第101話 カリブの波間 ⑫麦わら帽

 波間に漂う浮輪が側に流されてきたのをガブリエルが捕らえて、マカレーナに返してやった。銀の髪は海の水を吸って、くったりとしおれたまま肌に貼りついている。麦わら帽はどこへ沈んだのか、波のうえをいくら眺めまわしても見つからない。おかげでマカレーナの髪も頬も肩もいまや、無慈悲なカリブの太陽にかに晒されていた。

 ガブリエルは手を海のなかへ入れて、掬った水をマカレーナの肩にかけてさすってやる。

「やっぱり焼けてる」

 幾重にも塗った日焼け止めをもってしても熱帯の陽光を前にしては、マカレーナの柔肌を守りきれるものではなかった。

「かまわないわ。あたしがそうしたかったんだから」

 ふたりだけで波間に浮かぶこの時間が、永遠になればいいのに。カリブの波に身をまかせ、ガブリエルの肩に顔を乗せながら、ロサリオ諸島のバカンスを思い出した。

 あのときダニーも、永遠を願ったのだろうか。ふたり笑みを交わす姿を思い浮かべてマカレーナは胸が苦しくなった。


 あのときあたしは、ダニーに嫉妬してたんだろうか。なによりあの子の幸せを願っていたというのに。マカレーナは自問して――答えが浮かぶ前に考えるのをやめた。今わかっているのは、これからの長い長いときを、ガブリエルを失った悲しみに堪えていかなければならないこと。



「もう帰ろうか」

 そう言って浮輪を引っ張り泳ぎだしたガブリエルの背中に、

「さよなら」とちいさく呟いた。

 さよなら、愛しいひと。



  ***



 あたしが聞きたい言葉。聞きたくて仕方がない言葉、でもいちばん恐れてる言葉。

どうぞ言って。「終わりだ」って言って。そしたらあたし、解放されるの。その言葉を聞いたらあたし、笑って死ぬわ。

 でも、そんなことガビが言うわけない。あたしから言わなきゃいけないんだ。あたしが始めたことだから。



 ガブリエルに引かれるのと反対の手で戯れに海の水を掻いているあいだ、マカレーナはなんども心が揺れて、もう口にするのを止めようかと迷った。

 けれど海から上がって、陽に灼かれた白砂のうえを歩きだしたとき、ホテルの先のちいさな教会の十字架に天啓のように光が反射するのを見て、覚悟が定まった。


「……帽子がないわ」

「ああ。早く日陰に入らねえと」

 ガブリエルが足を速めようとするのに逆らって、マカレーナは歩みを止めた。

「あの麦わら帽が要るの。あれがなきゃビーチにいられないわ。とってきてよ」

 ふり返ったガブリエルの笑顔にほだされないよう、唇を引き結んで、傲然と。

「海に呑まれたものはもう戻ってこないよ。そういう決まりなんだ。あの帽子はきっと人魚が使うよ。新しいのを買いに行こう」

「そんなメルヘン知らないわ。あれがいいの、お気に入りだったの。ねえ、とってきてよ」

「もう海のものになったんだよ。無理に取り戻そうとしたら、探しに行った奴まで海に取り込まれちゃうかもしれないんだ。だからおれたちは、海に落としたものは無理に探さないんだよ」

 肩に置こうとするガブリエルの手を邪険に振り払って、

「知らないったら。あの帽子じゃなきゃなの。ねえ……あたしの頼みが聞けないの?」

 マカレーナは一歩も退かない。口論するふたりを、そろそろ増えだしたビーチの客たちが好奇の目で見る視線を肌に感じたが、気にしなかった。


「そんなに気に入ってたの?」

 ガブリエルが海の波立つのを遠く眺めた。ゆったり寄せる波頭が幾筋も白く長い線を海一面に描いていた。海鳥の啼き声が波の音と溶け合って、不吉な海鳴りになってマカレーナの耳に届いた。

「わかった」

 ガブリエルは海からマカレーナへ視線を戻すと、浮輪を砂のうえに置いて、肩をぐるぐるまわした。つい一瞬不安な表情を表に出してしまったマカレーナに、天使の笑顔を返した。

「ちょっと時間がかかるかもしれないよ。日陰に入って待ってて」

 駆けだしたところを、マカレーナが「待って」とうしろから手をつかんだ。止めようとしたのが勢いで引っ張られて、白砂のうえに転んでしまった。カリブの太陽に熱せられた砂がマカレーナの肌をちくちく刺した。


「どうしたんだよ? 大丈夫?」

 両手で抱えて起き上がらせるガブリエルが、いつもと違う様子のマカレーナを心配して顔を覗きこんだ。


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