第104話 罪の女の歌 ②コカイン

「出てったらしいな、ガビの奴」

 フアンの隠れ家のひとつ、丘の上の別荘。マカレーナがここに泊まるのは今週もう二度目だ。すこし古ぼけてはいるが、前世紀の趣が残る造りをマカレーナは気に入っていた。


「ふふん。耳が早いわね。そーよ、フってやったの」

 バルコニーの手すりに尻を乗せて、マカレーナは背中の海を見下ろした。ここから海が見わたせるのも、この別荘が好きな理由のひとつだ。

「やっぱりあたしに見合う男じゃなかったってことよ。飽きちゃった」

「お前に釣り合う男なんて、この世にゃいねーさ」

 と言うフアンの鼻をつついて、

「へへーん。どうせ自分だけは釣り合うって思ってんでしょ?」

「まさか。おれよりはよっぽどガビの方が近いと思ったんだがな」

「よしてよ。ただの気まぐれ。本気じゃないわ」

「で、奴は泣いて出てったか?」

「いーのよ。今ごろダニーが慰めてるわ。あのふたり、お似合いだと思わない? 大切なダニーをわたすのは惜しいけど、あのばかだって、あれでなかなかいい男だからね。なんならいますぐふたりを教会に連れてってあげたいぐらいよ」

 海からの風がマカレーナの髪を吹き上げた。その隣に並んでフアンが煙草に火を点けた。

「まーな。奴ならダニーを幸せにするだろうよ」

 乱れた髪をまとめ直しながらマカレーナが言った。

「……あたしはごめんだわ……平和で退屈な家庭なんか」

「マカレーナ」フアンは煙草を手渡しながら、受け取るマカレーナの目を覗きこんだ。「お前、無理してるだろ」

「ばか言わないで」

 ふんと笑うマカレーナの顎に手を伸べ、顔を上げさせた。あくまで陽気なその表情は、いつもと同じで曇りない。

「おれの前でぐらい、本音を出せよ。つらいのを無理して笑うこたねえ」

 マカレーナは笑みを浮かべたまま目だけを逸らして、

「つらくなんてないわ」と言った。




 ひるを過ぎて娼館へ戻ったときには、子供たちのいないアパートのなかはひっそりしていた。女たちはまだ寝ているか、たとえ起きても自堕落な午後を過ごすのだろう。

 マカレーナは三階の自室にバッグだけを置くと、四階まで上がって行った。ダニエリたちの部屋の前を通り過ぎてガブリエルのいた部屋まで向かう。ドアを開けて、なかに入ると、香水の匂いのあいだにガブリエルの汗がかすかに匂った。ほんの十日ほどしか経っていないのに、懐かしい匂いがもうずいぶん昔のことに思える。


「あーあ、忘れ物」

 壁にかかったハンガーを手にとって、シャツに顔をうずめた。すうっと息を吸って、聞く者のだれもいない部屋でシャツ越しに虚空へ向け呟いた。

「……なあんってね。健気けなげな女のふりしただけよ。本気なわけないわ」


 もういちど壁にハンガーをかけ直して、部屋から出たけれど自室に戻る気にもなれなかった。あの部屋にもガブリエルの匂いと影が残っている。

 三階を素通りして一階のホールまで一気に下りると、ナボの背中に声をかけた。ちょうど裏口の扉を開けていたナボがふり返ると、その巨体のうしろから見知った女の顔が覗いた。

「やっぱりいるんじゃないか」

 冷たい声でナボの肩を押しのけ入ってきたのは、クロエだ。



「最悪」

 非難する目のマカレーナに、肩をすくめてナボが言った。

「おれのせいって言いたいのなら心外だな。追い返すところだったのに、マカレーナの声がしたから。こうなっちゃ居留守も使えないだろ?」

「はいはい、みぃんなあたしがわるいのよ」

 と言いながら、思い切りヒールでナボの足を踏む。踏まれた足をナボは一ミリも動かさず、だが眉だけをぴくりと曲げて見せた。


「本人を前にして邪魔者扱いはよくないな」ふたりの間を通り抜け、ソファに深々と座ったクロエがすずしい声で言う。「礼儀ってものがあるだろう。嘘でも客は歓待するもんだ」

「客? この店に客が来るのは陽が沈んだあと。昼に来るのは客じゃないわ。……なんの用?」

「傷心の女王の尊顔を拝しに来たのさ」

「すごいな、どこから嗅ぎつけたんだろ? さすが警察」

 呑気にナボが白い歯を見せる。親しみをこめた表情をして見せても、まだ灯の入らないホールにナボの巨きな影は威圧感十分だ。

「あんたね。あたしのどこ見て傷心だってのよ」そんなナボのすねを蹴るマカレーナ。「見ての通りよ。あたしはぴんぴんしてるわ」

「あの坊やと別れたって聞いたけど」

「ふっふーん。きれいさっぱりとね。……ほんと、優秀な犬だわ。それ、フアンを追い詰めるのになにか関係あんの?」

「べつに。ただの個人的興味」

 そう言って目の奥を覗きこむクロエを、マカレーナは冷然と睨み返した。

「……貴女を見てると面白い」

「なにそれ。仕事しなさいよ」

 クロエは答えないで立ち上がり、ナボの前をすり抜け、出口へと向かった。

 目で見送ったマカレーナは、クロエが開けた正面の出口の扉から射しこむ夏の陽に目を細め、ふたたび扉が閉まるのを見守った。



  ***



 次の日の夜。

「昨日店に、クロエが来たわ」

「あン? 奴め、暇なのかぁ? ……で。なんの話だったんだ?」

「ん。なんかどーでもいいことばっか。それもフアンじゃなくって、あたしのこと。あんたを追うのは止めたのかしら」

「なら、おれにとっちゃ好都合だな」

 冷笑して、煙草に火を点ける。

「よしてよ。あたしは大迷惑」

 おおげさに首を振って、ふと床に散らばっている袋に目を留めた。

「これ、コカイン?」

 問われてフアンが目をやった先には、新たな生産者から届いたサンプルが無造作に置かれていた。出来は悪くない、と聞いている。もちろん粗悪品をフアンへ納入するような命知らずはこの国では考えられない以上、届けられる品が良質であることは当然とは言える。


「この粉が世界中のクズたちを狂わせるのね」

 ひとつつまみあげて、目の高さで見つめた。

「これあたしにちょうだいよ」

「あぁ? なに言ってんだ、お前らしくもねえ。奨められねえな」

「なぁに? あたしがクスリに溺れるとでも思ってんの? どってことないわ」

 マカレーナは、じれったそうにフアンを睨んで繰り返した。

「いいからちょうだい」


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