第110話 罪の女の歌 ⑧謝肉祭

 クロエの部屋で倒れ病院へ運ばれて以来ずっと、マカレーナはフアンの隠れ家で寝泊まりしている。フアンが目を離すのを恐れたのだ。

「やぁね、あんた束縛する性質たちだったの?」

 明るい声と表情で、マカレーナが言う。

「あたしはアパートに戻っても大丈夫。カタリナがついててくれるし、子供たちだっているんだから」

「なに言ってやがる」

 フアンはまったく相手にしなかった。

 そのカタリナからナボが相談を受けて、フアンにも報告が行っている。クスリについてカタリナがなにを言っても、マカレーナは聞き流すだけだった。

 とはいえフアンが四六時中見ていられるわけもない。家にイシドロの妹も住まわせることにしたのはそのためだ。看護師をしていた彼女は、心臓と依存症の双方に問題を抱えるマカレーナの面倒を見るには、理想的と言えた。


 これでフアンの屋敷の女主人に収まったようなものだが、変わらず娼館へは夜毎よごと通いつづけた。

「だって、ここはあたしの大切な店だもーん」

 休めと言うカタリナにも、明るく笑ってマカレーナは取り合わない。ホールの客や娼婦たちに声かけナボの出すカクテルを飲んで、ときどき四階へ上がって子供たちをからかった。

 だが夜が深まる頃にはフアンが車を寄越して、カタリナが無理やり車に押し込むので、渋々丘の上の隠れ家へ帰っていくのだった。



 そうして一月ひとつきが過ぎた。



 謝肉祭カーニバルの日の午後、マカレーナがまた倒れたというしらせに、フアンは州政府要人との会談を途中で切り上げ、搬送された病院へ急行した。

 病室まで案内した看護師を押しのけ扉を開けると、

「おい、だいじょ――」大丈夫かと訊こうとしたところで絶句し、フアンは首をがっくりと折った。



 殺風景な白い部屋。白いシーツのベッドのうえにマカレーナは起き上がって、娼館の女たちに囲まれダンスの振り付けを実演していたのだ。今夜カテドラルの前の広場に登場する地元のダンスチームの物真似に、マリオとアンジェリカは大喜びで歓声を上げている。調子に乗ってマカレーナはベッドの上で跳びはね、もうひとさし踊って見せた。


 踊り終えたところでやっとマカレーナが、

「ああフアン、来たの? 差し入れ持ってきた?」と紅く上気した笑顔を向けた。

 フアンは手ぶらの両手を上げ、ふん、と鼻を鳴らした。

「元気そうで――なによりだ」




 フアンを迎えてますます陽気に話していたマカレーナは、陽が翳る頃になって急に糸が切れたように言葉少なになり、医師の注意で横になると、見舞いの者たちもフアンのほかはみな帰っていった。

 夕食には一切手をつけないままベッドに横たわるマカレーナを見下ろして、フアンは窓の外で祭りに浮かれる人びとのざわめきを聞いた。今夜はカーニバルの目玉、州内各地のチームが集結して披露されるダンスパレードを目当てに観光客もひときわ多い。


「残念。ダンス楽しみにしてたのにな。今年は見れないのかあ」

「毎年やってンだ。一年ぐらい見れなくてもいいだろ」

「あんたやっぱりわかってないな。そんなんじゃないのよ、カーニバルは。今年のダンスは今年のものよ。見逃したらもう戻ってこないわ」


 謝肉祭カーニバルの夜は緩慢にとばりを下ろしていった。とうに陽は落ちた筈なのに、地上の灯りは空を明々あかあかと照らして、星がちっとも見えなかった。

 窓の外の喧騒が、どこか死の匂いが雑じる病室のなかを場違いに陽気に満たした。

マカレーナはベッドから起き出して、窓の側の椅子に腰かけた。フアンも椅子ごと移動してマカレーナのすぐそばに座った。

 窓の外には大聖堂の塔がすこしだけ見えていた。

 広場の照明が塔に映って、赤や緑に色を目まぐるしく変える。音楽や観客たちのざわめきや、ダンサーたちのステップの音さえ聞こえてきそうなのに、広場の手前のビルに遮られて肝心のダンスの様子は病室の窓から見ることができなかった。会場からの光を浴びた塔に、不気味に巨大化した人の影だけが映った。


「疲れたんじゃねえのか?」

「どうしたの、やさしいじゃない。病人だから? んふふん、ずっとせってようかしらん」

「ばか言いやがって」

 まだ外を見ていたいと言うのでベッドを窓のすぐ側へ動かしてやった。新しい位置から窓の外へ目をやるマカレーナの横顔に、街のそこらじゅうから次々上がる花火が赤く、青く、幻燈のように映るのを眺めた。


「なあ……おれの子を産んでくれよ」

 横顔を見つめていたフアンがだしぬけに言った。

「あたしが?」

 熱に浮かされた顔を向けて、

「娼婦とギャングの子かあ。素敵ね」

 やわらかい声で言った。

「そんで、とびきり幸せになるのよ」

「ああ。立派な教育受けさせてやンぜ。政治家でも学者でも、経営者でも、なんだって好きなもんにならせてやるさ。ああ、医者なんてのもいいな」

「そんなの要らないわ。それより、男の子だったら漁師にするの。女の子だったら……修道女がいいわ」

 マカレーナは目を閉じた。代わりに唇はすこし開いて、あいだから白い歯が覗いた。

 あたしも修道女になればよかった。神様の花嫁。そうだったら天使に恋い焦がれたりなんてしなかったのに。


 ふたたび目を開いて、弱々しい笑顔でフアンを見た。その貌はすこし痩せて、殉教者の面影を宿している。

「ああ。漁師か修道女……いいな、それ」

 立て続けにひときわおおきな音がしてまた花火が上がり、ふたりを原色で包んだ。


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