありがとうございます」


 シリルが私の肩を嬉しげに叩く。私も小さな声で「ありがとうございます」と返した。が、ナツは黙っていた。


「合格だけど、条件がある。コンサートでは君たちはクラシックは禁止だ。何か違うものをやってもらいたい。ロックでもポップでもいい。なんならラップだっていい」

「……それは私に対する課題ですか」

「君が二人の足を引っ張らないことを願うよ」


 ナツは無言で一礼すると、つかつかと先に教室を出て行った。私とシリルも慌てて一礼し、ナツの後を追った。


 教室を出たところでナツは立ち止り、私たちをちゃんと待っていて、ようやく緊張の解けた顔でふわりと微笑んだ。


「……なんの曲、やろうか」


 シリルが反射的にナツを抱きしめた。恐らくシリルはナツが傷ついていると思ったのだろう。いくら泣かないと宣言したとはいえ、悲しくないはずはない、と。シリルの優しさは当然の反応だと思う。けれどナツはシリルの腕の中で彼の背をぽんぽんと叩き返し、平然とした顔で「緊張したわね」と言うだけで泣きごとめいたことは一言も言わなかった。


 シリルの体ごしにナツと目が合うと、ナツはまたふわりと微笑んだ。私はその他人を安心させようとするかのような優しい微笑みとは裏腹に、瞳の奥に潜む彼女の野望や決意を見てただ恐れ入るばかりだったし、ナツの見ている未来に自分は決していないだろうと思うと見つめることの苦しさに胸が塞がれるようだった。



 すべてのオーディションが終わり出演者が掲示板に貼り出されると、学内はイベントシーズンへ向けて色めき立つようだった。


 感謝祭のコンサートチケットは人気があるので、手に入れられない者はあっさりと諦めて故郷へ帰る準備をしていた。


 私の所にもレイ先生から感謝祭に帰ってこないのかという打診があった。私はそれに対して例年通りコンサートの出演について報告し、クリスマスもニューイヤーも恐らく帰れないだろうと返した。私にはもうあの南部の田舎町に帰るつもりは毛一筋もなかった。


 クラシックを禁じられた私たちが決めた曲目はピアソラの「リベルタンゴ」だったが、一曲では寂しいからもう一つ…と話していたらナツがフランキー・ヴァリの「キャント・テイク・マイ・アイズ・オフ・ユー」をやらないかと持ちかけてきた。


 リベルタンゴをやろうと決めたのはあの情熱的な旋律を、物悲しく狂おしい曲を表現したくなったからだった。私にとって恋というものは、あの曲の感じに似ている。せめぎあう心をそのまま音にしたような。今なら上手く弾けるような気がしていた。


 ナツの意外な提案に私もシリルも驚いて、

「そういうのが好みだったの?」

 と尋ねた。


「こういう曲はアレンジがしやすいかと思って。もちろん好きな曲なんだけど」

「キャッチーで人気のある曲は反応がいいから、いいと思うよ。でも、これだと歌が入った方がいいんじゃないかなあ」


 シリルはいつものカフェでコーヒーを飲みながら腕組みをし、難しい顔をした。ナツの首にはレイ先生の奥さんが送ってくれたマフラーが巻いてあった。ナツは結局私に押されて大事にそれを使ってくれている。そして、やっぱりよく似合っていて彼女の横顔を明るく引き立てていた。


 私の憧れであり恩人でもあるレイ先生の奥さんのマフラーを今私の好きな人がその首に巻いているいるということは奇妙に心を浮き立たせるものがある。彼女との距離が縮まるような錯覚。私は秘かに思い描く。もしあの南部の町でレイ先生と奥さんと、ナツと私の四人で演奏ができたなら。マリーズゲストハウスでジェイミーの弾くピアノを一緒に聴けたなら。叶うはずもないと知りながら夢想することは甘く切ない。


「シリルが歌うといいんじゃない?」


 ナツはしれっと言い放った。まるで自分にはピアノがあるからとでも言うような、あっけらかんとした態度だった。


「君が歌う方がウケるに決まってるだろ!」


 私はおかしくなってしまい、ぷっと吹き出してしまった。


「サラ、笑うぐらいなら君が歌ってもいいんだぜ」

「冗談やめて。私は歌なんて……」

「いい考えだわ」


 驚いたのはシリルだった。ふざけて言ったつもりだったのだろう。なのに、ナツがさも名案であるかのように頷きながら賛成し、唖然とする私に体ごと向き直った。


「私、知ってるのよ。サラが歌上手いの。時々、キッチンで鼻歌歌ってるでしょ。あれ、上手いなあと思ってたの」

「あんな適当な鼻歌で、そんな!」

「ううん。ピッチは正確だし、いい声よ。私、いつももっとちゃんとした歌聴きたいなって思ってたの。ちょっと低めの心地いい声だわ」

「駄目よ。駄目。私みたいなのが歌うなんて、笑われちゃうわ」


 真顔で言うナツに私は焦っていた。彼女が私の鼻歌を聴いていたということにも驚いたが、それ以上に好意的に聴いていたことが恥ずかしくもあり、同時に嬉しくて胸がどきどきしていた。


 人前で歌うなんて、子供の頃にレイ先生の奥さんと二人で遊び半分にピアノに向って歌った時ぐらいなものだ。それ以外では鼻歌専門だった。歌を歌うような環境じゃなかったし、大きな声を出せるような子供でもなかったのだから。無論、それは今もそうだ。


「私みたいなのって言わないで」


 ナツがあの美しく澄んだ黒い瞳で私の目をしっかりと見つめていた。そして怒ったような口調で言った。


「自分のことが嫌いなんでしょう。自分に自信が持てないんでしょう。分かるわ。サラと私って似てると思うの。でも、だからこそ自分を否定して欲しくないの。私も自分を否定して逃げだしたくなる。けど、それと闘ってる。ねえ、やってみようよ。絶対素敵だから。サラは優しくて、才能があって、素晴らしい人よ。私はそう思ってる」


「僕だって思ってるよ」

 シリルが口を挟んだ。


「確かに君たちは似たもの同士だよ。ストイックで真面目なところもそっくりだ。頑ななところもね。サラ、何か新しいことをやってみようって言ってたじゃないか。これも一つの挑戦だよ。一曲ぐらい歌ってみるのも悪くないんじゃないか」

「……あなた達二人してずるいわ」

「じゃあこうしましょう。私も歌う。一緒に歌いましょう。それならいいでしょう?」

「本気なの?」

「もちろんよ」


 私は今一度ナツとシリルの顔を交互に見た。


 私がコンサートで歌うだって? そんなこと誰が想像しただろう? 華やかな舞台でライトを浴びる姿なんて考えたこともなかった。暗くて醜くて、何のとりえもないサラ・コナーズが歌うなんて。


 テーブルのコーヒーの冷めてしまったのをナツは啜り、小さく息を吐いた。


「マエストロが言うように、私のピアノは無個性で退屈だわ。私は楽譜通りに完璧に弾こうとするだけで、気持ちをこめるだとか、表現力に乏しい。でも、この曲なら弾けそうな気がするの」


「思い入れがある曲なのかい?」

 シリルが改めて尋ねた。


「……私、コンサートにニューヨークの友達を招待するわ。出演者は一人一枚はチケット買えるのよね?」


 あ。私ははっとした。


「サラは誰を招待するの?」


 もう私は逃げ場がないことを悟り、シリルとナツが曲のアレンジについて話し始めるのを黙って見ていた。案外、押しが強いんだなと少し苦笑いしながら。



 明るくポップにやるのはよそうと決めたのはシリルだった。綺麗な旋律を聴かせることと、めりはりを大事にして歌もブルージーに。練習は急ピッチで行われた。


 ナツはニューヨークへコンサートのチケットを同封した手紙を送り、毎日真面目に練習し、大学の課題もきちんとこなしていった。


 私が誰にもチケットを送らないのでナツはなぜレイ先生を呼ばないのか不思議そうに尋ねた。


 私たちは一緒に部屋で食事をし、ワインを飲んでいる最中だった。夜はさすがに冷えるようになり、暖房を入れるようになっていた。


「遠いから」


 レイ先生を呼ばない理由を私はそのように答えた。


「旅費も馬鹿にならないじゃない。だいたい、感謝祭は家族で過ごすものだし」

「家族で? そういうものなの?」

「そうよ。シリルのうちだってコンサートの後は家族でターキー食べたりするはずよ」

「ふうん、美味しそう」

「感謝祭ってそういうものなのよ」


 ふうんと納得したように相槌を打ちながらナツは野菜の入ったシチューを口に運んだ。日本人である彼女にとって感謝祭という行事は馴染みがないらしく、あまりぴんときていないようだった。


「それじゃあ、家族は呼ばないの?」

「家族?」


 私は久し振りに聞くその単語に驚くと言うよりは、ほとんと衝撃を受けて咄嗟に頓狂な声を上げてしまった。


 家族。私にそんなものがあったことがあるだろうか。父も母も兄も家族というコミュニティの一員ではあったものの、それが機能していたことなどほとんどない。時々私は自分に家族などいないとさえ思うことがある。


 私はナツに父親がアル中で、兄は刑務所に入り、母親はとっくの昔に蒸発しているということをわざわざ言いたくはなかった。いや、はっきり言って知られたくなかった。知れば彼女の態度や私を見る目が変わるのではという不安もあったが、それよりもまともな家族生活を送ったことがないから自分自身でも家族というものが幻のように感じられ、何をどう話せばいいか分からなくなる。そして憐れまれることも私には不本意だった。少なくとも、ナツにだけは可哀そうだと思われたくなかった。


「遠いといえば、私なんてもっと遠いものね」

「日本から来るのは大変よね」

「うん……。ニューヨークも遠いけどね」

「そのぐらい遠いなんて距離じゃないわよ。感謝祭を一緒に過ごす相手ができてよかったわね」

「まだ分かんないよ。本当に来てくれるかどうか」

「そんな……」

「……家族じゃないし、恋人でもないからね」

「……」

「サラの家族ってどんな人たちなの? やっぱりみんな音楽をやるの?」

「……いいえ。普通の人たちよ」

「普通ってどんなの」

「普通の……アメリカ人の一般的な家庭って意味……」

「ふうん。でも誰もコンサートには来ないの?」

「ええ」

「それじゃあコンサート終わったら一緒に七面鳥食べようね」

「……」


 二人きりで食べる七面鳥はどんな味がするだろうか。想像もつかなかった。


 感謝祭の七面鳥は気がつけばいつもレイ先生のうちで食べていた。家族でもないのに。先生のうちの男の子二人はいつもは私をからかってばかりいるのに、感謝祭だけは何も言わなかったし、デザートのアップルパイを取り分けてくれたりした。彼らが憐れみからそうしたのか、それとも特別な日だから自粛したのか。ともかく優しい夜の記憶だ。しかし私はそれを思い出すとやっぱりどうしたって自分はレイ先生たちの家族ではないのだと思うのだった。


 私は家族を持つことなど生涯ないだろう。それは私の恋愛の嗜好がそうさせるのではない。家族の味を知らないからだ。一体どうやって人と繋がればいいのか未だに分からない。無条件に労り、愛し合うことが分からない。守られていると実感し安心を得ることも分からない。帰りたいと思う気持ちすら分からないのだ。


「サラ? サラ、どうしたの?」

「えっ」

「携帯電話、鳴ってるよ」


 よほどぼんやりしていたのだろう。ナツは怪訝な顔つきで、でも心配そうに私の顔を窺っていた。


「飲みすぎたの?」

「まさか」


 ボトルのワインはまだ半分ほど残っている。私はソファの上に放り出していた携帯電話を取りに立ちあがった。


 電話はレイ先生からだった。


「サラ、久しぶりだね。今話しても大丈夫かい?」

「ええ、もちろんです」


 先生の声を聞くのは本当に久しぶりだった。低くて落ち着いた優しい声だ。


「今年も感謝祭のコンサートに出るんだってね。すごいじゃないか。毎年出る学生なんていないだろう」

「そんなこと……」

「それに今年はピアノ三重奏だって? 録音はもちろんするんだろうね」

「そのつもりです。音源、送りますから」

「曲は何をやるんだい」

「リベルタンゴ」

「ピアソラか。難しい曲を選んだね。ヨーヨー・マが弾いていたのを何かで見たよ。ドラマチックで素晴らしかった」

「比べないで、先生」

「サラ、君ならきっといい演奏ができるよ。なんといっても私の生徒なんだからね」


 先生は一息にそこまで言うとはははと笑った。気がつけば懐かしさと先生の思い出とで私も笑みを漏らさずにはおけなかった。


「クリスマスにも帰ってこないつもりなんだね」

「……ええ、まあ……」

「そのことでちょっと話したいことがあるんだ」

「なんですか」

「……君のお母さんが昨日からマリーのところに泊まってる」

「えっ!」


 先生の言葉を聞いた途端、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたように縮みあがり、次いで、倒れてしまうのではないかと自分でも心配になるほど早鐘を打ち始めた。


 言葉が出なくて金魚のように口をぱくぱくさせ、空気を吸い込もうと喘ぐ。


「帰ってきたんだよ」

「どうして……」

「サラ、大丈夫かい? 落ち着いて。マリーもジェイミーもびっくりしてすぐに知らせてくれたんだよ」

「母に父のことは……」

「マリーが話したそうだよ。お兄さんたちのことも」

「……そうですか」

「私も彼女に会って来ようと思ってるんだ」

「どうして? どうして先生が? 何のために?」


 衝撃が全身を震わせている。その証拠に声が震えているのが自分でも分かった。母があの田舎町へ帰ってきた……。この信じ難い事実。母が町を出て行った時から私は母が二度と戻らないと思っていたのだ。


「サラ、もし可能ならコンサートのチケットを一枚手に入れることはできないかい」

「先生!」

「君の演奏、お母さんも聞きたいはずだよ」

「先生、そんなこと本気で言ってるの? 信じられないわ。どうして今さらそんなことができるの?」


 異変に気付いたナツがグラスをテーブルに置き様子を見ている。今にもこちらへ駆け寄ってきそうに椅子からお尻を浮かせて。


 私は自分の声が震えているのは涙のせいだと初めて気がついた。


「彼女が君の母親であることには変わりはない。この町へ帰ってきた理由も聞かないと。もしかしたら君に会いに帰ってきたのかもしれないじゃないか」

「そんなこと有り得ない」


 もしそうならもっと早くそうするべきだったのだ。私はきっぱりと言い切り、手近にあったクリネックスを一枚引き抜き涙を拭った。ナツがいよいよ立ち上がり心配そうにこちらへそうっと近づいてきて私の肩に手を置いた。


 母が私に会いたいと思ってくれたのなら、連絡ぐらいくれてもよかったのだ。これまでに一度としてそんなものはなかったし、いや、それ以前に私を置いて出て行ってしまった事実をどう説明するというのだろう。


 レイ先生だって知っているはずだ。母が出て行ってしまった後の私の暮らしを。地獄だった。それ以前も悲惨だったけれど、もっと悪くなっていた。父親はお酒の量が増え、あちこちでトラブルを起こしたし、暴力はより頻繁になっていった。思い出すだけで怒りと悲しみに全身が埋め尽くされてしまう。母は自分が出て行くことでどうなるかが予想できていたはずだ。少なくとも、事態は絶対に良くなったりはしないということを。


「ちょっと待って。待ちなさい」


 電話の向こうでレイ先生が何か言い合っている。と思うと、耳に飛び込んできたのはレイ先生の奥さんの声だった。


「サラ? 私よ。レイの話は聞いたわね? あなたは何も心配することないのよ」

「……」

「誰もあなたを傷つけようとは思っていないから。だから心配しないで。ただ、レイが言ったことも分かるでしょう? 私はあなたを実の娘みたいに思ってる。でも、母親は一人だけなのよ」


 レイ先生の奥さんの声は優しさの中にも力強さがあった。諭すようでいて、どこか叱るような調子で、それは私が憧れた「母親」の姿でもある。私は不意にレイ先生の奥さんに甘えたかった子供時代が胸に蘇るのを感じた。


 レイ先生のうちの男の子たちが悪戯の後に母親に叱られつつも、甘えかかる様子が内心羨ましかった。エプロンをかけた腰に抱きつき、軽く頭を小突かれても結局は許されて涙を拭いて貰いキスしてもらえる様子を何度も見ては、日曜学校で聞いた聖母のことを連想した。


 レイ先生の奥さんの言っていることはごく当たり前のことだった。母親は一人だ。どんなアバズレだろうとも。あの美しい金髪とグラマラスな体つきで、くたびれた様子で煙草をふかす人、あの人に他ならない。私は思わずため息を漏らした。ああ、やっぱり。どんなに願っても、願いなど何一つ叶わないのだ。


 実の娘みたいに思っているという言葉は嬉しさの反面、やっぱり私が他人であることを強調している。永遠に届かない憧れに私はまた涙が出そうになった。


「会いたくないんです」

「あなたがそう言うのも無理ないと思うわ。でも、よく考えてみて。人は、一人では生きていけないものなのよ」


 私はその言葉を聞くとほとんど反射的に電話を切ってしまった。


 本当に? 本当にそうだろうか? 人は一人では生きていけない?


「……サラ? 大丈夫……?」


 恐る恐るナツが私の顔を覗き込もうとしていた。私はもう一枚クリネックスを引き抜き涙の跡を綺麗に拭い去ろうとした。


「何かトラブルでも?」

「いいえ、大丈夫。なんでもないの」

「……」


 私は嘘も言い訳も下手な自分にうんざりした。ナツの顔には「そんなわけないだろう」とでも言いたげな皺が眉間に寄っていた。


 こんな時彼女の目を見るのは恐ろしく勇気がいるし、怖いことだった。心の弱っている時や苦しい時に彼女の目を見ると、何もかもを見透かされてしまいそうで視線を逸らしてしまう。綺麗過ぎて、怖いのだ。吸い込まれてしまいそうで。そうしたら、何もかもをさらけだして泣きだしてしまう。そんな事をしたらもう取り返しがつかない。私は二度とナツの前で冷静ではいられなくなるだろう。そうして。そうして、きっとこの恋も白状してしまう。それがデッドエンドだと分かっていても。


 しかしナツはいつものクールな調子で「それならいいの」と聞き流すつもりはないらしかった。うやむやにする気はないというように執拗に私の視線を捉えようとじっと見つめてきた。それは無言の攻撃でもあった。優しさの攻撃だ。


「……人は一人では生きていけないって思う?」

「どういう意味?」


 私は背中をソファに預け、天井を向いて大きく息を吐いた。


「人は誰も一人では生きていけないって、よく、そんな歌もあるじゃない?」

「……私は、人は一人で生きて行くものだと思ってる」

「……」

「厳密には、一人じゃないかもしれないけど。だって世界に自分が一人きりなわけじゃないから。たくさんの人がいて、世界は構築されている。自分もその中の一人。謂わば歯車とか小さな部品みたいなものだと思う。でも生きて行くのはたった一人で、だわ。一人では生きていけないというのは不安の表れだし、慰めでもあるのね。ううん、気休めかもしれない。みんな自分が一人じゃないって思いたいのよ。けど、本質的には人間は一人だわ」

「ストイックな考え方をしているのね。ナツはやっぱり強い人なのね」

「サラ、誰とそんな話をしていたの? 誰がそう言ったの?」

「……レイ先生と、奥さん」

「ねえ、コンサートが終わったら帰省したらどう? クリスマスとかでも」

「人は一人で生きて行くものなんでしょう?」

「そうよ。でも、だからって周りにいる人を大事にしない理由にはならないわ」


 ナツは私が帰省しないことを巡って叱られたとでも思ったのだろうか。薄情者であることを責められたのかと。それならそう思っていてくれればいい。家族のことを話すことはできない。


 私は母の姿を脳裏に思い描く。あれから何年たった? 母もさすがに容色衰えただろうか? それとも今でも美しいままだろうか?


 レイ先生が母に会って話したい理由も、問い質したいのも理解できる。先生の性格からして、物事をうやむやにしたくないからだ。善悪を、白黒をはっきりさせてから事に当たりたいのだろう。教師であるが故に、平等であらんとする為に。


 私には母がレイ先生の問いになんと答えるのか想像もつかなかった。母がうちにいた時分、私はまだ子供で、母とまとまった話をすることもなかったし、母がそもそもどういう人間で、何を考えているのかも深くは知らない。言うなれば母は私にとって「母親」であるという事実と共に「謎の女」なのだ。


「ワイン、飲み終わっちゃったの? デザートにアイスクリームでも食べようか」


 私はまだ疑わしい顔をしているナツを振り切るようにソファから立ち上がり、キッチンへ行った。マキネッタにコーヒーをセットし、火にかける。


 真実を知ることが必ずしも正しいとは限らない。テーブルの食器を片づけ始めると、ナツは諦めたように黙って一緒にテーブルを片づけ始めた。



 いよいよ感謝祭のコンサートまであと二日と迫っていた。町はもう秋を過ぎ、冬の色合いが濃くなり空気はぴりっと冷たく、風は肌を刺すようだった。


 ナツは相変わらずレイ先生の奥さんが送ってくれたマフラーを愛用してくれていて、どこへ行くにもそれを巻いていた。


 マエストロのレッスンは相変わらず厳しいらしく、ナツの練習ぶりもますます過熱していた。その集中力は怖いほどだった。


 もちろんコンサートの為の練習にも余念がなく、ここ一週間はラストパートとでも言わんばかりに毎晩シリルの部屋に通って遅くまで練習していた。


 そんなわけで、予想はしていたけれどもナツとシリルの間柄について学内で様々な憶測が飛び交うようになっていた。


 シリルが自身の性的嗜好について秘密にしているわけではないにも関わらず、こんな噂が立つようになるのは一重にナツの鉄壁のガード故だった。実際、彼女は入学以来まだ誰ともデートひとつしていないのだから。


「僕がバイセクシャルだってみんな言ってるみたいだな。ふふん、それならそれでいいさ。相手がナツなら不足はないよ」


 シリルはそう言って冗談めかして笑っていた。が、ナツは申し訳なさそうに、

「違うって言っても誰も信じてくれないのよ。困ったわ。シリルも迷惑よね」

 と詫びた。


「違うって言っても誰も信じてくれないのよね」

「そりゃあそうさ。デートの誘いを全部片っぱしから断ってるんだろう。最近じゃあ男と口もきかないっていうじゃないか」

「そんなことないわ」

「でも、君が今週喋ったのって僕とマエストロぐらいじゃないの」

「……」


 シリルの部屋で練習の後、三人でコーヒーを飲みながら私はナツの様子を窺っていた。


「好きな人が、いるのよね?」


 ナツはハーシーのキスチョコの包みを剝いているところだったが、ぎょっとして顔をあげた。私もテーブルのチョコレートに手を伸ばした。そしてもう一度繰り返した。


「ナツには好きな人がいるのよ」


 私の言葉に驚いたのはナツだけではなかった。シリルも信じられないという顔で私を見つめていた。それは、ナツに好きな人がいるということに対する驚きではなく、それを口にする私に対する衝撃だった。


「だから誰ともデートしないのよね」

「誰? まさかマエストロじゃないだろうな」

「やめて。そんなんじゃない。別に誰ともデートしないわけじゃないわ。そういう気分じゃないだけなの。好きな人がいるとか、そういうわけじゃないの」


 ナツはチョコレートを口に放り込むと怒ったような顔でぷいと暖炉の方に顔をそむけた。私は彼女の横顔から、照れだとか恥ずかしさよりも不安を多く読み取っていた。ニューヨークの放浪画家がコンサートに来るかどうか、それについて考えているのだろう。無意識にナツの指先が膝の上でぴくぴくと動く。


「そんなことより、コンサートで着るものがないわ」

「は? なに言ってるんだよ。こんな時期になって」


 シリルが頓狂な声をあげた。


「ドレス持ってない」

「サラ、聞いたかい? ナツ、なんでもいいだよ。なんか、ないのか」

「ない。ワンピースぐらいしかない」

「サラ、どうする?」

「……私のプロムの時のドレスがあるから……」


 高校のプロムのドレス。結局一度も袖を通さなかったドレス。私はレイ先生の奥さんがドレスを選んでくれた時の事と、レイ先生が私の為についた嘘とを思い出し急に胸が痛んだ。懐かしさと切なさとで。


 ナツにはもちろん大きいだろうが、背中のところでとりあえず縫い縮めればぱっと見には問題ないだろう。


「ひやひやさせないでくれよ。コンサートにドレス着ない女の子なんて見たこともないよ」

「そう? 斬新でよかったかもよ」


 ナツは悪びれもせず肩をすくめた。


 その時だった。私の携帯電話が鳴り、二人が同時に「電話だよ」と言ったのは。


「聞こえてるわよ」


 私は笑って言うと電話をとった。ナツはまたチョコレートに手を伸ばしている。電話はレイ先生からだった。


「サラ、今いいかな」

「ええ、先生。今、ちょうどコンサートの練習が終わったところです」

「君のお母さんに会ったよ」

「……先生」


 ああ、この人はどうしても物事をはっきりさせたいんだな。私は珍しく先生を恨む気持ちになった。


 三人で囲んでいたテーブルを離れ、窓の傍に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろす。シリルはこちらを見ない為の礼儀正しさで楽譜をめくっていたが、ナツの視線は無遠慮なまでにひしひしと感じられた。あの、まっすぐな強い瞳。


「彼女にとってこの町は生れ故郷だ。またここで暮したいそうだよ」

「そうですか」

「お兄さんには面会に行くつもりらしい」

「そうですか」

「君のこと、心配していたよ」

「……」

「君がボストンの大学に行っていると話したら驚いていた」


 私はレイ先生の報告を聞きながら、頭を抱えたい気持ちだった。母がどこで暮そうともう私には何の関係もない。私はあの町へは帰らない。父も兄も私には到底手に負えないし、会うこともないだろう。


「会いたいって言ってるよ」

「先生、私は……」

「コンサートのチケット、受け取ったよ」

「え?」


 私は言葉を詰まらせた。今、先生はなんと言った? コンサートのチケットって、なんのこと? 意味が分からなくて頭が混乱すると共に嫌な予感が足もとから一気に頭のてっぺんへ駆け上ってきて、思わず私は身震いした。


 私の驚きと困惑をよそにレイ先生は続けた。


「マリーの所へ送ってくるとは思わなかったけど、これは、お母さん宛ってことで理解していいのかな」

「先生、なんのことだか分らないわ。私、何も送ってません」

「マリーズゲストハウスのミスター・レイ宛でコンサートのチケットが一枚届いたよ」


 その瞬間、私ははっとしてナツを省みた。ナツは黙って静かに私の視線を捉えていた。その静かで透明な美しい瞳を見た途端、私はいきなり電話を切るとソファから立ち上がった。


「ナツ、あなたなの?」

「なに?」

「あなたがレイ先生にチケットを送ったの?」

「なに? なんのこと?」

「知らばくれないで。余計なことしないでよ。どうしてそんなことを勝手にするの? 私は誰も呼ばないって言ったはずよ」

「私じゃないわ。どうして私がチケットを送るの? 私が買ったチケットはニューヨークへ送っちゃったから、余分なんてないわ」


 戸惑いが怒りとなって口から飛び出した。私は自分でも驚くほど感情的な声で、これまで誰に対しても到底できはしないだろうと思っていたけれども、強く相手を批判しようとしていた。


 混乱していた。ナツに何度かマリーズゲストハウスのことは話したことがある。ネット社会だから住所を調べるなんて簡単なことだ。そこでレイ先生がピアノを弾くことも話したことがあるから、送りさえすれば先生の手に渡るのは考えるまでもない。


 私はナツがそんな風に人のことに首を突っ込んでくるようなおせっかいな一面があるとは考えもしなかったし、意外さを通り越して愕然としていた。クールな素振りで、他人になど関心がないような顔で、ピアノにばかり夢中なナツがまさかこんな手段をとるなんて。想像してみろという方が無理だ。


 考えるうちに私は手足がすうと冷たくなるような不安感に襲われた。もしや、ナツは私の家族のことを知っているのだろうか……? まさか、そんな……。


「レイ先生は感謝祭を家族で過ごすから、チケットが無駄になったわね」

「何を言ってるのか分からないわ」


 ナツは真面目な顔で私を凝視している。それは私の心の奥底を探ろうとでもいうかのような視線で、私は耐えきれずに彼女の視線を避けてくるりと背を向けた。しかし、シリルの言葉にまた即座に彼らに向き直った。


「チケットを送ったのは僕だよ。余計なことだとは思ったけど、君から先生のことはよく聞いていたし、家族同然なんだろう」


 私はその時どんな顔をしていたのだろう。テーブルでハーシーのチョコレートの包みを弄んでいたナツは立ち上がり、シリルもまた口元に手を当てて息をのむようにして私を見つめていた。


 これまでシリルはそんな風に私との距離を縮めたことはなかった。私たちは互いのキャリアの為に、他の人よりも幾分かは気が合っているという理由で一緒に演奏をしてきただけであって、そんな風に立ち入ってくるような関係だとは思いもしなかった。


「サラ、泣かないでお願い」


 ナツがふかふかの絨毯を踏みしめて音もなくするりと私の前に立ったかと思うと、両腕を精一杯広げて私を抱きしめた。


 それは抱きしめるというより、体格差を考えたらしがみつくみたいな格好だったけれど、私はナツの言葉で自分が泣いていることに初めて気がついた。


 帰りたい家などありはしない。レイ先生は素晴らしい教師であり、レイ先生の奥さんも自分には懐かしく、恩ある人たちだ。でももう過去だ。すべてはあの町を出た時に過去になってしまった。私は自分を薄情だと自覚している。しかし今までの出来事のすべてを過去のものにしてしまわなければ、一体自分はどうやってこの先未来へ向かっていけばいいのか分からない。


 ナツが私の背中を叩き、囁く。


「ねえサラ、人は一人で生きて行くものだけれど、本当に一人になることはできないものなのよ」


 本当に? それは本当にそうだろうか? あなたと結ばれることがないなら、私は一人の人生を生きて行く。そうしてそれはすでに決定事項だ。


 冷たい風が窓を鳴らした。枯葉の舞い散る音がかさかさと夜の街をすり抜けて行く。一体彼女にどうして本当のことを言うことができるだろう。シリルが背後に立ち私の体に腕をまわすと、私たちは私を挟んで三人で一つの塊にでもなろうとしているようだった。



 コンサートの朝。私とナツはまだ少し気まずいようなままで朝食をとり、それぞれの部屋で練習をした。


 私はヘッドフォンで耳を塞ぎ、伴奏を耳に注ぎこみ全身に沁み渡らせて無心に弓を動かした。クロゼットから出したドレスはベッドの上に広げておいた。


 レイ先生から電話があっても私はそれを取ることはしなかった。できなかったというのが正しいかもしれない。コンサートのチケットを先生がどうしたのか聞くのが怖かった。レイ先生がコンサートに来るのか、それとも母がやってくるのか。もし母が来たとして、母には私の姿が分かるだろうか。私に母を見分けることはできるだろうか。できたとして、でも、それが一体何になるだろう。母に会いまみえたとして、私に何を話すことができるだろう。


 頭の中から不安と苛立ちを追い払うよう、自分の音楽に集中する。母は美しく、恐ろしい存在となって今の自分の中に棲んでいる。愛されなかった記憶として。


 コンサートのリハーサルは午後からだったので、私はキッチンでサンドイッチを作るとナツの部屋の扉を叩いた。


「ナツ、何か食べてから行かないと夜まで何も食べられないわよ」


 ピアノの音はさっきから止んでいた。返事がないので、音源でも聴いているのだろうかと私はもう一度ノックしてから、そろっとドアを開けて中を覗いた。


「ナツ?」


 部屋の中を窺うとナツは机に向って手紙を開いているところだった。


「……どうしたの?」

「……なんでもない」

「何か悪い知らせでも?」


 ナツの手元にある手紙がニューヨークからの物であるのは疑いようもなかった。このご時世に手紙など送ってくるのは彼女の「放浪の芸術家」だけだ。


 ナツは青い顔でこちらを振り仰ぐと、

「緊張するわ」

 と呟いた。


「緊張する。とにかく、緊張する。オーディションの100倍は緊張する。サラ、もしミスしたら私もう大学に行けなくなるのかしら」

「そんなわけないでしょう。なに言ってるの?」


 私はナツが青ざめている理由が本当に緊張によるものなのか疑っていた。この時ほど手紙の内容を読むことができたならと思ったことはない。


 ナツは手紙を引きだしにいれると立ち上がり、自分の胸に手を当てて大きく息を吸い込んだ。


「私のピアノの退屈さ。感情のない、平凡な、機械みたいなピアノ。マエストロにまたぼろくそに言われるんだわ」

「……私はあなたのピアノは素晴らしいと思うわ」

「サラ、あなただって本当は知ってるはずよ」

「ナツ、あなたは自分を知らないのね」


 私は壁に貼られた幾枚もの写真やスケッチに目を向けると、その一つ一つを指差した。


「あなたの感情はいつもここの上をさまよっている。外に出て行こうとしないで。一つところで滞っているんだわ」

「……」

「心は自由よ。たぶん、あなたが思う以上に心は自由でいていいのよ。それは誰にも止められない」

「……」

「さあ、食事して支度しましょう。あなたはね、ステージで心を解き放つだけでいいのよ」


 この言葉を私は自分自身に向けても言っていたかもしれない。扇情的なピアソラ、甘さと切なさの混在するフランキー・ヴァリ。それらに私は自分の心を託そう。


 ナツは頷くと部屋を出て一緒に食事の支度をし、私たちは静かにそれを食べた。緊張すると言いながらもナツはいつもの旺盛な食欲でサンドイッチを食べ、スープを飲んでいた。そして言った。


「サラと出会えて本当によかったわ」

「なに急に……」

「私には日本でもあまり友達がいなくってね。人づきあいが下手なのね、たぶん。だからサラと友達になれたこと本当に嬉しいし、ラッキーだと思う」

「私は何もしてないわ」

「してる。してるのよ。あなたがそう思わなくても、私は受け取ってる。サラがいないと私は何にもできなかったわ。新しい生活も、ピアノを買うことも、大学生活だってそうよ。あなたが面倒みてくれたから。ありがとうね、サラ」


 食器を片づけるべく立ち上がったナツに私は涙が出そうになった。相変わらず伸びた背筋と美しい横顔は私が憧れてやまないものだ。鼻の奥がつんと痛んだ。ナツがこちらに背中を向けて食器を洗い始めているのをいいことに私は眼尻に滲んだ涙をそっと指ではらった。


 部屋でドレスに着替えたナツはきちんと化粧し、髪をアップに結ってそれはとても綺麗だった。いつもラフな格好ばかりしているが、こんなに化粧映えするとは思わなかった。私はナツを足の先から頭のてっぺんまでじろじろと眺め渡して、

「これじゃあますますモテちゃうわね」

 と言った。


「やめてってば。変なプレッシャーかけないでよ」

「似合ってるわ。本当に奇麗よ」


 ブルーのふんわりしたスカートはひざ下まであり、彼女の上品な美しさを引き立てていたし、ぱっちりした目にきちんと引かれたアイラインとマスカラはますます彼女の目力を強めている。むき出しになった首筋の細さときたら、彼女がまた明日から学内で男の子たちの噂になるのは目に見えている。


 しかしナツはそんなことは気にもかけないようで、部屋を落ち着きなく歩きまわりながら、頭の中で楽譜を追いかけ、唇からはメロディがいくつも連なって漏れ出していた。


 私はというと代り映えしないドレスを着て、身仕度を整えたもののさっきナツが部屋で開いていた手紙の内容がどんなものだったのかまだ気になって、しかし聞けずに心はうろうろと彷徨うばかりだった。


 コートを着て部屋を出ると私たちは揃って地下鉄に乗り、大学の傍のコンサートホールへ向かった。シリルともホールで落ちあうことになっていた。


 リハーサルはプログラムの順番通りに行われる。学年の順だ。私たちは三年生なのでだいたい真ん中あたり。プログラムを見ながらナツは自分の同級生がもっと早い順番であるのをしきりに羨ましがっていた。彼女曰く順番が後になればなるほど緊張しすぎて本番で失敗するのだそうだ。オーディションの時の強気で自信に満ちた姿からは想像もできないような、弱気な言葉だった。


 私がそう言うと、ナツは、

「一人で弾く時はまだ思いきれるのよ。でも、三重奏とかカルテットとかは駄目ね。信頼すればするほど心が弱くなってしまう。人間って不思議なものよね。一人だと不安なのに、一人の方が強くなれるなんてね。矛盾してるけど、そう思うの」

「そうね」

 私も頷いた。


 ホールの楽屋にシリルは先に来ていて、ナツを見るなり案の定「すごくきれいだよ!」と感嘆の声をあげた。


「声が大きいわ」


 ナツは慌てたようにシリルを制した。


「大袈裟よ。見てよ、他にも綺麗な子沢山いるじゃない」


 楽屋を見渡すと確かに着飾った綺麗な子たちは大勢いて、それぞれ順番を待っている。でも、私もシリルの言葉に同感だった。


「君が一番奇麗だよ!」


 ナツのほっそりした手足に意志の強い瞳。赤い口紅が妙に大人っぽく、それが彼女のアジア系特有の幼さと相まって不思議な魅力を引き出している。シリルがもう一度言う。


「君みたいに綺麗な女の子、そうはいないよ。才能があって、綺麗な子」


 天気予報では今晩から急に冷え込むらしい。冬が来るのだ。ナツはリハーサルをそつなくこなし、ホールの外へコーヒーを買いに出て行った。レイ先生の奥さんの手編みのマフラーを巻いて。


 シリルは楽屋に無造作に並べられた椅子に腰掛け、そこここにいる学生達を眺めていた。


「サラ、君の先生は今日来るの?」

「……さあ?」

「みんな家族や恋人が見に来る」

「そうね」

「……チケットを送ったのは、僕じゃないよ」

「やっぱりナツね。そうじゃないかと思った。他にあり得ないもの」

「怒ってるのかい?」

「いいえ……」

「君が家族のことを話したがらないのは知ってる」


 私はぎくりとした。


「君が一度も家に帰ってないことも知ってる」

「なにが言いたいの」

「ナツが君を心配してたから」

「ナツがなんて? ナツに何か話したの?」

「いや、なにも。何も話さないよ。でも彼女は、君がレイ先生や家族に会いたいんじゃないかって」

「……」


 彼女の奥測は当たっているようでいて、わずかにピントがずれているようだった。無理もない。彼らは本当のことは何も知らないのだから。私は確かにレイ先生には会いたいと思う。レイ先生の奥さんにも。彼らには自分の演奏を聴いてもらいたいと思うし、それは恩返しのようなものだ。でも、あの町にはもう二度と戻らないと決めている。そして家族の誰にももう会いたくはないのだ。


 この複雑な、悲しい物思い。ナツは私とレイ先生の電話の様子からなにかトラブルがあったかと思ったのだろう。トラブルといえば、確かにそれはトラブルだ。そして今そのトラブルは大きな不安材料となって黒い雲を頭上に広げている。


「……ナツはチケットをどうやって手に入れたのかしら」

「そこだよ。彼女、一枚しか買えなかったって言ってただろう」

「誰かに譲ってもらったのかしら……」

「サラ、ナツを怒らないでやれよ。彼女、君のこと思ってるんだよ」

「……」


 ホールには続々と観客が集まりつつあった。ナツはコーヒーを買って戻って来ると、通りを埋め始めた華やかな人々の群れを興奮気味にリポートし「ああ、緊張するわ」と繰り返した。


 着飾った人々、幸福そうな笑顔の群れ。そして私たちにとって何らかのチャンスをもたらすプロデューサーやレコード会社の人々。辛辣な批評家たち。明るさと暗さの表裏一体だ。


 紙コップを両手に包むようにして持ち、ナツはシリルに感謝祭のターキーの話などしている。ひっきりなしに喋るのは本当に緊張しているからだろうし、同時に気分の高揚の表れでもあるのだろう。ナツの目が子供みたいに輝いていた。


 開場時刻を過ぎ、開演の時間を告げるベルが鳴った。舞台の袖から客席をそっと覗く。満員だ。皆一様に着飾り、楽しげに、且つ期待をこめた様子で賑やかにお喋りしている。


 私は客席に視線を走らせながら、果たしてこの中にナツの大事な人はいるのだろうかと考えた。


 ふと気がつくとナツが傍に立って同じように客席を覗いていた。


「満員ね」

「そうね」

「サラも緊張する?」

「そりゃあするわ。手が冷たいもの」


 小声で言うとナツが不意に私の手をとった。


「あら、本当。冷たいわ」


 ナツは自分の手に私の手を包むようにして、温かい息を吐きかけた。まるで凍えるのを防ぐかのように。


 私の心臓はそれだけでもう止まってしまいそうで、眩暈がするほど幸福だった。ナツの長い睫毛が頬に影を落としているのを見ながら、時間が止まればいいのにとさえ思った。


 スタッフに促されてその場を離れるまで私は永遠の時間を生きているような気がしていた。


 プログラムは順調に進み、何度も拍手の波が私たちの足もとへ寄せてくる。いよいよ私たちの順番が迫っていた。


「ニューヨークの友達は来てるの?」

「……さあ。どうかしら。ステージから客席は分からないから」


 私は舞台袖で楽器を抱え、ナツの背中を見ながら尋ねた。シリルも楽器を手に舞台を見つめている。


 確かにこの広いホールの客席から一人の人間の顔を瞬時に見つけ出すことはできないだろう。でも、そこにいることが分かっているなら心の支えになるのではないだろうか。そう考えた私は即座に自分の質問が彼女にとって適当ではないことを悟った。


 ナツには支えなど必要ない。彼女は強い心でプレッシャーに立ち向かっていくし、自分の音楽と向き合っているではないか。では彼女に必要なものってなんだろう。それはたぶん「恋」だ。


 恋に憧れ、恋というものをしたくて私はずいぶん長いこと彷徨ってきたような気がする。恋は孤独を満たしてくれると思っていたのだ。けれど、本当に恋を必要とするのは彼女のような人ではないだろうか。孤独を満たそうとも思わず、人は一人で生きて行くものだと決めている孤高の人。だからこそ恋が必要なのだ。恋がもたらす様々な喜びや憂い。それが彼女の音楽をより素晴らしいものにする。


「サラの先生は来てるの?」

 ナツがひそひそ声で振り向いた。


「……ステージから客席は分からないから」

 そう答えるとナツはにやりと笑った。


 ホールのアナウンスがプログラムを読みあげている。私たちの名前がそれぞれ呼ばれると、私はナツの肩に手を置いた。あなたが好きよ。心で呟く。


「さあ、いきましょう」

 ナツが深く頷いた。


 ステージの床を三人の靴音が妙に高く響く。拍手で迎えられた私たちはそれぞれの位置へ来ると、一瞬客席を見渡した。不意にナツがオーディションの時に言った言葉が思い出された。確かに、オーディションで怖気強くようではこんなに沢山の人たちの評価になど耐えられはしない。拍手は私たちを迎えるのではなく、羊を囲いへ追い込み狭い檻へ閉じ込めようとしているのと同じなのだ。いかにしてそこから飛び出すかが問われている。拍手は、その時初めて本当の意味で私たちを讃えるものになるだろう。


 シリルが私とナツの顔を見る。互いに目配せを交わす。私たちはそれぞれの心が一つになり、互いの呼吸と心臓の音までシンクロするのを感じる。演奏の始まるわずか一瞬。一秒にも満たない。私はこれまでに感じたことのない快い刺激と、静謐な緊張とに肌が泡立った。


 リベルタンゴ。ナツのピアノが恐ろしく正確で力強いメロディを刻む。シリルのヴァイオリンの繊細な音がそこに乗り、そして私は狂おしい情熱を、あらん限りの恋を音に変えてぶつけ始めた。


 それはこれまでにない一体感だった。まさに音楽と自分たちが一つになるような。音の一つ一つがまるで形になって体中にぶつかってくるような気さえした。


 ああ、今、ナツは心を解き放っている。私は弓を動かしながら、ナツのピアノが明らかにいつもと違っているのを感じた。練習の時とまるで違う。言い換えれば別人のようでさえある。感情豊かで、胸に迫ってくる。


 シリルもそれを感じたのだろう。私をちらと見て、驚きと感嘆の表情を浮かべ、それから嬉しそうに笑って素晴らしいテクニックで抒情溢れるリベルタンゴを弾きあげた。


 弾き終わった時、私は自分のあらん限りの力で自分の恋を叫んだような気がしていた。恋は幸福をもたらすものと思っていたが、そうではない。そんな甘くて優しいだけのものではなかったのだ。だからこそ人は恋に翻弄されるのだろう。悲しさとせつなさがあればこその、恋の甘さなのだ。


 母もそれを知っていただろうか。いつも男の影をちらつかせていたけれど、あのひとつひとつが彼女の恋の形であったならば。まさに翻弄され、激流に飲まれ、溺れながら生きていたのだろうか。


 もし私がもっと早くに他人を恋うる気持ちを知っていたら。母の気持ちを理解できたかもしれない。


「サラ?」

 ナツの声で私ははっと我に返った。


 大きな拍手が私たちを包んでいた。私は汗をびっしょりかいていた。ナツとシリルに視線を向けると、二人とも私に「大丈夫」と言うように頷いて見せた。


 拍手が緩やかに静まると、ナツは大きく息をついた。それが私の耳に届くほどで、緊張というよりまるで気合いをいれているみたいで私はおかしくなってしまった。


 次の曲だった。私はその為にピアノのそばに移動し、スタッフが運んでくるマイクを調整した。このサラ・コナーズが人前で歌うなんて! レイ先生が見たらどれだけ驚くだろう。レイ先生の奥さんも驚きのあまり泣き出してしまうかもしれない。感激屋な人だから。


 ナツが言ったのは本当だ。人は一人で生きて行くものだけれど、本当に一人になることは難しい。だって私の中にちゃんとレイ先生や奥さんがいるのだから。私はその思い出の中に生きて行くことだってできる。


 ナツがピアノを弾き始めると、客席がどよめいた。その選曲が意外だったのと、多くの人に愛されている曲だからだろう。その反応にナツがにやりと笑うのが分かった。


 なぜ分かったのだろう。彼女の顔は見えなかったというのに。でも、分かった。気配のようなもので。それにシリルも楽しげに笑っているのが分かる。私たちはまるで子供が悪戯をしかけるようなわくわくした気持ちでいっぱいだった。


 胸が苦しいほど緊張していたが、今は楽しさが勝っていた。息を大きく吸い込み歌い出すとどよめきは歓声めいたものに変り、ホールの空気ががらりと変わり始めた。リベルタンゴや他のクラシックやジャズの、半ば緊迫した学生達の必死な空気に観客も緊張を強いられていたのだろう。そこへこのナンバーだ。


 私もシリルもすっかり嬉しくなっていた。少々のミスタッチなどどうでもよくて、ノリが大事だと思うぐらいに。その証拠にヴァイオリンを構えるシリルの足が自然とステップを踏んでいた。


 それは素晴らしい瞬間だった。驚くべきことにサビにくると客席が一緒になって歌い始めた。そんな事このコンサートで一度もなかったことだった。自分たちだけではなく、客席までもが一体となってそれぞれの恋を歌う瞬間で、私はこんな風にたくさんの人が一斉に幸福で笑顔が弾けるような場面を見たことがなかった。


 見つめずにはいられない。文字どおり私は彼女を見つめずにはいられない。二人の声がハーモニーを奏でると客席はわっと湧きあがった。


 音楽を楽しいものだと純粋に思い、心酔した子供時代。私はもう長いことその感覚を忘れていた。チェロは私にとって町を出る手段となり、今ここにいさせてくれる為の道具となり私に存在価値を与えてくれる。しかし音楽の本質はそんなものではない。


 拍手が怒涛のように押し寄せてくるのを私はまだ高揚しながら眺め渡した。拍手の波はどんどん大きくなり、気がつくと私たち三人はコンサートで最初のスタンディングオベーションを受けていた。


 頬が熱く、紅潮しているのが分かった。私たちは客席に向って礼をし、手を振った。ナツは澄んだ黒い瞳を輝かせていた。ああ、彼に彼女の音楽が届いただろうか。私は拍手に応えながら隣のナツにそっと尋ねた。


「今度こそ彼は褒めてくれるんじゃないの」

「……」


 実際ナツの演奏は素晴らしかった。真面目で頑なで、完璧で正確なだけのピアノではなく、お茶目で陽気で、情熱的だった。あれが彼女の本当の姿なのだ。物静かな顔をして誰にも心を開かないような姿ではなく、聴く者を虜にする自由な音。


 ステージを後にする時、花束を手に駆け寄って来る女性が視界をかすめた。


「サラ、ナツ、よかったよ。大成功だったね。これでマエストロの鼻を明かしてやれる」

 シリルが子供みたいに弾んだ声で言った。


 私は返事をしかけて、客席から呼ばれたことに気が付きぱっとそちらを振り返った。


「サラ!」


 この瞬間をなんと言えばいいだろう。あんなにも素晴らしい演奏で満ち足りていたというのに、私の心は一瞬にして凍りつき楽器を抱えたままその足までステージの端で固まってしまい一歩も動けなくなっていた。


 その人はステージの足もとに飛びつくようにして花束を突きだし、今一度私の名前を叫んだ。


「サラ!」


 ナツが立ち止ってこちらを振り向いていた。


 バラの花束が揺れている。


「サラ、素晴らしい演奏だったわ。本当に素敵だった」


 明るい色に染めた金髪。眼尻には皺が刻まれていたし、肌の色もくすんでいたけれど見間違うはずもなかった。


 そこにいるのは母だった。私の記憶の中では母は若くて美しい姿だけれど、突如として現れたその人もまた今でも十分に美しいといえる容姿をしていた。


 レイ先生、やっぱり。最初に私が思ったのはそのことだった。レイ先生はやはりチケットを母に渡したのだ。律儀で真面目な先生のことだから、そんな気はしていた。


 そして私に母を見分けることができるかどうかという懸念。そんなもの杞憂に過ぎなかったのだ。だって、忘れるはずもないのだから。それは私が母親を心から失ったりしないという意味ではない。母が私を置いて行ってしまったことを、忘れたりはできないということだ。


 なぜそんな風に笑えるのだろう。なぜ、今になって姿を見せることができたのだろう。疑問符が胸の中で渦を巻き、嵐を起こそうとしているようだった。風が吹き荒れ、頭の中のものをめちゃくちゃに薙ぎ払っていく。もう何か考えることなどできはしない。声が出ない。咽喉の奥に飴玉がつかえてしまったように、息をするのも苦しい。


 すると、そんな私を見ていたナツがステージの袖へ行きかけたのをまた戻ってきた。ナツは私の異変に気付いたのだろう。そうっと私の背中に手を触れるてから、ステージ下で花束を突きだしている人に向って体を屈めあのクールな様子で、落ち着いた笑顔で花束を受け取った。そしてまた私の背中に手を触れた。


 私は彼女の体温を感じ、その手のひらの優しさにかろうじて自分を保っていられるだけの落ち着きを取り戻した。


「……ありがとうございます」


 私は一言そう言った。他に言うべきことはなかった。


 ナツが私をステージ袖へ促すと、私たちは並んで歩き出した。ナツは何も言わなかった。あれが誰かを問うこともしなければ、私の不審な態度についても尋ねなかった。


 母は一瞬驚いた顔をし、でもすぐにすべてを悟ったらしかった。私は母がひどく傷つき、絶望するのを見逃さなかった。


 けど、それが一体なんだというのだろう。傷つくことも絶望も、私には母が消え去ってからずっと長い間馴染んだ感情だった。私は自分が母を愛し、愛するが故に許すことができなかった自分をその時初めて見出していた。


 美しかった母は確実に加齢の変化を見せていた、その当たり前の変化が私たちに流れた時間をまざまざと思い知らせていた。


 好かれたい。愛されたい。あんなにも願った日々が、今頃になって叶えられたからといってそれが何だというのだろう。もう私は母の愛を必要としていない。そのことにも初めて気が付き、我ながら驚いていた。


 楽屋へ戻るとナツは花束をテーブルに置いた。


「知りあい?」

「……いいえ。知らない人。だから、びっくりしちゃって」

「そう。サラの歌が素晴らしかったからね。きっと」

「私にくれたんじゃなかったかも。シリルやあなたに渡したかったのかも」

「でもサラって呼んでたじゃない」

「……そうだった? 聞こえなかったわ」


 ナツはもうコートに袖を通そうとしていた。もうここに用はないと言わんばかりに。もうここにはいたくないとでも言わんばかりに。


 私はそれを見て瞬時に悟った。レイ先生に送ったチケット。あれは、ニューヨークへ送ったものだったのだ。


 一体彼女がどうやってそれを転送したのかは分からない。ニューヨークの彼に直接頼んだのかもしれない。でも、レイ先生にチケットを送ったのは彼女であり、そうしてやっぱりチケットは一枚しかなかったのだ。


 彼はここへは来ていないのだ。それが分かると私はコートを着てマフラーを巻いた彼女をいきなり強く抱きしめた。


 急に引き寄せられたナツは「わっ……」と小さく声をあげ、よろめいた。


「どうしたの?」


 痩せて小柄な彼女の体を自分の胸に押しつけ、つやつやした黒髪に鼻先を埋める格好で私はしっかりとナツを抱きしめ、小声で告げた。


「好きよ」

「え?」

「あなたが好きよ」


 ナツは抱きすくめられる格好で私の言葉を黙って聞いていた。


 こんな風な告白をするつもりはなかった。それがどんな場面だろうとも、私は自分の恋を伝えるつもりなどなかったはずだった。彼女が自分を受け入れるはずもないのだから。なのに、どうしてだろう。言わずにはいられなかった。言葉が胸の奥底から湧きあがり、勝手に飛び出していくようだった。


「初めて会った時からあなたが好きだった」

「……」

「あなたを好きになってもダメだってことは分かってる」

「……」

「私は何も望まない。ただ……好きでいさせてほしいの。お願い」


 終始無言だったナツが腕の中でもぞもぞと体を動かすと、私の体に両腕を巻きつけた。


「……心は自由だって言ったのはサラよ」


 ナツはそう言って私の背中をぽんぽんと叩いた。


 楽屋では他の学生たちがざわざわと準備をしたり、演奏の余韻に浸っていて誰も私たち二人の抱擁と告白に注意を払ってはいなかった。互いの健闘を讃えあっているようにしか見えなかったのかもしれない。


 私は自分の恋がここへ来てはっきりと終わりの形を成すのを感じていた。言えば、終りなのだ。それは初めから分かっていたことだった。


 私はすべての物思いから解き放たれたような気がしていた。


 もうあんなにも暗い感情で母を想うことはしない。私は、やはり母が私を本当には愛していなかったのだなということを思い知ってしまった。自分が捨てて行った娘の感情も、流れた時間も彼女には無関係だということが分かってしまったのだ。あの花束はその象徴だった。


 もう私は母から愛されたくていつも虚空に手を伸ばしてきた子供ではない。私という人間の人生には愛される機会は少ないのかもしれない。けれど、それでもいいと思う。他ならぬ私自身が誰かを愛することができるのならば。例え報われなくとも、人を愛することのできる心そのものが私を慰めてくれるから。


 人は一人で生きて行くものだとナツは言った。その意味が分かる気がする。生きていけるのだ。人は、一人きりでも。誰かを愛せるのならば、道のりは辛いばかりのものではないのだろう。私は彼女の強さの理由をまざまざと見せつけられた気がした。彼女もまた報われない恋をしているのかも、しれないと。だからこそ強く、一人で生きる決意をしているのかもしれない。


「サラ、感謝祭の七面鳥を食べに行こう」

 ナツが私の耳元に囁いた。


 私は彼女の髪に顔を埋めたままこくりと頷いた。ホールの外は雪だと楽屋の外で家族と会っていたシリルが報告にきた。私たちはどちらともなく体を離すと、ふわりと小さく微笑みあった。


                         了


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もし君と結ばれなければ(短編) 三村小稲 @maki-novel

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