第105話 罪の女の歌 ③MB

「あれ、試してみたのか?」


 フアンが訊く『あれ』とはコカインのことだ。この部屋に置いてあったサンプルの袋を、先日マカレーナが勝手に持ち帰ったのだった。

 渋るフアンを気にも留めずに、マカレーナは袋をひとつ取り上げると、いたずらっぽい目でフアンを見つめて、口のおおきく開いたバッグに落とした。落ちたバッグの底でコカインの粉は冷たく光っていた。


 あれから一週間。同じ丘の上の隠れ家で、フアンが発した問いに、

「ん」とマカレーナは安っぽい板チョコを齧りながら頷いた。

「感想は?」

「最悪。ちっとも気分よくならなかった。なんだか肌が痛いわ」

「人によるんだよ」

「フアンはやんないの?」

「ふん。これで狂ってく奴を何人も見た。こいつは、金を生む毒さ。ひとには売っても、自分で味わうこたねえ」

 それから、マカレーナを抱き寄せて言った。

「合わねえなら、これきりにしておくんだな。どんな楽園を期待したんだか知らねえが、しょせん毒を孕んだ楽園だ」



  ***



「聞いたか? またおれを狙おうって奴がいるらしいな」

 仕事をえたあとの車の中、面白いゲームでも始めようかという顔でフアンが言った。エリベルトはうんざり顔だ。郊外の零細コカ畑から旧市街へと抜ける途中、外は既に日が落ちて、新市街のオフィスビルに灯る光は清く正しく味気ない。


「もうちっと真剣に考えてくれ。奴ら、本気だぜ? 本気であんたを消す気らしい」

 そうエリベルトが言う「奴ら」とは、首都であるB市に本拠を置くカルテル『MB』のことだ。

 情報をよこしてきたのはイシドロ。死んだアロンソの弟、フェルナンドが街を去った後の様子を確認するためB市に飛んだイシドロは、そこにしばらく腰を落ち着け、『MB』の動向を探っている。


 一応は『旅団』との新しい関係を受け容れた『MB』だったが、C市と欧州ルートへの野心は相変わらずだ。半世紀前についえた夢を実現するのに、いまが千載一遇のチャンスと焚きつけている男の噂はフアンの耳にも届いていた。

「ウーゴって言ったっけ?」

 噂の男の名を挙げても、その表情はやっぱりどこか他人事だ。

「武闘派ってタイプじゃねえな。部下を大事にするってんでわりと人望はあって、次のトップだって噂もある。政界にも顔が利くらしい」

「ふうん。たいしたもんだ」

「だがそれは表向きの顔だ。裏ではけっこう陰謀好きで、だから恐れられてもいる」

「陰険野郎か。けっこ好きだぜ、そういう奴」

 笑うフアンに、エリベルトも

「陰険ならおれも負けてねえつもりだがな」と笑って返した。



 そんな軽口を叩いていたフアンが襲われたのは、その翌日。マカレーナを連れて夕食に出かけたときのことだった。

 予約したレストランの入口に立つふたりのすぐそばまで近づいた暗殺者ヒットマンは、だが銃弾を放つことなく息絶えた。ボディガードよろしくフアンの真うしろについて周囲に目を光らせていたセザルが、殺し屋が銃を取りだした瞬間、手首と頸動脈をほぼ同時に切り裂いたのだ。

 鮮血を噴き出し痙攣する暗殺者から目を背けて、マカレーナは胸の前で十字を切った。フアンは平然とそいつを跨いで、セザルの肩に手を置いた。

「いい腕じゃねーか。だが次からは、すぐに殺さねえ塩梅を狙ってみるこったな。黒幕を吐くまでは生かしとくぐらいの加減ができるようになれば、一流の仲間入りだ」



  ***



「調べるまでもねえ。『MB』に決まってるだろ」

 戦争だと息巻くパブロを、レナートが宥めた。その夜召集された幹部会議でのことだ。

「予断は禁物。問題は、ウーゴの独断か、『MB』としての指示なのか、だ」

「イシドロ、おめーの考えは?」

 B市からテレビ会議で参加しているイシドロに、フアンが話を振った。

「この件についちゃ一枚岩とは言いがてえな。おれたちとの共存を望んでる奴らも多い。ウーゴをく思ってねえ奴もな」

「その点は、おれの情報も同じだ」とエリベルト。

「なるほどな」

 フアンは部屋の隅に散らかされたコカインのサンプルを眺めた。

 勢力拡大につれて『旅団』との取引を望む生産者は増えて、本来『MB』の勢力下にあるべき者からのサンプル提供もちらほら出てきた。フアンを通じて好条件で売り捌けるのならわざわざ『旅団』と事を構える必要はない、と考える者がいてもおかしくない。

 部屋の幹部たちの顔を眺めまわし、電話画面のイシドロへ指示を飛ばした。

「反ウーゴの連中とコンタクトをとれ。おれを狙ったのが本当に奴なのか、確認だ」


「奴の独断なら話は早いがな。組織ぐるみとなると厄介だぜ?」とエリベルト。

「そんときゃ戦争だ。奴らがおれの前に立ち塞がるってんなら容赦しねえ。命を賭ける覚悟があるなら向かってくるがいいさ」

 狂犬の目を見せフアンは言った。

「もとから平和主義者なんかじゃねえんだ。奴らがその気なら、とことんやってやる」


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