第100話 カリブの波間 ⑪波間

 日曜の朝、日の出とともに目覚めてごそごそと動きはじめるガブリエルはやはり子供なのだとマカレーナは思った。


「マカレーナ、疲れてる?」

 愛しく物憂くガブリエルを眺めるのをどう思ったのか、心配そうな顔を寄せてきた。

「ちょっと寝不足かもね。どってことないわ、このぐらい」

「無理して起きなくていいよ。今日は部屋でゆっくりやすもうよ」

 そう言って、ガブリエルはベッドの縁に腰かけた。その体で窓からの光を遮って、マカレーナの枕許に日陰をつくる。逆光に浮かびあがったガブリエルは天上の光に包まれたように見える。

 ほんとは海行きたいくせに。隠してるつもりかもしれないけれど、ぜんぜん泳ぎ足りてないって顔してる。あんたは嘘をつけないひとなのよ。

「平気よ。ね、起こして」

 甘えた仕草で手を伸べると、ガブリエルがやさしく抱き起こすのに身をまかせた。




 朝食を済ませて海へ出たときはまだ、ビーチに人はまばらだった。デッキチェアにふたりで寝そべりしばらく波の音を聞いているうち、隣でガブリエルが海に焦がれだしているのがありありとわかってしまう。

「泳がないの?」

「きみをひとりにはできないな」

「ふううん。放っといたら、あたし浮気しちゃうかもしんないしね」

「マカレーナはそんなことしないよ」

「わかんないわよ? だってあたしは娼婦だもん」

 そうよ。あたしを売女ばいたって罵って。言ってよ、あたしはあんたに相応しくないって。そしたら全部終わりにできる。あんたはあたしから解放されて、ダニーと幸せになれるのよ。


「嘘ついたって騙されないよ」ガブリエルは真剣な顔で言った。「おれはよく知ってる」

「ふん。あんたって、ほんとひとを見る目がないんだから」

 胸の奥深くまで射抜くような眸から目を逸らすと、マカレーナは立ち上がって、ガウンを脱いだ。

「仕方ないわねえ……あたしも一緒に泳いであげる」


 露わになった肩を、ガブリエルはあわててつかんで止めようとした。

「大丈夫? 肌、いたむんじゃないの?」

「いーの。いまは泳ぎたい気分なの」

 そう言ってマカレーナは、ワンピースの水着が隠しきらない肌という肌すべてにたっぷり日焼け止めクリームを塗りたくった。顔にはひときわ入念にクリームを施したうえに鍔広つばびろの麦わら帽をかぶって完全防備だ。たった今開けたばかりの日焼け止めのボトルは、もう半分も残っていない。


「浮輪もってきてちょうだい」

 と言い捨て、先に立って走りだした。容赦なくあたり一面に降り注ぐ紫外線から逃れるように海に飛びこむと、ふり向いて、浮輪とともに背中から追ってくるガブリエルを待った。


「早く貸して」

 腰まで海水に浸かって、伸ばした腕で浮輪を受け取った。

「マカレーナ、もしかして泳げない?」

「泳げるわけないでしょ」

 つんと答えて、浮輪に通した体を波の上に浮かべて、生ぬるい海水をからだに感じてカリブの海へ漕ぎ出した。緋色のワンピースからつき出た伸びやかな肢体は波の下に沈んで、顔を隠す麦わら帽だけがぷかりと波間に浮かぶ。白く泡立つ波がときどき浮輪のまわりを跳びはねた。


 急に海の水が冷たくなったと思ったら、いつの間にか水底に足が着かなくなっている。

「ガビ」

 うろたえて首を動かすと、ガブリエルがすぐうしろを悠然と泳いでいた。ほっとすると同時に肚を立ててもいた。迷子のようにガビに縋ってしまった自分に。



 ダニエリこそが、出口のない長い迷路に迷い込んでしまっているようだった。


「ガビには言わないで」

 警察から解放された帰り道、ダニエリは泣いてマカレーナにうったえたのだった。

「知られたくないの。ガビに知られるのが怖いの。あたしがわるい子だって、汚れてるって、ガビに嫌われたら、あたし死んでしまう」


 あのときあの子は、あたしとガビとの仲を知っていた。どんな思いであの子あたしにあんなこと言ったんだろう。

「ばかね。ガビがダニーを嫌うはずないのに。でもいいさ、言いたくないなら、黙っておいで。いつか言えると思ったときに言えばいい」

 そんなこと言ってダニエリのこわい黒髪を撫でた手が、いまはガブリエルの濡れた黒髪を梳いている。波がやたら白い泡をふたりのうえに落とした。青く透きとおった水のなかに、ときどき派手な色の魚が行き交った。波にゆらめく光に見惚れて、背中からおおきな波が近づいているのにマカレーナは気づかなかった。



 直後、頭から波をかぶってマカレーナは海のなか前後左右もわからなくなった。気づけば浮輪を失って、手足をばたつかせたが、どちらを見ても水と泡。そのとき、腰に回された手がぐいっとマカレーナを引っ張り上げた。思いっきり息とともに吐いた水が、目の前のガブリエルにかかった。

「怖がらないでいいんだよ。力を抜いてごらん、浮かぶから。それに、おれがいる」

 その忠告を聞かずに全力でしがみついて、口の中に広がる海の味と一緒に毒を吐き出した。

「えっらそうに言って。あたしもう溺れちゃったじゃない。だいたいね、」

 と肩に顔を埋めたまま、

「あんたはあたしなんかより、ダニーを守らなきゃなんないの」

 思わず出てきた言葉にマカレーナははっとして口を噤んだ。ガブリエルがどんな表情をしているのかはわからない。けれどもう、マカレーナはここで止まるわけにはいかない。


「あんたはダニーが好きなのよ」

 そう言ったきりマカレーナは顔を上げられなかった。肩に顔を埋めて、しがみついて、神の前に立たされたみたいに次の言葉を待っていると、やさしい手が髪を撫でた。

「そりゃそうだよ。ダニーは大事な子だ。大好きだし、守りたいと思ってる」


 その無自覚な言葉に嘘はひとつもないと、マカレーナは知っている。だがその奥に、ガブリエル自身も知らない真実が隠れていることも予感してふるえている。


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