第112話 罪の女の歌 ⑩廊下

 フアンとの会談から半月後、クロエは突然署長に呼び出され、連邦本部への異動を申し渡された。それは彼女の父の指示によるらしい。



 フアンがクロエの父に接触したのはその七日前。地方視察中の彼はホテルのチェックインを済ませてエレベーターを待つ間、隣に立った男がフアンだとは気づかなかった。ふたりきりになって十二階へと向かうかごのなか、わずか一分でフアンは用件を済ませた。


「あんた、良い娘さんを育てたよ。クロエは優秀で、職務に忠実だ。だからこそ――彼女がいつまでも『旅団』担当でいるのは互いにとっての不幸だ……わかるな?」


 これまでいかなる案件にも厳正に対処し私情を挟むことや手心を加えることのなかったこの男は、音信不通の末娘が職務に殉じ命を落とす未来図を前にして、節を曲げ警察人事に容喙したのだった。



 署長室を出たあとルイスに休憩所へ連れ出されたクロエは、自らを嘲った。

「まさかの結末だな。奴が父を動かすとは思わなかったし、父が応じるのも信じられない」

「は。お前は家族のことでは目が利かねえんだよ。色眼鏡が過ぎるんだ」壁を睨んでルイスが言った。「こんなとき、煙草を止めたのを悔いたくなるな。手持ち無沙汰でいけねえ」

「どっちにしろ、ここは禁煙だ」クロエはにべもない。


「……お前がどこまで突っ走るのか見届けられねえのは残念だが、正直ほっとしてもいる」

「これで仕事がやりやすくなるだろ? 面倒な奴がいなくなって」

「それも、ある。だが、なにより同僚の殉職を見ずに済んでよかったよ。なんべんあっても、あれは慣れるもんじゃねえ」

 生まれついての悪役顔を、不器用にしかめて見せた。

「無駄な忠告かもしれねえが……命は大事にしろよ」

「正義に優るものはない、というのが私の信念だ」クロエはいつに変わらず冷徹な顔を崩さない。「だが気持ちはありがたく受け取っておこう」

 マカレーナを前にして信念が揺らいだのは、気の迷いだ。妖艶に笑う女の姿を瞼の裏に思い描いて、クロエは唇を噛んだ。


 彼女との縁もこれで切れる。あんな気の迷いは二度とないだろう。だがここを去る前に、幼時から身に沁みついた正義への信仰に疑いを差し挟ませたのがなんだったのか、その正体を確認しておきたかった。

 クロエが娼館へ向かったのはそういう訳だ。

 しかしそこにクロエが見たのは、ナボもマカレーナもいないホールと、妙に殺気立った空気と、動顛してなにもできないでいる女たちだった。


 マカレーナがついさっき倒れて、病院へ運ばれたのだという。

 さんざん我儘言って謝肉祭の二日後に無理やり退院していたマカレーナは、昨夜は久しぶりに自室のベッドで眠ったのだった。ひるを過ぎて部屋に集まってきたカタリナやウルスラたちと喋っているうち急に顔色が悪くなって、みなの見ている前で譫言を口走ったあと意識を失った。

 それはコカインを喫ったせいなのか、それとも喫わずにいたせいなのか。

「どこの病院だ?」と訊く語調がつい強くなるのにもクロエは気づかなかった。



  ***



 ちょうどその頃、学校で連絡を受けたダニエリとアナマリーアが病院に着いて、集中治療室へと移されるマカレーナとぶつかったところだった。廊下を慌ただしく移動するベッドのうえのマカレーナは目を閉じて、口には酸素マスクをつけられている。


 駆け寄って声をかけるとマカレーナはゆっくり目を開け、唇を動かした。

「アナ……ダニー?」

「そうよ」

「……よかった。もう会えないかと思ったわ」

 消え入りそうな声。うしろで医師と看護師がなにやら打ち合わせる声がやたら大きく聞こえたが、なにを言っているかは耳に入らなかった。


「そうだ……ガビは?」

 はっとダニエリは周りを見まわした。カタリナのうしろから娼館の女たちが遠巻きに見守るが、フアンのほかに男はだれもここにいない。

「電話したけどつながらない」カタリナが答える。「メールも送ったんだけど」

 ああそうだ。ガビは学校ではだいたい携帯を切っているし、まめに着信を確かめたりなんてしない。このままだったら夕方まで気づくことはないだろう。

「呼んで来る」

 駆けだそうとするダニエリを、背中から届いた声が止めた。ぎょっとするほどに枯れた、弱い声。

「行っちゃだめ。ここにいて、ダニー」

「だって」

 これが最後かも知れないのに。心に浮かんだ言葉に凍りついて、唇を動かせない。代わりにマカレーナが言った。

「行っちゃいやよ、ダニー。あたしを独りにしないで。最期にあんたがそばにいてくれないのはいやよ」

 壊れた機械みたいに、いつもより倍ほどもゆっくりと、声を途切れさせながら。

 言葉を返せないうちに集中治療室のドアが開いて、医師たちと一緒にマカレーナが吸いこまれていくのを、ダニエリたちは足を止めて見送った。




 マカレーナが集中治療室に入って一時間。中から音沙汰がないままダニエリたちは扉の前で待っている。

 その間にナボが下の三人の子供たちを連れてきた。ダニエリは何度かガブリエルに電話してみたが、やはり繋がらなかった。思い余ってまた飛び出そうかとエレベーターの方へ顔を向けたとき、ちょうどその扉が開いて――なかから現れたのはパブロだ。

 まっすぐフアンへ向かって、その耳許になにか囁く。フアンが頷き、二言三言ふたことみこと声をかけると、今度はパブロがちいさく頷いた。ふと目を上げた先に、ダニエリが焦った表情で電話を握っている。


「やっぱりガビにはつながらない?」

 とアナマリーアの問う声が聞こえた。パブロはその言葉を吟味するように首を傾げ――やがて歩きだすと、静かな廊下にかつ、かつと靴音が響いた。

「ガビがどうかしやがったのか?」

 ふたりのすぐ側にパブロは立って、おおいかぶさるように頭上から訊いた。さっき人を殺したばかりの凄絶な顔をダニエリは真っ直ぐ見返し、腕を掴んだ。

「ずっと連絡してるのにつながんないの。授業中、ガビは携帯切ってるんだ」

 泣きだしそうなダニエリの表情をパブロはしばらく見下ろし、

「連れてきてやる」

 と短く言うと、エレベーターの扉の向こうに消えた。


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