第111話 罪の女の歌 ⑨灰の水曜日

 謝肉祭カーニバルが明けた<灰の水曜日>、その日キリスト教徒には節食が求められている。肉食を避けるべきとされているが、いまどきは気にかけない者も多いのか、クロエが入ったステーキ店は若い客であふれていた。クロエもカトリックの教えにまともに取り合わないで、<灰の水曜日>だろうが<聖金曜日>だろうがその日食べたいものを食べる主義だ。


 クロエが席についてすぐ、フアンもあらわれた。両脇にエリベルトとパブロを従え、他にも店の内外には組織の者を潜ませている。

 会食の誘いを受けたのはほんの一時間前。わずかな時間では備え万全とはいかなかったが、罠だとしても乗る価値は十分にあった。


 周囲に見え隠れする私服警官たちの視線を全身に感じながらフアンが切り出した。

「用ならとっとと済ませてくれ。女を待たせてるんだ」

「へえ? 弱ったマカレーナを見捨てて、ほかの女に走るのか。クズらしいや」

 皮肉に嗤うクロエの挑発は受けずに、

「前置きも駆け引きもなしだ。『MB』のことだろ?」

 と話を促す。途端にクロエも真面目な表情になった。

「殺し屋が来たって聞いたぞ。返り討ちにしたんだって?」

 もちろんフアンは認めはしない。返り討ちなどうっかり認めたら、逮捕の口実を与えてしまう。

「黒幕の見当もついてるんだろ? 『MB』とは火種がまだくすぶってるらしいじゃないか」

「黒幕なら分かってるさ。お前だろ? 首都の連中を焚きつけてンのは」

「人聞きが悪いな。……たしかに『MB』にも知った奴の一人や二人はいるさ、だが彼らとれ合ったりはしない」

 ウェイターがわたすメニューを開いたが中身はろくに見ないで、

「情報が欲しくはないか?」

 と無表情のまま訊いた。注文は部下の刑事に任せている。

「そうやっておれたちを戦わせて、共倒れを狙うわけか」フアンもメニューを抛り投げた。「いいだろう、乗ってやる。情報よこせよ」



 運ばれてきたステーキをたいらげる間に、だいたいの情報は得た。たっぷり肉汁で汚れたナプキンをテーブルのうえに捨ててフアンが、

「これを機にすこしは仲良くできりゃーいいんだがな」

 と笑うが、クロエは

「冗談言うな。私たちとカルテルは永遠にかたき同士だ。分かり合える日なんて来ないさ」

 とにべもない。


「どうせもう、私を殺すシナリオだって考えてるんだろ?」

 フアンは否定しないで、ただ肩をすくめた。

「だがお前だっていつ殺されるかわかったもんじゃない。どっちの死ぬのが先か、見ものだな」

「……お前な。そんなじゃ幾つ命があっても足ンねえぞ?」

「死にかけたのはこれまで二度だけ」しれっと言ったあと、クロエは宙を睨んで指を折った。「命を狙われたのは……五回か六回」


 呆れ顔で立ち上がるフアンを、クロエが見上げる。

「デザートは?」

「要らねえよ。そろそろ病院へ戻らにゃなンねえからな」

「病院?」

「女を待たせてるって言ったろ」

「マカレーナか――!」一瞬声を上げた口をあわてて閉じた。「そんなに悪いのか……」

 うつむいて考えこむクロエにフアンは背を向けた。

「お前にゃ関係ねえことさ。所詮おれたちは分かり合えねえ」



  ***



 マカレーナが奥のベッドで眠るのはVIP用の病室。手前には客をもてなせるほどのスペースに、ソファセットが置かれている。

 そこに集まった強面こわもての幹部たちに恐れをなして、マカレーナを看ていた看護師は逃げ出した。イシドロの妹も外へ出されて、いまは図らずも扉の前で見張り番だ。


「クロエの情報は信用できるんだろうな?」

「たぶんな。だが裏はとっとけ」

 フアンは集まった者どもの顔を見まわした。

「証拠は揃った。殺すのは三人だけでいい。一気に片づけようぜ」

 三人とは、ウーゴと、新たに送られてきた殺し屋ヒットマン二人。クロエによるとウーゴは先日の失敗で諦めず、今度は二人刺客を送りこんできたのだという。二人は既にこの街に潜入しているらしい。



「で、だれがウーゴの野郎を殺るかだが――」

 言いかけて、フアンが黙った。

 いま首都にいるイシドロは外す。彼が首都に入って既に三週間、潜伏先もしっかり調べ上げられ、その行動は逐一監視されている。下手な動きで警戒されてしまえばすべてご破算だ。

 ここにいるメンバーで最も頼りになるのはパブロだが、これも不可。ウーゴは安全な隠れ家に籠ってなかなか出て来ないだろう。敵の本拠に乗り込まなければ成らない危険なミッションだ。生還が危ぶまれる仕事に送りこんで、右腕を失うわけにはいかなかった。


 迷ったフアンに、

「おれにやらせてくれよ」とセザルが手を挙げた。生意気な顔を紅潮させて。「簡単な仕事じゃねえってのはわかってる。だが、おれならやれるぜ」

「また大口叩きやがる」と苦い顔するのはピオ。

「待て待て」ピオを制して、レナートがセザルを見た。「考えがあるんだな?」

「考えもなにも、やるだけさ。死ぬ気ならやれるだろ?」

「勢いだけかよ、相変わらずだな」

「結果は出してきたぜ。まあ見てな」

 ふてぶてしく笑って見せるセザルを、フアンは値踏みするように見た。

「よし。実行役はセザルだ。段取りをイシドロと相談しろ。だが、奴とは会うなよ、連絡は電話だけにしろ。サポート役を二人貸してやる。だれでも選んで連れて行け。やるのは――三日後だ」



 決めるべきことを決め役を割り当てると、フアンは皆を帰して、マカレーナが眠る奥のベッドへ向かった。

 隣に座って、頬にまとわりついた髪を梳いてやると、目を閉じたままマカレーナの唇が動いた。

「あたしの前で殺しの打ち合わせなんて、やめてほしいわ」

「なんだ、起きてたのか。……調子はいいのか?」

「いいわよ、もうぜんぜん平気。元気だってのに、退院させてくんないの。どうにかしてよ」

 口をとがらすマカレーナに、フアンは苦笑いで応えた。

「病院は嫌いか? まあ一晩だけ我慢しろよ。明日には退院できるようにしてやる」

「……ねえ、クロエは殺したりしないでしょうね」

「なんだ、口出しすンのか? めずらしい」

「だって彼女、女なんだもん。男同士好きなだけ殺し合ってくれりゃいいけどさ、女の子は殺しちゃだめ。女は特別なのよ」

「なんでえ、いまは男女平等じゃねえのか」

「そんなの一度だって実現したためしはないわ」

 気だるげに答えて、また目を瞑った。


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