第109話 罪の女の歌 ⑦酩酊

 実のところマカレーナは、白い粉にはたいした期待をかけていない。

 ただの気休めだ。こんなもので気持ちよくなれないのはわかっている。むしろ吐き気がして、肌は痛くなるし妙に鼓動がはやくなって胸が痛いし、ずっと頭痛だけは残るし、なにもいいことはなかった。だからこそ止められないのかもしれない。コカインの苦しみは、ガビに会えない喪失感をひとときの間だけでも忘れさせてくれる。


 鏡を前に、苦痛に堪えているとがさつな嬌声とともに男女が入ってきた。狭い個室の扉を閉めきれず、半ばは開いたままマカレーナにかまわずまぐわいはじめたのを、夢かうつつかも判らないまましばらく眺めて、外に出た。

 ホールには最新のダンス曲がうるさく響いている。

 空いた席を見つけると、崩れるように座って耳を塞いだ。ガブリエルのいなくなった世界で、空虚な楽園がぐるぐるとまわった。




「マカレーナ?」

 名を呼ばれたこともはっきりしない、朦朧とした意識で顔を上げると、女が顔を覗きこんでいる。

「やっぱり貴女か」

 と女は言うが、それがだれだったか思い出せない。それより、寒くてふるえて頭が痛い。

「だめじゃないか、女が独りでこんなとこ。どうなっても知らないぞ」

「ん……あんただれよ?」

 回らない舌で言った途端、左右の頬をぺちゃっと叩かれた。

な? こっち来い」

 強引に立たされ、腕を引っ張られるままよろよろとついて歩いた。急に意識が戻ってくる。

 ここはクラブ。今は金曜夜零時。あたしはマカレーナ。あたしの手を引くのは……

「……クロエ?」

「信じられないな。クスリなんかする女だとは思わなかった。ここがどこだかわかってるのか?」

 クロエは後ろをふり返らずさっさと出口へ向かう。引きずられながらまわりを見まわせば、人目も憚らずそこらでクスリをやりだす女たち、ホールの端で吐いている少年、踊りながらシャツを脱ぐ男ふたり。どこかでケンカしているらしい罵声が聞こえたかと思うとすぐ大音量の曲にかき消される。


 ――フアンが言ってた「クズどもの溜まり場」って、ここかあ。

 とろんとした目でクロエを見た。

「こんなきったないごみ溜めの底までよく来たわね。見直したわ」

「仕事だ。貴女こそ――身を守ろうって気がないのか?」

「ふーんだ。要らぬ心配よ、ここがあたしのホームだもん」

 クロエの手を振り払おうとしたが、腕に力が入らない。

「仕事中なんでしょ。さっさと仕事に戻んなよ。……それとも、あたしを逮捕する?」

「ああ。こんな姿を見て、そのままってわけにはいかないな」

 冷たい目で言って、華奢な手首をしっかり掴まえた。




 半時間後、ふたりはクロエの部屋にいた。

「あんた、仕事中じゃなかったの?」

「可憐な女性を保護するのも仕事だ」

「わざわざ自分へ? 思ったよりお節介ね、あんた」

「……あんなとこでクスリやるのはもう止めろ。襲ってくれって言ってるようなもんだ。それにクスリなんて、なんの解決にもならない」

「同感。何度も試すのに、ちっともよくなんないの。詐欺だわ、あれじゃ」

「じゃあやめろよ」

「んふふうん。あんた心配してくれてんの? どぉして?」

 肌をすり寄せて、いたずらな目で問う。

「妙なしなを作るな」顔をしかめて押し返し、クロエはバスルームに向かった。「水でも飲んでろ」


 バスルームで化粧を落とし、鏡に向かいながら自問する。

 どうしてあんな女を気にかけてしまうのだろう。マカレーナはとことん正義に背いているのに、どうしてあれを美しいなんて思えるのだろう。彼女は、姿かたちではなく、生き方が美しいのだ。


 マカレーナが敵であることは疑いをれない。コカイン常習は彼女を逮捕する理由として十分だし、そうすることが警察官としての義務でもある。

 それでも彼女を捕まえる気になれないのは何故だろう。鏡のなかの、迷える女の目の奥をっと覗き込んだ。

「お前、どうかしてる」

 声に出してから首をおおきく振って、もう一度顔を洗った。それでも落ち着かない心のまま部屋へ戻ってくると――マカレーナは床に倒れ臥して、痙攣していた。



  ***



 フアンが病院に駆けつけたのは、午前三時を過ぎた頃。騒々しく個室の扉を開けると、マカレーナのベッドの側にはクロエが座っていた。

「なんでてめえがここにいるんだよ」

「たまたまだ」立ち上がって出口へ向かおうとするのを、フアンが遮った。

「まさかこいつになにかしやがったんじゃねえだろな?」

 襟をつかみ壁に押しつけるフアンを睨んで、

「それはこっちのセリフだ。マカレーナがクスリなんて、なんの冗談だ? お前がついていながら――くそっ」

 クロエらしくもなく頬を紅潮させ、歯を噛んだ。一言ずつ、フアンの頭に埋め込むように吐き出す。

「いいか、マカレーナはコカイン中毒だ。私の見立てでは依存性はまだ軽いようだが、一回に摂る量が多すぎる。あんな玩具を与えといて、遊び方はだれも教えなかったのか? あれは……体がもうもたないぞ」

 押さえつける力が軽くなった。クロエはその手を振り払って、部屋を出た。

「詳しくは医者に訊け。お前が呼べば飛んでくるだろうさ」




 ずっと眠りつづけるマカレーナの側に付き添って、フアンは病室で朝まで過ごした。医師は危険な状態だと言ったが、陽が高くなる前にマカレーナはあっさりと起き上がった。

「あんたなんでこんなとこにいるの?」

 病院に担ぎ込まれて感謝も詫びもない、いつも通りのマカレーナを見てあの藪医者めとフアンは毒づいた。


「心臓の機能が著しく低下しています。コカインの大量摂取が原因でしょう、ま、元々強くなかったんでしょうな。一命はとり留めましたが――予後はまったく保証できませんな! ともかく、もうコカインはやらせないことです」


 医師の説明を思い出してフアンは、当たり前だ、クスリなんかもうやらせるもんか、だがこの誇り高くて気儘な女に言うこと聞かせるのがどれだけ厄介か……わかってやがンのか、とふたたび胸のなかで毒づいた。


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