第113話 罪の女の歌 ⑪集中治療室
集中治療室の扉が開いて医師が出てきたのは、その直後。
「どうなってるんだか教えろよ。治療は済んだのか? あいつはどうなった」
詰め寄るフアンに、医師は怯みながらも言うべきことを言った。
「まだわかりません――家族はみんなここにいますか?」
「どういう意味だ?」
胸倉をつかまれ医師の顔が歪む。
「……できる限りのことをします」とだけようやく言った。
「あいつに会わせろ。意識はあるのか? なかに入れろよ、おい」
戻ろうとする医師の肩をつかむが、医師はますます困惑顔だ。
「できるわけないでしょう? 治療中です。命がかかってるんですよ?」
「いいから入れろよ。おめーらの邪魔はしねえ」
マカレーナが生死の境で戦ってる大事なときに、おれが側にいないでどうする。
「常識をわきまえてください。手術室に入れるなんて――」
言いかけた途中で医師は、フアンが尻ポケットから取り出したものを見て次の言葉を呑みこんだ。フアンの手にあったのはスミス&ウェッソンの小型リボルバー。そこにあったタオルをサイレンサー代わりに当てて、撃鉄を起こした。
「常識? 常識を抱いて死ぬのが趣味か?」
自分の額に狙いが定められるのを察した医師の顔から、血の気が退いた。
「なあ……あんたがマカレーナを治療するっていうから、遠慮してやってンだぜ。おれがいい子ちゃんでいてる間におとなしく通すんだな」
「……それだけリスクが増すんです。どうなっても知りませんよ」
「四の五の言わずに入れろ」
銃を下ろし睨むフアンの目に射すくめられて、医師は目を逸らした。三秒考えたあとため息を吐いて、
「せめて、手術衣を上から着てください」
と言うと、背を向け手術室へ戻った。
青い手術衣を上からかぶって、集中治療室に入ったのは、フアンとダニエリとアナマリーアに、カタリナの四人。ナボと、他の女たちはドアの前に残った。
集中治療室は静かだった。看護師が慌ただしく動く衣擦れの音も、医師のなにか指示する声も、遠い幻のように聞こえた。機器の電子音だけがときどき場違いに響いて、静寂を破った。
医師や看護師の動きまわる先、奥に置かれたベッドのうえに、マカレーナはいた。かけ寄ったフアンがその頬を撫でると麻酔が切れたのか、瞼を上げ眸だけ動かして周りを見た。
「ああ、フアン、来てくれたのね。独りになったかと思っちゃったわ……あんたがあたしを放っとくわけないのに」
ゆっくりと、ちいさく、唇からこぼれる声。
「カタリナも。だめじゃん、娼館を放っぽりだして、どうしたの。うふふん、そんなにあたしが心配? もお。大好きよ」
熱い息の下からゆっくりと、それでも言葉はつぎからつぎへと溢れて落ちた。
「ダニー、アナ。こっち来てキスして」
目が合ったダニエリが思わず「ガビが」と言いかけると、
「いいのよ」と遮って目をつぶった。
「ガビに会えなくて、ちょうどいいのよ。
「なんで。なんで今そんなこと言うのよ」
「あたしを恨んじゃだめよ。神様が代わりにあたしを罰してくれたから。だからあたしを赦してね。ねえ、赦してくれるわね? 神様ってやっぱりすごいわ。あたしの罪を罰してくれたおかげで、ダニーと仲直りできるんだもん」
ひと息に言って、言い終えるとまたなんども苦しい呼吸を繰り返した。
「もう話さないで。体に毒よ」
ひと言発するたびに、言葉と一緒にマカレーナの魂魄も部屋じゅうに飛び散っていくようで恐かった。話すべき言葉が尽きたとき魂の火も同時に尽きるような気がして、そんなときは永遠に来ないようにと強く願った。
***
大学という迷宮にはまったく不案内なパブロは、広大なキャンパスに入るなり途方にくれてしまった。あまりに世界が違うのだ。内戦が終結してはや七年が過ぎ、いまの平和を謳歌する学生たちが往き来するキャンパスの通りは、パブロには異界のように縁遠い世界だった。
苛々しながらパブロは、そこらを歩く学生たちを片っ端から掴まえてやろうかと考えた。そうしてガブリエルの居場所を白状するまで絞り上げようと、あやうく本当に手を出すところだった。人生のほとんどすべてを裏社会と戦場で過ごしてきたパブロには、それ以外の生き方は思い描くことさえできない。
そのときちょうど授業を終えてガブリエルが教室から出てきたのは、皆にとって幸いだったと言っていいだろう。平和なキャンパスに不似合いな殺伐とした男の姿は、すぐにガブリエルの目についた。
「なんで大学に?」
呑気に、人懐こい笑顔で寄ってきたガブリエルの腕を、パブロは
「ついてこい、急ぎだ」
「うゎ、待ってくれよ、まだ授業あんだけど」
強引に手を引かれながらも明るく抵抗するガブリエル。パブロは苛だたしげに睨んだ。
「マカレーナが病院で待ってるんだ。いや……もう待ってねえかもな」
***
病室では話し疲れたマカレーナが目を閉じて、しばらくの間眠りに落ちていた。白い寝顔を見下ろしながらダニエリが、
「こんなときに言うことじゃないけど」とアナマリーアの袖をひっぱった。「あたし、治ってきたのかもしれない」
「なにが?」
「男嫌いが」
さっきパブロの腕を思わずとったとき。いつも感じる、ぞわっと背中を無数の虫が這いあがるような悪寒が、やって来なかったのだ。
男はいまも嫌いだ。男がたくさんで群れている様子を見ると、近づかないでと思う。男から
これをマカレーナに言ったら喜ぶんじゃないか。つぎ目を開いたら、言ってあげよう――そう思うと胸がすこしあたたまった。
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