剣の高嶺
ぶっくばぐ
第1話
始めに勇名を
もっともこの逸話には、早くから疑問符がついている。そもそも灯帯の灯とは卑、すなわち素性の知れぬ侠客や罪人たちで構成される部隊であり、主な務めは荷役や炊事だったはずなのだ。英雄がもてはやされるのは劣勢側と相場が決まっており、負け戦で撤退の
本来、兵部護省の耳をはばかるこの説が、
とはいえ、それもこれも遠い昔の話である。
環号の戦以降、
だから、その色黒の老人を注視する者など酒家の客の誰ひとりとしていなかったし、卓の注文を取った女給も、老人が大叔父の名の由来になった人物だとは、まさか夢にも思わない。
「――随分と、早い時間に混みだすな」
「師範の言うように早めに来て正解でしたね」
青菜の繊維をかみ砕きながら続ける。
「人気の店なんでしょう。――うん、実際旨いし」
酒家の名は福江庵といい、斎都は外塔門にある船着き場から天水江を水行八日、洛都から駅馬車に乗り換えて陸行五日、そこからさらに小運河をどんじりまで遡った
この手の契約酒家で出すのは材料費をぎりぎりまで切り詰めた犬の餌と相場が決まっているが、この店の店主はなかなか良心的な人物らしい。安価で美味とくれば繁盛するのも当然で、人足はもちろん地元の客も多い店内はなかなかに騒がしい。
「――師範は来たことあるんですか? この店」
「いや、初めてだ。前にはなかったからな」
前、とは一体いつのことなのか。
十四の秋に
もっとも、
日ごと木剣で転がされる身からすれば、師の剣力は疑うまでもなく、例え〝神技″
「――じゃあ、なんでこんな時間からメシなんです?」
「そりゃあお前、明日は早いからだ。お前も早く寝るように」
「知らない町についたら色々遊んでみたいんですがね」
「女なら明日紹介してやる。絶世の美女だ」
へえ、と
思えば、この旅路は出だしから妙だった。本人は面倒がっているが役人に懇願され、䤳玖が貴人の子女の武術指南役として斎都を離れることはしばしある。もっとも道中の足宿の手配から、実際の指南役、別名を名乗る䤳玖を
ところが今回、先導する䤳玖の後をついていくばかりで、酉萬はどこに向かっているのかも知らない。
「――そいつは楽しみですがね。そろそろ、どこのお
䤳玖はしばし無言。答えたくないというより、どう話すべきか迷っているようにも見える。やがて考えがまとまったのか、口を開き、
「―――、」
入り口近くの異変を察知して、再び口を閉じた。
もめ事の気配は波紋のように店内へ広がり、酔客の
どうやら別の飯場から流れてきた新入り人足数人が、
答えを聞きそびれた
「みっともねえ野郎だ。ちょっと黙らせてきますよ」
「よせ。店に迷惑がかかる。――そのうち地回り連中が片をつけるだろう」
「こんな
「どこの町にもいるもんだ。十二年前に半数斬り殺したが、頭目が混じっていなければ再建してるはずだ」
好々爺然とした容貌のまま、䤳玖はひどく物騒なことをさらりと口にする。
地元名物という淡水魚の煮物は、
その時、一際大きな怒声が店を震わせた。
すわ乱闘開始かと、店内のどの目も入口の方へ集中し、䤳玖も匙を手にしたまま視線が横に流れた。
その隙を狙った。
狙うは首筋に二本、目と胴体へ一本ずつ。避けられでもすれば後ろの酔客を刺し殺す
足元に熱。
――‼
内息の巡りを散らされ、暴発した
「――よせ。店に迷惑がかかる」
䤳玖の口調は先ほどと全く変わらない。
「――鏢か。いつ練習していたんだ?」
酉萬は答えない。鏢から放した手を抜いて、椅子にどっかと座りなおす。先ほどの物音に驚いて、今度は何事かと振り返った後ろの客に、なんでもないよと手を振って適当になだめた。
卓の死角から、匙で煮汁をぶっかけられた足の甲を見つめてぽつりと、
「――色に出てましたか?」
「色」とは視線の動き、筋のこわばり、重心の移動から生じる予備動作のことである。
「いや。見事に消しておったよ」
再び入口近くから、今度はやんややんやの大歓声。
もめ事は、遅れてやってきた飯場頭の一喝で収まったらしい。現場を仕切る頭には逆らえず、新入りたちも
「しかし消しすぎだな。万華色彩花図の
䤳玖はかかかと笑う。
うつむいたままの酉萬はため息も出ない。屋敷では数限りなく行ってきた不意打ちだったが、余人のいるところでは初めてである。しかも隠れて修練を積んだ
「初見の武器を周囲を
言いかけた
「――酉萬。お前弟子になって何年になる?」
なんだいきなり、と酉萬は思う。師範が
「――はい。えー、そう。この秋で六年になります」
「そうか。――あれも不意打ちが縁だったな」
そうだった、と酉萬は苦笑する。
相手は䤳玖ではなく、そう、昔通っていた兵法道場の総師範で確か〝炎王″
識波には何の恨みもない。道場の金の流れと序列の関係も把握していなかった無知ゆえの当然の帰結であり、十人程度も返り討ちにできなかった自分の未熟さが全てである。おかげで本物に師事できたことを思えば、
とはいえ、
あれから六年。本物の剣達である
再び沈んでいく
「そう落ち込むな。お前は二十の頃の私より強い」
「師範のように、時を超越した化物になる自信はありません」
時を超越か、とおかしそうに笑いながら䤳玖は続ける。
「お前には才がある。目がいい」
またそれか、と酉萬は思う。自分を袋にした連中を一人で叩きのめした䤳玖。当初、剣筋はおろか、何が起きているのかもわからなかったが、半死半生のまま見た光景をひと月繰り返し脳裏に思い浮かべ、誰をどう斬ったのか言い当てたのが弟子入りを許されるきっかけだった。しかしそれが、実戦で役に立ったためしがない。見えていても反応できない、なら救いもあるが、見えている自覚もないのだ。要するに自分は目が良いのではなく、思い出すのが上手いだけだと酉萬は思う。
「必ず私より強くなれる」
言葉を重ねる䤳玖に、酉萬もさすがに居心地が悪くなってきた。弱音を吐いたことが恥ずかしくなってくる。そもそも、師に気を使われる弟子というのはどうだろう。武才以前の問題ではないか。
顔を上げる。辿り着くべき頂をまっすぐに見つめる。
「つまらないことを言いました。――今後も精進します」
䤳玖は首を振り、
「つまらないことはない。誰しも迷うことはある。――しかし私程度の壁に落ち込んでいてどうする? 世の中には私など足元にも及ばない剣仙もいるのだぞ」
――なに言ってやがる。このじじい。
酉萬は思わず吹き出した。大真面目な顔で告げる䤳玖の言葉がおかしくてたまらない。そんな神仙がいるならいっそ見てみたく、䤳玖なら本気で死神を斬り殺し、あと百年生きるつもりなのかもしれない。自分の迷いを絶つための言葉なら、なるほどさすが剣達、見事な一閃。口の端をひくつかせながら、必死に笑いをかみ殺して返事をする。
「そ、そりゃあ確かに、思い悩んでる暇もありませんね」
䤳玖は満足げに頷いている。
気を取り直して二人して残りの料理をがつがつと平らげ、通りがかった女給に手ぬぐいを借りて煮汁のかかった足をぬぐっていると、ふと足元に置いたままの
「そういえば結局、誰に会いに行くんです?」
䤳玖は女給に入れなおしてもらった茶をすすりながら、
「――うん。昔から私が焦がれているお方だ」
予想外の答えに、酉萬は天を仰いだ。
絶世の美女発言に加え、今しがたの褒め殺し。天涯孤独の身の上と勝手に思っていたが、まさか孫娘を嫁にと紹介されるのでは。そんなわずかな心配も消し飛んでしまった。どんな修練にも耐え抜くと決意を新たにしたばかりだが、老人と老婆の逢瀬に付き合うというのは随分と厳しい修行だ。
油じみた天井を見つめながら、口からは乾いた声がもれる。
「師範。――お若いですねー」
「お前の知っての通り、若くはないさ。――しかし、」
皮肉にも動じず、䤳玖は頬の皺を笑みで緩ませて、
「いくつになっても楽しみは尽きないものだ」
天井を見るのにも飽きて、そういうものですか、と呆れた視線を向ける酉萬を前に、䤳玖はいつまでも笑っている。
「――お前にも、いつかわかる日がくる」
――
というのが宿屋の主人の忠告だった。
人通りの絶え果てた旧道は獣道のそれと変わらず、日が昇る頃合いになっても枝葉にさえぎられて一向に明るくならない。しかし生い茂る草木をかき分け、木の根の
いや亡骸の末路はどうでもいい。
酉萬の心を占めるのは、これから会うという䤳玖の相手についてだ。
このあたりに貴人の別宅などない。これも宿屋の主人の言である。
高価な衣や道具を手土産にしているからには、人知れず隠者の生活をしている
とすれば、この山はたんに相見の場ということになるが、卦選なり洛都となりで落ち合えばすむ話ではないか。一目を避けるならば、どちらかの屋敷に招けばよいだけだと酉萬は思う。
昼を過ぎても、䤳玖は険しい山路を息も切らさずに登っていき、道に迷う様子もなく無言で進み続けるその背中は、問いを拒むようにも感じられる。
彼方に連なる山々と、その頭上を覆う秋雲の群れと、中天から傾き始めたお日様が、なぜか視界の下の方にも見える。
それは大きな湖だった。
河道から取り残されたのか。人から忘れられた山の奥深く。本流からも忘れられた三日月型の湖は、今なお、なみなみと水をたたえている。水鳥が走らせる波紋が
先を行く
「――ここだ」
ここだと言われても。
風光明媚な場所だと言えなくもないし、落ち合う場所なのはわかったが、人の気配はない。
「師範。――誰もいないようですが」
「じきお見えになる。お前も好きに過ごせば良い」
そう言われても酉萬は困る。草っぱらで横になって昼寝でもしたいところだが、客人を迎えるにあたり、さすがにまずかろう。稽古をつけてもらうことも考えたが、いつものように
起勢、酔調振月から第壱式。跳歩掃刃、反身輪剣へ。
弐式、参式と剣を走らせていると、横目で見ている䤳玖が時折「振りの抜けが甘い」「型を意識しすぎている。それでは立ち合いでは使えん」と指摘してきた。一通り套路を習い覚えて以来、「創意工夫せよ」と言うばかりで久しくなかったことである。動きにも
西空に朱が混じり始める頃、いつしか黙り込んでいた䤳玖が不意に立ち上がるのを感じた。
動きを止めた酉萬もそちらへ視線を転じ、
「――は?」
思わず声が出た。
湖のほとりに女が立っていた。
今の今まで、何の気配もなかった。二十歩もない距離である。目を閉じて耳をふさいで剣を振っていたわけでもなく、当然聞こえるはずの草を
年回りは、自分とそう変わらぬように見える。美人には違いないが、紅もささず、屈託のない眼差しをこちらに向けていた様はまるで童女のようである。高価そうな稽古着に、一振りの長剣を携えている姿には色気もなにもあったものではない。
――代理の者?
驚き冷めやらぬまま、まず思ったのはそれだった。
ところが
立ち上がった䤳玖も幾分柔らかくなった態度で、親しみのこもった頷きを返す。
ふと、女の視線が立ちすくんだままの酉萬に当てられた。女の意図を察した䤳玖の声。
「――はい。弟子になります。まだ若いが、見所のあるやつで」
女が小首をかしげる。続ける䤳玖の声。
「はい、私めは本日で最後になります。――どうかご存分に」
それを聞いた女は破顔する。喜色満面の輝くような笑みであり、酉萬も一時女に見惚れた。
呼ばれれば挨拶しなければ、と汗をぬぐい、襟元を正すが、紹介というのはそれで終わりらしかった。
それにしても。
――
女の声をまだ一言も聞いていない。子供じみた立ち振る舞いは、世間ずれしていない良家の子女にまれにあることである。身分
今度こそ、根ほり葉ほり問い詰めてやる。そんな心づもりで䤳玖を待ち受け、
「――師範、」
それきり酉萬は絶句する。
もろもろの疑問を吹き飛ばしたのは、䤳玖の懐から差し出された一通の書状であった。表面に
略式ではあるが、正式な手順にのっとって書かれたそれは、まごうことない
意味がわからない。
とうとう本当に耄碌してしまったのかと正直思った。無論、神仏の類でなし、䤳玖もまたいつかは死ぬだろう。これが病に倒れた枕元で差し出されたなら、自分も涙ながらに受け取ったことだろう。しかし見も知らぬ山の奥へと連れ出し、謎の女と会話ともいえぬ会話を交え、前触れもなし遺文を突き出すというのは
吹き飛ばされた疑問は、勢いを増して舞い戻ってきた。もはや自分が何から聞きたいのかもわからず、問いが口からあふれるにまかせて、
「何を、」
「――黙れ」
喉元に突き付けられた剣にせき止められた。
「これ以降、声を出すことは許さん。――動くこともまかりならん。全てを見届けたあとに、文の封を切れ」
黙ったのは言葉を理解したからではなく、抜く手も見せないその動きに、
書状を懐に押し込められるが、身動きも取れない。
䤳玖は地蔵と化した弟子に背を向け、それきり
なんだこれは。
混乱しきった酉萬の心境を、半ば無理やり言葉にすればこうなる。出口を防がれた疑問は身の内を荒れ狂い、吐き気すら感じた。
これはつまり、真剣での立ち合いなのだろうか。日が沈みつつある山中の湖畔で、二人は一足一刀からやや離れた遠間、五歩ほどの距離で向き合っている。茜色に染まった水面を背に、剣を手に対峙する老人と女の姿はおよそ現実感というものがなく、芝居の演目を見ている気すら覚えるが、西日に照らされた刀身のぎらつきには一切の嘘がない。女はやはり䤳玖の孫娘で、間抜けな弟子を担ぐために一芝居打っているのではないか。そんなありえない想像に
二人が動き出す。
剣の切っ先は下に向けたまま、体軸をふらふらと揺らし始めた。規則的な振り子の動きではなく、酒に酔っているようにも、眠気を我慢しているようにも見える。
起勢だ。
――同門?
䤳玖は当然としても、鏡映しの女の動作も、見知った套路のものだった。酔漢を真似た拳法や、所作を隠すために身体を揺らす門派はいくつかあるが、酉萬の教わったそれは、軸の傾け方に独特の癖があるため間違いないように思えた。
となると、これはよく聞く宗家分家の争いなのだろうか。尾ひれが付きすぎた䤳玖の武歴。まさか一門皆殺しの生き残りではないにせよ、恨みを買うことは山ほどあったろう。仮にこちらが分家なのだとしたら、宗家にも
思いついたその考えに、酉萬は一も二もなく飛びついた。だとすれば䤳玖の
酉萬が
闘いは終始、
だからこれから先は、酉萬の記憶の中の光景だ。
酉萬はこの後、何年も何年も繰り返しこの光景を脳裏に思い浮かべた。思い返すたびに新たな発見と驚きがあり、驚きは新たな疑問を引き連れて、再び酉萬を回想へと誘った。
仕掛けたのは
物が真横に落ちるような速さで女に近づき、両足まとめて叩き斬る勢いで
手順が決まった剣舞でも、到底ありえない速度だった。
わけがわからなかった。驚きも度を過ぎると何かが麻痺するらしい。酉萬は息を止め、顔中を
二人の速度はさらに増す。䤳玖は手が八つあるような速さで〝回刃″の由来となった、円を描くような斬撃を無数に繰り出す。女はその
そのとき、両者は申し合せたように一旦間合いを離した。女は頬の血をぬぐって歯を見せて笑い、䤳玖も息を乱しながら、やはり笑顔で応える。
再び間合いが詰まり、入るものを即座に切り殺す暴風圏が形成される。
二人の速度はさらに増す。その
二人の速度はさらに増す。
女は笑う。相方不在で踊れなかった舞踏に、待ちわびた相手が来てくれたような歓喜の笑みであり、自分だけの秘密の場所へ友を招いてはしゃぐ子供のそれだ。
女の打ち込みを防ぐ瞬間、䤳玖の剣がより甲高い音を響かせ、体軸にわずかなぶれが生じることに、酉萬はしばらくの間気づかなかった。
女は䤳玖より強い。
理解を拒むその事実を、酉萬もようやく受け入れつつあった。武辺の
決着は、日が落ちる前についた。
ついに受けきれなかった一刀に䤳玖の剣が跳ね上がる。がら空きになった身体に、女の返す刀が容赦なく滑り込み、逆袈裟の形で斬り開く。まず即死だと思われたその傷で、いかな執念のたまものか、䤳玖は血を吐きながらその日一番の突きを放った。躱しきれない女の首を裂くも、刺突はわずかに
女は満足げに息をもらした。地に伏した䤳玖へ、生前向けたのと変わらない笑みを浮かべる。放り出した土産を血が付かないように袋の木剣で引っ掛け、現れた時とは違い、すたすたと水辺を歩いて去って行った。途中酉萬へも目をやり、頷くような会釈を送るが、茫然自失の酉萬はまるで気づいていない。
最後まで、わけがわからなかった。
すでに思考は停止していた。
遺文に書かれていたのは、この三つだけだった。
翌日の昼も過ぎた頃にようやく正気をとり戻し、
これだ。
壊した扉を閉めもせず、寝食を忘れて読みふける。
記録に残っていないので定かではないが、おそらく自分は六人目だと思う。書の始まりには、誰とも知れない筆跡でこう書かれていた。
それは剣の頂に手を伸ばさんと、挑み続けた
女の正体については、確とした答えは得られなかった。
遥か昔、まだこの国が
人ではない。それだけは確かだ。師が手傷を負わせたとしても、十二年に一度、獣歴が一回りして弟子の前に再び現れた姿には、傷跡一つ残っていなかったという。もっとも着ているものはその限りではなく。いつしか、女に挑むものは衣類を手土産にするのが習いになったそうだ。女の出自についてそれ以上の洞察はなく、以降複数に渡る筆者も、どう斬るか、どう倒すかの試行のみ語られている。
その理由は、武人の端くれである酉萬にもわかる。
女は不死なのかもしれない。しかし䤳玖との立ち会いの最中、確かに傷を負って血を流し、癒えるということはなかった。例え一合限りの比武であっても、あの女に刃が届いたなら、武の極北に至ったと胸を張って言うことができる。
さらに読み進める。女を同門かと疑った自分の推察は、ある意味では正しかったことを酉萬は知る。
むしろ、女の剣が、
伊仙弧はその別名通り、雪門冬に似た白い花なのだが、小高い丘でもよく見つかる。間違って持ち込まれる漢方屋の不興を買っているが、問題は別にある。その姿から、伊仙弧は高嶺の花にしつこく迫り続ける、未練がましい男の蔑称になっているのだ。
これほど相応しい名前もないし、䤳玖が教えなかったのも無理はない。思い出し笑いの発作が幾度も襲い掛かり、そのたびに酉萬は机に突っ伏して肩を震わせた。壊れた扉から部屋を覗き込む女中は顔を青くしている。尋常でない様子で屋敷に帰り、食事もとらず書斎に閉じこもり、あげく馬鹿笑いする酉萬は気が触れたようにしか見えず、あの時はお
木剣は、䤳玖の四代前から贈るようになったらしい。こちらは真剣、相手は木剣。言わば手加減を乞うているわけで、普通に考えればこれほど屈辱的な話もないのだが、彼我の力量差は明らかである。酉萬とて十二年後に女と立ち合ったとしても、何もできずに瞬殺される情けない自信がある。当初不満げだった女も、じきに新しい遊びのやり方がわかったようだ。未熟な者には木剣で、腕を認めたものには真剣で、なるべく怪我をさせないように相手する。それなりの腕に仕上がった相手が後継を連れてきたとき、互いに本気で殺しあう。
書の最後には、
弟子をとったこと。その酉萬に向けての言葉も書かれていた。自分には何の未練もないし、受け継ぐべき大層な剣でもない。ただ剣に命を懸ける愚者の系譜が、偶然長々と続いただけであり、放り出しても何の支障もない。家屋敷を処分して商売を始めてもよいし、自分の門派を立ち上げて道場を構えてもよい。軍に入営して出世に邁進するも悪くない。最後にひと言。
――酉萬、自分の剣は何回届いた?
結局これだよ、と酉萬は思う。
自分への心遣いを疑う気持ちはない。しかし最後の言葉に䤳玖の本音が詰まっているのは明らかである。一番の関心事は生涯を通じて積み上げた
剣に命を懸ける愚者の系譜、とも書かれていた。全てが
答えは決まっていた。
忘れようとしても、あの女の剣を、あの闘いを自分は何度でも夢に見るだろう。辿り着くべき真の頂。奇しくも闘いの前夜に、酒家で口にした己が言葉を思い出す。
――そう、思い悩む暇もない。
しかしまずは、䤳玖の問いに答えるのが先だ。酉萬は目を閉じ、未だ速すぎて追いきれない、記憶の中の光景を思い浮かる。なんとか䤳玖の剣撃を数えようと試みているうち、知らずに眠りに落ちた。
ふと、目を覚ました。
どうやら机の前でうたた寝をしていたらしい。
まだ寝ぼけているらしい。
随分と遠い昔の夢だった。まだ若かった自分が、女と出会い、同時に師である
あれから、もうすぐ六十年になる。
その間、暁国は二つの内乱と一つの戦を経験し、斎都の大火で首都を洛都に移したが、かろうじて国として命脈を保っている。酉萬は
そういえば、䤳玖の名で師を思い出すのも久しぶりだった。今では兵部護省や軍の間では、酉萬自身が䤳玖として知られている。
〝
屋敷の再建費用を稼ぐためという身も蓋もない理由で、二つ目の内乱鎮圧に参加した。
最後の問いにも答える必要がある。
――六度です。師範。
酉萬は胸のうちで呟く。もはや昨日の
その強さ、自分の生涯が、頂に手が届くのか。
それは、もうすぐわかることだ。
女との二度の立ち合いでは、木剣で為すすべもなく打ち負かされた。女の動きに、なんとかついていけるようになった三度目。木剣を断ち切ることができたが、自身の腕というよりも、数度の立ち合いに木剣が耐えきれなかっただけ、というのが正しい。その証拠に、真剣に持ち替えた女に自分はあっさり負けた。そして四度目。新たな木剣も用意したが、女が最初から真剣で立ち会ってくれたのを思い出すと今でも嬉しくなる。しかし最後には、長剣を叩き折られて負けた。あれこそ腕の問題である。
次が五度目。老い先短い我が身には、これが最後になるとわかっていた。
弟子もいる。
「――師範、起きてますか?」
「――ああ、起きている。――入ってきなさい」
入室を禁じたことはないのに、草紙を置いているこの部屋が、酉萬にとって大切なのを察しているのだろう。稽古着の姿の弟子は、開いた扉からおずおずと顔だけ覗かせ、足を踏み入れることはなかった。
酉萬は笑みを浮かべて、弟子に問いかける。
「どうした
弟子の名は流詩といい、今年十八になる娘だった。軽業を仕込んだ大道芸師の親は、流行り病で死んだらしい。天涯孤独となった流詩は、
「――あの、もうすぐ夕飯なんですが、――ここで召しあがるなら持ってきますけど、――」
「いや、いつも通り居間でいただくよ。先に行ってくれ」
そう応えたが、流詩は姿勢を正し、酉萬が立ち上がるのを待っている。
相変わらず融通の利かない娘だ。
そう思いつつ、酉萬の顔は
小首を傾げる稽古着姿の若い娘は、否応なく、あの女を
そう。この娘が自分の最後の、創意工夫になるだろう。
記録に残っている限り、歴代の門人に
流詩なら、あの女と対等な遊び相手になれるのかもしれない。
が、無理強いするつもりは更々なかった。師のひいき目かもしれないが、流詩は美人に育ったと思う。行き遅れたが家屋敷は残してやれるし、紅でもさして綺麗な衣装で町を歩けば、嫁にという男はまだ現れるだろう。
もっとも、本人にその気があるのかは少々怪しい。女中の真似事までさせてしまっているので、給金代わりにかなり多めの小遣いを渡しているが、この前はまた新しい木剣を買っていた。何本目になるか。
「――あの、師範?」
無言で見つめられ、落ち着きをなくした流詩の声。
「あー、いやすまん。夕飯だったな」
立ち上がった酉萬に、流詩はほっとしたような表情を見せて、部屋の前から歩き始めた。
その後を付いて、酉萬もゆっくり廊下を歩きはじめる。中庭に面した廊下は思いのほか肌寒く、秋の到来を感じさせた。もう一月もすれば応秋の日だ。
時折こちらを振り返る流詩に、頷き返して思う。
弟子は可愛い。その将来は楽しみではある。自分が死ねば流詩は泣くだろう。しかし、
破れるとしても、何太刀あびせることができるのか。
いや、もう一つあった。自分を祖父のように慕ってくれる弟子は、焦がれる女に会いに行くと伝えたら、どんな顔をするだろう。
䤳玖はいつでも正しかった。
いくつになっても楽しみは尽きない。
酉萬は屋敷の居間に向かって、ゆっくりと歩いていく。
了
剣の高嶺 ぶっくばぐ @1804285
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