第103話 罪の女の歌 ①ブランコ

 娼館アパートの裏口の側へまわると、そこはちょっとした中庭になっている。アパートに沿って立つトネリコの巨木がちょうどいい日陰を作っていた。横に伸びた枝から下がるブランコが揺れているのを、学校帰りのダニエリが横目に見ながら通る。もうブランコに乗る年頃は過ぎた。


 三階をすっと通り過ぎると四階の自室の前も素通りして、ダニエリはガブリエルのいなくなった部屋の扉を開けた。ラファエラの女っぽい小物であふれる部屋のなかに、ガブリエルが置き忘れていったシャツがハンガーにかかったまま持ち主を空しく待って、もう七日になる。

 これが、ダニエリがマカレーナと仲違いするきっかけだった。




 旅から戻って間もなく、ガブリエルはちいさな部屋を借りて、娼館アパートを出ていった。新しい部屋は手狭だったが、もとよりたいした荷物も持たないガブリエルにとっては、寝て、勉強できるスペースがあれば十分だった。

 問題はお金だ。家賃に食費に光熱費。勉強のための教材費もばかにならない。

 娼館のアルバイトは辞めてしまった。娼館アパートを出る理由がマカレーナともう会わないためである以上、それは避けられない。娼館のみんなとも縁が切れてしまうのは寂しかったけれど、ひとの気持ちを思いやれなかった自分のせいだと、その喪失感を受け入れた。



 だが完全に縁が切れることを、ダニエリが許さなかった。

 新しい住所を告げずにアパートを出たあとを強引について行って場所を確かめると、勝手に部屋の掃除まで始めてしまった。

「なにこの狭い部屋! それにきたなぁい。なにもこんなとこに住まなくたって、ずっとうちにいればいいのに」

「いいんだよ。どうせ勉強以外は寝るだけなんだから」

 にっこり笑うガブリエルを、ダニエリは恨みがましい目で睨んだのだった。


 以来、ガブリエルの新しいアパートに足繁く通うのを、娼館の皆が知っている。

 今日も鞄を放り出すと、ダニエリは部屋を飛び出し庭のブランコの前を通って、走りだした。



 通りへ出ると足を緩めて、歩きながらマカレーナとの会話を思い起こした。

 ガブリエルが娼館アパートから出て行くと聞いたとき、ダニエリは真っ直ぐマカレーナの部屋へ向かって、「どうしてガビを追い出すの?」と詰ったのだった。


「人聞き悪いこと言わないで」

 奥の寝室、ベッドから聞こえてきた声は気だるげだった。

「出てくって言ったのはガビ。あたしは知んないわ」

「どうしてガビが出てかなきゃなんないのよ」

 枕許へ詰め寄ると、マカレーナは億劫そうに上半身だけを起こした。


「さあ、どうしてだろね?」首を傾げるマカレーナ。

「ちゃんと答えて」

「……ねえダニー? あんた知ってたんだね、あたしとガビの仲。でもねえ、どんな風に思ってんだか知らないけど、あたしたちの仲なんて、しょせんお遊びなんだから、あんまり深刻に考えちゃだーめ」

 ダニエリが怒りで顔を真っ赤に染めるのもかまわず、余裕顔でつづけた。

「ちょっとからかっただけよ。ぜんぜん本気じゃないわ。ガビだって、本気じゃなかったのよ。男なんだもん、やっぱり女の色香には逆らえないってゆーか……ねえ?」

「からかったって、なに? ガビがそんないい加減な気持ちでつき合うわけないじゃん。ガビの気持ちを踏みにじったの? 最低っ」

 マカレーナに背を向け部屋の扉を盛大な音で閉じて以来、ふたりはろくに顔を合わせていない。



 けれどそんなもやもやとわだかまった思いも、ガブリエルの笑顔を見るときれいに吹き飛んだ。

「仕事が見つかったんだ」

 と、扉を開けるなりうれしそうに言うガブリエルが、ダニエリには太陽のように思えた。

 仕事を紹介してくれたのは、なんとブランカだ。交友関係の広い彼女は一年の間にすっかりこの街の法曹界に友人の輪を広げて、その気になれば人材斡旋業で食べていけそうなほど、仕事を求める学生たちには今や欠かせない存在になっている。


 ガブリエルが仕事を探しているとどこから聞いてきたのか、頼みもしないのに法律事務所の仕事を紹介してくれた。

「たいへんだねえ、きみも」

 ブランカはそう言って、ガブリエルの肩をぽんっと叩いたのだった。



 ブランカの名を聞いてもダニエリは構えてしまう。せっかく晴れわたった心の雲行きが、また怪しくなるのがわかる。不安定な、みにくい、よわい心。ダニエリのなかのもうひとつの声がなにか囁こうとするのを押し返して、無理に笑顔をつくったところで、

「マカレーナは元気?」と問われてまたぎくっとした。

「……元気、たぶん」

 ここんとこちゃんと顔見てないけど。

 ガブリエルには悪意なんてこれっぽっちもないって知ってはいるけれど、こんな問いをかける無神経さに泣きたくなる。

「マカレーナのことなんか忘れよ? あいつったら、笑って『遊びだった』なんて言うのよ。あいつの心配なんか、するだけ無駄」

「でもダニー、違うんだよ。おれがマカレーナを傷つけたんだ。おれがわるいんだよ」


「傷つけた? ないない。マカレーナが傷つくなんて、考えらんない」

 無理に陽気に言って、ガブリエルの脇腹をつついた。

「ガビ、ちょっと自惚れてるー? マカレーナって、ほんっと気まぐれで、小悪魔で、自由で勝手で我儘なんだから。男はみーんなころっと騙されちゃうのよね。だいたい、フアン以外でマカレーナがひとりの男と何度も寝るなんて、ないんだから――」

 そこまで言いかけたところで、ガブリエルが例外だってことに気づいてしまって、一瞬言葉に詰まった。

「……とにかくっ、マカレーナのことは忘れて。ガビはなんにも悪くないよ」


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